| 山崎文子 Yamazaki Fumiko
岩手県岩泉町生まれ、4才の頃に絵の天才少女として地元の新聞に載りました。再会してみたいです。
盛岡二高から日大芸術学部美術学科グラフィックデザイン卒
電通入社希望でしたが、その当時女性デザイナーの受け入れがなく、電通から独立した方のプロダクション(赤坂TBS隣)に入社。
素晴らしいデザインの現場を体験しましたが、盛岡に帰ることに決め川口印刷工業株式会社デザイン室入社。
1975 1年2カ月で独立。川村和正さんの葡萄屋の立ち上げにデザイン・イラストで参加。盛岡から、秋田・仙台一番町・原宿店とすごい勢いで成長する葡萄屋という企業でのデザイナーという体験。地方にいながら25才の女の子の年収はすごいものでした。
もともと、精密なイラストレーションを得意とする私は小岩井農場の鳥瞰図をはじめ八幡平・岩手山麓など数点の精密な鳥瞰図を描きました。
1981 多くのデザイン依頼を受け、仕事をしつつ自分のルーツである母方の実家であるに上宿(わじゅく)家に「紫根染め」というものがあることを知り一冊の本にまとめたものです。「染むる糸」
1988 盛岡は貴重な財産ともいうべきものをどんどん失って生きます。画家橋本八百二が自分の莫大なコレクションを岩手の茅葺きの曲り屋という美術館を建てたものが今年2001年、閉館となりました。なんということでしょう。未来の盛岡にとって、とても悲しいことです。このポスターはその頃岩手医大の力丸教授の仮面のコレクションを展示した時にデザインしたものです。
この年は私の運命を大きく変えることが待ち受けていました。当時の岩手銀行の石井富士男頭取の発言で盛岡が冬季オリンピックを招致しようという運動が起こった年です。その運動を盛り上げるためのポスターが私のデザインに決まったのです。よくぞ選んでくれたと思いますよ。すごい決断ですね。審査員は中村誠先生でした。
それがきっかけで、「子どもたちに冬季オリンピックを贈るおかあさんの会」というものを作りました。「10年後の盛岡が平和で自然豊かな国際年・都市であることを約束する」というのをコンセプトにしました。オリンピックというものにいろいろな弊害を言う人はいるけれど、なんといおうと、世界の人たちがスポーツという競技で集うということは何ものにも変えられない意義があると思いました。かのサラエボは開催地だったことがまるで思えない程の内戦による悲しい映像が届き、「平和を約束する母たちの会」はまたたくまに広がり、300人も集まり、週間朝日にも取り上げられ、全国に有名になってしまいました。
1991 岩手ではデザイナーの中ではコンピュータのコの字も無い頃ですが、仕事の仲間に調子吉之さんというCGの先駆者的な人がいました。彼のコンピュータは言語で動かすという驚異的なものでした。彼に依頼をして、雫石で開催された「世界アルペン」のポスターを作りましたが、出力という手段もない頃で、データを仙台に送ってポジにしてもらう、という方法をとりました。
ここからアナログからデジタルへ
まもなく、「ページ1991」というコンピュータの展示会を見つけ、頭の中に沸き上がっているイメージをCGで表したいという思いにかられていた私は、池袋サンシャインまででかけました。なぜか「マッキントッシュ」という名前に妙に引かれていて、そのブースを探しましたが、500万、1,000万円というスーパーコンピュータのかげに隠れるようにマックは鎮座しておりました。私のイメージは宇宙空間でしたので、そこのデモンストレーターに「グラデーションやってみて」というといろいろ苦労したあげくできた物は使えそうもないもの。しかし、盛岡に帰ってすぐマックを発注しておりました。ここで大変な額の借金をしてシステムを揃えました。(これが今だに響いているんですよ)グラフィックソフトは「スタジオ8」です。それでも翌日から見よう見まねで仕事になっていました!
しばらくして、「アクセス」という会社の高橋和良さんという方が私の事務所を訪れました。ものすごいショックを受けました。今まで周りにはマックの環境を導いてくれる人は誰もいなかった私は「こんな人が盛岡にいたのか!」と驚き、これからのDTPの方向をすでに語っていた高橋さんの先見性に「情報発信には新しい時代が来るだろう」と予感しました。
1993 私は頭に膨らんだイメージを出力するために、集中するようになりました。30点以上もの作品になりました。不思議な画像の数々に「マックで描く前世の記憶展」というタイトルで個展を開きました。パルクアベニューカワトク・ギャラリーで開催。IBC岩手放送では「山崎文子のCGの世界」という特集までやってくれました。しかし、この頃、モニター上に作り上げた画像をイメージ通りに出力することは至難の技でした。日本でも数台という、アイリスという出力機を持っている仙台の会社まで出向きました。1m四方の15点は素晴らしい出来上がりでした。(高かった!)
1997 その画像に短いメッセージを付け自費出版をしました。以前から尊敬していたリヴァープレスという超硬派の出版社、加藤大志朗さんからなんとしても出してもらいたいと思いました。加藤さんは「僕は岩手の本屋にしかルートはないです。それでもいいですか」と言いました。大海に小さな小石を投げ込んだ。それでいいと思いました。
1999 9月「光の布展」盛岡市の保存庭園、明治の館・一ノ倉邸でテラの内容を布にダイレクトプリントしたものを展示しました。一ノ倉邸保存委員会の西郷和子さんとの深いご縁がはじまりました。
2000 5月水晶のかけらでつくるクリスタルアートを「おでって」(盛岡市民ホール)開館のイベントとして視覚障害を持つ方も鑑賞できる展示会をしました。
2000 12月「テラ」を読んでくれた祥伝社という出版社から「どじママを育ててくれてありがとう」という本が全国発売になりました。
2001 2月インド、ブッダガヤに招かれ「テラ」の展示をさせて頂きました。
2001 4月 16年居たマンションの四角いスペースから脱出。少しでも自然のそばで仕事をしたいと思い、自宅の一角にオフィスを移しました。 |