Today 6月13日
内灘村で試射場に反対し、農民が座り込み
(1953年)
1952年12月、政府は地元の反対を押し切って、石川県河北郡内灘村をアメリカ軍試射場として接収することを正式に決定した。当初「とりあえず冬季4ヶ月だけ使用」のはずが、翌53年6月12日、一方的に「継続使用」をうちだしたため、この日の大規模な抗議行動となった。
五木寛之の小説に『内灘夫人』というのがあり、政治状況と男女の恋愛感情をドラマティックに描く氏の得意技が発揮された作品としてよく読まれた。かく申す僕も、この小説を通して「内灘闘争」について知った一人なのだが。日本で最初の反基地闘争となった「内灘闘争」がどのようなものであったかを詳しく知ったのは、ずっと後年のことだった。内灘闘争の中心となった「実行委員会」の委員長に出島権二(ごんじ)さんという方がいたのだが、その人の息子と同じ大学で一緒に活動していたことがあった。内灘闘争の何たるかを知らなかったし、その著名なリーダーについても知らなかったのだが、そういう男であることは聞いていた。物静かで、大人の雰囲気を持った、なかなかに魅力的な男だった。そんな思い出に耽りながら、インターネットで検索していると、何とヒットしたではないか。35歳で会社を辞めて金沢に戻り、「出島塾」なるものを中心に活躍しているとの説明があった。「学生運動のリーダー」と紹介されていたが、この言葉の持つイメージとは少し違う印象だった。僕よりも少し年長だったので、彼ももう還暦の頃であろう。久し振りに会って、昔話でもしたくなった。内灘海岸には、二度ほど行ったことがある。一度目は、飛行機が苦手な妻との、車で回った新婚旅行の途中だった。どこにでもあるような海水浴場だったが、それほど多くの人が訪れていたわけではない。どちらかと言えば寂れた雰囲気の海岸に、「試射場」と書かれた食堂(?)の看板だけが、闘争の名残のようだった。二度目は、まだ幼かった二人の娘たちも伴って海水浴に行った。
Posted: 日 - 6月 13, 2004 at 11:31 åflëO