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スポーツの憂鬱


オリンピックの開会式がもうすぐ始まる。サッカーの競技は、もうその前に始まっている。
スポーツを見るのも、するのも好きな人間としては、アスリートたちの奮闘を見るのは楽しみではある。
だが、北京でのサッカーのアジア杯を見ていると、「楽しみ」などと気楽なことは言ってられない気分になってしまう。

スポーツの国際試合は、国と国との「戦争」なのだ、と改めて思う。
ヒトラーが、ベルリン大会にどれほど力を入れたか、よく知られている。
ナショナリズムのぶつかり合い、「国威発揚」。
アテネに出発する選手たちは、異口同音に「国民の期待に応えたい」と言い、まるで「負けたら生きては帰ってこない」と言わんばかりだ。
「生きて虜囚の辱めを受けず」か?
極めつけのノーテンキは「For the flag」。悪乗りもほどほどにせよ。

「国のために」などという言葉が、大手を振ってまかり通るようになっている。
「日の丸・君が代」のせいで、どんなヒドイことが学校でまかり通るようなっているか、想像力が貧しすぎる。

8月5日付の朝日新聞(夕刊)で、多木浩二さんが書いていた記事『オリンピックの憂鬱』の中で、クーベルタンについて触れた部分は、知らないことばかりだった。
【引用】《なによりも彼はオリンピックの英雄は成年男子個人に限るとして、女性を排除しつづけた。もう少し付け加えれば、オリンピックは白人男性のものであった。彼はヒトラーとも親交を深め、晩年になってもこの思想を捨てることはなかった。》

それで思い出したが、テニスのウインブルドン大会も女性を排除していたし、現在でも賞金額は男性よりも女性のほうがかなり少ないのはその名残か。
黒人選手も、ウィリアムズ姉妹が活躍するまではほとんど目にすることもなかったし、今でも極端に少ない。
黒人選手と言えば、すぐ「身体能力」という言葉を使うのは差別だ、と誰かが書いていたが、その優れた「身体能力」をもってすればもっと多くのスポーツで活躍してもおかしくないはずだが、ゴルフではタイガー・ウッズまで黒人選手はほとんどいなかった。(黒人は使わせないゴルフクラブが多かった。)
黒人選手が少ない競技で思いつくのは、テニス以外では水泳や体操なども思い出すが、むしろ、大半の競技に黒人選手はいないと言ったほうが正確なのかもしれない。

スポーツの世界だけではない。
例えば、クラシック音楽の世界でも、黒人演奏家は非常に少ないのではないか。
ウィーンフィルは(今は少し変化してきているらしいが)、黒人の演奏家どころか、女性の演奏家を採用しないことで有名だった。
まことに「クラシック」な世界、という訳だ。
黒人のジャズ・ピアニストで、クラシック出身のプレイヤーが多いのも、そういう事情があるのかもしれない。

スポーツの話から脱線してしまったが、クーベルタンの「優生思想」は、ヒトラーと一致するところが多かったのだろう。
オリンピックが、「形を変えた、国と国との戦争」ではなく、アスリートたちの「個人」や「チーム」の勝負であって欲しい。

それで思い出すのは、ラグビーである。
ラグビーの日本代表選手は、胸に「日の丸」はつけていない。「桜」をデザインしたマークをつけている。
日本代表選手に「日本国籍」は必要なく、規約に決められた年数を日本に住み、日本でプレイしていれば、それが代表の資格になる。
外国人選手がキャプテンをつとめていた時期もあった。
彼らはニュージーランドのために戦っているのでもなければ、国としての日本のために戦っているのでもない。
「日本代表チーム」のために戦っているのだ。
ラグビーの監督は、グランドに出て選手に指示などをしてはいけないルールになっているので、試合中はいつも観客席にいる。
「キャプテンシー」という考え方があるからだ。
ラグビーは、サッカーや野球ほどメジャーなスポーツではないが、「国と国との戦争」という愚かな風潮を考える時の手がかりにはなるかもしれない。

Posted: 金 - 8月 13, 2004 at 11:17 åflå„          


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