Monday, November 9, 2009

第18回「シカゴ育ち」のオバマ大統領のプラグマチズムに注目しよう

 ――― 「オバマのアメリカ」ウォッチ始め ―――

 新年おめでとうございます。内外情勢ますます厳しい折、皆様のご多幸をお祈りします

 いよいよ「オバマのアメリカ」の始動です。高い支持率のなかで、1月20日のワシントンでの就任式には、100万人を越す市民が集まると予想されています。アメリカの歴史の中でも例を見ない高揚感と期待感のなかで、黒人初のオバマ大統領の登場です。折からの100年に一度といわれる経済危機の中で、その一挙手一投足を全世界が固唾を呑んで見守っています。
 この「アメリカ・ウォッチ」も、その戦列に加わりたいと思います。ケネディとニクソンが初めてのテレビ討論で対決した1960年大統領選挙戦を共同通信外信部の新米記者としてカバーして以来48年、13回のアメリカ大統領選挙戦を直接間接に取材、ウォッチしている経験を生かした、オリジナルな分析をお届けしたいと思っております。

● ブログ更新遅れの理由

 しかし、その前に前回の2008年10月4日付けの第17回で「金融危機でオバマ巻き返す、マケイン再浮上には狭い道」と題して報告して以来、約2ヶ月間にわたって更新を怠っていたことをお詫びしなければなりません。アメリカ在住の友人からは、体調を崩したのではないかとの電話が来て、恐縮しています。やはりこの間、何をしていたかを報告しておきたいと思います。これからのオバマ・ウォッチにも役立つことになると思うからです。
一番の理由は旅を重ねたためです。

 2008年10月19日から27日まで米ケンタッキー州レキシントンで開かれた第五回ジョン万次郎草の根サミットに参加したのに先立ち、大統領選挙戦の激戦州、オハイオ州のシンシナチー市周辺を取材し、さらに草の根サミット出席後、ワシントンに飛び、日米の専門家との懇談、メリーランド大学図書館プランゲ・コレクションを訪問する強行日程をこなしました。このオハイオ州シンシナチー市周辺は、2004年のブッシュ再選の原動力となったいわゆる宗教右派の根拠地で、私は4年前の同じ時期に訪れ、色々な地元の関係者を取材して、ブッシュ再選を予測できたところでした。

 今回は、明らかに様子が変わっていました。4年前にはカール・ロブ前大統領副補佐官と組んでオハイオ州でのブッシュ勝利に貢献したといわれる宗教右派の大物に会っても「マケインはもともと保守派として信用していなかった。パイリン知事を副大統領候補に選んだので、やっと納得して運動を始めた。しかし、カール・ロブは4年前、ブッシュが再選されたら、同姓婚禁止の憲法修正案を発議すると約束しながら、実行せず、裏切った。今度は顔も見せない」と文句ばかり言っていて、まったく盛り上がりに欠けていました。ちなみにカール・ロブは今度の選挙戦中、評論家に徹し、ウォール・ストリート・ジャーナル紙にコラムを書き続けていました。
 彼らが住む市郊外の瀟洒な住宅地を回ってみても、何軒かの庭先にオバマ支持のプラカードが見られ、オバマ勝利の可能性を肌で感じました。

 もちろん、マケイン敗北は2008年9月15日のリーマン・ブラザース破綻に端を発する金融危機の大波をかぶり、8年間のブッシュ失政のツケを一気に払わされることになった結果であることは間違いありません。 それのみならず、「ブッシュの8年」の構築者であったカール・ロブが、歴史的にも共和党大統領候補にとってはその勝利が至上命令といわれてきたオハイオ州で、地元の宗教右派と不協和音を奏でていること自体、共和党の自滅現象を物語っていたと思います。

 既に「図書館」部門に収録されている月刊文藝春秋2008年12月号巻頭随筆欄に寄稿したエッセイ「1968年の米大統領選挙」で1968年以来40年ぶりのアメリカ政治の“分水嶺” の到来を予測したのもこうした材料をもとにしています。 2008年11月5日、日本時間でのオバマ当選直後、このあたりをブログにまとめておくべきでした。

 ● ザルツブルグ、ドレスデン、ベルリン、アウシュビッツへの旅

 しかし、続いて11月10日からオーストリアのザルツブルグで開かれた「ザルツブルグ・グローバル・セミナー」に招かれたため、9日には成田を発たねばならず、その準備の中で果たせませんでした。

 このセミナーは、戦後間もない1947年、ハーバードの学生3人が大戦への反省から、欧州の有識者との対話の場としてはじめ、以来途切れなく続いている常設のセミナーで、458回目だという今回のテーマは「世界の中でのアメリカ:その役割についての新しい戦略」。つまり、オバマ新アメリカ大統領に世界は何を求めるのか、についてオバマ陣営に近いアメリカ代表を軸に、欧州各国、EU関係者、それにアジアからは日本、中国、ベトナム、インド、それに中東、中南米などからも含め約60人の参加者が5日間、サルツブルグの観光スポットにもなっている湖に面したレオポルツクローン城に5日間缶詰になり、議論してきました。

 オバマ大統領の登場を、経済危機を筆頭に世界を覆う閉塞感から脱却するチャンスとして期待する空気が支配的でした。しかし、同時に参加者中最年長である私が、ベトナム戦争時のワシントン、及び南ベトナム現地での取材経験をもとに、「オバマ選挙運動のスローガン、”イエス・ウイ・キャン“ は国内的には結構だが、海外で実行に移されると、危険だ。 ジョンソン大統領がベトナム戦争の深みにはまったのも、国内での”偉大な社会政策”の大成功の自信が災いした」と述べたのに対し、アメリカ代表からも賛成する声が出て、やや安心した次第です。

 そして、ザルツブルグでのセミナー会議終了後、汽車でドイツに入り、4年前の拙著「銃を持つ民主主義」発表以来、私が唱えている「ドレスデンの和解、日本版」実現のためにもと、かねてから願っていたドレスデン訪問を果たし、5日間滞在しました。私と同じ世代の爆撃生存者をはじめ、1995年2月13日のドレスデン爆撃50周年をアメリカ、イギリスとの和解の場とした当時のドレスデン市長ら多くの関係者から話を聴けました。この取材では、在京のドイツ大使館の好意あるはからいで、ゲーテ協会の支援を受けました。

 このドレスデン訪問の結果についてはいずれ報告するほか、新書にまとめる計画です。 しばらく時間をください。

 ドレスデンの後は、壁崩壊後初の訪問となるベルリンにも足を延ばしました。 東西べルリン時代の広大な非武装地帯を生かして建設されたモダンな新首相官邸など統一ドイツのシンボルに接したほか、ベルリン自由大学の学者と戦後和解の課題についての日本とドイツの違いについて論じました。汽車で約二時間西に移動するだけで到着するオーデル川を渡り、ポーランド側にも入り、20世紀初頭以来たびたびの戦火と国境線の移動で、今も定着に不安を抱くという住民の心を癒す運動を続けているポーランド実業家の話も聞きました。

 そして更にこの機会を生かしてと決心し、ポーランドの古都クラコフ経由、あのホロコーストの舞台、アウシュビッツとビルケナウの両強制収容所跡を見てきました。ガイドの案内で見学中、雪が降ってきて、ひときわ壮絶な空気にさらされました。

 この旅から帰ってきたのは2008年11月末でした。オバマ新政権の組閣をウォッチしながらアメリカ情勢の分析をキャッチアップに努めるうちに、年末の雑事が到来、ついついブログ更新が遅れた次第です。

● 「シカゴの政治」でつかんだ大統領のイス

 今、100万人を超す群集がワシントンを埋め尽くすだろうといわれている1月20日のオバマ大統領就任式を見ず、その就任演説を聞かない段階で、以下、私が今後「オバマのアメリカ」をウォッチする上で一番必要なアングルだと思う点を報告しておきます。

 それは、オバマ新大統領がアメリカ政治の歴史のなかでも、汚職とボス取り引きで有名な「シカゴの政治」のなかでもまれ、生き抜いてきた人物だという事実です。このアングルは、まだ日本ではあまり紹介されていないと思います。

 アメリカで「シカゴの政治」といえば、19世紀後半から、アイルランド移民が主に民主党側で、マシーンと呼ばれた党組織を牛耳り、選挙で選ばれた市長のパトロネージ(人事任命権)によるスポイルズ・システム(猟官制)で公職を独占する腐敗、不正の政治の典型として有名です。アイルランド移民系マシーンが市政を支配するのは、19世紀末以来、ボストン、ニューヨークなどの大都市で共通しています。

 しかし、シカゴはとりわけ第二次大戦前の禁酒法時代マフィアとも紙一重の関係も持つ激しい党派的な抗争で知られています。 戦後も1970年代までは、現在のデイリー市長の父、リチャード・デイリー・シニアー市長が民主党マシーンを独裁的に支配、露骨な投票強要などを行ったことで知られています。ケネデイがニクソンとの大接戦を制した1960年の大統領選挙戦では、シカゴでのケネデイ票にデイリー市長の工作で不正集計が行われた事実は歴史の一部です。

 オバマ氏は、このシカゴにコロンビア大学卒業後の1984年、黒人地域の職業訓練支援などを行う地域振興事業の管理者としてやってきます。年間の予算を7万ドルから40万ドルに増やすなど業績を残した後、1988年ハーバード大学のロースクールにファイナンシャル・エイド(学費融資)の制度を使って入学、1991年に同ロースクール・マガジンの黒人初の編集長という記録を残して最優等で卒業した。

 シカゴに戻り、弁護士事務所に就職、1992年にミシェル夫人と結婚、人権派弁護士として売り出し、1996年イリノイ州議会上院議員に当選、ケリー上院議員を大統領候補に指名した2004年民主党全国党大会での「リベラルのアメリカも、保守のアメリカも、黒人のアメリカも, 白人のアメリカもなく、ただ”アメリカ合衆国”だけがある」との名調子の基調演説で名を上げるわけです。同年11月、イリノイ州選出上院議員に当選、そして今度の黒人初の大統領−と、とんとん拍子の上昇気流に乗るわけです。

 もちろん、オバマ新大統領はこうしたシカゴ・マシーンとは一線を画し、これに対抗する改革派の旗手としてのし上がってきました。しかし、実際には、親しい友人で政治家としての活動の初期の資金的な支援者であったデベロッパーが2007年の予備選出馬の段階から、汚職容疑で逮捕され、現在も裁判中であることからもわかるように、「シカゴの政治」の暗い顔とも無縁ではないすれすれのところをたくみに歩いてきた、したたかなプラグマチストとしてのオバマ新大統領の素顔を捉えておくことが必要だと思います。

 ここで知っておかねばならないのは、このマシーンとの関係で、黒人、しかもハーバート卒のエリート弁護士としてのオバマ氏の経歴は、プラスにはなってもマイナスではない一種の政治的資産であったということです。

 シカゴ市の政治マシーンについての有為な研究者である若手政治学者、釧路公立大学講師の菅原和行氏の論考(1960−80年代のシカゴ市における人事行政の変容。 2006年12月、釧路公立大学地域研究 第15号) によると、既に1960年代の段階から、デイリー・シニアー市長にとって、スポイルズ・システムの「柔軟な運用」で政治的影響力を維持するために、黒人をはじめとするエスニック・マイノリテイから市幹部を登用することが不可欠だったということです。つまりオバマ新大統領は、黒人という出自を生かしてこの「シカゴの政治」を肥やしにホワイト・ハウスまで辿りついたともいえます。
 つまり、オバマ新大統領は選挙戦での「チェンジ、イエス・ウイ・キャン」といったスローガンの革新的なイメージとは裏腹に、バランス感覚に富んだ、優れて現実的な政治家だということです。

● シカゴ人脈に知事逮捕の黒い影

 当選から二ヶ月、このアングルを実証する例には事欠かないと思います。
 ビック・スリーの救済策をはじめ経済危機の克服という最大の課題に挑戦する経済政策チームでは、サマーズ(国家経済会議委員長)とガイトナー(財務長官)というウォール街の誰もが支持するクリントン政権時代の師弟コンビの登用に始まり、今のところ外交上のみならず、国内政治的にも技ありと見る向きが多いヒラリー女史の国務長官起用、支持率を80%近くまで押し上げた理由のひとつと評価されているゲーツ国防長官の留任――といった閣僚人事での冴えは、既に明らかになっていると思います。

 このオバマ人事の凄みを物語るエピソードを紹介しておきましょう。民主党内の指名争いの段階で、党内の大物としては一番早くオバマ支持を表明した2004年の民主党大統領候補、ジョン・ケリー上院議員に対する対応です。 ケリー議員は上院外交委員会の有力メンバーでもあり、オバマ当選の功労者として国務長官得の就任を強く望んでいたといわれます。ところがオバマ氏はこれを退け、代わりに最後まで争ったヒラリー女史を起用したわけです。ケリー議員は、ワシントン政界でも個人的な評判が今ひとつと言うこともあって、同議員への同情の声はあまり聞かれません。 

 しかし、保守系ブロガーの一人は、ある意味ではオバマ氏にとっての大恩人であるケリー議員を簡単に袖にするところにオバマの現実主義が良く出ていると評していました。ケリー議員は単に早めの支持表明だけでなく、2004年の自らの指名党全国大会でも基調演説者に、当時は全国的にはまったく無名だったオバマ氏を抜擢、その雄弁が注目を集めたおかげで、彼の大統領戦出馬が可能になった大変なチャンスを与えてくれた大恩人だったと言うわけです。この辺の非情さは、今後 ”危機の時代の大統領” として大切な素養だと、このブロガーは皮肉っています。

 もう一つ、これもあまり日本では伝わっていないエピソードです。上院での共和党側のフィルバスター(議事妨害)を封じ込める60議席目の獲得がかかったジョージア州での上院議員再選挙で、あえてオバマ陣営が有り余る資金力を生かしての応援などを控え、オバマ氏自身も遊説せず、共和党現職議員の当選を許した一手が巧妙な政治的な計算だと、共和党側に評価されたことです。 共和党側の面子を維持させ、経済危機乗り切りやアフガ二スタンでの戦力強化で欠かせない超党派的な支持の基盤を作るためには、あえて60議席獲得は断念して、オバマ民主党によるホワイトハウス、上下両院完全支配への批判を封じた老獪な政治的決断だったというわけです。

 こうした「シカゴの政治」仕込みのプラグマチズムは、今シカゴ出身の下院議員で、2006年の下院議員選挙での民主党多数奪回の指導者だったエマニュエル大統領首席補佐官以下、シカゴ人脈がオバマ・ホワイトハウスの中枢に側近として腰をすえ、政権運営の柱になろうとしています。

 しかし、このシカゴ人脈にとってわが世の春ばかりとはいきません。2008年12月に入って、オバマ後任の上院議員の指名権を持つブラゴジエビッチ・イリノイ州知事が後任指名候補からの収賄容疑で逮捕されるというショックキングなニュースが流れたからです。いまのところ検察側もオバマ新大統領との接点は否定しています。しかし、知事とオバマ陣営との接触自体は否定されていません。共和党はオバマ後任は、選挙で択べと攻勢をかけています。

 辞任に応ぜず、徹底抗戦の構えのブラゴジエビッチ知事を抱えて、オバマ新大統領は「シカゴの政治」の暗い影を引きずりながらのホワイトハウス入りとなります。

 いろいろと緊張に満ちた「オバマのアメリカ」の幕開きです。

(松尾文夫 2009年1月1日記)

第17回 金融危機でオバマ巻き返す、マケイン再浮上には狭い道

――「ペイリン効果」は広がらず、テレビ討論が最後のチャンスー

● マケイン襲った逆風

 9月11日からの中国旅行のはじめにまとめた第16回のブログ「マケイン善戦、オバマ守勢にー三回のテレビ討論で、どちらが「レーガンの成功物語」を手にするかー」と総括したアメリカ大統領選挙戦展望を修正する必要が出てきました。9月末からウオール街を襲った大恐慌以来といわれる金融危機のおかげで、オバマ陣営が息を吹き返し、共和党全国党大会以後の「ペイリン効果」で失ったリードを取り戻しました。逆にマケイン側は守勢に追い込まれ、そのまま終盤戦になだれこむことになったからです。
 つまり、マケイン陣営は、イラク戦争の長期化を始めとするブッシュ共和党二期目の不人気に加えて、昨夏のサブプライムローン立ち往生以来くすぶっていた金融危機が一気に拡大、ブッシュ政権が「アメリカ経済の破滅」(ペロシ下院議長)を避けるため最大7千億ドルもの公的基金を投入する「緊急経済安定化法案」の議会提出を迫られるというこれ以上ない逆風にさらされることになったからです。
 マケイン候補は急遽選挙運動を中止する「奇策」に出て、ワシントンに戻り、一時は9月26日に予定されていたオバマ候補との第一回テレビ討論を延期することまで提案しました。
 しかし、誰の目にも、今度の金融危機が8年間の共和党政権の下で進行したマーケットの規制緩和の流れの挫折、破綻であることは明らかであり、マケイン候補がその推進者の一人であった事実はかくしようもないことでした。マケイン候補は、この金融危機直前、「アメリカ経済のファンダメンタルは正常だ」と、経済問題での弱みを立証するような「失言」を行っていました。
 それに10月3日発表の失業率が大きく上昇するなど本格的な景気後退が実感され、全世界を巻き込んだ大恐慌の再来が懸念される危機感が、アメリカ国内を覆うことになりました。オバマ民主党がここぞと宣伝する「ブッシュ政権8年間の失政のツケ」との非難、そしてこうした危機を回避するためには、「民主党への政権交代しかない」との主張が一気に説得力を持つことになったわけです。ブッシュ政権を引き継いで戦うマケイン陣営のそもそものアキレス腱が、最悪のタイミングで露出してしまったというわけです。

● 接戦州でもマケインのリード消える 

 その結果、前回の第16回で細述した「ペイリン効果」はマケイン候補にとって戦いを進める上での「絶対条件」であった保守派の支持を固めることには成功したものの、期待された中間層へ食い込みでは、ペイリン候補が指名受諾演説であえて敵対した主要メディアからの執拗な「イジメ」や、個別インタービューで「記憶に残る最高裁判決は」との問いに答えられなかった「勉強不足」もあって苦戦しています。
 テレビ討論でのマケイン、ペイリン両候補のそれなりの善戦にも関わらず(特にペイリン知事は、保守派からの批判も出始め、その進退をかけた形の2日のバイデン上院議員とのテレビ討論では予想を上回る成績で、踏みとどまりました)、この経済危機という巨大な暗雲のもとでは支持率アップにつながっていません。
 前回の第16回で、勝敗を決める接戦州としてあげた10州の州別支持率でも、わずか半月のうちに、マケイン側がリードしていた5州のうち、インディアナ州を除く残りの4州(バージニア、オハイオ、ネバダ、フロリダ)で、数字の大小はそれぞれに違いながらも、すべてオバマ候補のリードに変わる激変ぶりです。
 この4州は四年前、ブッシュ再選の決め手となったいわば最後の防衛線で、マケイン候補にとっては絶対に落とせない州です。特に前回、ケリー民主党候補がとったミシガン州で、マケイン陣営が10月に入って選挙運動の停止を決めたことは、このマケイン側が受けたショックの大きさを物語っています。
 ミシガン州は、民主党の予備選挙でヒラリー候補が抑え、黒人反対票、白人中産階級票を目当てに、つまりヒラリー票の獲得を狙って「ペイリン効果」も含めて、マケイン側が共和党への取り込みに力を入れてきたところだけに、その苦戦振りを象徴する出来事です。

● 第二回テレビ討論がカギ 

 しかも、この経済危機の暗雲は容易に消えません。ブッシュ政権が議会の多数を握る民主党幹部の協力も得て緊急提出した「緊急経済安定化法案」が、まず下院本会議で共和党保守の造反もあって否決されるという全世界をパニックに落としいれる騒ぎが起こりました。3日になって上院側が急遽1,100億ドルの減税バラまきなどを追加して最初に可決、下院側もその日のうちに修正案を可決、ブッシュ大統領が即座に署名、成立したものの、今度はマーケットがこれを好感せず、期待されたダウ平均の上昇は見られず、逆に下落しました。1929年の大恐慌期を髣髴とさせるマーケットの混迷が続く形勢です。
 各種調査でも、このウオール街の不始末を国民一人一人が最終的には3,000ドル近い税負担を迫られる救済策は、きわめて不人気です。マケイン陣営にとって、不利な状況が続きます。
 残された道は、後二回 (10月7日と15日)あるオバマーマケインのテレビ討論、特にマケイン候補が得意とする会場の一般市民から直接質問を受けるタウンミーティング方式で行われる7日の第二回テレビ討論で、マケイン候補が深刻な経済危機に対処できる指導者としての信頼を確立して活路を開くか、つまり前回紹介したように、終盤戦ぎりぎりでのテレビ討論でカーター現職大統領に勝ち、勝利を手にした1980年のレーガン候補の成功を手中に出来るかどうかにかかつてきました。
 マケイン候補は、イラク戦争や対テロ戦争といった得意の分野ではなく、苦手な経済問題での論戦に勝たねばならないのに対して、オバマ候補は最後に有権者の判断を左右しかねないといわれていた初の黒人大統領候補としてのハンデも、深刻な経済危機のもとで吹き飛んでしまいかねない「追い風」に恵まれようとしています。その意味で毎回のことながら、アメリカ大統領選挙は最後まで、ドラマとアイロニーに満ち満ちています。

   松尾文夫 (2008年10月4日記)

第16回 マケイン善戦、オバマ守勢に

― 3回のテレビ討論で、どちらが「レーガンの成功物語」を手にするかー

●「ペイリン効果」、マケインの追い上げ

 またまた更新を怠っているうちに、アメリカ大統領選挙戦はまれに見る接戦ムードの中、最終局面を迎えています。
 気がついてみると、今年の大統領選挙戦については、1月4日執筆の第11回で、“「ブッシュ抜き、イラク戦争抜き」で戦われる可能性―2008年大統領選挙展望―”と題して包括的な報告をした後は、5月15日執筆の第12回で“大統領選挙戦に持ち込まれた「黒人差別」の呪縛(上)”と題して触れただけでした。この少なさは反省します。しかし、幸いにして、本稿ではこの二つの見出しの延長線で報告できる状況となってきました。
 9月11日現在での情勢をまとめますと、共和党大会でアラスカ州の44歳の筋金入り保守派女性知事、サラ・ペイリン女史を副大統領候補に起用したマケイン候補の「奇策」が今のところ大成功を収め、8年間のブッシュ政権の不人気、経済の低迷、イラク戦争の長期化と言った、いわゆる「逆風」を跳ね返し、昨年の予備選挙以来、初の黒人候補として高い人気を維持してきたオバマ民主党候補相手に追い付き、善戦しているということに尽きます。もしペイリン候補が東部マスコミの集中砲火にも耐えて、生き残ることに成功したとすると、このままマケイン候補が逃げきり、栄冠を手中に収める可能性も否定できなくなってきている情勢です。
 各種の全国支持率調査でも、マケイン候補はオバマ候補にほぼ追いつき、ギャラップ調査などでは逆にリードする数字が出ています。

● 勝敗分ける10の「接戦州」

 アメリカの大統領選挙は、全国の一般投票の多数で決まるのではなく、州ごとの大統領選挙人の数が過半数の270を超えた候補が当選者となる独特の制度の下で行われています。したがって50州のうち、ニューヨーク、テキサスなど投票前から民主党、共和党のどちらかに行くことが決まっているほとんどの州では、事実上、選挙運動も行われません。実際の選挙戦は現在、各種調査で「トスアップ(五分五分)州」と区分けされる10の州を舞台に両党候補の遊説合戦とテレビのコマーシャルを使ってのどぎつい非難合戦が繰り広げられているわけです。そして次のホワイトハウスの主は、この10の州ごとでの勝敗の組み合わせによって決まります。ご参考までにその州名と大統領選挙人の数と現在の形勢を列挙しておきます。

  接戦州名     選挙人数  リードする候補
 コロラド         9   オバマ
 ヴァージニア      13   マケイン
 オハイオ        20   マケイン
 ニュー・ハンプシャー   4   オバマ
 ネバダ          5   マケイン
 フロリダ        27   マケイン
 ミシガン        17   オバマ
 ペンシルバニア     21   オバマ
 ニュー・メキシコ     5    オバマ
 インディアナ      17   マケイン

● 7月から三ヶ月での大変化

 上記の表でお分かりのように、この「接戦州」と呼ばれる10州でもマケイン、オバマ両候補がゼロコンマ、ないし2,3%の僅差でリードする州は仲良く5州づつ。10州の勝敗の行方と組み合わせで、勝者が決まるという息を呑む大接戦の状態がわかってもらえると思います。「接戦州」でも、私が訪米した6月-7月には、二ヶ月前までは、七つの州でオバマ候補がリードしていました。
 サンフランシスコで、オバマ候補に25ドルを寄付したという友人のオバマ陣営からのメールを見せてもらい、ユーチューブを活用したカラフルな画面と徹底した情報の共有作戦、即座に同じ25ドル寄付した人が「仲間」として組織されるスピード感あふれる有権者の「囲い込み」戦術の見事さに圧倒されました。インターネットをフルに活用し、これまで投票に行ったことのない学生などの青年層、そして黒人票の掘り起こしで、予備選挙を勝ち抜いてきた、オバマ運動の強さに触れた思いでした。
 ちょうどマケイン側の運動全体の弱体ぶりが指摘され、急きょ選挙事務長に、四年前、ブッシュ再選の立役者、カール・ロブ前大統領顧問の下で宗教右派票の「囲い込み」でも働いたスティーブ・シュミット氏が就任する動きが出ていたころでもあり、今年は共和党に変わって、オバマ民主党がインターネットによる「囲い込み」に成功する番かと思ったほどです。

● テレビ討論が決める勝者

 あれから三カ月、そのマケイン側が「接戦州」を二分するところまで追い上げているこのデッドヒート争いの行方は、9月26日、10月7日、10月15日(アメリカの日付で、日本では翌日付け)に三回行われるテレビ討論が決定的に重要となります。二人の候補、つまりアメリカ史上初の黒人大統領候補である47歳の新人上院議員オバマ氏か、かたやベトナム戦争の英雄で、72歳のベテラン上院議員マケイン―のどちらがアメリカ国民の「信頼」を勝ち取るかにかかってきたからです。8万人の大観衆を酔わせる雄弁のオバマと即位即妙の洒脱な語り口に年の功がにじみ出るマケインとの勝負でもあります。
 8年間のブッシュ政治への不人気、さらにはイラク戦争長期化の失敗、昨夏以来サブプライムローン問題の余波を依然解決できないアメリカ経済の低迷をどう克服するかなどという政策面での争点ではなく、突き詰めると、内外ともに難問が山積している「アメリカという国」のこれからの四年間の舵とりを託する指導者として、どちらを信用するかという一点に絞られてきたといえるからです。
 ちょうど1980年の選挙で、イラン人質事件や旧ソ連よるアフガニスタン侵攻など内外政策で「漂流現象」を起こしていたカーター現職大統領を相手に、カリフォルニア州知事の実績を持ちながらも所詮ハリウッドのB級スター上がりではないかというレーガン候補が、投票日一週間前の最後のテレビ討論で堂々と対処し、国民の「信頼」を手中にしホワイトハウス入りを果たした故事と似てきた状況です。
 同じ意味で、10月2日に行われる副大統領候補同士のテレビ討論も、ペイリン女史がベテラン上院議員で、外交委員会委員長の要職にあるバイデン氏との対決で、どれだけの「信頼」を国民から勝ち取ることが出来るかという点で異例の注目を集めている訳です。

  ● 「ペイリン効果」を列挙

 そこで、本稿ではこれから11月4日の投票日まで6週間、皆さんの選挙戦ウオッチに欠かせない「ペイリン効果」について、報告しておきます。ここにきてオバマ陣営を守勢に追い込んだ最大の原因だからです


