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2004年8月3日 アンリ・カルティエ=ブレッソンが死んだ。


享年95歳だった、と今日の夕刊に載っていたから、長寿と言っていいだろう。
彼の写真は、戦後の写真家たちに多大の影響をあたえたと言われているが、それはそうだろうと思う。
カルティエ=ブレッソンの写真は、一度見ると忘れることができないほどの力を持っている。
『決定的瞬間』という写真集は、そのタイトル通りの、驚くべきシャッターチャンスでその瞬間をとらえている。

少し前、何の番組だったか一度、テレビで語るカルティエ=ブレッソンを見たことがあった。
たぶん90歳近い年齢で、物静かに語る端正な顔の彼が、第二次世界大戦中にはドイツ軍に捕らえられ、何度も脱走を試み3度目にようやく成功したとか、レジスタンスに参加したといった、激しく戦闘的な経歴を知っていても、目の前にいる彼の雰囲気とがどうしても重なりにくい。
だが、本当はそんな彼だからこそ撮れた写真なのかもしれない。
もともとは画家を志望していたらしく、何冊かの写真集の中にはスケッチも入っているようだが、残念ながらまだ見たことはない。

彼が愛用していたライカというカメラの神懸かり的な伝説にも、彼の作品は寄与しているのかもしれない。
モノクロ写真を見るたびに、カラー写真のほうが「情報量が多いはずなのに、少なく感じられる」のは何故だろう、といつも考えてしまう。
このことはカルティエ=ブレッソンの写真に限ったことではないが。

カルティエ=ブレッソンの写真は、パリの街角の何気ない一コマだけでなく、著名な芸術家や作家のボートレートも、その人物を知っていればいるほど忘れられない。
ポートレートは、被写体と写真家との関係によって決まるのだろう。
信頼関係があれば心許す「瞬間」を捉えられるだろうし、芸術家としての尊敬があればそのような雰囲気を「撮る」ことも可能になるだろう。

白い鳩を両手で膝の上に抱き、いかにも世間を超絶したという雰囲気のアンリ・マチス
パイプを片手に、冬の橋のたもとに佇んでいる厚いコートを着たジャン=ポール・サルトルの毅然とした、しかし少し孤独そうなポートレート。
二匹の犬の散歩の途中らしいスナップで、少し横を向いて腕まくりをしているウィリアム・フォークナーは、軽装にもかかわらずいかにも裕福な旧家の一族を思わせる。
2本の白い梯子と、車輪を上に逆さまに置かれた自転車の横で、悪戯っぽく苦笑をこらえているようなマルセル・デュシャンは、いかにもダダイストらしい。
本棚を背に談笑するココ・シャネルも彼女らしさを実に見事な一瞬でとらえている。

なかでも、いちばん印象的なのはトルーマン・カポーティ だ。
大きな葉の茂る木陰でベンチに座って、カメラに傲然とした強い視線を向ける20代前半の青年カボーティは、最初の著書を出版した頃なのだろう。ほとんど学校教育らしきものに縁がなかったこの青年は、『リプリー』のマット・デイモンに(顔も、雰囲気も)よく似ている。

それらのボートレートが忘れられない強い印象を残しているのは、その一枚の写真に、被写体の「内面」まで映し出しているだけでなく、その人物の「時代」をも捉えているからだろう。
批評は出来ても、そんな写真を「撮る」ことは、神業である。



Posted: 木 - 8月 5, 2004 at 11:10 åflå„          


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