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1975年4月 | |||||||||||||||
1975年4月 N. H. ベトナムの歌に、ベトナムは1000年間中国の支配下にあり、100年間フランス支配のもとで奴隷状態にあり、30年間内戦で苦しんだ、とあります。私は歴史の本に書かれた戦争をよく知っています。私たちの国がまだ分断されていたとき、私はサイゴン市に住んでいました。そこは戦場には近くありませんでした。私は南ベトナム赤十字のメンバーでした。私たちはしばしば遠くの貧しい同胞たちに援助物資(食料、医薬品、衣類)を運んで配りました。国際赤十字が、私たちに援助物資を送ってくれました。当時、私は若く、中学校で学んでいました。苦しんでいる同胞たちに物資を運ぶ仕事に参加できて、私は幸せでした。でもそれほど多くの経験をしたわけではありません。 1975年1月、中部ベトナムで激しい闘いが起こりました。革命軍が、北と南を分けるベン・ハイ川を越えました。兵士たちが戦いました。北軍は南に進行しました。人々は家から逃げました。兵士たちだけでなく、たくさんの人々が死にました。私は新聞やテレビでニュースを知りました。人々は、2つのかごを天秤でかついで、走りました。一方のかごには子供が、もう一方のかごには自分の財産が入れてありました。荷物を運べるようにしたオートバイを運転している人もいました。彼らは不安でいっぱいでした。至るところで爆弾が爆発し、弾丸が飛びかっていました。戦争で、人々は思いがけないことで死にました。戦争はまだ始まったばかりでした。 中部に住んでいた人々は戦場から逃げ出しました。私たちの赤十字会は、援助物資を貨物船に積んでニャ・チャンへ行きました。このときは、残念ながら私は参加できませんでした。その後、戦争が拡がり、サイゴン市に少しずつ近くなってきました。人々はブン・タウ市やフー・コック島に逃げました。ブン・タウは海に近いところです。彼らはブン・タウ市のチ・リンと呼ばれる広い地域に住みました。私たちはブン・タウに行き、テントを張って彼らの仮の住居を造りました。私たちはここに活動基地を設けました。赤十字の自動車隊が米や医薬品をこの基地に運び、避難民に分けました。しかし、戦線が近づいてきました。自動車隊は何度も援助物資をチ・リンに運びました。私たちは順番に家に帰りました。私が自動車隊と共にチ・リンに戻ったときには、ブン・タウへ行く道路は寸断されていました。私たちは道路を通っていくことが出来ませんでした。それで、私たちは援助物資と共に赤十字会に戻らざるを得ませんでした。メンバーの一部はまだチ・リンに残っていました。彼らはサイゴンに帰ることが出来ませんでした。彼らの消息が分からなくて、私たちはとても不安でした。数日後、彼らもサイゴンにたどり着きました。彼らは船を雇って、海から家に帰ってきたのです。ブンタウはすでに革命軍のものになっていました。 人々は再びサイゴンに逃げなければなりませんでした。私たちは国道沿いに立って、戦場から逃げてきた人々に水をあげました。まさに混乱の日々でした。 同じ頃、私はフー・コック島に行く学生組織に加入しました。そこには避難民がまだ住んでいました。組織は米・衣類や医薬品などを持って、5月2日に出発する予定でした。 とうとう革命軍がサイゴンまでやってきました。内戦は終わりました。1975年4月30日は、北と南の2つの部分ががひとつの国になった日でした。それで、私たちの学生組織はフー・コック島には行きませんでした。島にいた避難民の一部はそれぞれの故郷に帰り、残りの人々は海を越えて外国に行きました。サイゴン市民は戦争を経験しませんでした。みんな、闘いをとても恐れて、避けようとしました。あらゆる方法で、人々は逃げようとしました。このとき、外国に行った人もいました。 私の話はこれで終わりです。時間がたって、多くのことを忘れてしまいました。私たちは生き続けなければなりません。すべては良くなっています。そうではありませんか? 写真は、統一会堂<旧大統領官邸>(ホーチミン、2001:翻訳者撮影) |
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