(1) 1960年のケネディとニクソンが初のテレビ討論で対決して以来、13回目の大統領選挙戦をウオッチしている私にとっても、経験したことのないドラマチックな展開です。私は、1月の第11回で、マケイン候補が8年間の不人気なブッシュ政治の後継という逆風にも関わらず、ブッシュ抜き、イラク戦争抜きで戦うことになる可能性があると分析しました。「ペイリン効果」とは、まさにそれをあっという間に実現してしまった出来事でした。私もペイリン知事の名前が副大統領候補リストの最後にあげられていたことは記憶しています。しかし、その彼女の登場が一夜にして、選挙戦全体のダイナミズムを変えてしまったと言われるような存在になるとは、気づいていませんでした。

(2) そもそも今年の選挙戦で、マケイン候補は、イラク戦争では忠実なブッシュ政策の支持者ではあっても、他の内政面や社会問題、とくに中絶問題、非合法移民問題、それに政治資金規正問題などでは、過去2回のブッシュ勝利を支え、今では共和党内で主流派といっても良い発言権を維持している保守グループ、いわゆる宗教右派と呼ばれる勢力とは一線を画し、中道派、超党派的な路線をとる「一匹狼」的な存在でした。それだけに早々と指名を確実にした後も、6月ごろまではこの宗教右派グループとの間には溝を抱えたままで、オバマ候補がヒラリー女史との間で予備選挙の最後まで死闘を演じた漁夫の利を共和党内の組織固めに生かせず、すでに6-7月のアメリカ出張時での経験を述べたように、オバマ候補にリードを許していました。

(3) このマケイン陣営にとってまさに起死回生の一打となったのがぺイリン知事の起用でした。妊娠中絶反対、銃法規制反対のNRAに属し、自らも高度のライフル銃をあやつる。90%が堕胎するというダウン症候群障害者の子どももあえて出産し、エスキモーの血を引く夫との間で5人の子どもを持つ「働く母親」。陸軍に志願した長男は9月11日にイラクに出征する。PTA活動から政治の道に入り、市会議員、市長を経て、二年前、汚職追放と財政削減を唱えて現職共和党知事を予備選挙でひきずりおろして当選する。即座に前知事の専用ジェット機を売り払い、知事公邸の料理人を解雇した「小さな州政府」の明快な実践者。そして準ミス・アラスカのタイトルを持つ家庭的な美人。特にダウン症候群の子供をあえて出産した実績は、生命第一の宗教右派グループにとっては「涙が出るほど」の朗報です。

(4) つまり、それまでのマケイン運動のいわゆる宗教右派勢力との距離も一気に解消させて、2004年選挙でのブッシュ再選と同じ勝利の構図を描き出すことに成功したのです。共和党組織も、宗教右葉のみならず、全党内が「勝利のチケットを手にした」と一気に活気づき、さらに「働く母親」に共感する熱気は堕胎問題などでの政策の違い、党派の枠を超こえて、女性全体に広がり、ABCとワシントンポスト紙の調査では、共和党大会前には白人女性の支持率で、50対42とマケイン候補に差をつけていたオバマ候補が逆に53対41と10ポイント以上も逆転されることになりました。最初狙っていたと思われるヒラリー支持層の取り込みの思惑を超えたうれしい誤算となっているということです。おかげで女性の枠を超えて、選挙全体の行方のカギを握る白人中間層でも、マケインの支持が伸び、初めて50%の支持の大台に乗ったとの調査が出てきました。

(5) しかも、民主党大会最後のオバマ指名受託演説に迫るテレビ視聴率を得て、妊娠五カ月の長女のフィアンセまで呼んで家族の結束を見せつけ、大成功と評価された指名受託演説で、ペイリン女史が、指名発表後にニューヨーク・タイムスなど東部マスコミが行った自らの経験などに対する懐疑役な報道をやり玉にあげ、「記者や評論家の皆さんにちょっとしたお知らせをします。私は新聞記者や評論家のご機嫌をとるためにワシントンに行くのではありません。この偉大な国の国民に奉仕するためにワシントンに行くのです」と宣言しました。これを受けて大会場からは一斉に記者名席にブーイングの声が上がり、会場内は大変な盛り上がりを見せていました。 私はこれを東京のCNNの生中継で見ていて、アメリカ政治保守化への分水嶺となった1968年の選挙で当選したニクソンが、東部のマスコミを正面から攻撃することで、自ら「声なき声の多数派」と名付けた保守化した白人中産階級を味方につけることに成功、72年の再選でも草の根候補と呼ばれたマクガバン民主党に圧勝した故事を思い出しました。

(6) その意味でペイリン指名受託演説は党大会恒例の副大統領候補の演説の枠を超えたインパクトを感じさせるものでした。事実、マケイン候補も翌日の指名受託演説で「ワシントンの既成政治家と戦い、変革するためにホワイトハウスに乗り込むのだ。改革のために民主党を含めた超党派の内閣を作るのだ」とこのペイリン路線に乗って、オバマ候補のお株を奪う「改革」のスローガンを高々と打ち出しはじめました。党大会後、マケイン、ペイリン正副大統領候補が一緒に接戦州を回るのも最近では異例なことで、ペイリン演説の成功の証とみられています。

● 守勢のオバマ候補

 以上のような「ペイリン効果」を軸に、過去に勝利の実績のある運動の方程式に持ち込んだ共和党とは対照的に、オバマ陣営は、昨年来の選挙戦ではじめて守勢に立たされています。ブッシュ政権8年への失望感、アメリカの長期的な展望への不安感、そして黒人大統領も受け入れて見せるというアメリカの白人インテリ層・富裕層の使命感といったものに支えられて、高い人気を得てきたオバマ候補が皮肉にもその黒人初の候補であるという負い目ゆえに、ヒラリー女史に結集した白人中産階級、すなわち「レーガンデモクラット」といわれる浮動中間票に擦り寄るあまり、そのうたい文句であった「Yes 、We can change」のお題目にも陰りがさし、最近では「口紅を塗っても豚は豚」との最近の共和党に逆に足をすくわれかねない激しいネガティブキャンペーンの土俵に上ってしまっています。つまり「オバマのいう変化」の中身は何かという根源的な問いに、答えを見出せない落とし穴に落ち込んでしまっているということです。

● 浮動中間票への擦り寄りのツケ

 具体的にはこの擦り寄りは、テロ防止のための盗聴法への賛成、7月の銃を持つ個人の権利を認めた最高裁の判決への支持、イラク訪問での責任ある撤退へのコミットで事実上、アメリカ軍増派の成功でイラク戦争”勝利”を前面に押しだし始めたマケイン側と区別がつかなくなり始めたイラク政策、そして7日には「当選しても、アメリカ経済の悪化次第では、富裕層への減税の先のばしも考える」と発言、経済不振という共和党への最大の攻め口でも腰が引けている。もちろん中産階級への減税は予定通りと言っている。  しかし、なぜ民主党から大恐慌時のニューデールのような思い切ったアメリカ経済改革のための青写真が出ないのか、とのかねてからの疑問への答としては、物足りないと民主党内からも旧来のリベラル派を中心に批判の声が上がっているといわれます。7月以降、小出しの公的資金の導入で、ハニーメイなど住宅金融危機の解消に手を打っているブッシュ政権側に逃げ道を与えているというわけです。
 選挙戦の争点としては、イラク戦争抜き、ブッシュ批判抜き というマケイン側の土俵に知らず知らずのうちに上っている、というわけです。確かに最近のオバマ側の姿勢には昨年来の高らかに「変化」を歌い上げたエネルギーは見られません。民主党全国大会でもヒラリー陣営の造反防止に最大の心使いを見せたこととも合わせ、つきつめると、オバマ側には黒人として初めてホワイトハウス入りに挑戦する負い目、つまりアメリカ建国時からビルトインされていた「黒人差別」という呪縛との戦いがここまで来ても続いていると見ることもできます。
 私と同年で、1965年以来つきあいを続けているマルコムXの部下だった黒人インテリと7月にニューヨークで食事をともにしたとき、「オバマは本当に大統領になれるのだろうか」と彼がささやいたことを忘れられません。
 ここに来て、アメリカ選挙戦終盤のウォッチは、走馬燈のように通り過ぎるこれまでの13回の大統領選挙戦と同じようにアイロニーに充ち満ちていて、ほろ苦い味がしています。

 (松尾文夫 2008年9月15日、中国重慶にて記。  9月11日から23日まで広東、重慶、延安、北京と回る旅の途中で仕上げました。米中関係についての次の著作の調査のため、かねてから計画していた旅行で、この準備もありブログ更新が果たせませんでした。なお第12回「黒人差別」の呪縛の(下)は本稿で代えます)

第15回 広島訪問に「興味」を示したブッシュ発言を、新大統領のもとでの日米関係の中で生かさねばならない。

―毎日新聞コラムが示す貴重な方向。日米同盟空洞化を実感した旅―

●「大統領、ご一緒に」のコラム登場

 7月11日にリリースした「アメリカ・+ウオッチ」第14回で紹介したように、ブッシュ大統領が日本記者団との会見で、広島訪問提案について「大変興味深い」と発言したことについて、毎日新聞政治部の伊藤智永記者が7月9日付け毎日朝刊5頁のコラム「つむじ風」で取り上げていますので、報告しておきます。

 「大統領、ご一緒に」と題したこのコラムで、伊藤記者は福田首相に対し、ちょうどブッシュ大統領と再会する8月8日の北京五輪開会式の前後に巡ってくる広島(8月6日)、長崎(8月9日)の平和記念式典のいずれかに、大統領も首相と一緒に参加しないかと誘ってみてはどうかとの興味深い提案を行っています。北朝鮮の「核と拉致」をめぐって、日米首脳が日米同盟に対する日本世論の不安感の払拭に苦労している折から、こうした日本国民の琴線に触れるようなアメリカ大統領の行動を実現させることが、福田首相にとっての急務ではないかーと伊藤記者は説いています。

 その全文を毎日新聞のウェブから添付しましたので、是非ご一読ください。

●新大統領のもとでの日米同盟再構築の課題

 正直なところ、この提案の実現性は、いまゼロに近いと思います。しかし、日本のマスコミの中に、こうした形で「ブッシュ発言」を前向きにとらえようとする主張が出てきたことは、重要だと思います。約4ヵ月後に迫ったアメリカ次期大統領の登場を機会に、ポストブッシュの日米関係を構築するために、日本側が新大統領にはっきりその「青写真」を提示することが緊急の課題となっていると考えている私にとって、このコラムの主張は非常に貴重な意義をもったものだと思うからです。

 実は、6月15日から7月3日までアメリカを東から西へとまたいだ18日間の旅を終えて、いま私が一番かみしめているのが日米同盟の実質的な空洞化というテーマだからです。つまり、この潜在的には『危機』ともいってよい局面に直面している日米関係を、新しい大統領のもとで、日米指導者の広島―アリゾナ・メモリアル相互訪問、献花による戦争犠牲者鎮魂の儀式―という戦後63年間手がつけられてこなかった“けじめ“をつけるところから、再構築しなければならない、と考えているからです。

 これは大きな、包括的なテーマです。今度の旅の途中で、連邦最高裁が合衆国憲法修正第二条についての1939年ミラー判決以来69年ぶりの新解釈、つまり銃を持つことはアメリカ建国以来のアメリカ市民の権利であるとの保守派寄りの解釈をはっきり打ち出した歴史的な日に遭遇した経験とともに、いずれこのブログで、詳しく論じたいと思います。

●「福田首相への電話」一行も報じなかった米マスコミ

 今回は、この空洞化の現実にじかに接した二点をとりあえず報告しておきます。  

 一つは、6月26日、ブッシュ大統領自らが発表した北朝鮮をテロ国家の指定からはずす手続き開始の声明について、アメリカのマスコミ報道は、ブッシュ大統領の福田首相への「拉致問題は決して忘れない」との電話や、声明中での日本政府への”配慮”の部分などを一切無視したという事実です。これは見事と言っても良いほど徹底したものでした。

 私はサンフランシスコにちょうど滞在中で、翌日の27日付の地元サンフランシスコ・クロニクル紙はもとより(同紙は提携先のワシントン・ポスト紙記者の記事を使用していた)、最近では全米各地で印刷されながら、ロスやシスコでさえ、大型書店か特定のホテルなどでしか入手ができなくなったニューヨーク・タイムス紙、ウォール・ストリート・ジャーナル紙など東部の新聞も探して手に入れ、関係記事に細かく目を通した。しかし日本の拉致問題の言及は一切なし。

 5年前、北朝鮮をイラク、イランとともに「悪の枢軸」と決めつけたブッシュ大統領の思い切った”変身”について、保守派、リベラル・人権派双方からの批判をかなり詳しく伝え、全体として北朝鮮核問題の解決に悲観的な分析が目立ったにも関わらずである。テレビも解説者が大きく取り上げ、保守派のフォクス・テレビなどは、識者座談会で、ライス国務長官の宥和路線をこっぴどくやっつけていたものの、拉致問題を抱える同盟国日本への悪影響に言及する人は、いなかった。

 私が目にした限りでは、「日本はこれで拉致問題解決のための最も効果的な梃子を失うことになる」と伸べて、初めて日米同盟への悪影響という視点をあきらかにしたのは、6月30日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙オピニオン頁に「ブッシュ北朝鮮政策の悲劇的な終焉」と題して寄稿した元ネオコンで、ブッシュ政権から完全に干されているボルトン元国連大使の論文だけである。

●日本問題専門家のいない有力シンクタンク

 もう一つは、さらに構造的に深刻な問題である。今度の旅で触れた事実だけを報告しておく。いまアメリカの有力シンクタンクで、CSISなど一部の例外を除いて、きちんとした日本問題専門家の姿が見えなくなっているということである。ロスでその本部を訪問し、その東アジア専門家グループと有意義な討議を行った誰でも知っているアメリカシンクタンクの元祖のような組織で、終わって名刺を整理していて気がついたのは、本格的に日本問題を分析している専門家は一人もいなかったという事実である。中国、韓国専門家の発言が活発だった。その次の夜の私の講演会を聞きに来てくれた参加者の一人確認すると、現在在籍ゼロですと、はっきりその事実を認めた。

 この衝撃が根にあって、自らが種をまいた結果であるブッシュ大統領の広島訪問への肯定的な発言に接し、次の大統領のもとでの広島訪問実現への一石とばかり喜んではいられないと思う。それだけに伊藤記者の視点、提案は、一見夢物語みたいに聞こえながらも、実は日本にとって、きわめて緊急性を持つ重大な課題を浮き彫りにしている。是非そのコラムをご一読いただきたい。

 もう一つ、この伊藤記者は3月20日の毎日朝刊5頁の「つむじ風」で、同じく毎日新聞ウエッブから添付のように、私の「銃を持つ民主主義」文庫版あとがきから、私の広島―アリゾナ・メモリアル相互訪問、献花提案を取り上げ、「福田外交にふさわしい」と位置付けてくれた人である。この方もご一読下さい。

( 2008年7月23日 記 )

第14回 ブッシュ大統領、広島献花に「大変興味深い」と発言

―打ち捨てられていた戦後和解の“けじめ”の儀式への貴重な第一歩―

● 帰国の日の朗報

 6月15日から、ワシントンを振り出しに、ニューヨーク、ロサンゼルス、そしてサンフランシスコと7月3日までの18日間、アメリカを回ってきました。
 目的は、民主党オバマ候補と共和党マケイン候補の間で、すでにたけなわの大統領選挙前哨戦の実態に触れ、取材することと、ロスとシスコでの拙著(銃を持つ民主主義)の文庫版英訳版の紹介を兼ねた講演を行うためでした。いずれ別稿で報告するように、18日間もアメリカの空気を吸っているうちに、大統領選戦の展望について一定の感触を得たほか、これまでこのブログでも予測し、注意を喚起してきた問題に、ズバリ結果が出る幸運にも恵まれました。

 しかし、一番の幸運はシスコからANA06便で成田に降り立った7月3日午後にやってきました。各紙夕刊に載っていたワシントン駐在日本人記者との洞爺湖サミット出席を前にした特別記者会見で、ブッシュ大統領が「あなたの在任中の日米関係は極めて強固なものでしたが。真珠湾攻撃、広島原爆投下といった、いまだに消え去っていない過去の問題もあります。この解決のために、一部の歴史家は日本の首相が真珠湾を、アメリカの大統領が広島を訪問すべきだとの提案をしていますが?」との質問に答えていたのが、以下のホワイトハウス公式記録でのやり取りです。

●ブッシュ発言全文

大統領: 大変興味深い。
記者団: この問題をどう考えますか。
大統領: 私はこう考えます。確かにわれわれの歴史にはそれぞれ苦痛に満ちた時期があった。たとえば私の父は日本との戦争の時、若い海軍のパイロットだった。しかし、私の経験は全く違う。小泉元首相が私の親友の一人だったからだ。これは興味深いことではないか。その理由の一つはわれわれが過去を水に流し、未来に目を向けたからだ。 いま聞かれたような象徴的な行動は意味があるのかも知れないが、私にはわからない。私は考えたこともなかった。興味深いアイデアだ。私にこうした考えを伝えた人は誰もいなかった。
あなたが初めてだ、と申し上げておく
 次期大統領が誰になろうとも、日米関係の重要性を理解し、未来を考えなければならない。われわれは価値観を共有し、共になすべき多くの仕事があり、歴史的な経済関係を維持しているからです。あなた方もお分かりのように、私は開かれた市場、自由で公正な貿易を信じている。私が日本に住む日本人だとしても、過去を水に流し、両国にとっての最良の利益に目を向けることに賛成すると思う。
 したがって、これは興味深い提案だ。しかし、私がこの提案を実現するのは無理だろう。今度の旅が大統領として最後のものとなるだろうからだ。断定はもちろんできないが、たぶん最後のものとなるだろう。それは残念なことなのだが。

●「ドレスデンの和解」日本版として提案

 私がこのブッシュ発言を長々と紹介したのには理由があります。
 日本記者団側が質問で「一部の歴史家」と呼んでくれた提案者、つまり日米首脳による広島―真珠湾相互訪問、そして献花によって日米間の過去をきちんと清算するべきだとの主張の主、少なくともその一人は、ほかならぬ私だったからです。そして今ブッシュ大統領が自分の任期中には無理だといいながらも「興味深い提案だ」と前向きの発言を繰り返してくれたことは、あと4ヶ月後には決まる次期大統領の下での相互訪問、献花実現の布石を得たような思いです。いろいろとリップサービスの面を割り引いても、やはりこの現職大統領の発言は朗報です。

 このいきさつについては、今春出版された拙著文庫版の後書き(P437)に「まだ実現していない広島献花」と題して要約してあるので、ご一読いただければ幸いです。本稿では、短く報告しておきます。

 私は、拙著の原著出版一年後、つまり敗戦60周年の節目の年であった2005年秋から原著のエピローグで提起した、日本版「ドレスデンの和解」の実現のために一人で動き始めました。

●米紙にまで寄稿

 まず中央公論2005年9月号上で「ブッシュ大統領に広島で花束を手向けてもらおうー日本版ドレスデンの和解提案―」と題した論文を発表しました。1945年2月、ドイツ東部の古都、ドレスデンに対する米英空軍機による夜間無差別爆撃(死者約3万5千人)に対するドイツと米英両国との和解の儀式が爆撃50周年に当たる1995年に行われたのに倣って、日本とアメリカとの間でも、広島、長崎を含め全国69都市での約五十万の無差別爆撃被害者の鎮魂の儀式を行うことによって、日米の不幸な過去に“けじめ”をつけるところまでさかのぼって、日米関係を再構築しておかねばならないのではないかーとの問題意識に基づくものでした。
 その象徴的な儀式として、ドレスデン和解で成功したのと同じ論理、つまり戦争犠牲者の霊を弔うことだけに絞って、米大統領による広島献花と日本の現職首相によるアリゾナメモリアル献花を提案したわけです。
 続いて敗戦60周年にあたる2005年8月16日付の米ウォールストリートジャーナル紙に同じ趣旨を投稿、同紙のオピニオンページに大きく掲載されました。普段は論説主幹のコラムが載るスペースを提供してくれました。

●東アジアから全アジア、太平洋諸国でも献花

 さらに中央公論2006年10月号で「中国の胡主席にも広島で花束をー相互献花による新たな信頼醸成措置の提案―」と題して、南北朝鮮を含めた東アジア全体、さらに最終的には戦争犠牲者が出たオセアニアまで含めたアジア、太平洋諸国全体の首脳による相互献花の儀式を日本外交のイニシアチブとして、展開すべきだと提案しました。この原稿の中では、ウォールストリートジャーナル紙に対するアメリカ人読者からの投書なども細かく報告しました。
 そして昨年8月には、このブログ上で、日本の現職首相がまだアリゾナメモリアル訪問、献花を果たしていない事実を突き止めたうえで、まず手始めに日米首脳間で広島―アリゾナメモリアル相互訪問、献花の儀式を行うべきだと、提案しました。
 こんどの「大変興味ある」とのブッシュ大統領の反応を歓迎するのは、こうした私の発言の軌跡があったからです。皆さんのご意見をお聞かせください.。
 今回のアメリカ取材での収穫は少し時間をいただき、次回にご報告するつもりです。
 (松尾文夫 2008年7月11日記)
*本文で触れた論文は、日英双方とも、『図書館』部分に収録してあります。

第13回 拉致問題打開への正念場、アメリカの「期待」を受けた日朝協議

 『米朝和解ーーーもはや北と交渉するしか日本の道はない』中央公論2008年6月号インタビュー・再録

 日本と北朝鮮の国交正常化交渉再開に向けた斎木外務省太平洋アジア局長と北朝鮮のソン・イルホ朝日国交正常化交渉担当大使による公式協議が6月7日から北京で再開されることになりました。
 日朝間の直接協議は昨年10月に中国の瀋陽で開かれて以来8ヶ月ぶり。しかも、この動きの背景に、アメリカと北朝鮮との直接交渉が4月8日のシンガポール会談で大きく進展し、北朝鮮が望む、アメリカによるテロ国家指定解除が実現する可能性が高まっている事実があることを忘れてはならないと思います。
 つまり、その公表される結果がどのようなものであっても、この日朝協議の再開が、アメリカの六カ国協議打開への期待を受け、その意を受けたものであることに注目しなければならないと思います。その点で見過ごせない資料があります。
 4月中旬、北朝鮮訪問を終え、東京に立ち寄ったアメリカの北朝鮮専門家、レオン・V・シーガル氏が、私との中央公論6月号誌上でのインタービューで述べた内容がそれです。中央公論社の承諾を得て『米朝和解 ―もはや北と交渉するしか日本の道はない― 』と題して掲載されたインタービューの全文を再録します。ご一読ください。

 シーガル氏は、ニューヨークの伝統ある調査機関、「米国社会科学調査評議会」の北東アジア安全保障プロジェクト部長。昨年6月の訪日時にも、私がインタ−ビューしました、その内容は、中央公論2007年8月号誌上に ”拉致敗戦 ―日本は北朝鮮問題で致命的な孤立に追い込まれえるー“と題して掲載され、2006年10月10日、つまり10月8日の安倍首相北京訪問の二日後で、北朝鮮による10月9日の核実験の翌日、キシンジャーがブッシュ大統領の親書を持って北京を訪問、胡錦濤主席と会い、北朝鮮が核を捨てたらアメリカは平和条約に調印する用意があると告げたなどとの衝撃的な事実に満ちていました。北朝鮮をイラク、イランと共に「悪の枢軸」と決め付け、直接交渉を拒否してきたそれまでの強硬路線からのブッシュ政権変身の実態を初めて明らかにしてくれました。この大きな反響を読んだ内容は「アメリカウオッチ」第10回(2007年9月12日付け)に収録してあります。
 今回はその続編と言ったところで、シーガル氏は4月11日から3日間のピョンヤン訪問での北朝鮮当局者との会談結果をもとに、アメリカによるテロ国家指定解除を含む6カ国協議進展の可能性を具体的に指摘、拉致問題の解決には日本独自の北朝鮮との交渉しかない、との観察を明らかにしています。
 シーガル氏は、エール大学卒。ハーバード大学で博士号取得後、国務省政治・軍事局勤務、ニューヨーク・タイムズ紙論説委員などを経て現職。対北朝鮮政策でのハト派の論客として知られ、“ Disarming Strangers: Nuclear Diplomacy with North Korea “ などの著書があります。私とは2004年以来の友人です。(2008年6月6日記)
<以下、再録>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
米朝和解
−−もはや北と交渉するしか日本の道はない
レオン・V・シーガル/米国社会科学調査評議会北東アジア安全保障プロジェクト部長
聞き手・松尾文夫/外交ジャーナリスト 

 米朝の核協議は日本で想像しているより進展している。ブッシュ米大統領は十一月までに北朝鮮をテロ支援国家リストから外し制裁を解除するだろう。日本は六ヵ国協議の中で取り残された。独自に北と取引する以外に、拉致問題を解決する方法は残されてはいない
−−

 ●シンガポール合意で楽観的見通し

松尾 今回は平壌訪問を終えたその足での訪日だが、平壌行きの目的は何だったのか。
シーガル 朝鮮問題を長年フォローしている専門家として、これからの交渉の行方を探りたかったからだ。ほかの米国の朝鮮問題専門家七人とともに北朝鮮外務省の招待で四月十一日から十三日の三日間、平壌を訪問、朴義春外相を表敬したほか、ニューヨークの国連代表部で米国問題担当次席大使をしていたとき以来の旧知である李根米州局長をはじめとする外務省当局者のほか、板門店で米側との折衝に当たっている李賛副将軍にも会い、二回の夕食会を含めて熱心に話し合った。平壌行きの飛行機には、シンガポールでのヒル米代表との会談を終えた金桂冠外務次官も乗っていたが彼には会えなかった。公式の視察はすてきな新しい音楽学校に案内されただけだ。
松尾 それで、北朝鮮との直接の接触を終えて、今後の六ヵ国協議の展開をどう予想するか。
シーガル かなり早期に、次の六ヵ国協議が行われるだろう。四月八日のシンガポールでの合意を公式化しなければならないからだ。
松尾 あなたは楽観的なわけだ。
シーガル その通り。シンガポールでの合意は、北朝鮮が六ヵ国協議でプルトニウム計画を申告する、としている。また彼らはこれまでウラン濃縮活動について米国と協議してきた。その中で彼らは、獲得したアルミニウム・チューブをわれわれに見せ、ウラン濃縮用の遠心分離機を作るためには使っていないことを示した。
 興味深いのは、二〇〇七年末以前に、彼らがわれわれに対して、どれくらいの量のプルトニウムを持っているかを告げたことだ。これは、われわれにとって最も重要な安全保障上の懸念に答えるものだった。この申告がどこまで真実かは、彼らがわれわれに見せることを約束した原子炉の運転記録を見るまで分からない。もし運転記録が完全なら、彼らの申告が本当かどうか確かめることができる。つまり、ワシントンの一部の人々が言っているように、彼らの言うことは何一つ検証できない、というわけではない。われわれにとって、それは可能なのだ。
松尾 運転記録を見せると言ったのか。
シーガル そう、そう言った。
松尾 だが、まだ実現してはいない。

 ●溶けたチューブを差し出す

シーガル その通りだ。もし、それが明らかに不完全だったら問題だ。だが、いずれにせよ彼らは記録を見せるだろう。彼らは放棄するもののリストも作らなければならない。プルトニウムの量についてはわれわれに話した。プルトニウムを生産するために、彼らがどんな施設を持っているかも明らかに分かっている。査察の対象だったからだ。
 そしてウラン濃縮に関しては、われわれは彼らがすでに高濃縮ウラニウム(HEU)を持っているのではないかと心配したことは一度もない、ということを言っておきたい。爆弾用の核分裂物質を十分に生産するには、長期間にわたり多数の遠心分離機が必要であることを、われわれは知っている。彼らがいくつかの遠心分離機を獲得し、さらに増やすために、いくつかの部品をパキスタンから入手したことは分かっていた。最大の懸念は、彼らが何千本ものアルミニウム・チューブを獲得したことだった。もしそのすべてを遠心分離機作りに使えば、爆弾一個に必要なHEUを一年間で生産できたはずだった。
 つまり、われわれの知らないところでアルミ・チューブがどう使われているかを知ることが非常に重要だった。これに対して、彼らが取った措置の一つが、彼らの入手したアルミ・チューブが遠心分離機作りに使われていないことを米政府に示して、納得を得ることだった。実際に彼らは昨年、一本の溶けたアルミ・チューブをわれわれに引き渡し、われわれもそれを試験し精査した。もし、彼らがアルミ・チューブを遠心分離機作りに使っていないとすれば、彼らは、われわれが心配するほどのHEU計画を持っていないことになる。それが申告プロセスを通じてわれわれがすでに到達した死活的に重要な結論の一つだ。
松尾 彼らから差し出したのか。
シーガル そうだ。だから情報にうとい連中がHEUについて話すのを聞いたりするのはやめるべきだ。彼らはみな間違っている。われわれは交渉協議と北朝鮮訪問を通じて、プルトニウムに次ぐ安全保障上の懸念、HEUに関しては、あまり計画が前進しておらず、したがって安全保障上の大きな脅威ではないことを認識している。
松尾 そういうことか。
シーガル 以上が実際の経過だが、私の見るところ、このほかに、さらにわれわれの安全保障に重要なことがある。それは彼らが寧辺のプルトニウム計画を閉鎖し、とにかく燃料棒を取り出して無能力化を開始したことだ。
 ところがわれわれの側は、見返りにすべきことを、誰も行っていない。特に日本は、まったく何もしていない。ロシアは昨年十二月までに重油五万トン供給するはずだったが、引き渡しが遅れている。実際、二月末まで到着しなかったのではないかと思う。
 さらに中国と韓国も、北朝鮮の通常型発電所の改善に必要な鉄鋼やその他の資材の形で、エネルギー供給に匹敵するだけの援助を行うことになっているが、両国とも引き渡しが遅い。そして米国には、対敵通商法に基づく制裁の緩和プロセスを促進することによって、約束した政治的代償を実行するという課題がある。
松尾 徹底した行動対行動の取引ということか。
シーガル そうだ。北朝鮮がわれわれに何を期待しているかを探り、それについて話し合うことが第一だ。核兵器を持っていること以外は誰よりもひどく弱い立場にある彼らとの交渉では、何か見返りを出さなければ何も得ることはないということだ。

 ●シリア問題は過去のこと

松尾 シリア問題は解決したのか。
シーガル これまでのどの合意にも、シリアへの言及はない。だがブッシュ大統領は、昨年七月と八月に北朝鮮がシリアで何をやっていたかを知っていた。イスラエルがわれわれに話したし、昨年八月にはボルトン(前国連大使)が、シリアに対する北朝鮮の核支援に関して警告する声をあげていた。にもかかわらず大統領は九月一日と二日にジュネーブで米朝交渉を行うためヒル代表を送った。イスラエルが核疑惑施設を攻撃しようとしていることを知っていた。そしてイスラエルは九月六日に爆撃を行った。米国は同月末までに、アナポリス中東和平会議への招請状をシリアに送った。つまり大統領は、北朝鮮とシリアの間で何があろうと、両国との協議を続ける決意だ。
松尾 なるほど。ホワイトハウスはすべてを承知していたわけだ。となると、シリア問題はさほど重要ではない、ということか?
シーガル 目下のところは、われわれの安全保障上の死活的に重要な問題ではない。つまりシリアで何があったにせよ、北朝鮮がシリアで原子炉建設を助けたにせよ、問題にはならない。この支援は、一九九四年十月締結の米朝枠組み合意が破綻した二〇〇二年十月に始まった。だが、イスラエルはそれを爆撃したと主張している。だから、それが何であったにせよ、もはや存在していないことになる。となると、どこに安全保障上の問題が残っているのか。まだ何か脅威があるのだろうか。つまり何があったにせよ、もはや過去の話ということだ。シリアに対する北朝鮮の支援のすべてを解明するために、これ以上無能力化を遅らせるのは得策だろうか?

