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Today 10月16日 「臓器移植法」施行 (1997年)


臓器移植以外には生命も危うい患者たちのために、死にゆく者の臓器が役立つなら悪くないではないか、と最初は考えていた。
ドナー・カードも手に入れて、「死体になった後は、煮るなと焼くなとしてもらって結構」と考えていた。
もはや必要のなくなった肉体のパーツを、有効利用するだけではないか、と。

だが、今はそう考えていない。
特に「脳死」からの臓器移植は、まっぴらゴメンだと考えるようになった。
そう考えに変わったいくつかの理由がある。

まず、医療機関への不信がある。
「臓器移植」は、先端医療と言われている。
治療不能と見なされた患者を生還させるのだから、「医学の進歩もここまで来たか」と思われているのだろう。
だが、その輝かしい先端医療を成功させるためには、できるだけ「鮮度の高い」つまり「活きのいい」臓器が必要になる。...というふうに、医療関係者は考えるのではあるまいか。当然そう考えるだろう、と思う。

「臓器移植法」には、厳密な「脳死」の規定がある。
にも関わらず、そのチェックを全部クリアしていなかった事例もあった。
わざとに決まってる、と思う。「一刻も早く、活きのいい臓器が欲しい」というのが、「臓器移植」を成功させたい人々の本音に決まっているからだ。

もう一つの理由は、「苦痛」に対する拒絶である。
「脳死」と判定された人から、例えば心臓を摘出する手術が行われるとする。
心臓が停止してからでは「使い物にならない」のだから、当然、「生きて」まだ動いている心臓を摘出するわけだ。
「脳死」の段階で、人間はもう「死んでいる」のだから、心臓だけが動いているからといって「生きている」ということはできない、と「臓器移植」推進派の人々は言うのだろう。
だが、動いている心臓を摘出することは、「完全な死」を人為的にもたらすことに変わりはない。
しかも、「脳死」状態の人間には、心臓を摘出される時に「苦痛」は本当にないのか。
そんなことは誰にも分からないのだから、「ない」と決めつけることもまたできない。
たとえ「完全な死」の数秒前のこととはいえ、その「苦痛」が耐え難いほどのものであったとすれば、それを受け容れる必然性はどこにもない。

さらに、もう一つの理由は、「臓器移植」が美談の装いを持っている胡散臭さである。
親が子に、子が親に、兄弟姉妹が...生体間移植が行われる時なども、決まって「命をかけた美談」として報道される。
だが、「臓器移植」がそんなに素晴らしい医療技術なのか、という疑問が最近強く感じられるようになった。

以前にも紹介した難波紘二著『覚悟としての死生学』に、「臓器移植」について書かれた章がある。
著者は「臓器移植」の問題として2つの点をあげる。

第一の基本的矛盾である「免疫の壁」を超えるのは「ほとんど不可能」である、ということだ。
移植後は拒絶反応を抑えるために、免疫抑制剤を飲み続けなければならず、それには副作用も伴う。
《米国で外科医を永年やっている元ニューヨーク医科大学外科教授の広瀬輝夫は、臓器移植患者の「生活の質」は必ずしも改善しない、移植にメリットがあるのは、生命を長引かせること、つまり「生命の量(Quantity of life)」に関してだけだ、という。》

第二の基本的矛盾は「ドナーの相対性(宿主は誰か)」という問題である。
《心臓と肺の同時移植(多臓器移植)はすでに行われており、手首や腕の移植のような「複合臓器移植」もやられている。これを量的に延長していけば、脊髄移植や下半身移植もやがて可能になるだろう。そうすると、首から下の身体移植を拒否する論理は成り立たなくなるだろう。生きた脳を含む頭部に、胴体を移植することは「脳移植」とはいえない。しかし胴体の側から見ると、ダメな脳を捨てて新しい脳をもらったのだから「脳移植」なのである。》

さらに著者は、(以前にも紹介したが)《臓器移植は思想的に「食人」問題との関連性が強い》と言う。
確かに、口を通してではないが、「他人の身体の一部を自分の体内に採り入れる」という点では「食人(カニバリズム)」と同じである。
《そうやってでも生きたいという人の欲望を否定する気はない》が、著者自身はそうするつもりはない、と言うのだ。

折しも、ニュースによると、「本人の同意がなくても、家族の同意だけでもOKにしよう」とか、今は禁じられている「15歳未満もOKにしよう」などという動きがあるようだ。何としても臓器移植をしたい人々の動きなのだろう。
この法律が施行されて7年。「脳死」からの「臓器移植」は20例を少し超えるくらいの数のようだ。

昔読んだ『昏睡(コーマ)』というミステリー小説は、手術室で行われる「臓器移植」のための殺人がテーマだった。
どうしても「臓器」が欲しい患者の中には、大金を積んでも自分に適合する「臓器」を手に入れたいと考える人々が生まれるのは必然だろう。
生活のために、自分の臓器を「売る」人々が生まれるのも必然ではないか。
「臓器移植」は、極めて困難な多くの問題をかかえた医療であることは確かなようだ。


Posted: 土 - 10月 16, 2004 at 11:04 åflå„          


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