風景写真の定番―富士山を追う人々

定番を極める

【定番を極める】
 四月の半ばなら
河口湖の桜と富士を撮りにいかなくちゃあ」
あるいは冬ならば
三つ峠に霧氷と富士を撮りに行かなくちゃあ」
などという台詞が、富士山を集中的に撮っている人達の会話には必ず出てくる。

これならば、まだ普通のように思えるが、場合によっては
忍野の向日葵と富士を持っているか?
などという会話になると、少し違和感を感じずにはいられない。

 どうやら富士山写真家は、その世界の中で「定番」とされてるテーマに沿った写真を収集しているようなのである。もちろん他の地域の風景写真にもその傾向があるような気がしないでもない・・・たとえば晩秋の小田代が原の朝霧のなかの貴婦人(白樺)のように。
 ただ、富士山においてはその定番が恐ろしく多くあり、これまた恐ろしいほどの人間が恐ろしいほどの執念でそれを追っているというのが特徴である。そこに、いろいろと問題が生じる

 定番写真家の目標は、おそらくかつて撮られたどの写真よりもすばらしい写真をものにすることであろう。それはそれ、立派な写真道のひとつであると僕も思う。新作落語家も晩年には古典に戻る場合もあるし、新作もいつかは古典となるのだ。しかしながら被写体は唯一無二の富士山であって撮影地も限られている。さらに既に何十人、何百人に撮り尽くされたテーマであるからして普通に撮っているのでは容易に先人の作品は超えられないだから、そのテーマに最もふさわしい季節・時間・シャッターチャンスを捕まえるため、綿密に調査するのはもちろん、現地に足繁く通うのは当然、粘って粘って粘り倒すのである。

 これだけでもかなりの迷惑(相手が人ならストーカーである)に違いないが、問題となるのはさらに人とは違うアングル迫力のあるアングルを求めようとする行動である。多くの先人を超えようと思うと、どうしても禁断の線を踏み越えたくなる。禁断の線とは、たとえば花壇の中であるとか、湿原の木道の外であるとか、天然のお花畑の中であるとか、農家の畑の中であるとかだ。ロープが張っていなくても、そういう線は存在する。ロープが張ってあり、立ち入り禁止の札がかかっていなければ、それがわからないというのはアホである。しかし悪質なカメラマンは、アホだから立ち入るのではなく、ロープが張ってあり、立ち入り禁止の札がかかっていてもそこに立ち入る確信犯なのだ

 すでに禁断の線を踏み越えた先人が既に存在すれば、後から来た者は、そこからさらに一歩先に踏み出すあるいは、限定された場所に同じタイミングで撮影者が集中するため、後から来た者は撮影を遂行するには禁断の線を踏み越えざるを得ないというケースもあろう。かくしてお花畑や湿原の植生は破壊され裸地が広がり、農家の畑は踏み固められるわけだ。こういうケースが富士山に限らずよく観察される。

 絶対にそのような場所に立ち入ってはいけないと聖人君子のようなことを言っているわけではない、僕だって登山道を外れて森に分け入るし、畑にごめんなさい(^^;をすることはある。実際一人くらい立ち入ったってどうこうなってしまうものではないからだ(もちろんそうならないように気をつけての話だが)。ただ、富士山写真の場合は一人や数人では収まらないことが問題を大きくするのである、もしたった一人であっても、そのとき撮った写真がたまたま有名になってしまった場合、その場所はたいていすぐに明らかにされ、大挙して人が押し寄せるようになってしまう(要するに定番になってしまう)可能性を秘めていることが恐ろしいのだ。

 このように同じテーマで同一の個体を被写体として、同じベクトル上で価値が評価される写真を多くの人が撮ろうとした場合・・そしてそれに競争が加わった場合・・・問題はさらに大きくなる。要は同じ場所で同じ行動をする人が多いことが問題なのだ。それが予想される場合はぼくはそれをやらない(ように努力はしている)

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