 ●カギを握る燃料棒の補充

松尾 そうするとあとに残っているのはプルトニウム燃料棒の数の問題と言うことになるわけだ。
シーガル 約八〇〇〇本だ。寧辺の原子炉には燃料棒が約八〇〇〇本あって、その二〇〜二二%を取り出した。
松尾 だが、検証はできないのでは。
シーガル いや、査察官がいる。われわれは彼らがやっていることを知っている。
松尾 だが、彼らは取り出す作業を意図的に遅らせている。
シーガル ロシアと中国と韓国から代償として来るべきものが来なかったからだ。だから北朝鮮は、原子炉からの燃料棒の取り出しを遅らせた。これは本当だ。中国と韓国に聞けば分かる。そう、期限までに引き渡さなかった、と答えるだろう。
松尾 ロシアはすでに引き渡しを終えた。
シーガル その通りだ。いまや中国も、ほとんど引き渡しを終えた。韓国も、ちょうど引き渡し終わったところだと思う。たしかに、北朝鮮がその気になれば、交渉材料として、いろいろと悪さすることができる。燃料棒の取り出しを完全に中止することも、その一つだ。彼らは取り出しを遅らせた。われわれが約束を守らなければ、今度は、それを完全に中止することもできる。これが彼らにとって第二の梃だ。しかし、われわれには梃がない。梃を持っているのは彼らだ。正確には分からないが、一九九〇年初めに、彼らは交換用の燃料棒を三〇〇〇本ほど作ったようだ。約八〇〇〇本を全交換するだけの数は持っていないが、部分的に燃料棒を取り出した原子炉に、新しい燃料棒を入れることができる。
松尾 そうすると、重要なのは補充の燃料棒の問題か。
シーガル その通り。燃料棒の補充ができなくなるのは、五〇%以上取り出したときだ。つまり彼らは、依然として燃料棒の補充という梃を持つ立場にある。だからわれわれは、原子炉の燃料棒を完全に取り出すことを求めているわけだ。そうなれば新しい燃料棒を補充することはできない。そして第三の梃は、彼らが二〇〇二年にやったように、新しい燃料棒を補充した後、原子炉を再稼働させ、さらにプルトニウムを生産し始めることだ。
松尾 再稼働という奥の手か。
シーガル 以上の三つの措置が、それぞれ梃になる。だからわれわれは、原子炉の完全な無能力化を求めているわけだ。まだ彼らが行っていないのは、補充用燃料棒の廃棄だ。彼らが原子炉からすべての燃料棒を取り出し、手持ちの補充用の燃料棒を廃棄すれば、たとえ彼らがもっとプルトニウムを作りたいと思っても、すでに無能力化されている燃料製造工場を再開し、八〇〇〇本の燃料棒を新たに作らなければ、原子炉を再稼働することはできない。それには一年以上かかるだろう。
松尾 その意味で彼らは無能力化を遅らせている。
シーガル その通りだ。彼らは無能力化を完了しておらず、それを遅らせている。だがそれは二〇〇七年二月の共同声明の中の、われわれがすべき部分を行わなかったからだ。それに尽きる。われわれは対敵通商法に基づく制裁の解除を促進することを約束したが、それをしなかった。テロ支援国家リストから外すための手続きを開始することも約束した。たしかに開始はしたが、まだリストから外しておらず、先に述べたような意味での無能力化が完了するまで、リストから外すことはないだろう。

 ●政権に関係なく同盟まで望む

松尾 彼らは依然としてブッシュ政権と話をまとめる用意があるのだろうか。
シーガル もちろんだ。彼らは時間稼ぎなどしていない。明らかにシンガポールでブッシュ政権と取引をまとめることに合意した。問題は、米国側がそれを守るかどうか。また米国側がそうした場合、北朝鮮側が先に進むかどうかだ。
松尾 彼らには次期米政権まで待とういう気はないのか。
シーガル その気はない。喜んで賭けに応じる。もしわれわれがすべきことを行えば、無能力化は今年中に完了するだろう。やろうと思えば彼らは八月までに完了できるが、たとえ現在のペースで進んでも、遅くとも十一月には完了するだろう。そして核計画に関する申告も、もうすぐ行われるはずだ。
松尾 今年十一月か。
シーガル その通り。彼らはすでに、プルトニウムに関する申告を中国に提出した。北京で起きたばかりのことだ。そして中国は、間もなく行われる次の六ヵ国協議で、それを正式に提示するだろう。ウラン濃縮に関しては、すでに述べた通りだ。重要なのは、誰が真実を言い誰が嘘をついたかとか、罪と罰とかの問題ではない。日米の安全保障を促進するために、核施設の無能力化を完了し、濃縮施設を含めて次の段階で解体されることを彼らが了承したもののリストを手に入れることだ。
松尾 北朝鮮は、次期米大統領が誰になるか、気にならないのだろうか。
シーガル 北朝鮮側からその話は出なかった。こちらから聞くと、気にしない、という返事が返ってきた。次期大統領が誰になるのか、各国が気にしているが、北朝鮮だけは例外だということだ。彼らが気にしているのは、対北朝鮮政策の行方だけだ。誰が大統領になろうと、関与と和解の路線を守るかどうかだけが気がかりなのだ。
 ここで彼らが米国に求めているのは、関係正常化以上のものだ。外交関係よりも、もっと多くを望んでいる。彼らは、われわれが敵対をやめることを望んでいる。われわれが彼らの友人ないしは同盟者になることを望んでいる。政権の問題程度ではないという発想だ。
 とにかく米国との私的な接触を拡大したいというのが彼らの考え方だ。最近ではニューヨークフィルハーモニックオーケストラの訪朝が重要な事例だ。
松尾 たしかに、象徴的な訪朝だった。
シーガル 楽団の演奏は北朝鮮中に同時中継放送された。これは間違いなく北朝鮮国民に対するメッセージだった。
−−これらの米国人たちはいったい何者なのか? 彼らは友好的な米国人だ。彼らは自分たちの楽器を演奏するためにやってきた。爆弾を落としにきたのではない−−。
 そして、これを命じたのは金正日 だ。北朝鮮のテレビ・プロデューサーの誰かではない。彼は意図的に演奏を生中継で北朝鮮中に流して国民全員が見られるようにしよう、と言ったのだ。
 現在、私たち以外にも、さまざまな米国代表団の訪朝計画が進行中だ。
 それに、より良い取引をするために、彼らが米国の選挙を待っていたことは一度もない。現に彼らはミサイル問題でクリントン政権と最後まで交渉したし、現在はブッシュ政権と取引している。一九九四年十月の枠組み合意のときも、米議会選挙の数日前まで交渉して仕上げた。
松尾 なるほど。

 ●テロ指定解除は直接交渉で

シーガル 「北朝鮮は時間稼ぎをしている」という見方は、実際には米国側が動くことを望まない米国人が、それを正当化するための口実だ。米国が動けば次に北朝鮮が動くかどうか分かるだろう。これは米朝関係の実に基本的なパターンだ。それが何度も繰り返されてきた。われわれが前進すると北朝鮮は常にそれに応えてきた。例外は一度もない。断言できる。過去二〇年、時に応じてこのパターンが繰り返されてきた。逆に、米国がすると言ったことを行わない場合、北朝鮮は常に報復してきた。そして常に報復の方法は、核分野で何かするか、あるいはミサイル分野で何かするかの、二つのうちの一つだった。いつもそうだ。だがそれは常に、米国が動かないことへのしっぺ返しだ。それが起き続けている。
 二〇〇五年九月十九日に、米国が北朝鮮の外国口座の凍結を求めたときもそうだった。北朝鮮は、凍結を解除するまで六ヵ国協議に出席しない、と言った。われわれがそれに応じないと、彼らはミサイル実験を行い、核実験を行った。中止するよう中国が要請し、次には制裁の脅しをかけても、彼らは動じなかった。制裁を示唆する安保理決議に中国が賛成票を投じると、北朝鮮は核実験の準備を開始した。彼らは制裁も圧力も気にしない。われわれが求めるものを、それによって彼らに強いることは決してできない。同じことが、何度も繰り返されてきた。そろそろ悟ってもいいころだろう。われわれは彼らのやり方が好きではないとしても、彼らは圧力に耐え、われわれよりも多くの梃を持っている。ミサイルと核計画だ。
松尾 拉致問題を抱える日本は苦しい立場に立たされることになる。
シーガル 日本には、この夏の間を通じて北朝鮮と協議し、制裁を緩和する代わりに拉致問題の前進を図るという取引の時間がある。米国は拉致被害者家族に同情しており、日本を助けたいと思っている。だが米国が直接できることは何もない。北朝鮮側が望んでいるのは、この問題での日本との直接交渉なのだ。つまり日本が取引を行い、二〇〇二年の日朝平壌宣言に基づいて、北朝鮮と相互的な措置を取りながら前進することであり、できるかどうかは日本次第。もし日本がそうしなければ、拉致問題での前進は一切ないだろう。
松尾 それは厳しい。
シーガル 要するにこれが和解に向けて前進するために北朝鮮が日本と米国に求めている政治的な措置なのだ。
松尾 あなたは対敵通商法とテロ支援国リストに関して、ブッシュ大統領が十一月までに措置を取れると思っているのか?
シーガル 彼はどちらもやるだろう。それに大統領は、その意思を日本に伝えている。昨年四月のキャンプ・デービッド会談で安倍前首相に話したのだ。
松尾 昨年の話か。
シーガル もし米国がそうしないとすれば実に愚かなことだ。北朝鮮のプルトニウムが増えるだけだからだ。そんなことを誰が望むだろう。
松尾 その後、日本は福田首相に代わったが。
シーガル 私の見るところ福田首相は非常に利口だ。制裁が逆効果であることに気付くだろう。そのせいで日本は、安全保障問題でのけものにされているからだ。一方、北朝鮮側の立場も非理性的だ。日本が制裁を一方的に解除しない限り何もしない、と言っているからだ。彼らの観点からすれば、日本は事実上、六ヵ国協議に参加していない。

 ●韓国との関係も悪くならない

松尾 つまり日本の制裁解除が外交的な条件となるわけか。
シーガル それが北朝鮮の言い分だ。私の見るところ、北朝鮮は常に相互的な措置によって信頼を構築すべきだと考えている。つまり六ヵ国協議を通じた核の無能力化と申告の前進に対応して、制裁の緩和などが行えるはずだ、という意味だ。もし日本が六ヵ国協議でそうできなければ、平壌宣言に基づいて和解に向かうためには、双方が取るべき相互的な措置を独自に交渉しなければならない。ただ問題は現時点で北朝鮮は日本と話す気がないことだ。私は、そう見ている。彼らが日本は非理性的だと思っているからだ。これだけは確かだ。彼らが日本は非理性的だと思えば間違いなく彼らの側も非理性的になる。いままさにそうなっている。
松尾 だが彼らは米国との関係改善には自信を持っている。
シーガル その通りだ。だが日本にも同じことを望んでいる。もう一つ言いたい。彼らは韓国との関係もさほど悪くならないだろうと思っている。いま南北間で起きているのは、一過性の、ほとんどは口先だけの問題だ。韓国の李明博新大統領は、利口で真剣な人物だ。北朝鮮と問題を起こすことは望んでいない。北朝鮮側は彼はビジネスマンであり、ビジネスマンの考え方をする人物だが、政治家としての考え方を開始するべきだ、と思っている。李明博大統領は過去一〇年間の歴史を無視し、金正日が署名した二つの首脳合意、これらの厳粛な誓約に背を向けることはできない。
 私は北朝鮮は戦いたくてたまらないわけではない、と考えている。もし韓国が北朝鮮との裏チャンネルでの対話を開始すれば、彼らは何か前進する方法を考えることができる。すぐ事態を進展させるため分かりやすい手段は、春の植え付け用の肥料を北朝鮮に与え、口先での攻撃を控え目にし、和解のための追加措置に関する協議を開くよう求めることだ。
松尾 つまりこれはゲームの一部というわけか。
シーガル もし韓国側が首脳合意を破棄することに固執し先制攻撃に関して再び言及すれば、深刻な事態になりかねない。だが目下のところ、李大統領はそれを望んでいないと思う。だから私は、南北関係を心配していない。なるようになるだろう。韓国の指導者が米国よりも強硬な姿勢を取った最後の事例は、一九九四年のクリントン政権当時の金泳三大統領だったが、李大統領が、その轍を踏むことはないだろう。

 ●遺骨問題も交渉のきっかけに

松尾 そうすると、結局、日本独自の交渉がカギを握ることになる。しかし、この点で福田首相の足場は弱い。
シーガル となると北朝鮮側は日本に罵声を浴びせ、何もしようとしないだろう。現在の状況では、日本側が関与の方法を見つけない限り、彼らは日本と取引しようとしないだろう。方法はあるはずだが、日本が彼らと上品で静かに話をして福田首相がそれを良しとしない限り、うまくいかないだろう。制裁が機能しないのは明白だ。北朝鮮は大して困ってはいない。ただ進展を阻んでいるだけだ。とにかく日本としては早急に北朝鮮と直接話し合う道筋を見つける必要があると思う。拉致問題は、六ヵ国協議の対象にはならない。これは二国間問題だ。そして日本は拉致問題での前進と引き換えに、かつて金正日自身が合意した平壌宣言に基づいて前に進むことを考える必要がある。
松尾 私も平壌宣言は日本が持っている唯一といっていい外交的財産だと思っている。
シーガル 米国民は拉致被害者に同情している。助けたいと思っている。だが北朝鮮は日本との直接交渉に固執している。肉親がどうなったのかを家族たちが知るためには、日本自身が北朝鮮との和解に向けて動かなければならない。もし和解路線に動かなければ、肉親がどうなったのかは決して分からないだろう。拉致被害者が生きているとしても日本は決して取り戻せないだろう。取り戻す唯一の道は、北朝鮮と和解することだ。横田めぐみさんの遺骨問題も一つの突破口になりうる。安倍前首相によれば、遺骨は偽物だった。だがそれは、検査を行った結果、それが横田めぐみさんのものかどうか立証できなかった科学捜査当局の発言ではない。安倍氏がそう言っただけだ。それが事実だ。米国にも他の国にも専門家はいる。もっと国際的にも受け入れ可能な検査結果か出せるかどうか、試してみればいい。
松尾 要するに拉致問題で米国は頼みにできないということが、はっきりしてきたわけだ。 
シーガル 日本は米国が何をすることを求めているのだろうか。テロ支援国家リストから北朝鮮を外すのをやめて、北朝鮮の核計画を無能力化するための努力を中断させ、ひいては北朝鮮がもっと核兵器を持つようにさせたいのだろうか。一部の日本人はそう言っているようにも聞こえる。これは日本の安全保障にとって意味のないことだ。米国が北朝鮮を拉致問題で取引するようにさせるのは不可能だ。北朝鮮は、もし日本がわれわれと取引する気なら、拉致問題で取引する用意がある、と言っている。これから数ヵ月、日本には彼らと話す時間がある。米国が北朝鮮をテロ支援国リストから外す前に、日本は試してみるべきだ。
 日本国内に米国は信用できないという声が出ていることは知っている。しかし米国ができないことを米国に期待しても、それは無理だ。日本自身の取引こそが北朝鮮に対して拉致問題で譲歩させる唯一の手段なのだ。 〓
(翻訳・山口瑞彦)

  Leon V. Sigal 米国生まれ。エール大学卒業、ハーバード大学で博士号取得。米国務省政治・軍事局勤務、『ニューヨーク・タイムズ』論説委員などを経て現職。著書に米朝枠組み合意の背景を描いた,,Disarming Strangers:Nuclear Diplomacy with North Korea''など。

  まつおふみお 一九三三年東京生まれ。元共同通信ワシントン支局長。著書に『銃を持つ民主主義』(日本エッセイスト・クラブ賞)。

第12回 大統領選挙戦に持ち込まれた「黒人差別」の呪縛 (上)

 民主党大統領候補の座をめぐって、アメリカ史上初めて女性と黒人が争い.しかもその対決が延えんと続く今年のアメリカ大統領選挙戦をウオッチしていると、今「アメリカという国」全体が、二百十数年前の建国期までさかのぼって、その国としての成り立ちを問われていると思う。 その建国の呪縛の元で、あがいているように見える。

 一番の例が、5月6日の北カロライナ州予備選挙での大勝とインディアナ州での善戦で、指名獲得に大きく近づいた黒人オバマ候補につきまとっている「黒人差別」の重い過去である。オバマ氏が属しているシカゴの黒人教会の牧師、ライト牧師の激しい白人批判発言が、オバマ氏に対する全国民の支持率を下げ始めている折から、きちんと捉えておかねばならない状態が生まれつつあるからである。

●合衆国憲法で規定された「黒人差別」

 建国の呪縛といえば、4月に執筆を予告した、痛ましい乱射事件が後を絶たない銃社会「アメリカ」定着の分析も結局はそこに行き着く。銃の規制がどうしても徹底しない背景には、市民の武装権を認めていると解釈可能な合衆国憲法修正第二条、つまり「規律ある民兵は自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、又携帯する権利はこれを侵してはならない」との1791年制定の条文が217年たった今も続いているからである。夏前には、連邦最高裁判所が、この憲法修正第二条を「市民の権利としての銃保持の権利を容認したものだ」と改めて解釈する新判決が出かねない情勢である。

 しかし、その報告は次回以降に回したい。今回は11月4日の大統領選挙投票の行方にも直接影響しかねない意味でより重要な、オバマ候補をじわじわと締め付け始めた建国の呪縛、「黒人差別問題」の方を分析する。

●「五分の三」という数え方

 一言でまとめると、昨年来の選挙戦で、黒人候補としてのイメージを徹底して避け、既成のワシントン政治からの決別、つまり「変化」をメインスローガンとして「白人も、黒人も、ヒスパニック系も、アジヤ系も。そして金持ちも貧者も、アメリカ国民全体が協力しあって、アメリカの歴史に新しいページを切り開こう」と呼びかけて、支持を伸ばしてきたオバマ戦略が、ライト発言をきっかけに、建国以来の「黒人差別」の現実の重さに、押しつぶされかねない曲がり角に立たされているということである。これを理解するためには、アメリカ合衆国憲法制定時までさかのぼらねばならない。

 1776年の独立宣言、イギリスとの独立戦争勝利を経て、1788年、ようやく必要な9州による批准が完了して陽の日を見た合衆国憲法では、黒人の「差別」が原住インディアンの「排除」とともに、はっきりうたわれていた。この事実を確認しておかないと、ライト発言の意味もわからなくなる。

 まず第一条「連邦議会とその権限」第二節三項は、下院議員選出の基礎となる各州の人口算定の段階から、「各州の人口とは、自由人の総数をとり、この中には年期服役者も含ませ、納税の義務のないインディアンを除外し、それに自由人以外のすべての人数の五分の三をくわえたものとする」―と明記されていた。「納税の義務のないこと」を理由に名指しで除外されているインディアンについては、いずれ報告する。

 黒人人口についていえば、「自由人以外のすべての人数の五分の三」という間接的な表現で、残りの五分の二が切り捨てられていたわけである。この五分の三という数え方自体が憲法制定会議での南部奴隷諸州と北部自由諸州との間の妥協の産物であった。

●自由州からの拉致の権利を認める

 さらに、憲法第四条第二節第三項を紹介しておきたい。黒人に対する差別がさらにはっきり意識された内容となっていたからである。
 「何人も、一州においてその法律の下に服役または労働に従う義務ある者は、他州に逃亡した場合でも、その州の法律または規制によって、右の服役または労働から解除されるものではなく、右の服役または労働に対し権利を有する当事者の請求に従って引き渡されなくてはならない」。
 つまり、ここでも間接的な表現ながら、憲法制定会議当時、既に社会問題化していた南部奴隷州から北部自由州への逃亡奴隷対策がはっきり意識されている。事実、アメリカ合衆国憲法のシステムが修正十カ条を含めて完成した直後の1793年には、逃亡奴隷の所有者が他の州から勝手に彼らを連れ帰る、いわゆる拉致の権利を認める法律が連邦議会で成立している。

 黒人奴隷に対しては、言論の自由の保障や人身保護令など修正十カ条に盛られた権利章典部分、つまり基本的人権の保障が適用されないことを、はっきり打ち出した法律であった。49年後の1842年、南部諸州出身の判事が多い連邦最高裁判所はこの1793年法に合憲の判決を下している。

 今考えれば、「アメリカという国」は、その民主主義の出発点から黒人奴隷制という、根源的には負の部分を抱えていたということである。この1842年の最高裁合憲判決をめぐるいきさつを細かく見ていくと、このことが良くわかる。

 ことのきっかけは、奴隷制廃止論者が主導権を握り、各地に逃亡奴隷保護のための監視委員会を設置するなど、自由州の代表格となっていたペンシルバニア州議会が、1826年に制定した逃亡奴隷拉致禁止法である。そして、ペンシルベニア州当局は、1837年、同法に基づき、逃亡女性奴隷とその子供を拉致し、メリーランド州の所有者の元に連れ戻したエドワード・プリグと名乗る男を拉致の罪で起訴し、有罪とした。

 プリグの弁護士が、これを連邦最高裁判所に控訴、同最高裁判所は1842年、「プリグ対ペンシルベニア州」と銘打った判決で、まず1826年のペンシルベニア州拉致禁止法自体をアメリカ合衆国憲法違反であると決め付けた。そして、逃亡奴隷拉致の権利を認める1793年連邦法を合憲だとしたうえで、これを妨げるすべての自由州の立法の無効を宣言した。
 しかし、同時に、逃亡奴隷の連れ戻し業務は連邦政府のみの責任であるとして、奴隷州、自由州の如何を問わず州当局のいかなる関与もこれを認めない、とも裁定した。

●ライト師も強調した「地下鉄道」の活躍

 昔も今も、アメリカ合衆国連邦最高裁判所の判決は、その時代その時代の社会情勢を鋭く意識し、極めて政治的である。この「プリグ対ペンシルベニア州」判決も、南北戦争という一大内戦の危機が迫りつつあった19世紀中葉の状況と巧みに折り合ったものだった。
 つまり、建国以来、常に州権第一を主張して、ワシントンの連邦中央政府の連邦権力の強化にことごとく反発、「弱い」中央政府を求めてきた南部諸州に対し、その奴隷制のアキレス腱である逃亡奴隷問題で恩を売ると同時に、その連れ戻し業務に対する奴隷州当局の介入を拒否することで、連邦政府の権威を確立するという巧みなバランス感覚をみせてくれているからである。

 事実、自由州では、この判決以後、逃亡奴隷に対し、人権や法廷での証言、陪審員による裁判などを保証すると同時に、その連れ戻し拉致に州の施設が使用されることを禁じる自由保護法が数多く制定される。そして、自由州各地の保護監視委員会は協力し合って、南部諸州から乗り込んでくるのみならず、自由州出身者でもビジネスとして手掛ける者が出た逃亡奴隷拉致との戦いを組織する。この結果、「地下鉄道」と名付けられた秘密ルートで、毎年数百人という規模の逃亡奴隷が、ボストンを中心とする自由州北部、さらにカナダへと送り込まれる。連邦執行官の目を盗んでの地下支援活動であった。

 皮肉なことに、オバマ候補が絶縁宣言を出さざるをえなくなった、ライト牧師はこの「地下鉄道」の存在をあげて、白人側にも黒人差別撤廃を支持する人がいたことを、わざわざ強調している。 ライト発言の持つこうした奥の深さを理解しておかねばならない。オバマ候補が抱えているのはこのアメリカの重い過去である (上終わり、下に続く)
松尾文夫 (2008年5月15日記)

第11回 「ブッシュ抜き」、「イラク戦争抜き」で戦われる可能性――2008年アメリカ大統領選挙展望―

 私がアメリカ大統領選挙戦を直接、間接に追いかけるのは、1960年のケネデイ、ニクソンの対決を、まだ日比谷公園内の市政会館の一部、通称日比谷公会堂の真下にあった共同通信本社外信部デスクの新米記者としてカバーして以来、通算13回目となります。夏の党大会や開票速報を、テレビ中継など存在しなかった当時、アメリカからの唯一のリアルタイムの情報集手段であったVOAラジオの傍受に、緊張した時間をすごした日々を昨日のことのように思い出します。


