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死刑制度について


テレビをつけると、いきなり死刑囚アラン・ドロンが引き立てられていく場面だった。 (『暗黒街のふたり』1973年/フランス)
見覚えのあるシーンだった。
鮮明に記憶しているのは、着ているシャツの首の周りをジョキジョキとハサミで切り取られるシーン。
記憶通りのシーンが始まった。
後手に縛られたアラン・ドロンの白いカッターシャツを、看守か刑吏かが首周りよりもだいぶ大きく切り開いていく。
最初見た時は、何のためにそんなことをするのか分からなかった。

やがてアラン・ドロンは、袋のような目隠しを被せられて、板の台の前に向き合うように立たされる。
その板がアラン・ドロンを載せたまま前に倒れる、「と同時に」上から重そうな鈍い音をたててギロチンの刃が落下するところでこの映画は終わる。

ギロチン(フランス語では、ギヨチーヌ)と言えば、フランス革命時代のものだとばかり思っていたので、ビックリした。
調べてみると、フランスで死刑制度(ギロチン)が廃止されたのは1981年のことらしい。
ヨーロッパ諸国の中では遅いほうで、ミッテラン大統領が公約にかかげて、当選後廃止したのだそうだ。
苦しまないで死なせる方法として、解剖学教授ギヨタンが考案し、フランス革命で有名になったこの道具を、フランスは200年間使い続けたということになる。

しかし、かくいう日本も、山田風太郎『人間臨終図巻』を読むと、高橋お伝の凄まじい斬首の光景が(西南戦争で連坐して同じ監獄にいてそれを目撃した高田露の証言をもとに)描かれているが、それが明治12(1879)年1月のことだから、明治になってからもまだ斬首刑が続いていたことが分かる。
どうやらこの高橋お伝の斬首刑が最後だったらしく、その後は現在も続く絞首刑に代わったようだ。

絞首刑と言えば、映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年/デンマーク)の最後で、ビョークが絞首刑になる場面も凄まじかった。
彼女があまりに暴れるので、板のようなものに縛り付けて、身動きできないようにしてから絞首刑にするシーンは、アラン・ドロンのギロチンに勝るとも劣らない残酷なシーンだった。
そういう板が用意してあるということは、厭がって暴れる死刑囚がいるということだろう。

日本は死刑の方法として絞首刑を続けているが、アメリカではほとんどの州で絞首刑をだいぶ前に止めている。
その理由は、即死させることができずに、かなり苦しめる時間が長くなったり、「失敗」することがあるなどの理由で「電気椅子」に代わっていったようだ。
ところが、「電気椅子 」の場合も失敗する場合があるらしく(映画『 グリーンマイル』(1999年/アメリカ)には、凄まじい「電気椅子」による処刑シーンがあるが、実際あのような出来事は度々起きたようだ)、青酸ガスや注射による方法に代わっていたという。
(もちろん、死刑制度そのものを廃止している州が多いことは言うまでもない。)

難波紘二さんの著書『覚悟としての死生学』の中に、死刑制度を論じた章がある。
著者は、死刑制度の大きな問題として4つをあげる。
(1)「死刑は過去あまりにも濫用されてきたし、周知のように現在でも濫用されている(...)。明治6(1873)年以後の日本の死刑執行数は6337件だが、軍法裁判によるものはここに含まれていない。」
(2)「死刑は誰がやるのか」「もし日本社会が死刑存続を欲するのであれば、選挙権のある人はすべて輪番で死刑執行を行い死刑囚の死に立ち会う、という制度を導入すべきだ」
(3)「誤審」。(この点は僕が以前に書いた のと同じ内容だったので省略する。 )
(4)「死刑に犯罪抑止の効果があるか」。死刑を廃止した国や地域で殺人事件が急増したとか、死刑を残している国や地域で極端に殺人が少ない、という統計はない。

今まであまり論じられたことのない(2)の問題は、特に考えさせられた。
現在、日本の刑務所で「死刑」を執行しているのは、その仕事を担当している公務員である。
自分がその仕事をしていることを、恐らくは家族にも話していないのではないか、と著者は想像する。
気の進まない厭な仕事だが、仕方なく担当しているに違いない。
やらなくて済むなら、誰もしたくない仕事、そんな仕事を押しつけていることになる。

「被害者の遺族の感情」ということが、しばしば死刑制度存続の理由にあげられる。
「殺しても飽き足らないほど憎い」という感情は誰にでも共感できる。被害者の遺族に「仇討ち」をさせれば、これはもう江戸時代に逆戻りしてしまうから、被害者の遺族の代わりに「国家」が「仇」をとってやろう、というのが「被害者の遺族の感情」という理由になるのだろう。

それはそうかもしれない、と仮にしておこう。それでは、その「国家」とは誰なのか。
著者が言うように、「自分が手を下すことになるとしても、まだ「死刑賛成」という意見が多数派なら、私はこの国の市民を、今よりももっと尊敬するだろう。」
裁判員制度についてのアンケートをみると、多くの日本人が「やりたくない」と答えている。
場合によっては「死刑判決」を言い渡すことになるかもしれないような責任の重い仕事はしたくない、ということらしい。
その人たちに、「では、死刑制度に反対か?」と尋ねたら、きっと「必要だと思う」と答えるのではあるまいか。
自分が手を下すのはイヤだが、「誰か」自分以外の人間がやるのなら、「存続」に賛成、ということだろう。

映画『グリーンマイル』にせよ『デッドマン・ウォーキング』 (1996年/アメリカ)にせよ、「死刑制度」を扱ったアメリカ映画を見て驚くのは、「立会人」の多いことだ。
州によっても違っていたのだろうが、10〜20人くらいが「死刑」を見届けるために立ち会っている。
事情はよく知らないが、陪審員と同じように、有権者の中から無作為に選ばれるのではあるまいか。
少なくとも自分の意思で立ち会っているとは思えない。
ということは、そんなむごたらしい「殺人」の現場を、「見る」ことも市民の責任の一部という考え方があるのかもしれない。
(あるいは、もしかすると有罪の評決を出した陪審員自身が立ち会う仕組みになっているのかもしれない。)
だからこそ、廃止する州がたくさん出てきたとも考えられる。

日本の場合は、「立会人」どころか、いつ・どこで「処刑」が執行されるのかを(本人も含めて)知らされることはない。
「密殺」と言うべきであろう。
国民の無責任な「死刑容認」は、こういう状況によって維持されているのかもしれない。
「殺人」に自分の手を下すとか、せめてその「殺人」を目の前で立ち会うことでもあれば、「死刑」について真面目に考える国民が増えるのではあるまいか。

「死刑」が確定した囚人は、「いつ」執行されるのか分からないで毎日を過ごしている。
法務大臣も、自分のサインで「殺人」を許可するのは寝覚めが悪いのであろうか。先延ばしにしたり、新内閣が組閣されて交代する直前などに署名することも多いらしい。
刑が確定している「死刑囚」は全国にいるが、アムネスティ によると、ここしばらくは死刑が執行されていないらしい。
7月に予定されている参議院選挙の前が危ない、という見方もあるようだ。


(写真は、大阪刑務所の絞首刑室)

Posted: 水 - 6月 16, 2004 at 10:42 åflå„          


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