 ○ ブッシュ大統領の一言

 すでにマスコミが伝えるように、共和、民主両党とも、大統領候補指名争いは熾烈です。しかし、この報告に皆様が目を通されているころには、1月3日のアイオワ州の党員集会を皮切りに、ニューハンプシャー州(1/8)、ミシガン州(1/15)、サウスキャロライナ州(共和党は1/19、民主党は1/26 )、フロリダ州(1/29) と続く予備選挙、そして2月5日のカリフォルニア、ニューヨークなど大州のほんとが参加する予備選挙の結果が次々と入り始め、両党とも遅くとも2月中旬には、事実上の大統領候補が決まる見通しです。

 従って、具体的な候補者名を予測すること自体意味がありません。ここでは緒戦のアイオワ州党員集会やニューハンプシャー州予備選挙では、1位だけでなく2位につけられるかどうかが重要な要素であることを報告しておくことにとどめます。アイオワ州党員集会では、2位につけながら、最後には指名を獲得した1972年の民主党マックガバン、1976年の民主党カーター、ニューハンプシャー州予備選挙では、1988年ブッシュ・シニアといった歴史的な前例があります。

 そこで、本稿では、私が昨年11月、アメリカの空気に三週間以上も浸る中で肌で感じたことを踏まえて、今年の大統領選挙戦の『土俵』について報告しておきたいと思います。

 最初に、意外に伝わっていないブッシュ大統領の一言を紹介しておきます。
 ブッシュ大統領は昨年12月14日の記者会見で、イランの核開発について「2003年からから計画を中断していると見られる」との米政府内16の情報機関がまとめた「国家情報評価(NIE)について、記者団からの激しい追及を受けた後、指名争いの展望をとの質問に対して、こう答えました

 「激しい戦いになっている。共和、民主両党ともこの激しさは同じだ。今の段階で両党に有力指名候補者が浮上していないのは、過去の歴史に遡っても初めてではないのか。その行方を見守るのは興味深い」と答えていました。そして「私は選挙運動が大好きだ。今度はそれが出来なくて残念だ」などと2004年の選挙運動の思い出を長々と語った。この発言は重要だと思います。

 ブッシュ大統領が他人事のように選挙戦を見つめていることが明らかにされたからです。私はこの選挙戦に「距離」を置く大統領の姿勢に注目する次第です。

 私は1968年大統領選挙で、当時のジョンソン大統領が再選確実といわれながら、自らが拡大したベトナム戦争に反対する世論に屈して三月末の段階で、指名辞退に追い込まれながらも「歴史が自分の業績をどう評価するか」にこだわり、ベトナムとの和平交渉で民主党大統領候補に選ばれたハンフリー副大統領の足を引っ張り続けた姿をワシントンで見ています。

 結局、この1968年大統領選挙は、こうした民主党側の自滅現象によって共和党ニクソンのホワイトハウス入りが実現し、以後アメリカの政治全体が保守化する時代、あるいは共和党が主導権を握る時代が到来するきっかけとなります。1968年以降、現在に至る40年間で、ホワイトハウスの主であった年数を数えると、共和党がニクソンーフォード政権で二期、レーガン政権で二期、ブッシュ・シニアー政権で一期、ブッシュ・ジュニアー政権で二期と合計28年間、民主党はカータ一期、クリントン政権で二期と合計12年間−−とはっきり差がつく数字が出てきます。

 私が遭遇した1968年大統領選挙戦での「ジョンソンのこだわり」の代償の大きさを示していると思います。 従って、私としては、ブッシュの大統領の傍観者的なこだわりの欠如に驚くとともに、逆にこの「ブッシュのこだわり」なしで行われる大統領選挙戦の「土俵」に注目しておく次第です。


 ○「神」にゆだねる大統領

 もちろん、今年のイラク情勢で最大の焦点となるアメリカ軍撤退の「出口」を巡る議論などで、ブッシュ大統領が共和党指名の候補と対立し、ジョンソンと同じような共和党自滅の状況を生み出す可能性も、否定できません。

 しかし、今の時点でのこうしたブッシュの「距離を置く」姿勢から、少なくとも八月の共和党全国党大会で指名される大統領候補者が、イラク「出口」戦略などでブッシュ大統領と対立し、批判する自由を手にすることは確実と思われるからです。 ジョンソン大統領がハンフリー候補者に対し、自らの現職副大統領であったこともあって、その選挙戦のすべてに自らの政策との整合性を求めて、がんじがらめにした1968年とは、100パーセント違う状況です。

 それに、引退を表明していて、イラク戦争泥沼化の責任を一身に背負う “悪役”を演じうるチェイニー副大統領の存在とあわせて、共和党候補者は政治的に重要なフリーハンドを確保することが可能になります。このアイロニーに満ち満ちたアングルが、今後の選挙戦をウオッチする上で、重要になると思っていす。共和党にとっての数少ない勝機がここにあると思います。ブッシュ外交を「傲慢で、批判に耳を貸さない」と決めつめたハッカビー候補が、アイオワ州を制したのは、その恩恵に浴したものといえる。

 この点で、ブッシュ大統領の心境について、ワシントンの長年の政治記者が面白いことを言っていました。

 『大統領は毎朝、牧師の説教の一節を朗読するなど、大変信仰心に厚く、政権末期を迎えた今も自らの業績についての評価は、最後は神にその判断を任せるといった、達観した心境に達しているのではないか。その意味で大変珍しい大統領であると思う』

 朝5時半に起き、夜9時半には寝るという、早寝早起き大統領としての日常を毎日平然とこなし、かってのジョンソン大統領にあったような疲れや苛立ちは一切感じられないということでした。支持率の低下もまったく気にせず、ワシントンではもはや大統領の支持率はニュースにもならないと言われているようです。


 ○ 消えたイラク即時撤退論

 そこで、今、長期的にはともかく短期的には、ブッシュ大統領が昨年年頭踏み切ったアメリカ軍増強路線が成功し、民主党にとって最大の攻め口であったイラク戦争の泥沼が小康状態を迎えている事実にも注目しておく必要があると思います。

 事実、昨秋から少なくともイラク現地での米兵戦死者はゼロの日が続くようになり、ニューヨークタイムズ紙始め、これまでイラク戦争に批判的だったマスコミもバグダット市内での結婚式風景の写真を一面トップで掲載するなど、治安回復を認めるようになりました。
 民間の「イラク多国籍軍犠牲者集計」によると昨年10月から3ヶ月間のアメリカ兵の死者総数は98人、三ヶ月単位で見て戦争開始後最低を記録しています。2006年の最悪記録331人(4月―6月)と比べれば、改善のほどは明らかです。つまり、ここにきてイラク戦争は、選挙戦の争点として一段下に下がる様相を呈しているということです

 もちろんここでも、こうした治安回復が、イラク国内の持続的な民族和解、中央政府の指導力強化につながるのかどうか、については疑問符をつけておかねばなりません。昨春に増強したアメリカ軍の力で、旧スンニ派をアルカイダグループから分断して、取り込み、合わせてイランのシーア派のてこ入れを抑止することにも成功し、シリアからの過激派流入も減って、治安を回復させたと、とのブッシュ政権の説明するイラク現地の情勢が果たしてその通りなのかどうか。イラク現地の情勢の不透明性は、依然として続いています。

 しかし、ここにも直視しなければならない現実があります。民主党側の変化です。昨年春以来の議会を抑えた民主党側が再三の支出カットをかませて、ブッシュホワイトハウスに対してアメリカ軍撤退スケジュールの具体的な設定を迫る作戦も。すべて大統領の拒否権で葬り去られて、行き詰っていることです。民主党側にも共和党反戦派の協力を得て3分の2の多数で拒否権を覆す力がないからです、最近では、議会での撤退論は影を潜めているのが現状です。

 それのみならず、逆に民主党側では、イラク現地での治安改善を受けて、リード上院院内総務、レビン上院軍事委員長ら中道穏健派を中心に、共和党のマコンネル上院院内総務、ワーナー上院議員らとの間で、ブッシュ政権側の意向とも折り合うことを求めて、超党派的なイラク「出口」戦略の構築に向けての動きが始まっています。

 ウオール・ストリート・ジャーナル紙が2007年9月7日付の紙面で報じたていたところによると、この戦略は共和党側では「成功の明かし」、民主党側では「戦争終結の第一歩」とそれぞれの実績としてうたえることが可能な内容となるものだということで、以下のような段取りが紹介されています。

 (1)現在、約16万人を数える駐イラクアメリカ軍のうち、 今年四月から、昨年はじめに増強された3万人を一ヶ月一旅団のペースで撤退を開始する。
 (2)これと平行して、兵力削減も続け、今年秋までには 115,000人のレベルまで下げる。
 (3)2009年1月20日、新大統領が就任するときには、アメリカ軍兵力は100,000人を割り込む。こうした削減にあわせてアメリカ軍の役割も海兵隊を中心とする戦闘参加から、イラク軍の訓練、軍事顧問役に移行していく。

 その先については、クリントン政権時代の高官も加わっている「新しいアメリカの安全保障センター ( Center for New American Security ) 」などは、2009年末までにアメリカ軍は6万人程度まで減らし、以後2011年までは20,000人を駐留させることを提案している、と同紙は伝えていました。 要するに、民主党内でも、即時撤退を求めるケネデイ上院議員ら反戦急進派の勢力は少数派で、イラクでのアメリカの権益維持のためには、アメリカ軍の長期的な駐留が欠かせないとの考え方が主流を占めているということです。

 民主党系の長年の友人は11月の時点で、民主党内では、こうした超党派的なイラク解決案を模索する動きが高まっていると述べ、ウォール・ストリート・ジャーナル紙の記事について、肯定的でした。 そして、彼はイラン、シリアも加えた国際的な枠組みで最終的なイラク和平を達成するとの、ちょうど一年前にベーカー・ハミルトン共同委員長のイラク研究グループ(ISG) がまとめた超党派の報告書に盛られた諸提案は、べーカ―氏のブッシュファミリー全体の指南役としての立場からいっても、今も生きていると見たほうがよい、と解説してくれました。

 ISG報告書を無視する形で実施されたイラクへのアメリカ軍“増強”も、イラク現地対策のみならず、政治的にも政権内タカ派を抑えこむ一つのステップとして、ベーカー氏らも了解していたと、見ることができるというわけです。この背後にはやはり「9・11」のショックが後を引いていること、すなわち、ブッシュ大統領がイラク戦争開始の大前提とした「テロとの戦い」については、各種世論調査でも国民の大勢が支持していることが明らかになっている現実があります。NBC-WSJの最新の調査でも、イラクで民主主義が根ずくまでアメリカ軍がとどまるべきだが24%、即時撤退が26%、と二分されるのに対して、37%が一定の規模のアメリカ軍の駐留やむなしと答えている数字が出ています。

 ちなみに今年1月2日のウォール・ストリート・ジャーナル紙によると、オバマ候補も、「我々の外交官を守り、アルカイダ拠点に対する攻撃を遂行するために」との理由で、一定のアメリカ軍のイラク駐留を承認する立場だという。 共和党側でも、一貫してブッシュ戦争を支持してきたマケイン上院議員がここに来て勢いを盛り返し、ニューハンプシャー州予備選挙で勝利の可能性がでてきたとみられている事ともあわせて、今後の注目点である。


 ○「保守票」取り合いのアイロニー

 事実、旅の途中、指名を争う民主党各候補の発言を聞いていても、イラク問題での攻めの姿勢は見えませんでした。 逆にヒラリー候補に典型的に現れているように、指名獲得後の本番選挙戦での保守票の確保を意識した発言が目立っていました。民主党は知らず知らずのうちに、八年間のブッシュ政権を支えてきた「保守票」の土俵に入り込んでいるという印象でした。

 たとえば、一時は独走態勢に入ったとまでいわれたヒラリー・クリントン候補が11月に入って失速し、初戦のアイオワ州でオバマ候補に敗れてしまった理由も、この保守票の「土俵」を意識したあまりのつまずきだった、といえます。私は11月の旅で、この彼女の苦難を目撃しています。

 2006年の中間選挙のころから、南西部の共和党保守派は、今では1200万人にまで膨れ上がっている、いわゆる非合法移民の問題に対して、強制的国外退去やメキシコ国境に流入防止の壁を作るなどの強硬策を主張して、政治的な争点とすることに成功してきました。今年の選挙戦でも、内政面での争点のひとつとしてクローズアップされ、各候補とも「非合法移民に運転免許証を与えるべきか否か」といった具体的な政策についての賛否を問われるようなりました。

 クリントン議員は、伝統的に移民問題ではリベラルな態度、つまり一定の基準で選別した後は、段階を経て非合法移民にもアメリカ市民権獲得のチャンスを与えるべきだとの民主党の主張との整合性とヒスパニック票対策を意識してか、この免許証問題では、最初あいまいな態度に終始しました。

 そこを「変化」をスローガンとする49歳の黒人候補オバマ上院議員に突かれ、「あいまいな発言を繰り返している。イラク戦争への立場をはじめ、すべて正直に語っていない。結局ワシントンのエスタブリッシュメントそのものだ」と、激しく非難され、11月に入っての民主党候補全員による討論会で、とうとう「運転免許証を与えることに反対する」と明言しました。保守票を意識しての転換でした。しかし、時すでに遅く、オバマ候補に勢いを与えることになりました。

 確かにヒラリー候補は、一貫してイラク戦争を支持し、現地の米軍慰問も頻繁に行うなど、「タカ派ヒラリー」として、保守票すりよりの実績を積み重ねてきただけに、イラク戦争支持の議会決議に加わっておらず、一貫して戦争反対の立場をとってきたオバマ氏に痛いところを突かれたわけです。

 こうした保守票のめぐる駆け引きの落とし穴は、共和党側でもみられます。有力視されていたジュリアーニ前ニューヨーク市長や ロムニー・マサチューセッツ前知事といった東部の中道派、あるいはリベラル色の強い実績を持つ候補者たちは、クリントン候補と同じく、堕胎や同性愛者の権利反対、 銃規制反対といった保守派の主張に歩み寄るのに苦労してきて、ジュリアーニ候補などは11月、宗教右派の超大物、パット・ロバートソンの支持を得るなどの努力を積み重ねてきました。

 昨年12月に入って、説教牧師出身でいわゆる宗教右派の本流としての実績を持つハッツカビー前アーカンソー知事が台頭し、あっという間にアイオワ州を制したのは、ジュリアーニら保守派すりより候補に飽き足らない宗教右派の巻き返しと位置づけられます。


 ○ 民主党、チャンス生かせるか

 もちろん、民主党にとって政権奪回のチャンスであることは事実です。8年間続いたブッシュ共和党政権がイラク戦争の泥沼に引きずり込まれてしまい、大統領の支持率も20%台から30%台前半という歴史的にも最低の水準で推移しています。2006年の中間選挙では、民主党が上下両院の多数を占めたことから、アメリカ国民はホワイトハウスの主を変えて、局面の転換を選択するのではないかと、予測することは可能です。ブッシュ政権を支えてきたアメリカ経済の堅調も、昨年春からのサブプライム・ローンという市場資本主義の万能神話そのものを脅かす落とし穴にはまり込み、バレル100ドル台に跳ね上がった原油高もあって、本格的な景気下降が懸念されています。 

 「変化」をスローガンにしたオバマ上院議員が、昨年秋からクリントン候補を追い上げ、アイオワ州では抜き去ってしまった事実は、こうした追い風を物語るものです。今年の上下両院選挙では、上院での共和党再選議席数が民主党より多く、また引退議員も続出していることから、民主党の上下両院支配は続くとの予測がもっぱらです。各種世論調査でも、民主党政権の誕生を望む声が多数を占めています。

 しかし、本来ならニューデイールの伝統をくむ民主党には、リベラル政策で勝負する気配はどこにも見られません。 サブプライム・ローン問題に対して、大恐慌時の1933年につくられた「住宅所有者ローン公社」に似た「家族差し押さえ救済公社」を設立すべきだとの構想などは、むしろAEI など共和党よりのシンクタンクから出ているのが実態です。つまりニューデイール型の「大きな政府」の政策構想は、民主党側にとって“禁句”というわけです。

 ある友人は「民主党リベラル派はどこかにいってしまった。」とはき捨てるようにいっていました。要するに、「9・11」以後のアメリカの保守化、内向きの世論はまだ続いているというのが、私の受け止め方です。保守派にすり寄るクリントン候補をアイオワで破ったオバマ候補が、この“禁句”にどう挑戦するかが、これからの見所です。

 保守化、内向きのアメリカの極めつけは 、11月20日アメリカ最高裁が「修正第二条はアメリカ市民に銃を持つ権利を認めているのかどうかについて、その権利を規制するのは憲法違反だとの首都ワシントンでの下級審の判決について審議し、7月までに立場を明らかにする」との発表を行ったことでした。

 アメリカ合衆国憲法修正第二条は、「必要悪」としてのみ連邦中央政府の存在を認め、その専制化を防ぐために、人民に武装する権利を認めるとのアメリカ建国システムのひとつです。1791年の制定以来今も続いており、20世紀にはいってからは、その解釈をめぐって意見が分かれ、最高裁判所も1939年の「玉虫色」のミラー判決以来、裁定を保留してきたものです。保守派はアメリカ民主主義の原点とあがめており、その影響のもとにあるブッシュ政権下では、銃規制は現在事実上の野放し状態で、後を絶たない銃乱射事件の元凶ともなっています

 ブッシュ政権になって、ロバーツ最高裁判所長官以下、二人の保守派判事が加わったアメリカ最高裁が、いよいよ69年ぶりに、保守派、具体的には修正第二条をアメリカ民主主義の神聖な権利だと主張するNRA(全米ライフル協会)らの主張にそった判決を下す可能性が出てきたわけです。

 7月といえば、民主、共和党両党の全国党大会を前に、選挙戦が本格化している最中で、ここでも保守派の主張に対して、民主党の候補者は「踏み絵」を強いられることを意味します。 ジュリアーニ候補は、この最高裁の発表後、すぐNRA支持の立場を明らかにしています。ヒラリー候補の非合法移民の運転免許証に対するあいまいな態度のつけと同じような代償を候補者に強いる可能性が出てきたということです。

 その意味で、今年の選挙戦は、最後には、修正第二条の解釈をめぐる議論と、移民の国アメリカが非合法移民をどのように扱うか、という「アメリカという国」の根源を問われることになりそうな雲行きです。「銃を持つ民主主義」英訳本を携えての旅で、私が肌で接したのは、この「先祖がえり」の課題に苦悩するアメリカの素顔でした。

 松尾文夫 (2008年1月4日記)

続・番外編「銃を持つ民主主義」英訳本を抱えてアメリカの旅

●11月7日にお知らせした「銃を持つ民主主義」英訳版を抱えてのアメリカの旅を続けています。74歳の一人旅はいささか大変ですが、「大旅行」の緊張のせいか、ワシントン・ケンブリッジ(ハーバード大学)・ニューヨークと順調に日程をこなしています。

●初めての行事となった7日のワシントン日本大使館広報センター(JICC)での講演がうまくいったことがこの旅にはずみをつけてくれました。80年代からの友人であるホワイトハウス詰めの現役長老記者の1人、CBSテレビのBill Plante記者がモデレーターとして参加してくれたおかげもあって、約80人もの参加者からいろいろと質問がでて、活発に議論を展開することができました。

●一番感慨深かったのは、このワシントンの会場に「銃暴力阻止のための連合」、「銃暴力阻止のための100万人の母親達の行進」の代表らが、どこでこの講演のことを知ったのか、参加してくれていて、私が拙著「銃を持つ民主主義」の原点の一つとして細述した、アメリカ憲法修正第2条のテーマの解釈についての質問が飛び出したことでした。私の本のテーマがきちんと捉えられているのに驚くと共に、拙著英訳の意義を確認できたのは嬉しいことでした。

●ケンブリッジの4日間は、サイン会などの予定は無く、ここ数年来常宿としているB&B(Irving House)に滞在して英気を養いました。ハーバード大学のキャンパスの一部といってもいい近さにあるこのIrving Houseは私がアメリカの宿で一番気にいっている場所で、ニューイングランド伝統の民家がそのまま日本の民宿風に運営されている質素な宿です。朝食にでる地元製のジャムの味も、いかにもアメリカ建国期をしのばせるような素朴なものです。ケンブリッジでは、こうして、ゆっくりアジア研究の大家達と懇談できました。

●ボストンから汽車で紅葉末期のニューイングランド海岸線を楽しみながらニューヨークに入りました。そして12日には、ニューヨークの42番街近くのブライアントパークに面したビルに新装開店したばかりの紀伊国屋書店で、私としては初めての経験となる「サイン会」なるものも行いました。二階売り場の喫茶コーナー横のスペースで開かれた、極めてカジュアルな会合で、積み上げられた拙著の英語版と日本語版の前で、在住日本人の友人も混じった、約30人の聴衆に執筆と英訳の目的を説明、熱心に聞いてもらいました。「日本の米軍基地は必要なのか」等、鋭い質問もいくつか飛び出しました。紀伊国屋書店側は予想以上の本が売れたと喜んでくれましたが、具体的な数字はわかりません。ただ、一緒に並べてあった10冊の日本語版は全て無くなっていました。

●この日の朝刊でU.S.Aトゥデイが、アメリカ憲法修正第2条の解釈についてアメリカ最高裁が、最近のNRAら銃規制反対の主張に近い下級審の判決に対して、久しぶりに新しい解釈を下す可能性がでてきたと、報じていました。これは、私が拙著の中で1939年の「玉虫色」ミラー判決以来、最高裁が明確な態度表明を避けていると分析していた事態に、現在の保守化しつつあるアメリカ最高裁が、新しい局面を開く可能性、つまり、市民の銃を持つ権利をはっきり認めることさえも考えられることになったことを意味しています。私としては、拙著のテーマがそのままこれからのアメリカ世論での激しい賛否両論の議論の対象になるという意味で、幸運なことだと思っています。

●14日夜には、拙著第7章で細述している、1965年2月のマルコムX暗殺直後に知り合った黒人の友人、元マルコムXの部下のLez Edmond博士の招きで、ニューヨーク市郊外のSt. John大学(カトリック系で日本の上智大学の姉妹校)を訪れ、マイノリティーの学生たちを中心とする講座で学生たちとの懇談を行いました。ここでも、日本人留学生1人を含め、多くのアジア系、中南米系、そして地元アメリカの黒人学生らが約70人以上も参加してくれ、熱心に私の話しを聞いてくれました。用意していた44冊の本は全部なくなり、サインを求められる列ができました。私としては、これまた、Edmond氏との43年間の友人関係を噛み締める機会となり感慨深いことでした。

(写真をクリックしていただけると大きく表示されます)

●この会場の模様の写真と、ワシントンのJICCでの写真をブログに添付しましたので、見ていただければ幸いです。本日15日夜にはニュージャージー州側の、ニューアーク空港からアメリカ大陸を縦断して、サンフランシスコに飛びます。そして週末には16日のスタンフォード大学内ブックセンターでの最後の「サイン会」に出席し、出版元のStonebridge社の社員との懇親会等を経て、24日、いよいよ帰国することになります。

●帰国後、なるべく速やかに、お約束した最新のアメリカ分析をこのブログで発表させていただくつもりです。しかし、いまここで報告しておきたいのは、私が出発した後、日本国内で大問題となっている大連立構想をめぐるゴタゴタなど、日本についての報道がアメリカのメディアではなんと、殆ど報道されていない、という事実です。この日本関係ニュースの欠如は、何もこの旅で始まった現象ではありません。しかし、日本に関心を持つアメリカの識者が、日本の現在の姿について、かつてカーター大統領が再選を逸する直前、イラン人質問題の行き詰まり等でアメリカ国内情勢を嘆き、その一言で国民の信頼を失った言葉、「混迷‐malaise」という表現で語るのを耳にして、心が痛みました。
16日福田首相初訪米を待ち受けるアメリカと、今後の日本との関係は生易しいものではありません。

ニューアーク空港にて。11月15日 
松尾文夫

番外編「銃を持つ民主主義」英訳本を抱えてアメリカの旅

●11月2日に成田を発ち、またアメリカの旅に出かけてきています。
 正味3週間、ワシントンを振り出しに、ボストン、ケンブリッジ(ハーバード大学)、ニューヨーク、サンフランシスコ、スタンフォード大学、バークレーと、アメリカ大陸を東から西へと回る『大旅行』です。確かに、この3週間という期間は、2002年5月に私がジャーナリストに復帰して以来続けているアメリカ取材旅行(通算15回)の中でも一番長いものです。

●しかし、『大旅行』と名づける理由は、期間の長さだけでなく、旅の目的の重さです。殆どの日程が、十月末にバークレーのStone Bridge 社から出版された拙著『銃を持つ民主主義』の英訳本のプロモーション関連行事だからです。私は、企画された講演やサイン会に拙著を紹介する主役として参加せねばなりません。つまり私が、あの太平洋戦争でB29の爆撃を受けることで出会ったアメリカという国を「銃を持つ民主主義」と名づけてその建国期にまで遡って分析したアメリカ論を、直接アメリカ市民にぶつける旅となったからです。
(注 なお、『銃を持つ民主主義』(小学館)の英訳版”Democracy with a Gun- America and Policy of Force”は、日本国内でもすでに紀伊国屋書店新宿本店と南口店、大手町センタービル店、大阪店及び札幌店の店頭に並んでいることをご報告しておきます。)

●振り出しは7日のワシントンです。日本大使館広報文化センターが続けている『著者にきくシリーズ』というイベントに招かれたからです。
私が60年代と80年代初め、二度に渡って足掛け8年勤務し、私にとっては第二の故郷といってもいい、アメリカの首都ワシントンで、アメリカの政治の成り立ちとその特質を正面からを論じる機会を得たことは名誉なことと思っています。

●この私の講演には、米CBSテレビのホワイトハウス詰め長老外交記者として有名なBill Plante氏がモデレーターとして参加してくれ、二人で「アメリカという国」の政治について論じることになります。Bill Plante記者は、私が共同通信ワシントン支局長として、1981年〜4年まで、レーガン政権第一期のホワイトハウスを取材していた頃に出会って以来の友人です。Plante氏は今年70歳、私と同じ年にホワイトハウス取材陣に加わり、ホワイトハウス詰めを続けた後、3年間国務省取材に転じながら、1992年、再びホワイトハウスにもどり現在も外交問題を中心に活躍している、現役中の現役です。安倍首相が辞任する直前のシドニーでのブッシュ・安倍会談も取材しています。

●高名な、元UPI通信(現在はハースト系新聞系チェーンの特派員)のヘレン・トーマス女史についでのホワイトハウス記者団の長老記者といってもいい存在です。彼はコロンビア大学で政治学を専攻しアメリカ政治の歴史にも通じており、添付したワシントンのイベントのフライヤーの写真でもおわかりいただけるようにハンサムなジェントルマンです。しかし、大統領との記者会見では歯に衣をきせない鋭い質問をすることで知られています。レーガン時代のベーカー国務長官中東シャトル外交の報道等で、エミー賞を4回も受賞している超ベテランのテレビ記者です。

●彼の参加によって、『銃を持つ民主主義』という、私が展開するアメリカ論をめぐる論議では、これ以上ないパートナーを得たと期待しています。とにかくワシントンでの日本関係のイベントとしては毛色の変わった一夜になると思っています。

●ちょうど偶然のことながら、民主党との大連立構想をめぐる小沢民主党首の辞任騒ぎで混乱する日本政局を背負っての福田首相初訪米直前というタイミングでもあり、参加者との討論では、当然、現在及び今後の日米関係の話題が飛び出すことも覚悟しております。私はこのブログでも兼ねてから、「日本に無い米朝関係」・「硫黄島での栗林中将」などのテーマで繰り返し報告している、日米すれ違い論を展開する所存です。

●そして次はニューヨークです。11月12日に、80年代初めからロックフェラーセンター横の49丁目店に店を構えていた紀伊国屋書店が今回再開発でかつての目抜き通りの地位を回復した42丁目に近いブライアント公園に面した新しい店舗の記念行事として、私の本のサイン会が企画されています。ここでもスピーチを求められています。ニューヨークは私が結婚したばかりの家内と共に1964年12月18日に初めて共同通信特派員として赴任した土地です。43年後にこうした晴れがましい場を得るとは思いもかけなかったことで、これまた感慨にふけっています。参考までに、同じくイベントのフライヤーを添付します。


●14日には、拙著でも第7章に「Lez Edmond氏との出会い」と中見出しをつけて細述している、これまた長年の黒人の友人、元マルコムXスタッフのLez Edmond氏が企画してくれた行事に参加します。同氏がマルチカルチャーセンターの所長を勤める、ケネディ空港近くのジャマイカ地区にあるSt.Jones大学で、黒人やアジア系など、いわゆるマイノリティを中心とする学生との話し合いが予定されています。Edmond氏はすでにわが拙著を読み終え、「全米のカラード、つまり有色人種にとって必読の本だ」とまで持ち上げてくれています。そして、15日夜には、ニューアーク空港からサンフランシスコに夜間便で飛んで、16日はスタンフォード大学のブックセンターで紀伊国屋書店と同じようなサイン会が予定されています。

●1960年のケネディとニクソンが対決した大統領選挙戦を共同通信外信部の新米記者として担当して以来アメリカを追い続ける私のキャリアの中でも、かつてない重い『大旅行』だということはおわかりいただけると思います。帰国後の11月末に、次回の第11回ブログでその報告をさせていただくことをお約束します。ワシントンとニューヨークの間の3日間は、ハーバード大学図書館で、米中関係をテーマとする次の本の調査を行う予定です。

●そのころには、前回のブログで報告した、日本の頭ごしにすすむ米朝和解の実像もさらに明らかになるものと予測します。実は、現在北京では10月27日から11月13日までの予定で、ブログ開始以来第1回、第2回、第9回では写真つきで日本で唯一の報告として発信している、米シラキュース大学による北朝鮮のエリート工業大学「金策工業総合大学」の教員、学生に対する、IT英語の通算4回目の研修が着々と進行中です。

●これに先立ち、ニューヨークのコリアソサエティ幹部は、北朝鮮側が2月に招くことを熱望しているニューヨークフィルの平壌訪問の実現に協力、平壌を訪れてきたばかりだとのメールを送ってくれました。このニューヨークフィルの話は、前回の第10回でも末尾にウォールストリートジャーナル紙の報道として伝えてありますが、このコリアソサエティ幹部によると、北朝鮮側は連日文化省次官がつきっきりでニューヨークフィル先遣隊の面倒をみている、とのことです。従って次回第11回ブログでは、この、日本の拉致問題に決定的な影響を持つ米朝和解の動きに象徴される、福田初訪米後の日米関係の試練を、来年の大統領選挙戦での民主党政権登場の可能性までも展望した上で分析を加える予定です。

ワシントンにて
松尾文夫 11月7日

第10回 『拉致敗戦』中央公論2007年8月号インタビュー・再録

 この第10回目では、私が中央公論8月号(7月10日発売)にアメリカの北朝鮮問題専門家レオン・シーガル氏とのインタービューをまとめ「拉致敗戦」と題して発表した記事の全文を、いわば「緊急報告」として掲載することにした。

 理由は、このインタビューのなかでシーガル氏が明らかにした赤裸々なアメリカの北朝鮮政策転換の軌跡が大きな反響を呼び、二ヶ月経った今も収まりそうにないからです。
 具体的には、シーガル氏がこのインタビューで、あえて推測というかたちで、昨年10月、安倍首相が北京を訪問。胡錦涛主席との会談で対中和解を果した同じ頃、同じ胡錦涛主席経由で、アメリカの対北朝鮮和解のメッセージが金正日総書記に伝達されたという事実を明らかにした衝撃が今も尾を引いているということです。
 シーガル氏によると、昨年10月10日、つまり安倍ー胡錦濤会談が行われた10月8日の2日後、より正確にいえば、北朝鮮が核実験を行った9日の次の日、キッシンジャー元国務長官が胡金濤主席と会い、ブッシュ大統領からのメッセージとして「北朝鮮が核を捨てたら、アメリカは平和条約に調印する」という北朝鮮との和解路線への転換を北朝鮮の金正日総書記に伝えるよう頼んだ、という。

 一つ補足しておくと、8月末訪日したアメリカのベテランジャーナリストは私との朝食で、北京でのキッシンジャー・胡錦涛会談の1日後の10月11日(ワシントン時間)、ブッシュ大統領自らも、ホワイトハウスを訪問した中国の唐家セン国務委員(元外相)にたいし、同じようなメッセージを伝え、平壌への伝達を依頼したのだと、こともなげに語った。その後、唐家セン国務委員が平壌を訪問した事実は公表されている。
 更にいえば、産経新聞の伊藤正中国総局長は8月10日の紙面で、金正日総書記がブッシュ大統領に「韓国以上に親密な米国のパートナーになる」とのメッセージを送ったと報じた。シーガル発言を裏付けるスクープだった。ワシントン、北京の双方からシーガル発言に対する否定的なコメントは一切出ていない。
  反響は大きかった。7月10日の中央公論8月号発売直後から、ネット上で活発に取り上げられ、多くのコメントがいきかっていた。一番新しいところでは、櫻井よしこ氏が週刊新潮9月13日号のコラム「日本ルネッサンス」で採り上げたほか、9月1日付産経新聞コラムで伊藤中国総局長が、また雑誌「正論」10月号で李英和関西大学教授が、それぞれの立場でシーガル発言を引用、論評している。

 しかし、シーガル発言を引き出して、私は複雑な心境だった。私は、2007年春から始めたこのブログでも、米朝関の水面下での緊密な関係を指摘し続けていたからである。 4月10日にリリースした前回の第9回では、昨年夏、北京で行われた米シラキュース大学教授陣による平壌の金策工業総合大学学生に対するIT英語研修の記念写真まで添えて、『一枚の写真が語る「アメリカと北朝鮮との間にだけあって日本にはない」関係』を報告している。
 それだけに、シーガル氏が、日本にとっては第二のニクソンショックといってもいいアメリカ外交のなりふりかまわない現実主義路線への変身を熱っぽく語るのを聞きながら、やはり、私の「日本にはない米朝関係」への危惧は現実のものとなった、との妙な達成感を抱いた。

 しかし、同時に、日本外交の拉致問題での苦境のみならず、将来の東アジア地域での長期的な外交ヘゲモニーの喪失にもつながりかねない日本外交の暗い行く手を、ギリギリと冷酷なまでに詰めてみせる、シーガル氏とのANAホテルの一室での約2時間のインタービューを終えて、暗い重い気持になったことを昨日のように思いだす。
 6月16日土曜日のすでに蒸し暑い夜だった。シーガル氏と寿司をつまみ、ホテルに送った後、一人赤坂の夜道を歩きながら、いつかこの一幕ををブログで報告しておかねば、と心に決めた。そして、ちょうど36年前の1971年4月、私が同じ中央公論誌上で、ニクソンの対中和解の可能性を指摘した論文を発表した。その3ヵ月後の7月、キシンジャー北京秘密訪問の発表で、それが現実のものとなった時の高揚感と喪失感が入り混じった、ジャーナリストとしての複雑な心の高ぶりを思い出していた。

 今回、中央公論8月号掲載のインタビュー記事全文を、あえてこのブログに再録するのは、あの夜から3ヶ月、まさにシーガル氏の予測通りに進行する米朝間のただならぬ蜜月関係を目のあたりにしているからである。そして、受身に終始する日本外交の姿におののき、少しでも多くの方々に、この現実、つまり軍事、政治、経済、社会、そして最近では、イチロー、松井らの活躍で全国の茶の間の隅々まで入り込んでいるメジャーリーグを初めとするスポーツまで、その存在が日本の生活の一部となりながら、まだまだ「知っているようで知らない」アメリカという国の懐の深さを知ってもらいたい、と思うからである。

 配達されたばかりの2007年9月8日-9日付けのウォール・ストリート・ジャーナル紙週末版によると、9月初めのジュネーブでの米朝作業部会で、北朝鮮側は国際金融面での不正活動に関係した多くの人物を逮捕したことを、アメリカのヒル首席代表に告げ、テロ国家の指定解除を実現して、アメリカとの直接貿易を含む国際経済システムへの参画を強く希望 したという。これに対して、ヒル代表は、その熱意の証拠として米ドルニセ札製造機械の一つでも引渡したらどうだ、と述べたという。米朝は今こうしたしたたかな対話を行っている。

 そのヒル代表は,APEC首脳会議が開かれたシドニーで同紙に、北朝鮮が「核無能力化」への協力の一歩として米中露三国の核専門家を北朝鮮国内での実地検証に招いたことを、その「真剣さ」の証拠として評価し、「無能力化に希望が持てる段階に入った」と語ったという。そして、この記事は北朝鮮文化省が8月、ニューヨーク・フィルの平壌招待を発表したことを伝えてしめくくっている。

シーガル氏の予測は今のところ恐ろしいほど当っている。 10月始めには、平壌で南北朝鮮首脳j会談が7年ぶりに開かれる。

 ここまで書いたところで、安倍首相辞任のニュースが飛び込んで来た。 日本外交にとって、安倍首相がいう「局面打開」のための時間は、あまり残っていない。 前号で写真つきで紹介したシラキュース大学による平壌の金策工業総合大学学生らに対する IT英語研修は、今年も11月に北京で開かれるという。平壌からの参加者は昨年より、多くなるという。
 (2007年9月12日記)
 <以下、再録>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
中央公論二〇〇七年八月号

 拉致敗戦
 ──日本は北朝鮮問題で致命的な孤立に追い込まれる

レオン・V・シーガル/米国社会科学調査評議会北東アジア安全保障プロジェクト部長

聞き手・松尾文夫/外交ジャーナリスト


 北朝鮮のマカオ資金送金問題の解決で二月の合意文書採択以来、宙に浮いていた六者協議が動き出した。その中で六月二十三日の米主席代表、ヒル国務次官補の平壌電撃訪問に象徴されるように、米国と北朝鮮の間の「呼吸の一致」が目立ちはじめ、拉致問題の進展を前面に押し出してきた安倍外交孤立化の懸念が際立ってきた。一九八〇年代から北朝鮮の核開発問題の研究を続け、米政府の政策決定の裏側を知り尽くしている米国の専門家に、米国が日本を非難する可能性すら出てきた今の構図を解説してもらった。


 安倍訪中直後にキッシンジャー=胡錦濤会談

松尾:ヒル代表の行動をみていて、ブッシュ政権の北朝鮮政策の転換を肌で感じるようになってきたが、いつごろからこの変化は始まったのか。

シーガル:去年の夏からだ。一年前の、恐らく八月末から九月初めごろだろう。七月五日にミサイル発射実験があり、核実験を準備している明らかな証拠が出始めていたこのころ、具体的な日時は分からないが、ライス国務長官がブッシュ大統領のところに行った。同じころ、別にヘンリー・キッシンジャー元国務長官も大統領と会ったとみられている。この延長線で十月十日、キッシンジャーが対北朝鮮についてのブッシュ大統領のメッセージを持って、ひそかに北京へ行き、中国の胡錦濤主席に会う動きが生まれている。このメッセージは、同首席を通じて金正日総書記に伝えられたと信じられている。これは、北朝鮮との交渉路線の切り替えが、基本的にイラク戦争の失敗の結果ではなく、対中友好政策と連関していることのしるしだ。

 その会談は偶然にも、北朝鮮の核実験があった十月九日の翌日に行われた。そのためには、もっと前からキッシンジャーは北京にいたはずだ。会談の段取りは、その一週間ほど前に決まっていたのだろう。

松尾:実に興味深い。日本の安倍晋三首相も、核実験の前日(十月八日)に北京入りしていた。同じころキッシンジャーもいたわけだ。それで、ブッシュ・メッセージの内容は?

シーガル:私が得ている情報からの推測だが、第一に、北朝鮮が核を捨てたら、われわれは平和条約に調印する、だがそれに関する協議は早期に始めることができる、との立場を伝えたと思われる。第二は、この平和条約に関する協議の一つの方法として、暫定的な一連の和平合意について交渉し、信頼醸成措置ないしは、北朝鮮側が言うところの、軍事停戦委員会に代わる和平メカニズムに、調印することも可能だ、と伝えたのではないか。

松尾:つまり朝鮮戦争の公式終結である平和条約の一つ手前の和平合意、これは上院の批准を必要としない。政府間合意でやれるという判断か。

シーガル:そのとおり。平和条約が公式の戦争終結で、それは彼らが核を放棄するまで実現しない。ブッシュ大統領も、公式発言で確言している。だが、和平合意は、もっと早く作ることができる。米国がそれに調印することは象徴的な外交的承認を与える手段となる。
 第三は、北朝鮮の安全保障と同時に、六ヵ国協議に参加しているほかの全員の安全保障も協議したい。そうなれば、六ヵ国協議は地域安全保障フォーラムに変わるはずだ。重要なのは、北朝鮮が同等の主権国家としてテーブルに着くことであり、他の五ヵ国と同等の立場に立つことになるのだ、との考え方が伝えられたと思う。


 レジーム・チェンジ政策など最初から存在しなかった

松尾:「レジーム・チェンジ」政策の否定をはっきりと伝えたということか。

シーガル:その選択肢は最初から存在しない。軍事的オプションもないうえ、韓国と中国が制裁に加わらないからだ。彼らが制裁と封鎖で北朝鮮を完全に締め上げる気にならない限り、米国はレジーム・チェンジなどできない。とにかく、重要なのは、こうしたメッセージが、胡錦濤主席を通じて北朝鮮に渡ったということだ。

松尾:そのメッセージが、核実験の後で北朝鮮に渡ったことが、日本にとっては気になる。それは、米国が北朝鮮の核保有を事実上容認するという意思表示ではないのか。

シーガル:いや、絶対に違う。六者協議の枠組みを見れば分かるが、その目的は常に最終的な核の撤廃だ。
 ただ、その過程が段階的なものになることを、われわれは承知している。なぜなら北朝鮮は、米国の姿勢は完全に変化し、自分たちを敵扱いしなくなった、と確信するまで、核を手放さないからだ。そして、それには何年もかかる。即座にできることではない。
 問題は、北朝鮮が核を放棄するかどうか、誰にも分からないことだ。いろんな人物があれこれ言っているが、そうした発言は無意味だ。なぜなら、鍵を握っているのはただ一人、金正日総書記だからだ。彼はまだ心を決めかねているのかもしれない。
 だからこそ、段階的に交渉する必要がある。核計画を放棄させ、核兵器と核物質を再び査察の下に置かせる。この道を進む際、交渉材料を持っておくことが大事だが、いまのわれわれには、あまり手持ちがない。軍事力行使はできない、制裁はできない、大きな見返りを与えることもできない。

松尾:しかし、今度の変身までは、ブッシュも交渉拒否の立場だった。

シーガル:その結果として、北朝鮮は核爆弾一、二個分のプルトニウムを持った。やがてそれは、八個から一〇個分になった。そのうち一個は実験で使われたから、七個から九個に減ったわけだ。そこで、誰でもこう言うようになった。核兵器を廃棄させたいと思うなら、交渉しなければならない、ほかに道はない、と。それがうまくいく時もあるが、交渉しようとしても、うまくいかなかったのがイランだ。


 ブッシュ政権の一貫した対中国協調路線

松尾:つまり、キッシンジャーのアイデアをブッシュ大統領が買った、ということか。

シーガル:そこまでは分からない。だが、たぶんキッシンジャーのアイデアだと思う。なぜなら、核問題に取り組む唯一の道は、より大きな安全保障の枠組みを北朝鮮に与えることだ、というのがキッシンジャーの考え方だからだ。北朝鮮の安全保障問題は、対米関係が主だが、地域的な文脈もある。韓国との「和解」は別にして、彼らは中国に頼ることができないし、信用もしていない。ロシアとの関係も、以前と同じではない。ご承知のように、日本との関係は歴史的な重荷を抱えている。
 だから、北朝鮮の安全保障は、地域的な枠組みの中でしか保証されない。そして一九八八年以来の北朝鮮の政策は、三つの旧敵国、つまり米日韓に働きかけて、彼らの言う「同盟国」に変えることだった。それは一九八九年に始まり、金丸信(自民党衆議院議員)と金日成主席の会談、そして一九九一年の南北基本合意を生んだ。先代ブッシュ大統領への働きかけは、一九九二年一月、ニューヨークでアーノルド・カンター国務次官と金容淳朝鮮労働党書記の高級会談を生んだ。

松尾:そして今回、先代ブッシュ大統領ともつながるキッシンジャーが、再び顔を出したわけだ。

シーガル:ブッシュ政策の変更には、昨年十月十日の、キッシンジャーと胡錦濤の北京での会談、十月三十一日のヒル国務次官補と北朝鮮側の北京での協議を行い、BDA(バンコ・デルタ・アジア)銀行の問題を解決するメカニズムで合意、そして、二〇〇七年一月のベルリンでの二国間協議での取引──といった証拠をあげることが可能だ。今度の突破口となったベルリン会談はライス国務長官が賛成し、ブッシュ大統領のOKをとったのだ。
 しかし、振り返ると、二〇〇五年九月、六ヵ国協議で共同声明が、小泉首相も、韓国も、そして中ソも望んで、米国が完全に孤立したかたちでまとまったとき、当時まだ力を持っていたチェイニー副大統領をはじめとする右派・ネオコン連中は、面白く思わなかった。そこで何が起きたのか。事実上、米国は声明を受諾するが、ただちにそれに背を向けることになった。
 いまでは偶然だったことがはっきりしているが、その六ヵ国協議の最中に後ろ向きの動きが起きた。九月十五日に、米財務省がBDAの制裁に自らの判断で踏み切り、これをネオコンが利用した。そしてヒル次官補は、ワシントンから強制され、北朝鮮に原子炉を提供する手段であるKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)の廃止を告げる声明を読み上げた。

松尾:ネオコンの上に乗ってきたブッシュ大統領はなぜ気を変えたのか。

シーガル:私は常にこう言ってきた。ブッシュ大統領を強硬派だと思い込んではならない、と。彼は、本能的な金正日嫌いだ。だが、北朝鮮に関して政権内で起きていたのは、強硬派が大統領を一つの方向に押しやり続けたことだ。時にはパウエル前国務長官などの話し合い派が、大統領を別の方向に押し、パウエルが望むことを大統領がすることもあったが、そうなるとチェイニー一派が押し返し、元に戻してしまう。北朝鮮に関しては、これがたびたび起きたのだ。つまり大統領には心が二つあって、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする。

松尾:なるほど。

シーガル:大統領はレジーム・チェンジを望んでいると、誰もが思っていた。だが、大統領は早くから、韓国と中国にはその気がなく、日本の小泉首相も望んでいないことを知っていた。大統領の基本線は、「外交的解決を望む」という決まり文句だった。その外交的解決とは、何を意味するのか。強硬派にとってそれは、五ヵ国をまとめ上げて、みんなで北朝鮮に脅しをかけ、核兵器を無理やり放棄させることだった。だが、うまくいかなかった。小泉首相は、制裁を望まなかった。常に制裁に抵抗した。国会が制裁する権限を採択すると、彼は立ちあがって、刀は持つべきだが、それを抜くべきではない、と言った。そして韓国も中国も、制裁を実施する気は全くなかった。つまり、外交的解決という決まり文句には、パウエルも賛成できるし、強硬派も反対できないかたちでついてきた。
 いま重要なのは、ブッシュ大統領にとっての二〇〇七年夏の状況だ。民主党はいま対中貿易を巡って大統領を叩こうとしている。労働組合が面白く思っていないからだ。中国の人権問題でも、大統領にかみつきつつある。イラクの失敗の陰で表に出てない状況だ。

松尾:常に中国との関係を優先させる父ブッシュ以来の対中協調路線を守るためにも、北朝鮮との交渉の加速に切り替えたということか。

シーガル:そのとおりだ。キッシンジャーが、なぜ北朝鮮問題に関して大統領と話をしたいと思ったのか。答えは、彼がニクソン訪中以来深く関わる中国だ。その意味で今度のブッシュ大統領の決定の出発点は、中国との協力路線を維持し、対中政策が危機に陥らないようにするとの選択だ。この決定は、アジアにおける緊張と敵意の増大を回避するためのものだ。その中心にあるのは、五ヵ国が協力して北朝鮮との取り決めを作り出すことだ。
 なぜそれが、ブッシュ大統領にとって重要なのか。もし北朝鮮との取り決めができなければ、道は悪化をたどり、日中間のライバル関係を激化させるような方向に日本を駆り立てるだろう。それは、米国の安全保障上の利益にならない。われわれの狙いは、中国を協力的にさせることにある。
 そして、いまのところ、この政策は機能している。対中外交はブッシュ外交で唯一成功している外交政策と言ってもいい。それに協力することは、中国にとっても利益になる。なぜなら中国は、経済発展のために、平穏な二〇年間を必要としているからだ。中国は軍事力を背景に周辺諸国に圧力をかけるだろうと論じる人が日本にも米国にもいる。しかし、逆に静かに振る舞い続けるほうが得策だと中国は考えるだろうと見ることも十分可能である。


 安倍訪米、ブッシュは強硬路戦に同調しなかった

松尾:それにしても、ライス─ヒルのコンビが自信を持って行動しているようにみえるが。

シーガル:大統領が、そう決定したからだ。この大統領の仕事ぶりは、常にそうだ。いったん大統領が決定を下すと、誰も話を蒸し返さない。あとになって、「ここに少し問題があるから、大統領の介入が必要です」と言われることを大統領は嫌う。だから、あえてそうする者などいない。今回もそうだ。私は交渉を開始したい、と大統領が言えば、それで決まりだ。
 たとえば、安倍首相との会談が典型的な出来事だ。安倍首相は会談後、大統領と北朝鮮の脅威についてあれこれ話した、と語っている。だが、大統領が、「ああ、あなたの言うとおりだ、安倍さん。われわれは強硬になるべきだ」と言ったことは一度もない。発言録をよく読めば分かるが、「北朝鮮に対して強硬になるべきだ」という大統領の言葉は、どこにもない。安倍首相は、大統領に「イエス」と言わせるべく手管を尽くしたが、大統領は決して言わなかった。

松尾:それにしても問題の解決に四ヵ月もかかり、最後は不透明なロシアの銀行経由という銀行制度のルール全体を無視するような特別措置による解決に国内の反発は出ていないのか。

シーガル:米国の政策が根本的に変化したことを理解してもらいたい。これはブッシュ政権だけのことではない。ブッシュ大統領は、いまや交渉を試すことに完全に肩入れしている。極めて意欲的だ。彼は、平壌に行って金正日とキスしようとしているわけではない。そんなことは起きない。だが、彼が交渉路線に乗っていることが、この問題に関する政治全体を変えている。
 いまや民主党は、見ろ、ブッシュはクリントンと同じことをやっている、と言っている。共和党の大半は、とにかくブッシュ政策をやり遂げよう、と言っている。そして、共和党の大統領候補の数人を除き、同党候補者の全員が、話し合い路線を支持、交渉を試すと言っている。それにいま政権内には、ネオコン支持グループはチェイニー副大統領を除いて残っていない。イラク戦争のせいで去らざるを得なくなったためだ。ラムズフェルドのあとのゲーツ国防長官だが、彼は話し合い路線を支持している。

松尾:要するに、この対北朝鮮政策の変更は、ニクソンやキッシンジャー、父ブッシュ、ベーカー、スコークロストらに連なる、伝統的な共和党主流の現実主義への復婦ともいえるわけだ。

シーガル:全くそのとおりだ。これは現実主義だ。北朝鮮と戦争はできない。制裁もできない。交渉が効果を発揮するかもしれない、試す価値はある、と。


 拉致にこだわり続ければ米国が日本を責めることに

松尾:つまりは対台湾・対中国政策と同じ路線だ。ここで、あなたに聞いておきたい。いまや日本では、拉致問題に関して極めて強硬な政策を持つ安倍首相が、苦しい立場にある。日本は六ヵ国協議の場で、どう行動すべきだろ うか。

シーガル:七月に入ればIAEA(国際原子力機関)が北朝鮮に入り、プルトニウム計画は事実上閉じられる。ここまでは確かだ。われわれとしては原子炉と再処理施設の無力化という次の段階に向けて、いわゆるすべての核関係リストの提供問題の交渉に入りたい。次回以降の六ヵ国協議では、このリスト問題をめぐって、われわれが要求を出し、彼らが要求を出し、互いに取引することになる。
 その際に北朝鮮が態度を変えて、わかった、喜んで無力化しよう、リストも準備しよう、その代わりテロ支援国家リストから外してくれ、と言ったら、われわれはどうするのか。もし、リストに載せ続けると言い張れば、面倒なことになるだろう。二月の合意では、もし北朝鮮側が望み、われわれが同意すれば、彼らをテロ支援国家リストから外す手続きを開始することになっている。
 そこで日本への私の助言だが、北朝鮮に対してまず拉致問題を解決すべきだと言い続けることによって、問題の解決を得ることはできないだろう。

松尾:いわゆる圧力を緩和しろ、ということか。

シーガル:日本は、二〇〇二年の日朝平壌宣言の全条項に基づいて北朝鮮と交渉せざるを得なくなるだろう。前回の六ヵ国協議が行き詰まった原因は、日本が拉致問題の解決を言い続け、北朝鮮側も日本に対して、平壌宣言に基づいて動くべきだと言い続けたせいだ。日本が拉致問題が先だと言い続ければ、交渉は全く始まらない。交渉には見返りがつきものだ。われわれはみな、それを理解している。相手には欲しいものがあり、こちらにも欲しいものがある。だったら取引しなければならない。
 かつて小泉政権当時の北朝鮮は、小泉氏に対して、日本の同盟国の態度次第では、二国間問題に対処する用意がある、と言い続けていた。要するに、米国がわれわれと話し合いを始めるように仕向けてくれれば、日本の求める問題を解決しよう、ということだったのだ。ところが、いまやブッシュ大統領が彼らと交渉している。つまり、日本との取引条件も、別のものにならざるを得ない。そして彼らは、既にそれを口にしている。二〇〇二年平壌宣言に基づいて話を進めれば、見返りとして拉致問題もどうにかする、と。

松尾:小泉前首相と安倍首相では、対北姿勢が異なる。

シーガル:それ以上に一つの大きな違いは、いまやブッシュ大統領が動いていることだ。これは根本的な違いだ。小泉前首相は、常に取引する用意があると言っていたが、安倍首相の立場は、維持するのが難しいものだと思う。
 もし、安倍首相がブッシュ大統領を説得していれば、話は違ったかもしれない。だが、大統領は先に進み、首相は取り残された。明らかに、会談で大統領を説得できなかった。ワシントンでは、みなそう言っている。
 それだけではない。ライス国務長官もまた、北朝鮮をテロ支援国家リストから外すことを、事実上、首相に伝えた。ほとんどそれに近いことを口にした。これは首相に対して、北朝鮮との交渉を開始しろ、という警告射撃だった。あなたを困らせたくはないが、もし話が進めば、われわれは取引をするつもりだ。そうなれば、あなたは行き詰まるだろう、というニュアンスを伝えたはずだ。

松尾:この辺の米国との「すれ違い」については私も十分理解し、発言もしているが、ここまで深刻か。

シーガル:とにかく次回の六ヵ国協議で北朝鮮はテロ支援国家リストに集中してくるだろう。なぜか。日本に対して、交渉に応じるよう圧力をかけたいからだ。彼らは日本を困らせたいのではない。日本と交渉をしたいのだ。問題は、日本が交渉をせず、ただ拉致問題を解決しろと言っていることだ。北朝鮮側は非常にしたたかだ。もし日本が拉致問題だけでなく平壌宣言全体に関して交渉を開始しなければ、テロ支援国家リスト問題に集中することによって日本を孤立させようとするだろう。
 では、北朝鮮がテロ支援国リストに載っているのはなぜか。米国法によれば理由はただ一つ、航空機ハイジャック犯の日本赤軍メンバーをかくまっていることだ。

松尾:本当にそれだけなのか。

シーガル:法的には、それだけが理由だ。しかも、ハイジャック犯は、もう六十代で、数人しか残っていない。もし平壌が彼らを追い出せば、テロ支援国家に指定する法的な理由はなくなる。拉致問題に関して、確かに米議会は別個に決議を採択した。だがライス国務長官は、それに拘束されない、と答えている。


 よど号乗っ取り犯を強制送還か

松尾:北朝鮮が赤軍メンバーを帰国させるかもしれない、ということか。

シーガル:一九八八年以来の北朝鮮の立場は、彼らをいつでも帰国させる用意がある、というものだ。そして全員が、帰国を切望していることを表明している。そもそも拉致問題は、米国の法律とは無関係だ。下院と上院の決議をブッシュ政権は当初、後押しした。交渉したくなかったからだ。
 いまや状況は変わった。それが問題だ。ブッシュ政権は、日本を困らせたくない。彼らは、日本が交渉を開始することを望んでいる。北朝鮮がそれを望んでいるのと同じだ。だが、交渉は実現しなかった。このままいけば、実に厄介なことになりかねない。北朝鮮は日本に対して、平壌宣言を履行するよう警告した。それから、何回かのミサイル実験で脅しをかけた。平壌宣言には、ミサイル実験の一時凍結が盛り込まれている。日本が宣言の履行に応じなければ、実験凍結も消滅する、という意味だ。
 思うに、もし日本が動かなければ、八月か九月ごろ、北朝鮮の画策によって日本は六ヵ国協議で孤立し、さらに北朝鮮はミサイル実験を行うかもしれない。七月前には行わないだろう。日本で選挙があるのを知っているからだ。

松尾:ミサイル実験があれば、米国も黙っていないのでは。

シーガル:もし核弾頭を積んでいないのなら、米国にとってさほど気にならない。それより米国にとって、いま最も重要なのは、プルトニウム問題に早く結論を出して、ウラン濃縮問題に取り組むことなのだ。
 そもそもブッシュ政権が枠組み合意に反対した理由は、それがプルトニウムしか扱わなかったことにある。われわれはウラン濃縮の問題に取り組んでいる、ブッシュ政権がクリントン以上の成果を生み出すためには、先に指摘した核関係リストの提出が、致命的に重要になる。それが手に入らないと、これは日本が北朝鮮との交渉に応じないせいだと、米国が日本を責めることになりかねない。
 これは北朝鮮が仕組んだことだ。信じられない手口だ。ヒル代表も頭が痛いと思う。日本と面倒を起こしたくないからだ。だが、そうなりかねないと思う。


(翻訳・山口瑞彦)


----------------

Leon V. Sigal
米国生まれ。エール大学卒業、ハーバード大学で博士号取得。米国務省政治・軍事局勤務、『ニューヨーク・タイムズ』論説委員などを経て現職。著書に1994年の米朝枠組み同意の背景をまとめた“Disarming Strangers:Nuclear Diplomacy with North Korea”など。

第9回 一枚の写真が語る「アメリカと北朝鮮との間にだけあって日本にはない」関係

―― 日米間に“すれ違い”の危機、静かに漂う緊張感  ――

 このブログを読んでいただいている方に、1月末に硫黄島訪問の報告をして以来、約2ヶ月もお休みをしたお詫びをしなければならない。その一番の理由は、私が二月初め2週間のアメリカ取材旅行を終えて帰国した直後から、拙著「銃を持つ民主主義―アメリカという国のなりたちー」の英訳原稿をチェックする作業に忙殺されているためだ。
 拙著は日本在住のアメリカ人翻訳家、デービッド・リース氏の手で全文が英訳され、この夏に、「 Democracy with a Gun ― America and the Policy of Force ―」というタイトルで、カリフォルニア州バークレーの出版社、Stone Bridge Press社から出版される。多くの方々の支援のおかげで、日本人によるアメリカ論を直接アメリカ国民にぶつけるという珍しい機会を得たわけで、感謝している。まだ四月一杯、校正作業は続く。
 しかし、それを中断しても、是非報告しておかねばならないと思う状況が生まれてきた。2月13日に北朝鮮の核兵器放棄に向けた「初期段階の措置」で六カ国協議が合意に達し共同文書が採択された段階で、はっきりしてきたアメリカと北朝鮮との特別な関係についてである。
 より正確にいえば、現在、日本が拉致問題をめぐる対立によって世界の国々の中で唯一敵対的な関係にある北朝鮮とアメリカとの間にだけ存在する関係を、きちんと捉えておかねばならないと思うからである。
 突き詰めていくと、最近の従軍慰安婦問題での安倍首相以下の発言に対するアメリカ国内での反発とも連動して、日本とアメリカの関係は、日米同盟全体の強度を試す重要な局面となってきている。緊張感が静かに漂っている状態だと思う。

〇アメリカ外交の転換点に遭遇

 北朝鮮の核問題をめぐる六カ国協議の行方は、まだ定かではない。本稿執筆中の4月上旬現在、アメリカが凍結を解除したマカオの銀行バンコ・デルタ・アジア( BDA )の北朝鮮資金の中国銀行経由の送金問題が技術的に解決せず、休会状態が続いている。 BDA資金の凍結解除と引き換えに、北朝鮮がミョンビョンの核再処理施設の作業を停止、封印し、五カ国側もその代償として「すべての核計画の完全な申告とすべての既存の核施設の無能力化」を条件にコミットした重油100万トン供給の、いわば手付けとして5万トンを支援する――との「初期段階の措置」のシナリオは、宙に浮いている。
 しかし、はっきりしていることもある。
 一つは、アメリカが「テロ国家との直接対話には応じない」とのブッシュ政権発足以来の立場をあっさり変え、1月16日から3日間、ベルリンで行われた北朝鮮との直接会談で、2月の再開六者協議での共同文書合意の原型となる実質的な取引をまとめ、その内容をメモにしたMOU (覚書)まで作っていたという事実である。
 私はたまたまアメリカ旅行中の1月末、この米朝急接近の動きを肌で感じる経験をした。
 1月27日、ニューヨークで会った東アジア問題専門のベテラン学者はこういった。「どうやら1月のベルリンでのクリストファー・ヒル国務次官補と、金桂寛外務次官との会談で、大きな前進があり、MOUまでできたようだ。しかし、ワシントンでのブッシュ政権内での対北朝鮮強硬派との調整が済んでおらず、球は90%アメリカサイドにある」。 要するに、まだ様子眺めの慎重な態度だった。
 それが4日後の31日、又同じこの友人に会うと、「強硬派の抵抗は排除されたようだ。ジョセフ国務次官辞任の発表がその証拠だ。中国による六者協議再開の発表は、ブッシュ大統領緒がライス国務長官の説得を受け入れて、ヒル次官補の交渉結果を承認したことを意味する。
 2006年の年頭からDBD資金問題を糸口に、北朝鮮側から直接会談での取引を執拗に持ち掛けられ、アメリカ側も六者会議の枠内だとの建前論でこれを受け入れた。ベルリン会談の開催は、2006年末六者会議が中断した段階から決まっていたようだ」と語ってくれた。
 つまり、アメリカは、はっきりと対北朝鮮政策を転換したのである。イラク戦争の泥沼化による2006年の中間選挙での敗北後、ブッシュ政権内でネオコン勢力が力を失い、ライス国務長官の主導権の下で、核実検やミサイル発射は不問にして、とにかく北朝鮮の核開発に歯止めをかけることを優先する現実主義路線が実行に移されたというわけである。ヒル次官補がその立役者であった。
 私が接したのはこのアメリカ外交の転換点だった。

○どこまでいけるか「アメリカ頼み」

 もう一つはっきりしているのは、日本が置かれている立場である。安倍政権は、このアメリカの変身の中でも、あえて「拉致問題が進展しないかぎり、北朝鮮支援は行わない」として、「拉致問題は解決済みだ」とする北朝鮮と真正面から対決する基本政策を打ち出し、北朝鮮以外の五カ国がこの日本の特殊事情に理解を示すことを取り付けた上で、共同文書に同意した。
 問題はこの「理解を示す」内容である。中国、韓国、ロシアの場合は交渉をまとめるうえでのレトリック、実質的にはいわゆる外交辞令の枠を出ていないことを確認しておかねばならない。
 中国の温家宝首相が4月11日からの日本訪問前の記者会見で、拉致問題について「私たちは理解と同情を示し、必要な協力を提供するとも表明してきた」と述べているのが、精一杯といったところである。温家宝首相は「日朝国交正常化協議は解決に資するものと考えている」とも述べて、ハノイでの日朝作業部会の決裂を知ったうえでも、仲介の労をとるそぶりもみせていない。
 少なくともこれまでのところ、アメリカだけは違う。同盟国としてこの日本の立場に協力し、日朝間での拉致問題の進展がない限り、北朝鮮側が強く望むアメリカによる「テロ国家支援指定」の解除、「敵国通商法」の適用終了措置などには応じないとの姿勢を明らかにしている。4月末のワシントンでの安倍―ブッシュ会談でも、原則的には、米側から、このコミットメントが示されるとみられる。
 しかし、いま安倍外交につきつけられているのは、最後は「アメリカ頼み」となるこうした北朝鮮強硬路線が、どこまでうまく機能するのかどうかという課題である。ライス国務長官―ヒル次官補のコンビによって、アメリカの対北朝鮮外交の現実主義路線への切り替えが実行に移される中で、当面はともかく最後には、北朝鮮とアメリカの取引のなかで日本が取り残され、裏切られるような結果になる可能性がないとはいえないのではないか・・・といった不安が付きまとうぎりぎりの状況である。3月19日、事前の予想に反して、ヒル次官補が総額24億ドルにのぼるBDA 資金全額の全額凍結解除という北朝鮮の要求に実質的に応じる発表を行った夜、先に触れたアメリカの友人に電話を入れてみると、「ベルリン会談で合意済みだったようだ」とこともなげだった。
 こうしたアメリカの譲歩にもかかわらず、実際の送金が確認されるまで「初期段階の措置」はとれないと、金桂寛次官が平然と六者会議の場を去るのを見て、「(アメリカは)ここまでコケにされて、よく北朝鮮に付き合っている。あり得ない話だ」と、日本の協議関係者があきれて語った(3月23日朝日新聞朝刊)といわれるように、安倍外交もアメリカの「敵前逃亡」を覚悟しておくことが必要かもしれない。
 確かに、ベルリン会談でアメリカ側が日本の拉致問題解決を北朝鮮との取引のなかで持ち出していた、という情報は何一つない。
 この点を捉えて、今度の米朝急接近を、1971年、日本の頭越しに始まった米中和解、つまりニクソン・ショックの再来だとして、日本外交孤立の可能性を指摘することはたやすい。
 しかし、私は冒頭にも述べたように、いまそれ以上に重要な、ほとんど知られていない北朝鮮とアメリカとの関係について、報告しておくことが大切だと思う。表面的な激しい対立にもかかわらず、そして時系列的に言えば、ブッシュ政権が北朝鮮をイラク、イランともに「悪の枢軸」と決めつけた後でも、両国間には水面下で、日本には無い接触、つまり独自の民間レベルでの友好的な関係を維持して来ているという現実である。

○IT技術英語の研修

 ここで一枚の写真を掲載させてもらう。
 すべてを物語ってくれると思うからである。

 この写真(*写真を直接クリックすると拡大表示される)は、2006年8月1日、北京の漁陽(Yu Yang)飯店玄関前で撮られた。撮影者は1870年にメソディスト教会の手で創立された長い歴史を持つニューヨーク州北部の名門大学、シラキュース大学のスチュアート・ソーソン教授。 今回の掲載では、同教授自らの許可を得た。
 写っているのは、アメリカと北朝鮮の学者、研究者27人。ソーソン教授が中心となって、2003年以来、平壌にある北朝鮮を代表する理工系大学、金策工業綜合大学とシラキュース大学との間で続けられているIT技術の基礎研修プロジェクトに参加した双方の学者、研究者ら全員の記念撮影である。
 金日成バツジをつけた北朝鮮参加者は20人、女性4人が含まれている。残りがシラキュース大学から派遣された講師陣ら。研修はこの日から三週間続けられた。ソーソン教授の報告によると、テーマは「コンピューターと情報技術における基礎的なアメリカ英語の取得とその水準の向上」で、英語の力に応じて北朝鮮参加者を2グループに分けて行われた。
 建前上は、両大学間の「双務的研究協力」と銘打たれている。しかし、実際は、シラキュース大学側が、東アジア地域での相互の信頼関係に基づく学術科学協力の基盤を築くことを目標にかかげ、すでに中国その他での実績を持つ「地域研究者、指導者セミナー」(RSLS)の一部として、資金も人も投入して行っている教育プログラムである。その根っこには、「世界のあらゆる人々との信頼関係の構築」、「閉ざされた社会を開くことへの挑戦」―という19世紀末のシラキュース大学建学当時までさかのぼるアメリカ型使命感がある。

○ミサイル発射後も開催

 注目しておかねばならないのは、このタイミングである。昨年8月といえば、北朝鮮が7月にミサイルの連続発射を強行した直後で、アメリカや日本との緊張状態がピークに達していた時期である。日本では制裁論などが声高に叫ばれていた。その時に、北京では、北朝鮮のエリート学者がアメリカ人教授からIT英語の研修を受けていたわけである。しかもこのセミナーには積み重ねの歴史がある。2006年が初めてではない。2005年も同じ北京の漁陽飯店でほぼ同じ時期に、北朝鮮側から22人が参加して開かれている。
 それだけはない。最初の研修は、2003年4月、つまりブッシュ大統領がその年の年頭教書で北朝鮮、イランとともに「悪の枢軸」のひとつに上げたイラク攻撃に踏み切った同じころ、シラキュース大学キャンパス内で、はるばるピョンヤンからやってきた金策工業総合大学の6人を迎えて行われた。アメリカ国務省から正式にビザを得ていた彼らは、三週間も滞在、ナイヤガラの滝観光やウオール・ストリートのニューヨーク証券取引所見学などの接待も受けた。
 ソーソン教授によると、2004年は「両国間の政治関係の悪化」の影響を受け、中断され、以後、経費節約と金策工業総合大学側の参加者を増やせる利点もあって北京での開催に切り替えたという。2005年11月には、金策工業総合大学のホング・ソ・ホン総長がシラキユース大学を訪問、ナンシー・カンター総長との間で、RSLS参加の文書に調印している。ホン総長は、これまでアメリカを訪問した北朝鮮の学者としては最高位の人物。
 外部からの資金提供者には、週刊誌「タイム」の創業者で、かつては反共の闘士としてならしたヘンリー・ルースの遺産で運営される「ヘンリー・ルース財団」が最初から名を連ねている。最近では、強力な資金力を持つキリスト教高等教育アジア合同委員会も加わった。仲介役としては、朝鮮戦争直後に韓国とアメリカとの友好親善団体として設立され、ニューヨークに本部があるコリア・ソサエティー。
 インターネットがまだ接続していない金策工業総合大学側との連絡はニューヨークの北朝鮮国連代表部が受け持っている。韓国からも政府、民間の双方から資金が提供されており、北京の研修には中国のRSLS経験者も参加している。
 要するに、アメリカ、北朝鮮、韓国の三者一体、さらに中国も陰に陽に加わった立派な民間交流が粛々と進行しているということである。2006年には、1947年創立のコンピューター機械協会(ACM)が主催する国際カレッジプログラムコンテストへの北朝鮮のチームの参加が、これら関係国、団体の協力で実現した。現在、コリア・ソサエテーの幹部は、アメリカのフルブライト留学制度の対象に北朝鮮の学者も加えるべきだとの運動を展開しており、すでに韓国フルブライト委員会は全面的に賛成しているという。
 こうした「アメリカだけにあって日本にはない関係」、あるいは「日本だけになくてアメリカ、韓国、中国にはある関係」は、今際限なく広がっていく形勢である。1994年に故金日成主席との間で、核凍結での「枠組み合意」をまとめ上げた実績を持つ民主党がアメリカ議会で多数派の地位に返り咲いた中で、この動きはますます加速する気配である。
 拉致問題という日朝間のトゲを取り去るためにも、しっかりと目も向いておかねばならない動きである。そしてその底には、日本とアメリカとの間の、朝鮮戦争3年間の敵対関係と、35年間にわたる朝鮮半島植民地化の傷跡との違いに始まる歴史的、構造的な“すれ違い”―という根源的な課題が横たわっている。
 一枚の写真が語るものは重い。

(注) 私は米朝間の民間レベルでの接触については、中央公論2004年3月号に アメリカがにらむ「危機」後の統一朝鮮 ー水面下でつながる米朝関係ー と題して報告して以来、追い続けており、1年前のこのブログ開始時にも二回にわたり、「アメリカにあって日本にない関係」と題して、書いております。いずれもこのブログの『図書館』に収録してあります。今回はその続編といったところです。  松尾文夫
  (2007年4月10日記)

第8回 硫黄島にみた日米すれ違いとケジメの欠落――目の前にあった62年前の戦争――『東京都内』で13,600人の未回収遺体 ――

 映画や本や雑誌で、いまなぜか話題高まる硫黄島に行ってきた。より正確には、昨年12月13日、思いがけず、いま自衛隊機でしか行けない硫黄島の地を踏む幸運に恵まれた。
 私が共同通信勤務中、ニューヨーク、ワシントン、バンコク、ワシントンーと通算10年を越す特派員生活を送ったおかげで、会員となっている財団法人日本外国特派員協会、通称外人記者クラブが防衛庁(当時)の協力を得て企画した15人限定の「硫黄島スタディー・ツアー」のくじに約三倍の希望者の中から当たったからである。外人記者クラブの狙いが、硫黄島戦をアメリカ、日本の両サイドから描いたクリント・イーストウッド監督の二部作、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」の公開にあわせた、「読み物」づくりの旅であることは明らかだった。

○ 緊張して準備

 しかし、私は大いに緊張した。拙著「銃を持つ民主主義―アメリカという国のなりたち―」などで、繰り返し述べているように、私は62年前に終わったあの戦争でアメリカと出会った。昭和8年生まれ。小学6年生(当時は国民学校と呼ばれた)で、日本の敗戦を経験した。8月15日は、墳墓の地である福井県の大野市で迎えた。その一ヶ月前には、福井市で、B29、 127機の「夜間無差別焼夷弾爆撃」を受けた。しかし、欠陥親爆弾のおかげで田んぼの泥水を防空頭巾に浴びただけで、九死に一生を得ていた。市内の尼寺、菩提寺に下宿しながら有終小学校に通い、週末は12キロの山道を歩いて母親たちが逃げ延びていた曹洞宗の名刹、宝慶寺を訪れる毎日だった。旧陸軍の職業軍人の子供だったこともあって、漠然とながら、死を前提とした「本土決戦」の日々を意識し始めていた。
その私にとって、追い詰められた日本の自らの固有の領土内での初めての激しい地上戦闘の舞台となった硫黄島の土を踏むことは、特別なことだった。
 すぐイーストウッド監督の二部作を二本とも見て、硫黄島守備隊司令官だった栗林忠道中将がアメリカ駐在時代に自宅に送り続けた絵手紙をまとめた「玉砕総指揮官」の絵手紙(小学館文庫)など数多い硫黄島関係の著作のいくつかに目を通し、防衛研究所の専門家の話も聞いた。そして、1995年に硫黄島を訪れたことがある友人からの、水を求めながら死んでいった日本兵たちの供養に水を持っていくようにとのアドバイスを受けて、外国原産ではない日本の名水のボトルをさげて、埼玉県入間基地から航空自衛隊の輸送機、C−1に乗り込んだ。

○ 火炎放射器のタンクがごろり

 約二時間半の飛行で、全周24キロ、総面積約22平方キロ、文字どうりの絶海の孤島、硫黄島に着く。ちなみにこの島の番地は東京都小笠原村硫黄島、つまり立派な東京都内なのである。しかし、そこには私の中から62年間消えていたあの戦争が目の前に現れた。痛々しい傷跡がそのまま残っていた。
 昼食の後すぐ連れて行かれた海上自衛隊硫黄島基地隊の資料室に入ると、床の上に赤さびたアメリカ軍使用の火炎放射器用の燃焼剤タンクがごろりと置かれていた。10日ほど前に見つかったばかりのものだという。その隣には、半壊した旧陸軍の92式重機関銃。

 小型バスで島内を案内されると、地上で破壊された日本軍機の胴体を生かした半地下壕陣地跡。旧海軍の巡洋艦の副砲だったという口径15インチの水平砲。アメリカ軍が占領後、日本兵の死臭を消すために、空からまいた種が根付き、今ほぼ全島をおおうねむの木の背の低い潅木林の中に入ると、こうした兵器の残骸はまだまだ出てくるという。
 期待していた日本軍側の抵抗の拠点となった地下、半地下の洞窟陣地壕跡の見学は、安全確保という点で厚生労働省の許可が下りていないということで、制限されており、栗林司令部跡や西戦車連隊司令部跡などには連れて行ってもらえなかった。安全基準をパスしている数少ない壕のひとつということで、今回唯一中に入れてもらえた旧海軍の病院壕には、当時の医療器具の残骸などがそのままさび朽ちている。

 しかし、心が痛んだのは、温度の高さだった。入り口付近で40度、行き止まりの最深部では、60度が記録された。わずかに一ヶ所、はるかに地上に通じ、青空がのぞく縦穴から湿った空気が流れて来ていた。一瞬、この暑さの中で、こうした洞窟陣地にひそみ、雨水をためただけのわずか水を分け合って戦い続けた日本兵士の過酷な状態に触れた思いだった。

○ 過酷な持久戦

 結局、滞在時間わずか五時間足らずという今度の訪問で、一番肌で感じたのは、この硫黄島戦の過酷さ、残酷さだった。一つは、戦闘そのもののすさまじさだった。アメリカ軍は上陸に先立ち、海と空から猛烈な砲爆撃を行った。防衛研究所の資料では、1945年2月19日の上陸に先立ち、三日前から戦艦7隻、重巡4隻、駆逐艦15隻などによる艦砲射撃を開始、以後3月25日までの計算で、打ち込んだ砲弾総数は14,250トンという。おかげで島のシンボルである標高169メートルの摺鉢山の南側は変形したという。前年の12月から組織的に始まった空からの爆撃は、投下爆弾約8,360トン以上(ロケット弾12,148発、ナパーム弾456個も含む)という激しさで、全島が少なくとも表面は瓦礫の山になったような状態にしたうえでの、海兵隊三個師団約7万人の上陸だった。
 これを迎え撃った陸海軍あわせて約2万人の日本軍の栗林司令官は、すでにサイパン島などの陥落で机上の空論となっていた大本営の水際での抵抗で上陸を許すな、との作戦指導を自ら具申して修正し、総延長18キロにわたる地下、半地下の洞窟陣地と二段構えの複郭陣地を構築した。「地下要塞」化による持久戦体制に持ち込もうという作戦だった。場所によっては硫黄が噴出する灼熱の大地の中に、洞窟陣地を掘る作業は、10分で交代しなければならない難業だったという。
 このため、最初は5日間での占領をもくろんでいたアメリカ軍は苦戦する。上陸後約1時間後に突如として始まった日本軍の反撃に虚をつかれて大混乱、この数時間だけで約3,000人が死傷する。従って、死傷者総数では、アメリカ軍28,686人(うち戦死者6,821人)に対し、 日本軍は20,933人(うち戦死者19,900人)とアメリカ側の犠牲の方が多い、ドイツ戦線を含めて第二次世界大戦全体で他に例のないケースとなった。完全制圧まで約一ヶ月半近くかかった。
 私たちが、いきなりその残骸を目にした火炎放射器は、アメリカ側がこの苦戦を乗り切る最後の手段として多用された。この燃焼剤タンクを背負ったアメリカ兵が日本兵のひそむ洞窟陣地に炎を打ち込み、手榴弾を投げ込んで制圧し、最後はブルドーザーで壕全体を埋め尽くす「土木工事」のような作戦だった。

○ 知米派の指揮

 もう一つ残酷だと思う話がある。指揮を執った栗林司令官が、当時の陸軍では数少ない「アメリカを知る」エリート将校だったことだ。騎兵将校としてエリートコースである陸軍大学校を二番で卒業した栗林司令官は、1928年からに2年間、アメリカ駐在の辞令を得て、各国軍事研修の一環として、首都ワシントンを始め、ハーバード大学での聴講生生活やカンザス、テキサスなどの騎兵部隊を訪問、アメリカ陸軍との交流に励んだ。特に栗林司令官は車(シボレー)を買い、自ら運転してアメリカ各地を旅した。この間、東京の留守宅にいる幼い長男宛にこまめに書き送った絵手紙をまとめた「玉砕指揮官の絵手紙」(小学館文庫)によると、「アメリカはどこに行っても広いなあ。これを考えると、日本はほんとに惨めなものだ」、「こんな婆さんの(下宿先のメイドのこと)自動車でも、日本の田舎を走っている乗合自動車より、よっぽどいいや。ほんとに日本もどうかしないといけないなー」といった、アメリカの国力を日本のそれと比較してクールに捉える観察を残している。
 こうしたアメリカ経験が、最後まで、バンザイ攻撃など死に急ぐ形だけの「玉砕」を部下に許さなかったクールな指揮を生んだのだろうか。栗林司令官は、1944年6月の硫黄島赴任直後から妻や子供たちへの手紙ではっきり、生還不可能、つまり自らの死を前提としたこまごまとした指示を家族に書き送り、子供の手紙の誤記まで几帳面に直している。アメリカの国力、その物量のすさまじさを知る指揮官が、敗北を覚悟のうえであみ出した地下壕陣地による持久戦の悲劇に、私は二重の残酷さをみる。死傷者の数だけを数えて、「善戦」などという言葉はとても使えない。
 私は、アメリカの黒船によって近代化の第一歩を踏み出しながら、結局、最後にはあの戦争という最大の“すれ違い“を演じてしまった、明治以降の日本とアメリカとの不幸な関係が凝縮され、今も硫黄ガスが噴き出すこの島に投げだされているように感じた。もう一人、硫黄島ではアメリカを知るエリート将校が戦死している。1932年ロサンゼルス五輪の馬術大障害金メダリスト、西竹一大佐である。
 アメリカ兵が星条旗を打ち立てたので有名になった摺鉢山山頂の慰霊広場では、偶然、毎年恒例の行事だという硫黄島研修に参加している戦闘服姿の防衛大学校学生の一団と出会った。アメリカ軍が上陸した南海岸を眼下にしながら、熱心に教官の話に耳を傾ける女子学生も混じる将来のエリート将校の姿をみながら、彼らの世代での“すれ違い”は許してはならない、と思った。

○ 遺骨回収をどうする?

 そして美しい夕陽を浴びる島影を後にしながら、最後に強く心にひっかかったことがあった。硫黄島で戦死した日本側の死者、19,900人のうち13,600柱はまだ未回収であるという事実である。厚生労働省の報告では、1951年に遺骨回収が始まり、現在も年4回、1回に二週間の日程で実施されている作業は陣地を埋め尽くした「土木工事」との戦いで遅々としてすすまないのだという。
 身近な「東京都内」での、あの戦争へのケジメの欠落に触れた思いで、「どうすればいいのだろう」と深く考え込みながら帰ってきた。このことは慎重に調べたうえで、近く提案をまとめたい。
 最後に、イーストウッド監督の硫黄島二部作、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」に対する感想を述べておきたい。いずれも戦争のむなしさを鋭くついた立派な作品だと思う。しかし、私には、栗林司令官がありえない参謀肩章などをつけていたりする時代考証に難がある第二部より、「摺鉢山の星条旗」の英雄に仕立てられたインディアン兵士の悲劇にまで踏み込み、当時のアメリカ社会の自己矛盾を描いた第一部のほうが作品としての出来はよいように思えた。私が、拙著の第六章「差別」と「排除」(197ページ)で、このインディアン兵士、アエラ・ヘイズ上等兵の悲劇に触れていたからであったかもしれない。とにかく、クリント・イーストウッド監督に脱帽、である。

完(2007年1月21日)

第7回 アメリカは核兵器廃絶提案で核拡散時代に対応を―― シュルツ、ぺリー、キッシンジャー、ナン4氏が米紙に寄稿― これまでの国連での反対路線とは食い違い

 本来なら今回は、すでに予告したように、昨年12月13日の硫黄島現地訪問の報告を写真付きで行うはずだった。
 しかし、新年を迎え、愛読しているウォール・ストリート・ジャーナル紙ニューヨーク版の元旦付けから紙面のサイズが一回り小ぶりになり、それだけクォリティペーパーとしての記事の重厚さが引き立つようになった紙面をめくっていたら、やはりこのブログとして発信しておかねばならないと思う記事が目に飛び込んできた。

― アメリカ、北朝鮮とともに反対 ―

 世界の誰もが知るアメリカ外交界の長老4人が、『アメリカは核拡散の危険が高まっている今こそ、世界の核兵器廃絶に向けての大胆な、新しいイニシアチブを発揮するときがきた』との提案を連名で発表していたからである。北朝鮮の核の脅威にさらされている日本にとって、注目しておいた方がいいアメリカ指導層の変化だと思う。
 アメリカは、1994年以来、毎年、国連総会本会議で、日本がイニシアチヴをとって、毎賛成多数で可決されている、『すべての国が核兵器を全面的に廃絶することを求める決議案』で反対にまわつて来たことで知られる。 昨年12月6日に13年連続で賛成167カ国の圧倒的な多数で可決された核兵器廃絶決議案にも、アメリカはインド、パキスタン、そして北朝鮮とともに反対に回った。
 昨年の場合、北朝鮮の核実験非難も折りこまれたが、アメリカはこの部分には賛成ながら、全体には反対という苦肉の策を講じていた。
 ちなみに中国は、イラン、イスラエルなど8カ国とともに棄権である。
 注目しておきたいのは、この国連でのアメリカの反対路線がブッシュ共和党政権の発足とともにはじまったという事実である。 日本が同決議案でイニシアチブをとり始めた1994年のクリントン民主党政権下ではアメリカは棄権、その後、1995年から2000年までのクリントン政権中はすべて賛成票を投じている。
 それだけに、民間レベルとはいえ、この連名寄稿のような超党派の有力者の主張が公になること自体、北朝鮮やイランの核の脅威を、アメリカ指導層がいかに深刻に受け止めているかを示す証拠とみることが出来るだろう。
 同時に、昨年秋の中間選挙で民主党多数派の議会が登場した状況の中での、ネオコン色を脱して超党派外交に路線が転換する兆しと受け止めることも可能だろう。
 勿論、こうした核拡散への危機感の延長線上には、この4人に名前を連ねているキッシンジャー氏がかねてから予言している『日本核武装の可能性への危惧』が含まれていることは間違いない。
 今のところブッシュ政権の反響は明らかでない。 しかし、この連名寄稿の末尾にある(注)によると、最近スタンフォード大学フーバー研究所のシュルツ氏らが主催して、20年前のレイキャビク首脳会談でレーガン、ゴルバチョフの両首脳が話し合った核兵器廃絶というビジョンを再考するための会議が開かれたという。
 同会議に参加し、この再考提案に賛成した識者として紹介されている18人の中には、アマコースト元駐日大使、オーバードルハー記者ら旧知の名前もある。
 アメリカ流の政策変更提言のメカニズムが動き出している感じがする。 今月末、またアメリカに調査旅行に出かけるので、こうした考え方の背景もとらえてきたいと思う。
 日本のメディアは、なぜかこの連名寄稿を報道していない。 以下、とりあえず連名寄稿の骨子を紹介しておく。

― 米ソ間の相互抑止は通用しない ―

 問題の記事は1月4日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙オピニオンペイジ(A15ページ)に、シュルツ元国務長官(レーガン政権)、ぺリー元国防長官(クリントン政権)、キッシンジャー元国務長官(ニクソン、フォード政権)、ナン上院軍事委員会委員長――といった米外交界の超党派の大物OB4人が連名で寄稿したもので、北朝鮮の核実験、イランの核兵器開発につながるウラン濃縮計画の停止拒否といった動きに象徴される核拡散に歯止めがかからない新たな危険な核時代が到来している事態に対処するため、米国が率先して指導権を発揮し、世界のすべての核兵器の廃絶を目指す大胆なビジョンを示すときがきたと呼びかけている。
 特に世界的なテロの時代を迎え、核兵器が国家に属さないテロリスト・グループの手に入る危険性が高まつている折から、東西冷戦時代にアメリカと旧ソ連の間で核兵器の使用を相互に抑止することに成功してきた“相互確証破壊(MAD)”戦略の継続は難しくなったとの認識のうえに立って、『今後50年間、新たな核兵器保有国と世界は、冷戦時代のアメリカと旧ソ連と同じような幸運を持ちえるであろうか』と分析し、、実際に核兵器が使われる危険が劇的に増しているとの危機感を表明している。

― 1986年のレーガン・ゴルバチョフ会談までさかのぼろう ―

 連名寄稿は、その上で、すべての核兵器廃絶のテーマが取り上げられ、合意の寸前まで行きながら、レーガン大統領で“スターウォー”と呼ばれた戦略防衛構想(SDI)の継続に固執し、決裂した1986年のアイスランドの首都、レイキャビクでの当時のレーガン大統領とゴルバチョフ書記長との首脳会談の実績に立ち戻り、すべての核兵器の廃絶というビジョンをもう一度、米国の責任において全世界に呼びかけ、そのコンセンサスをえるように努力するときがきた、と提案している。
 そして「いま再び全世界からの核兵器の廃絶というビジョンを掲げ、この目標実現のための現実的な措置を提示することは、アメリカの道徳的な遺産から生まれた大胆なイニチアチブと受けとめられ、将来の世代の安全に極めて前向きな影響をあたえるだろう」と締めくくっている。
 4氏の連盟投稿は、さらに核拡散防止条約(NPT)自体が核兵器の廃絶を目標としていることに触れ、NPT強化のためのさまざまなイニシアチブや国連常任理事国やドイツ、日本が、北朝鮮、イランの非核化のために努力していることを評価した上で、NPTの精神と20年前のレイキャビクでのビジョンを追求していくために必要な『現実的措置』の積み重ねの実例として、
 (1)すべての核保有国の指導者が核兵器なき世界を目指すという目標に向かって共同作業として取り組み、強い努力を続けること。
 (2)現在、実戦配備されている核兵器の偶発的、あるいは権限のないものによる使用の危険を極小化すること。
 (3)すべての核兵器保有国が核兵器の規模を大幅に削減すること ―― などなど8項目の実行を提唱している。  〔2007年1月17日)
 

第6回 ベトナムとは違う「一人勝ち」の悲劇

 ー 「受け皿」のないイラク戦争収拾の苦難 ー

 過去3年間、ブッシュ共和党政権がイラク戦争を強行するのを許してきた「アメリカという国」全体が大きな試練に直面している。
 11月の中間選挙で、アメリカ国民がはっきり「ノー」の審判を下したイラク戦争の「内戦化」をどう打開し、14万人のアメリカ軍撤退への「出口」をどうみつけるのか―という重い課題をつきつけられているからである。
 「9.11」同時テロのショックの中で、議会も世論も最初はその多数が支持したイラクに対する武力行使によって、開けてしまった「パンドラの箱」のフタをどう閉じるかという苦難にさらされているからである。
 この「出口」について、いま何一つ展望は生まれていない。確かに中間選挙の結果を受けて、ブッシュ大統領の動きは、それなりに素早 かった。投票日の一週間前までは抵抗してきたラムズヘルド国防長官の更迭に踏み切り、アメリカ国民に対し、イラクで民主主義が根付くまでアメリカ軍がとどまるという困難な任務への理解と忍耐を求め続けてきた、これまでの路線を軌道修正し、「新しいコース」を目指す意向を示した。12月6日には、父大統領以来のブッシュ・ファミリーのよろず指南番を続けるベーカー元国務長官と34年間下院議員を務めたハミルトン元下院外交委員長の二人を共同委員長とする超党派の『イラク研究グループ』(ISG)が発表した、79項目にわたるイラク政策の全面的な手厳しい見直し提案を盛り込んだ報告書に対し、『真剣な検討』を約し、一度は、統合参謀本部やイラク軍部、さらにはホワイトハウス内部からの勧告も折り込み、イラク戦争の『新しいコース』についての全国民向け演説を、クリスマス前にも行うと発表した。
 しかし、15日になって、このブッシュ演説は年明けに持ち越される、と訂正された。 この理由は、民主党の支持も得て上院の承認を受け、18日に就任するゲーツ新国防長官との協議の時間をとるためと説明されている。 しかし、これまでブッシュ大統領が乗ってきた政権内外のチェイニー副大統領以下のネオコン・グループがISG報告書を「完全な敗北のシナリオ」と決めつけ、猛反発していることでもあり、政権内部の不協和音の調整に時間がかかっているともみられている。

 ー 出発点としてのISG報告書 ー

まさしく、ハリの蓆の上のブッシュ政権である。 こうした状況をかつてのベトナム戦争のドロ沼化と比べる論も多い。
 しかし、31年前、1974年4月30日の旧サイゴン(現ホーチミン・シティ)陥落までの3年間を、共同通信特派員としてインドシナ各地で取材、アメリカ軍が「名誉ある撤退」のためにグエン・バン・チュー親米政権を見捨てるまでの「出口」戦略のプロセスをつぶさにみている私としては、ベトナムと似ているようで似ていないイラク戦争の実像をきちんととらえておくべきだと思う。
 そこには、ベトナム戦争のときのような「出口」さえ見つけられない「一人勝ち」アメリカの悲劇がある。今回はこのことを報告しておきたい。
 まずそのためには、新年のブッシュ演説がどのような見直しを示すにせよ、ベーカー、ハミルトンのみならず共和、民主両党から5人ずつ計10人のメンバーが元最高裁判事や閣僚、大統領補佐官といった平均年齢70歳を超える大立者を網羅していることもあって、アメリカのイラク戦争からの『出口』戦略からの出発点となったことは間違いないISGの報告書の実像を捉えておかねばならない。 その「前進のための新しいアプローチ」と題した142ページの報告書は、冒頭からこれまでブッシュ政権が展開してきたイラク政策について、3千人近いアメリカ兵の戦死者を出し、2兆ドルを越す支出を余儀なくされながらも、失敗しつつある、と厳しく決め付けている。驚くほど悲観的な分析からスタートしている。そのうえで、三つの大きな勧告をしている。

1) 2008年第一四半期までに大部分の戦闘部隊を撤退させるためにイラク軍、警察の双方の『イラク人化』のために米軍顧問団を増強し、その内部に中隊レベルまで「埋め」込む。
2) イラン、シリアとも直接交渉し、イラクに対する国連を含む広範囲な国際的な支援グループに加え、イラク国内情勢を安定化し、イラク政府の正統性を確認する枠組みをつくる。
3) イスラエルとパレスチナ、シリア、レバノンとの包括的な和平の促進など新たな外交攻勢を始動させる。

 このISG報告書は、発表と同時にペーパーバックでニューヨークの出版社から発売され、たちまち「アマゾン」の売れ行き上位入り、増刷を重ねている。ベーカー、ハミルトンの両委員長は、上下両院の各委員会での12以上の公聴会で証言を求められており、テレビのトーク・ショー出演でも引っ張りだこだ。
 来年1月の新議会からは12年ぶりに上下両院の多数派として三権の一つを手中に収める予定の民主党も、ISGに参画していることもあって、当面は、この間までISGメンバーだったゲーツ新国防長官支持に象徴されるように、ブッシュ大統領の「新しいコース」の手並みを見守る構えだ。

 ー ベトナムと似ているところ ー

 しかし、私が重要だと思うのは、超党派のISG報告書の底流に流れる内向きのエゴイズムである。それは、私が30数年前、ベトナム戦争の収拾期に目撃したものと同根だと思えるからである。つまり、ここではイラク戦争が、ベトナム戦争と似てきている部分である。
 その証拠を示そう。ISG報告書は、これまでアメリカ国内でタカ派、ハト派の双方から出ている三つのオプションに「ノー」の答えを出している。まずネオコン・グループ、そして事実上、共和党次期大統領候補指名争いに名乗りを上げているマケーン上院議員が要求している首都バグダッドの治安回復のためのアメリカ軍の一時的な増兵案を、アメリカ軍全体の兵力不足とイラク国民の政治的和解達成に逆効果であるとの理由で拒否している(ネオコンの機関誌、ザ・ウイークリー・スタンダートは、最初、5万のアメリカ軍増派を主張、その後3万でもよいとしている。マケーン議員は最初2万、最近では、10万の一時増派案も主張している)。
 逆に民主党のリベラル派が主張する即時撤退論も、「ことを始めた」アメリカが、急に「引く」のは無責任であり、イラク国内の宗派間対立の激化を招き、やがてアメリカ軍が帰ってこなければならなくなる―と拒んだ。そしてバイデン次期上院外交委員長が主張するクルド、シーア、スンニ三派への分割構想も、境界線の設置が不可能で、隣国の介入を招き、中東全体の混乱を生む―と退けた。
 要するに、アメリカが改めて責任をとり、面子を失うような事態を回避し、ひたすら「イラク人化」と政治的・外交的な努力のなかで「出口」を確保しようという路線である。つまり、ネオコン・グループの、イラクを手始めにやがては中東全域に民主主義の「ビーコン」を灯し、テロの土壌を払拭することがアメリカの責任であり、義務である―との強烈な使命感を伴ったイデオロギー路線とは、180度異なる現実主義の処方箋である。
 30数年前、私がまさにインドシナの地で見たのが、この使命感イデオロギーが現実主義に敗れ、とってかわられるプロセスであった。それは見事なまでのアメリカの変身であった。
 1973年3月29日、私は当時の南ベトナムの首都サイゴン(現在はベトナム社会主義共和国ホーチミン・シティ)近郊のタンソニュット空港で行われたアメリカ軍撤退式、後にアメリカが、グエン・バン・チュー親米政権を「ベトナム人化計画」の名の下に捨て始めた瞬間として記録される行事を取材した。最後のアメリカ軍援助軍司令官、ウェイアンド大将は、南ベトナム政府高官や軍指導者に対して、ベトナム語で「アメリカの任務完了と名誉ある平和維持への期待」を力説した。しかし、南ベトナム側からは控えめな拍手。逆に、アメリカ撤退の点検に当たる北ベトナム側が愛嬌をふりまき、輸送機に乗り込む最後のアメリカ兵には、ホーチ・ミン大統領の絵葉書と竹のすだれ細工が贈られた。
 このアメリカ軍撤退式は、その年の一月、チュー大統領の大抵抗にもかかわらず、キッシンジャー国務長官の強引な交渉の結果、アメリカと北ベトナムとの間で調印されたパリ和平協定という名の取引の一部であった。3日後には、現在のマケーン上院議員を含むアメリカ軍捕虜400人のハノイからの帰国が完了する。停戦、アメリカ軍撤退、相互の捕虜釈放―というプロセスが「ベトナム人化計画」の成功の名のもとでの「名誉ある撤退」として演出された一幕だった。

 ー 「ベトナム人化計画」という切り捨て ー

 「ベトナム人化計画」とは、1968年の大統領選挙で、ケネディ―ジョンソンと続いた民主党政権がベトナム戦争エスカレーションのドロ沼に入り込み、自滅する中で、「法と秩序」のスローガンだけでホワイトハウス入りを果たしたニクソン大統領が「声なき声の多数派」と自ら名づけた支持層の内向きのエゴイズムに迎合する外交戦略、ニクソン・ドクトリンの一部として打ち出された。
 民主党政権から引き継いだ「勝ち目のないベトナム戦争」の現実に対して、「北ベトナムからの侵略ははね返した。南ベトナムに対する約束は充分守った。アメリカ兵の血は十分流れた。これ以上流さない。あとは自らを守れるようになった南ベトナム政府軍にバトンを渡せばいい。決して負けて帰るのではない」との論理で組み立てられた。
 ニクソンは、まず毛沢東との握手による米中和解の達成という大芝居で、大きな舞台を整えたうえで、「南ベトナム政府軍の立場を強くし、その不安を取り除くために」との理由で、北ベトナムへの爆撃強化、ラオス、カンボジアへの進攻といった実質的な戦火拡大を躊躇なく行った。アメリカ軍のベトナム戦争戦死者の半数近くを占める2万7623人の血が、ニクソン政権下になってからの「ベトナム人化計画」のもとで流された。国内政治的に、反戦運動を封じ込め、ウォーターゲート事件の影の中で自らの再選を確実にするためにも、このベトナムからの「名誉ある撤退」という「出口」の確保が至上命令だったからである。
 従って、アメリカ軍の撤退完了後、アメリカ議会はインドシナでのアメリカ軍活動費の支出禁止、南ベトナム政府への援助に10億ドルの上限設定―とアメリカ軍の行動や南ベトナム政府軍の支援、すなわち 『ベトナム人化計画』に足かせをはめる決議を次々と可決、大統領の拒否権まで覆す。1974年8月9日、ウォーターゲート事件で大統領辞任に追い込まれたニクソンが、最後に署名した法案の一つがこの10億ドル上限法であった。しかし、その10億ドルも、ニクソン辞任後には、7億ドルに削られた。ニクソンが秘密のうちに続けていたカンボジア領内のホーチミン・ルートに対するB52の爆撃も議会決議で打ち切られる。
 こうして1975年新春、南ベトナムへの浸透を十分に果たした北ベトナム軍の一方的な制圧作戦が始まり、「ベトナム人化」した親米政権軍は、あっという間に崩壊、古都フエ、ダチン、そしてサイゴンと将棋倒しのように陥落、アメリカ大使館屋上からのアメリカ軍救出ヘリに群がる脱出ベトナム人の惨状をテレビ映像が全世界に伝えた。いま、やはり記憶しておかねばならないのは、ベトナム戦争の「出口」戦略で、「ベトナム人化計画」の名分のもとで、結果として親米政権を見捨て、北ベトナムによる南ベトナムの吸収というプロセスを受け入れたという事実である。

 ー ベトナム戦争と絶対的に違うところ ー

 ISG報告書が、その勧告『21』で、イラクのマリキ政権に厳しく注文をつけ、「イラク政府が民族和解、治安、統治の維持などの目標達成に具体的な進展を示さない場合には、アメリカはイラク政府に対するその政治的、軍事的、経済的な支援を減らすべきである」と明言している。タラバニ大統領をはじめとするイラクの政府首脳がこれに激しく反発しているのは周知の事実である。73年のパリ和平協定締結以来、キッシンジャー国務長官と南ベトナムのチュー大統領との間で、サイゴン陥落まで続いた激しいさや当てを知る私としては、「イラク人化計画」によるISG報告書の「出口」戦略のもとで、また同じパターンが始まったのかと、歴史のアイロニーをかみしめざるを得ない。
 しかし、ここで、ベトナム戦争とイラク戦争とでは決定的に違う条件がある。かつてのケネディ―ジョンソン政権が ベトナムで苦しんだ足かせ、つまり東側共産主義諸国とは核の共存体制は維持しながら、ソ連や中国による後方支援を受けた北ベトナム軍と、ジャングルでのゲリラ戦争を戦わねばならなかった条件はどこにもないという事実である。
 東西冷戦が過去のものとなり、アメリカが一人勝ちしたなかでのイラク戦争であるという現実である。あの時、「民族解放」の名分のもとで、アメリカが親米政権を見捨てた南ベトナムを、そのまま丸ごと引き受けてくれた北ベトナムのような「受け皿」はいまイラクにはない。逆に言えば、サダム・フセイン政権を追放したあとの「受け皿」を自らの手でつくりあげ得ないまま、アメリカ軍の「名誉ある撤退」を実現しなければならないところまで追い詰められているのが現状のアメリカといっていい。
 「イラク人化計画」によって、「ベトナム人化計画」で成功したのと同じ「出口」戦略を描くこと自体、不可能だということである。
 「9.11」同時テロ自体、アメリカの一人勝ち状況へのイスラム・テロリストの挑戦であった。しかし、同時に「9.11」ショックの中で、その報復として、ブッシュ政権がイラク戦争を強行することが出来たのも、結局はアメリカ一人勝ち状況のおかげだった。日本はもとより、欧州もロシアも中国も、イスラム諸国も建て前では誰もテロとの戦いには反対していない。
 このイラク戦争とベトナム戦争との構造的な違いが、そのままアメリカのイラクからの「出口」戦略を袋小路に追い込んでいるというわけである。イラク軍に顧問として配属されるアメリカ軍将校の間では、そもそもイラクという国家意識よりも、シーア派、スンニ派といった宗派意識が先に来ているのではとの根源的な悩みがあるという。撤退を実現するために、現在約4000人の顧問団を約10000人に増やそうとしているアメリカ軍幹部が、イラク軍のなかで米軍顧問自らの安全をどうして守るのかという課題とともに、いま直面しているのが、この「イラク人化計画」そのものの土台の欠如だという。 こうした現実を理解しておかねばならない。
 ISG報告書の冒頭にある 『共同委員長からの書簡』が、いきなり「魔術のような解決策はどこにもない」との一行で始まるゆえんである。超党派のISG報告書そのものがそのジレンマの象徴でもある。
 アメリカ一人勝ちをめぐるアイロニーの、終わりのないサイクルを知ってか知らずか、ブッシュ大統領はISG報告書の発表前、「われわれは決して優雅な出口など求めない」と述べた。しかし、いま「アメリカという国」全体にとって、優雅であると否かを問わず、「出口」を見つけること自体、容易ではない。
(2006年12月15日記)

第5回 人口3億人の大台に乗る苦悩

−3億人目の「アメリカ市民」は非合法移民の子供か?「自由のフェンス」建設のアイロニーー

 いま、アメリカは、ブッシュ大統領が2002年の年頭教書で「悪の枢軸」と名指しで非難したイラク、イラン、北朝鮮を相手に、それぞれのかたちでの戦いに忙しい。北朝鮮には、とうとう核実験までやられてしまった。しかも、最大の目標としたイラクでの民主主義の定着が一向に実現せず、15万というアメリカ軍撤退のメドもたっていない事実に象徴されるように、いずれの戦線でも、勝利の展望は開けず、その補給線は伸び切っているといっていい。
 「9.11」のショックをテコに、「テロとの対決」という中央突破作戦で、再選を果たし、ここまでアメリカ国民を引っ張ってきた6年間のブッシュ路線に対する審判は、11月7日の中間選挙で下される。
 その分析を来月に書くことを約束したうえで、今回は、その足元で、この「アメリカという国」が迎えている大きな節目について報告する。人口が3億人の大台に乗る中で、「移民の国」アメリカの原点そのものが問われようとしている現実についてである。

ー十月中にも達成ー

 連邦政府の人口調査局が発表した数字によると、本稿執筆中の10月8日現在で、アメリカの人口は2億192万8658人。この数値は今この時も着実に増え続けており、米国国勢調査局がインターネット上で提供する「人口時計」には、刻々と変動するアメリカと全世界の人口が表示されている。
 アメリカ全土で、新生児が7秒に1人誕生、逆に13秒に1人が死亡、これに31秒に1人の割合で出現する移住による新アメリカ市民権獲得者を加えると、11秒に1人のアメリカ人が登場する計算だそうで、3億人台入りは、文字通り秒読み段階である。10月中の達成は間違いないと見られている。アメリカのメディアでは、この「3億人目のアメリカ市民」をつきつめようと報道合戦が始まっている。
 つまり、アメリカは、人口数でも、第1位の中国の13億1500万人台(2005年推定。台湾、香港、マカオを除く)、第2位のインドの11億3300万人台(2005年推定)に続いて、第3位。しかも先進工業国として初めての3億人台という人口超大国の地位も手に入れたわけである。

ー2億人台入りを目撃ー

 私は、この出来事を特別の感慨を持って受け止めた。アメリカの人口が2億人の大台にのった1967年、当時34歳の共同通信ワシントン特派員として勤務しており、アメリカのメディアが大きく取り上げたことを記憶しているからである。あれから39年かと、そのスピードに驚く。いまこうしたブログに書いていることを含めて、未だに「アメリカという国」を追い続けている自らの人生の歩みをかみ締める個人的な感傷と同時に、この人口増のスピードの速さに戸惑い、右往左往するアメリカの姿を他人事ではなく受け止めてしまうからである。
 数字の話を済ませてしまおう。アメリカの人口統計は、1790年から始まる。その時の人口は392万9214人―と記録されている。2年前の1788年に制定されたアメリカ合衆国憲法第1条第2節3項の連邦下院議員の数は、各州の人口に比例して決める、との規定に従って始まったものだ。10年ごとの全国人口調査が、各州の下院議員数の変動、つまり各州の大統領選挙人数の変動、従ってその政治的影響力の変動―に連動するアメリカ民主主義独特のシステムの開始だった。
 ちなみに、この人口数には黒人は南部奴隷州との妥協の結果、実数の5分の3しか数えられず、現住インディアンに記載されてもいない。彼らがこの統計に単独で登場するのは、1890年の人口調査からである。
 人口統計が明らかにするアメリカの「差別」と「排除」の歴史については、2004年の拙著「銃を持つ民主主義―『アメリカという国』のなりたち」に細述してあるので、読んでもらえればと思う。
 この10年ごとの統計で、一億人台に達したのが1920年。いうまでもなく、19世紀を通じての西へ、太平洋へーとの「明白な天命」路線の下での領土拡張と、欧州各国からの移民の波を受け入れてきた130年が産み落とした数字である。ここから、私がその現場にいた1967年を経て、二億人台を公式に記録した1970年まで、わずか50年。それから今度の三億人までが39年。その人口拡大のスピードが、加速されていることがよく分かる。

ー1965年移民帰化法が加速の引き金ー

 私はこのスピード・アップの原因も目撃している。1965年に当時のジョンソン大統領がその政治力のピークの時期に、いわゆる「偉大な社会」政策の一つとして、成立させた「1965年移民帰化法」である。20世紀に入って、様々な形での移民流入へのハードルを高め、いわゆる国別の割り当て制が定着していた移民政策を大きく転換、第三世界をはじめとする全世界からの移民に対して、アメリカへの「寛大な扉」を開いた法律だった。
 「偉大な社会」政策は、暗殺に倒れたケネディ大統領の「ニュー・フロンティア政策」継承に成功したジョンソン大統領が展開した諸政策で、今では民主党最後のニューディール型リベラル政治と位置づけられている。現在の黒人の地位向上に道を開いた、公民権法など「大きな政府の政治」の下での「アメリカの夢」の実現を目指した。「65年移民帰化法」もその一つ。
 ジョンソンはこの勢いに乗りすぎて、「東南アジアにも偉大な社会を」と、世界の警察官を自負して、ヴェトナム軍事介入の泥沼にはまり込む。この結果、1968年の大統領選挙では、共和党のニクソンが登場、以来、民主党のリベラル政治はアメリカ政治の主流から姿を消す。
 しかし、この「65年移民帰化法」のおかげで、「アメリカ市民」の数は自然出生率の年々の低下にもかかわらず、増え続ける。1967年からの39年間で増えた一億人の53%が、同法の恩恵に浴したいわゆる「新移民」と彼らから生まれた子供達だーとUSAトゥデイ紙は伝えている。しかも、そのほとんどが隣国メキシコを中心とする中南米諸国からのヒスパニック系移民によって占められる結果となった。人口全体の中では3分の2を占めるヒスパニック系以外の白人層も、人口増加の中で占める割合では、5分の1に過ぎない。
 分かりやすい数字を挙げると、人口が2億人に達した1967年には、1000万人弱に過ぎなかった外国生まれの市民が、全体人口の20分の1だったのに対して、2006年では約3600万人に膨れ上がり、人口全体の8分の1を構成するところまできている。

ー「非合法移民」をめぐる対決ー

 皮肉なことに、「小さな政府」の政治をスローガンとするブッシュ共和党政権の下で、アメリカは今、この40年前の「アメリカの夢」を売った「寛大な」移民政策のツケを払わされようとしている。すなわち、今年のアメリカ議会で激しい対立をむき出しにして論じられ、いまだに結論が出ていない「非合法移民」をめぐる深刻な国内政治の溝が、それである。
 メキシコとの国境を勝手に越えてくる不法入国者中心に、他の国からのビザ期限切れ滞在者を含めて、最大1300万人ともいわれる「非合法移民」に対し、共和党が多数を握る下院が、強制退去も辞さない強力な取締りを求める法案を可決してしまったのが始まりだった。あわてたブッシュ大統領は、5月の国民へのテレビ演説で、「アメリカは法治国家だが、同時に移民の国でもある」と述べて、メキシコ国境の警備強化と同時に、長年にわたって永住してしまい、家族までいる犯罪者以外の「非合法移民」に対して、市民権を段階的に与える穏健な解決策を呼びかけた。上院では、イラク戦争では真正面から対立する民主党のケネディ上院議員も大統領に協力し、強硬派がアムネスティだと非難する、市民化を前提とした法案を可決してしまった。結果として上下両院が同じ共和党の支配下ながら、真正面から対立する騒ぎとなったわけである。
 ブッシュ支持の保守派を含めた下院強硬派の主張は「非合法移民がアメリカ市民の職を奪っている」というもので、逆に彼らの低賃金を「アメリカ経済の成長に不可欠な貴重な財産だ」と位置づける農業、サービス業などを中心とする経済界全体と全面的に対立する。

ーとりあえず「自由のフェンス」建設だけの合意ー

 中間選挙投票日までに妥協立法を成立させ、得点をかせぐことを目論んだ、ブッシュ大統領の調整工作も難航。結局、西はカリフォルニア州サンディエゴから東はテキサス州ブラウンスビルに至る、3168キロのメキシコとの国境線のうち、南西部の1120キロに、不正入国阻止のための恒久的なフェンスを築くことで、上下両院がとりあえず歩みよったところで議会の会期切れ。全ては中間選挙後に持ち越されることとなった。
 ちなみに、この1120キロにのぼるフェンスは「アメリカの自由のフェンス」と呼ばれるのだという。「アメリカという国」がその建国以来、依存し続けていた無限のフロンティアが物理的にも、精神的にも限界に近付きつつある現実を、浮き彫りにしていると思う。
 イラクでは、民主主義のための戦争を続けながら、国内では「移民の国」の伝統に目をつむって、国境でのフェンス建設に踏み出すアメリカを見たとしたら、建国の父達は何を考えるだろうか。
 そして一番のアイロニーは、いま「三億人目のアメリカ人」の名誉が、この目の敵にされるヒスパニック系の「非合法移民」の女性が出産する子供の1人に与えられる可能性が少なくないという事実である。

第4回 エルビス・プレスリーと「真昼の決闘」

−小泉訪米での「すれ違い」−

 前回の「タカ派」ヒラリーに引き続き、アメリカを理解する上での難しさについて報告しておきたい。七月初めの小泉首相訪米の際の微妙な「すれ違い」現象である。

 最初に断っておく。私は過去五年間、小泉首相がブッシュ大統領との間で維持した個人的な友情、信頼関係を過小評価するものではない。アメリカという日本にとって決定的に重要な国の首脳と心を開く関係をつくり上げたこと自体、立派な実績だ、と思う立場である。
 私は、1980年代初頭の共同通信ワシントン支局長時代、当時の中曽根首相とレーガン大統領の間でPRされた「ロン・ヤス関係」を間近に目撃している。しかし、いま小泉首相が、自らの「はしゃぎすぎ」も受け入れてくれるところまで、ブッシュ大統領の気持ちをとらえたような状態まではいっていなかった。「俳優」レーガンの「演技」の枠内にとどまっていた、と思う。その意味で、小泉・ブッシュ関係は、世界の外交史でもめずらしい事例なのだと思う。
 それだけに、知っておかねばならないと思う「すれ違い」の事例を報告しておく。

―ものまねしか報道されず―

 一つは、結果として、今度の訪米での「目玉」となったエルビス・プレスリーをめぐる「すれ違い」である。
アメリカ・メディアの報道では、エルビス・プレスリーに対する小泉首相の熱心なファンぶりだけがクローズアップされたことは、周知の事実である。
 特に、ブッシュ大統領夫妻がエア・フォース・ワンで同行するサービスまでみせたメンフィスのグレースランド訪問、つまりファンにとっては「聖地」であるエルビス・プレスリー記念館の見学で、小泉首相が大統領夫妻とプレスリー遺族らを前に、プレスリー愛用の黒メガネまでかけて演じてみせたものまねは、新聞各紙やテレビのニュースで全米に紹介された。
 ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、優れたニュース選択と要約で知られ、担当記者は編集局長に並ぶ高給を得ている一面の短信欄で、「ブッシュはエルビスを熱愛し、そのものまねを演じる日本の小泉を、彼の首相としては最後になると思われる訪米に当たり、グレースランドへの旅でもてなした」とだけ報じた。包括的な日米同盟を再確認した首脳会談そのものの記事は、どこにもなかった。

―プレスリーの寄付でできたアリゾナメモリアル―

 私はこうしたアメリカ・メディアの対応に接して複雑な気持ちだった。小泉首相のグレースランド訪問のニュースが流れ始めた六月初め、アメリカの友人から思いがけないメールが届いていたからである。それにはこう書かれていた。
 「小泉さんは、なぜ真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する戦艦アリゾナ残骸上のアリゾナメモリアルにも足をのばさないのだろうか。なぜならば、アリゾナメモリアルは、1961年にエルビス・プレスリーがハワイでの興行収益六万五千ドルを寄付したことで、それまで難航していた建設が軌道に乗り、一年後に完成した歴史を持つからです。エルビス・ファンの小泉さんがエルビスゆかりのアリゾナメモリアルを訪れ、献花し、戦争の傷跡を消す努力をすれば、エルビス・ファンとしての小泉首相は二重の意味で歴史に名を残すことが出来る。これは、日米関係全体にとって願ってもないことではないでしょうか」

―ブッシュ大統領広島献花実現のために―

 このアメリカ人のメールは、私が昨年八月十六日付けの、ウォール・ストリート・ジャーナル紙に戦後六十周年にちなんで寄稿した「Tokyo Needs Its Dresden Moment」と題する論文を読んだことを告げ、私がその中で、原爆投下に代表される日本各都市への無差別爆撃という日本人の心の底に残るトゲをとるために、ブッシュ大統領に広島の平和記念公園での献花を呼びかけていることにも触れていた。そして、このブッシュ大統領による広島献花の実現のためにもと、小泉首相のアリゾナメモリアル訪問を強く求めていた。
 このアメリカの友人の願いが果たされなかったことはいうまでもない。
 私も、アリゾナメモリアルにエルビス・プレスリーが絡んでくるとは知らなかった。アメリカからの真摯な提案に接して、改めて戦争という傷を清算することの難しさを思い知った。
 その意味で、この「すれ違い」は、小泉首相のみならず、私を含めて日本人全体のアメリカとの「すれ違い」の一例といえるかもしれない、と自戒した次第である。そして、改めて調べたところ、日本の首相はまだ誰もアリゾナメモリアルを訪れていないことも分かった。

―ゲーリー・クーパーのアメリカ―

 もう一つの「すれ違い」の方も重い。小泉首相が訪米の公式行事のハイライトであったホワイトハウスでのブッシュ大統領主催の夕食会で、1952年に封切られた映画「真昼の決闘(原題 ハイ・ヌーン)」(フレッド・ジネマン監督)を取り上げたことである。
 小泉首相は、英語で行った乾杯の挨拶の最後の方で、こう切り出した。
 「私は、アメリカのイメージを、私が大好きな映画「真昼の決闘」で、ゲーリー・クーパー演じる保安官が四人の無法者に勇気と正義のために一人で立ち向かった姿に見出すことがあります。しかし、あの保安官と実際のアメリカでは、大きな違いがあります。いまアメリカは一国だけで悪と対峙しているのではないからです。アメリカは常にアメリカの側に立つ友人たち、そして日本を当てにすることが出来るからです。」
 ホワイトハウスが発表したスピーチ全文では、この部分で最初に「笑い」、最後に「拍手」が挿入されている。そして、七月二十二日付朝日新聞朝刊は、「小泉総理、ラジオで語る」の最終回の収録が行われたとの記事のなかで『小泉首相は、日米首脳会談の際の晩餐会で、イラク問題などで孤立する米国を激励したスピーチについて「涙ぐんでくれる人もいた。いい挨拶ができた」と自画自賛した』と報じた。

―マッカーシーイズム抗議の映画―

 確かに涙ぐんだ人がいたかもしれない。しかし、同時に、「真昼の決闘」が製作された1950年代初頭に荒れ狂ったマッカーシーイズムの暗い影を思い起こした人も間違いなくいたはずである。
 「真昼の決闘」は、インターネットの百科事典「WIKIPEDIA」によると、全世界の映画中、常に上位250作品の中に入り、アメリカ映画研究書による過去百年の百作品のリストでは第33位に位置し、米合衆国国家映画登録にも選ばれている。保安官を演じたゲーリー・クーパーが1952年度アカデミー賞の最優秀主演男優に選ばれたほか、最優秀編集賞、音楽賞を受賞するなど、A級作品の資格を得ている。
 しかし、このブログを書くにあたり、映画の専門家ではない私が勉強した限りでも、「真昼の決闘」が第二次世界大戦直後の、東西冷戦突入初期、国務省、ハリウッド、メディア界を中心に、アメリカ国内をおおった反共ヒステリー、つまりマッカーシーイズムと呼ばれた政治現象と密接に関係した映画だということが良く分かる。
 突き詰めて言うと、現在の「ブッシュのアメリカ」における保守派とリベラル派の激しい対立の原点ともいえるマッカーシーイズムとの関係抜きには語れない映画であったということである。

―亡命した脚本家―

 脚本を最後に仕上げたカール・フォアマンは、スペイン内戦までさかのぼって「共産主義者との関係」が追及され、「同調者」の烙印を押すブラックリスト作りの場だった米下院非米活動調査委員会での証言を終えた直後、脚本執筆を前に、こう語ったという。
 「私はハリウッドの滅亡について書こうと思う。例え二、三年先にのびたとしても、ハリウッドは外部からの政治的ギャングに降伏するか、彼らによって処刑されるかのどちらかの道をたどる運命にあるからだ」
 映画評論家、ジャック・ニランは、この発言をもとに、「真昼の決闘」は、マッカーシーイズムの赤狩り旋風におじけづくハリウッド関係者を、無法者の汽車による到着を前に逃げ出したり、対決をさけて事をおさめようとする町の人々にたとえ、一人残って彼らと立ち向かう保安官ケーンを非米活動調査委員会の公聴会での証言を拒否して戦う人々に見立てた、極めて「意図的な作品」だった、と解説している。事実、フォアマンはこの執筆のあと、イギリスに亡命を強いられ、名誉を回復したのは死後の1997年だった。

―痛烈な日和見主義批判―

 私もDVDを入手して、約五十年ぶりに懐かしい「真昼の決闘」の八十五分間の白黒画面を見た。
 当時は気づかなかったマッカーシーイズムという1950年代初頭のアメリカ政治の影が全編をおおっているのが、よく分かった。マッカーシーイズムとの自らの戦いをエネルギーに、巧みな「西部劇」に仕上げたフォアマンの気持ちが伝わってくるように思えた。
 例えば、保安官と初々しいグレース・ケリーがまぶしく演じる新妻との旅立ちを祝福したばかりの町の指導者たちが、保安官が汽車で戻ってくる無法者たちと対決するため居残ることを決意したのを知ると、とたんに迷惑顔になり、加勢を拒否。町長らしき人物は教会での町民の討議を集約して、こう訴える。
 「いまこの辺境の町で騒ぎを起こすと、東部からの資本が入ってこなくなる。無法者とは折り合っていくしかない。即刻、彼らが来る前に立ち去って欲しい」
 こうした場面は、マッカーシー上院議員がそのデマゴーグのおかげで、1954年12月、上院で問責決議を採択されて失脚するまで、アメリカ世論を支配した日和見主義に対する告発のメッセージだったのだと思う。この残酷な日和見主義の犠牲者になろうとしていたフォアマン自らの恐怖心がそのままにじみ出ているようにも思えた。

―許さなかったジョン・ウエイン―

 もちろん、フォアマンは、脚本のなかで一人戦う保安官の正義感、自己犠牲の精神、勇気―といった保守派にも受け入れられる筋立てにも気を配っており、1952年の封切り時には保守派からも許容された。その意味で、当然のことながら、保守派の客が多かったと思われるホワイトハウス夕食会での「ゲーリー・クーパー演じるケーン保安官にアメリカをみた」という小泉演説に、「涙ぐんだ人もいた」というのも事実だろう。
 しかし、封切り直後から「真昼の決闘」は偏向映画だと強い不満をもらした保守派もいた。マッカーシーの「赤狩り」運動を全面的に支持し、数々の反共映画、戦意高揚映画に主演、共和党保守派のシンボル的存在で、1979年の死後、米議会自由勲章も贈られているスーパー・スター、ジョン・ウエインがその人である。
 ジョン・ウエインは「真昼の決闘」で、クェーカー教徒ながら一人を室内から射殺した新妻の協力もあって、四人の無法者全員を見事退治した保安官がバッジを地上に投げつけ、町を去る最後のシーンを、いつまでも許さなかったという。保安官のバッジに対する侮辱だというわけだった。フォアマンのブラックリスト入りにも公然と賛成の立場を明らかにしている。
 小泉首相、さらにはブッシュ大統領が、この映画が持つこうした暗い軌跡を知っていたのかどうか―興味深いところである。しかし、夕食会出席者のなかで、このことに気づいていた人はゼロではなかった、と思われる。
 「知っているようで知らない」アメリカとの一つの「すれ違い」であることだけは間違いない。

―蓮實氏に感謝―

 小泉首相は、2001年9月11日、米中枢同時テロ直後の始めての訪米の際にも、「真昼の決闘」に触れて同じ趣旨の演説を行っている。この演説が新聞に出た後、私は、高校同窓の映画評論家、蓮實重彦氏から初めて「真昼の決闘」とマッカーシーイズムとの関係について教えてもらった。そのおかげで、私は日米間の「すれ違い」という長年のテーマに、また新しい実例を得ることができ、同氏に感謝している。
 ちなみに、蓮實氏は「ハリウッド映画史講義―翳りの歴史のために―(筑摩書房、1993年)」のなかで、作品としての「真昼の決闘」については「脚本の図式性」などをあげて、辛口の評価をしていることを報告しておく。
 そしてこの七月には、同氏から、若い映画研究家、上島春彦氏の「レッドパージ・ハリウッド―赤狩りに体制に挑んだブラックリスト映画人列伝―」(作品社)が出版されたことも教えてもらった。同書は、フォアマンを含めた当時のブラックリスト当事者たちの陰影に富んだ生き方を追った労作である。読解するには相当の専門的知識を必要とする。しかし、「アメリカという国」を映画を通じてきちんと理解するうえでは、貴重な教科書でもある。ご一読をすすめる。

(八月五日記)

第3回 「タカ派」ヒラリー

―米民主党の落とし穴―

 首都ワシントンを振り出しに、ニューヨーク、ボストン(ハーバード大学)、再びワシントン、メリーランド州ワイリバーでの国際会議参加、そしてサンフランシスコ―とまたアメリカを約二週間旅してきた。
 2002年にジャーナリストに復帰してから通算十一回目のアメリカ取材旅行。そして毎度のことながら、「アメリカという国」をきちんと捉えることの難しさを、改めてかみしめて来た。
 今回は、中間選挙を五ヶ月後に控え、これからのアメリカ政治の行方を左右する野党民主党の現状について報告する。

 −守勢挽回のチャンスー

 いま、民主党は、2000年大統領選挙でゴア候補がブッシュ大統領に惜敗して以来の守勢を一気に克服するチャンスに恵まれている。一向に米軍撤退の「出口」が見えないイラク情勢をかかえたうえに、ガソリン高、ワシントンでの汚職続出とマイナス点も重なって、ブッシュ大統領の支持率が30%台と父ブッシュがクリントンに負けた92年大統領選挙直前の水準まで落ち込む中で、民主党が上下両院の共和党多数支配をくつがえす可能性が出て来ているからである。少なくとも下院での逆転は可能との予測がウォール・ストリート・ジャーナル紙などにも出始めた。
 数字を挙げて説明すると、中間選挙で435議席全員が改選される下院は、現在、共和党232、民主党202、無所属1で、民主党が15議席増やせば、逆転する。上院は現在共和党55議席、民主党44議席、無所属1で、今回の選挙では、100議席の三分の一、33議席が改選され、その内わけは共和党17、民主党15、無所属1。従って、民主党が6議席増やせば、多数を握る。
 民主党がもし、こうした数字のハードルを乗り越えることが出来たなら、クリントン民主党政権下の1994年の中間選挙で、共和党がギングリッチ議員が主導する「アメリカ国民との契約」運動の成果で、下院で52議席、上院で8議席を一気に増やして、1946年以来四十八年ぶりに多数派としての地位を民主党から奪った「歴史的事件」の再現となる。
事実、いま民主党内では、「1994年の復讐」というスローガンが語られている。レーガン政権時代の内外政策の忠実な実行を唱えた「アメリカ国民との契約」路線は、いま俯瞰するとイラク戦争開始を含めた、現在の「ブッシュのアメリカ」のネオ・コン路線の下敷きとなっているだけに、もしこの復讐が成就すると、大きな出来事である。

―まとまらない党内―

 しかし、果たして民主党がこの好機を生かして攻め切れるか。伝えておきたいのはその分析である。
 まず、民主党側に、1994年の共和党のような、全国的な攻めの戦略が存在しないことを認めておかねばならない。あの「アメリカ国民との契約」運動のように、ブッシュ政治に対する「対案」を国民の前に提示するような動きはどこにも見当たらない。もっぱら、ブッシュ政権側の「失策」に依存するだけである。つまり党内にリーダーシップが確立していない。
 民主党全国委員長のポストに、2004年の大統領選挙戦予備選挙の序盤で、イラク戦争反対の明確な主張と共に、若者を中心とするインターネットによる資金集めという新しい戦術をあみだしたことで注目を集めたディーン元バーモント州知事が座っていることが、党内に不協和音を生み出している。長期的な視点に立って、民主党の全国組織をこれまでの労組や地方ボス依存から改革することを目指すディーン委員長が、党資金を全米五十州の党組織に配布しようとすると、議会民主党再選委員会から即座に異議が出るーといった具合である。
 その象徴的な状況が、ブッシュ共和党に対する最大の攻め所といってもいいイラク戦争についての立場がいま党内でまとまらないことである。主な指導者だけ挙げても、ブッシュ路線の100%支持といってもいいリーバーマン元副大統領候補。これと正反対にアメリカ軍の即時撤退開始を主張するマーサ下院議員、ほぼこれに近いディーン全国委員会委員長、ケネディ上院議員。その中間に、2006年末をメドにイラク治安部隊の整備に合わせての撤退を主張するケリー前大統領候補―とその足並みは乱れている。

 −反戦運動に加わらないヒラリーー

 そして最大の弱点は、中間選挙でニューヨーク州での上院議員再選が確実視され、二年後にやってくる2008年大統領選挙戦での指名争いのトップを走るヒラリー・クリントン元大統領夫人の立場が、ケリー前大統領候補より右寄り、リーバーマン元副大統領候補に近いことである。
 五月三十一日、ニューヨーク州民主党大会で、21万ドルという豊富な資金を背景に、大統領選挙戦さながらのにぎにぎしさの中で、上院議員再選出馬を発表したヒラリー女史は、ブッシュ政権の内外政を厳しく批判し、民主党による新しい指導力の確立を訴えたものの、肝心のイラク戦争については言及を避けた。大会後の記者会見も、「ブッシュ大統領はイラクの指導者に対して、治安についての責任を取り、アメリカ軍が帰還できるように求めなければならない」というだけだった。テキサスのブッシュ牧場への座り込みで反戦運動のシンボルとなったイラク戦死者の母、シーハンさんが「なぜヒラリーは、私の運動に加わってくれないのか」と嘆くゆえんである。

 ―注目のプリンストン演説―

 ヒラリー女史は、一月十九日、ブッシュ政権による三年前のイラク単独武力行使以来一貫している、こうした自らの実質的イラク戦争容認の立場について詳述した演説を行っている。アメリカでの外交問題研究で高い権威を持つプリンストン大学ウッドロー・ウィルソン大学院創立七十五周年記念講演というひのき舞台で「中東におけるアメリカ外交政策の課題」と題して行われた。いまその全文テキストに目を通すと、二年後の大統領選挙戦までも十分意識したとみられる彼女の包括的な路線がはっきり浮かび上がって来る。そのイスラエル・イラン・イラクの順で組み立てられている主張を要約すると次のようになる。

 (1)われわれは、中南米、アフリカ、アジアなど多くの地域で、新しいビジョンと指導性を必要としている。そのなかで、中東地域以上にこのアメリカの指導性とビジョンが求められている地域はない。

 (2)私は中東地域に対するアメリカの関わり方を決める価値観について述べたい。まずその中心にイスラエルの安全と自由の確保を据えねばならない。この五十年以上も続くコミットメントを揺るがせてはいけない。

 (3)そしてより広い意味では、人間が神から与えられた一人一人の可能性を達成するために、努力する自由、つまり民主主義と人権の夢を果たす自由の確保が中東に対するアメリカのアプローチの中心に位置しなければならない。圧制の下で苦しみ、イデオロギー、または宗教的ファナティシズムによって将来が閉ざされている全ての人々、特に女性に対して、アメリカは支援を惜しんではならない。

 (4)新大統領がホロコーストの存在を疑問視し、イスラエルの消滅を口にし、核兵器に使用可能な濃縮ウラン製造再開に踏み切ったイランに対し、ホワイトハウスは脅威を軽視し、交渉を他国に委ねている。私は、アメリカがイランや北朝鮮の脅威への対処を他国まかせにして傍観したことが信じられない。核を持つイランは、イスラエル、その隣国達にとって危険な存在である。新テロリスト、反米、反イスラエル主義者が政権を握っている事実は、この脅威の緊急性を物語る。アメリカの政策は明確なものでなければならない。

 (5)われわれはイランの核兵器の製造と保有を許すことができないし、すべきでもない。こうした事態にいたるのを阻止するため、われわれは中国やロシアの公然たる支持を得ることにより精力的に取り組み、国連の場での政策を可能なかぎり速やかに実現させねばならない。現在のイラン指導部に対して、彼らが核兵器を取得することは許されないーという明確なメッセージを送るうえで、われわれはあらゆるオプションを残しておかねばならない。

 (6)いまイランで直面している問題の一つに、イランがイラク情勢と関係を持ち、影響力を持っていることが挙げられる。私が繰り返し述べているように、イラク情勢には短時間で効果が上がる解決法はない。私は現在のままの際限のない介入継続には反対だが、同時にアメリカ軍をただちに撤退できるとも、すべきとも思わない。もし昨年末の選挙の結果、イラク政府を樹立することに成功すれば、今年中にアメリカ軍の撤退を始め、あとには、安全な地域に十分な情報能力と緊急出撃能力をもった小規模な駐留部隊を残すべきである。新イラク政府を安定化させるのに役立つだろう。

 (7)こうした方策は、イランに対して、彼らがイラクで持つ大きな影響力と人間的、宗教的な関係にも関わらず、決して自由な行動を許されるものではないとのメッセージを送ることになる。そしてイスラエルや、ヨルダンのような同盟国に対しても、アメリカがテロリストが現状以上の足場を築くことを阻止するために、中東で必要な安定力を供給し続けるとのメッセージを送ることになる。

 −ネオ・コンも顔負けー

 要約が長くなった。しかし、きちんと記録しておくべき点だと思う。すくなくとも、次の二点でブッシュ政権と同じ、あるいはそれ以上に踏み込んだネオ・コン的主張が明らかにされているからである。
 第一は、イラクでの恒久的なアメリカ軍基地の維持をはっきり提唱していることである。これは現在、ホワイトハウスでさえコミットすることをためらっている点で、ヒラリー女史の突出が目立っている。イラク国内のアメリカ軍基地のうち、十四ヶ所を恒久的なものとして残そうという計画があることは報道されている。しかし、イラク政府との合意、イラク国内外からの実質的な「占領継続」との非難を恐れて、ブッシュ政権はこの問題にきわめて慎重な態度を取り続けている。ヒラリー女史は、その「本音」を先取りし、しかも中東での「必要な安定力の供給」とまで言い切っているわけである。

 −説得力もつイランーイラク連係説―

 第二は、イランの核開発の脅威をイラク情勢とはっきり結びつけてとらえ、そのイラクへの影響力ゆえにも、核兵器開発の阻止には「あらゆるオプションを残しておく」との強硬姿勢を示していることである。注目しなければならないのは、ブッシュ政権が五月末になって、このヒラリー演説に従うかたちで「イランとは交渉せず」とのそれまでの方針を変え、「交渉を他国に委ねている」と彼女から批判されていたイギリス、フランス、ロシア、ドイツとイランとの交渉に参加したことである。国連安保理常任理事国プラスドイツによるイランのウラン濃縮活動停止に対する「包括的見送り案」がそれで、六月中旬現在でイラン側も「一歩前進」と評価し、中国、ロシアも巻き込んだ。その展望はまだ定かでない。しかし、ヒラリー女史の主張通りの展開となっていることは間違いない。
 もし、イランでこの方式が成功すると、北朝鮮の核問題への波及も考えられる。六月十三日、ブッシュ大統領の電撃訪問にタイミングを合わせるように、ようやく国防、内務相も決まって勢ぞろいした新イラク政府は、アメリカの強い要求で一部スンニ派を取り込んだものの、基本的にはフセイン時代にテヘランに亡命していた人脈を中心とするシーア派の天下である。それにアメリカ占領下、イランから国境を越えてバグダッドからバスラまでのシーア派地域に入った多くの医療グループ、チャリティー関係者は三百を越す医療、建設、文化、宗教施設を完成させたと報告されている。イランーイラクの情勢を連係させて捉えるヒラリー・テーゼはいま説得力を持っている。

 −「好戦的対外介入主義者」かー

 ヒラリー女史のタカ派色は、上院議員当選後、あえて軍事委員会のメンバーになることを希望したこと。イラク開戦直後、砂あらしの影響もあってラムズフェルド国防長官の小規模兵力による作戦が難航、アメリカ世論から批判が噴出したとき、ラムズフェルド支持を表明したこと。アフガニスタン、イラクのアメリカ軍基地への慰問旅行―と、これまでにも定評がある。こうした態度は、2008年大統領選挙での保守派層の支持獲得のための政治戦略の一部とみられてきた。
 しかし、ここに来て、民主党内外からは、1999年、クリントン政権下でのユーゴ空爆の時などには、躊躇するクリントン大統領に強く武力行使を迫ったことなど、ファースト・レディー時代のヒラリー女史の言動までさかのぼって「好戦的な対外介入主義者」が彼女の素顔だと説く解説も(ゲール・シーヒー著『ヒラリーの選択』など)登場するようになった。
 ザルカウイ容疑者の殺害、イラク新政府発足とブッシュ大統領のバグダット訪問、ローブ補佐官の不起訴、六月八日のカリフォルニア州での下院補欠選挙での共和党の勝利、対テロ調査のための電話盗聴に対する63%の支持率(ワシントン・ポスト紙による五月十二日世論調査)などー共和党側も巻き返しの努力を続けるなか、「タカ派ヒラリー」の存在自体が民主党にとって「獅子身中の虫」ともなりかねない状況である。ブッシュ政権との「距離の近さ」がそのイラク政策を混迷させる可能性が出て来ているからである。

(六月十八日記)