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狂女(1) | |||||||||||||||
狂女 トゥエット・タン トゥア・ティエン-フエ省、フオン・トゥイ県の、トゥイ・フォン村やその周辺では、誰もがその年取った女を知っていた。彼女は、カイライ政府や敵兵から「きちがい女」と呼ばれていた。 彼女は「5」という村落に住んでいた。そこはフエ市から山地へ行く入り口で、カイライ軍の第5師団が駐屯して、占領された地域の住民がゲリラ部隊と連絡を取るのを見張っていた。 この地方の住民は彼女の名前、グェン・チ・ロン(「偉大な」)をよく知っていた。彼女の夫は、すでにフランス侵略者にたいする最初の抵抗戦争に身を捧げていた。グェン・バン・フォンという名の一人息子がいたが、1960年の人民総決起のあと、消息不明になっていた。彼の母親だけが、彼がどこで何をしているのか知っていた。 彼女自身も最初の抵抗闘争が始まった年に、最初から参加し、決死隊の中で活動していたと言われている。 「偉大な」女は、背が高く、美人で健康であった。若いときには長い黒髪を持ち、明快な話し方をした。村人たちは、正直な女性として彼女に敬意を払っていた。 ベトナムを南北に分割したジュネーブ協定のあと、いつこのかわいそうな女の気が狂ったのか、誰も知らない。彼女はいたるところをうろついた。カイライ兵たちは何度も彼女を捕まえ、フオン・トゥイの拘置所に閉じこめ、トゥア・フーの刑務所に入れ、トア・ハムの監獄で拷問をした。敵たちは、彼女がベトコン*のスパイではないかと疑っていたのだ。 *ベトコン:ベトナム共産主義者 ベトナムの愛国者にアメリカとその同盟国が付けた名前。 彼女が捕らえられていた期間は長く、何年間監獄で暮らしたのか分からないほどであった。拷問によっても何も聞き出せず、カイライ兵たちは何度も釈放しては、また捕まえた。 誰かがその不幸な女について尋ねると、村人たちは頭を振って答えた。 「おお、彼女は数えきれないほど逮捕され、恐ろしい拷問を受けたんだ。もし死ななかったら、気が狂っても不思議はないさ」 村人たちは、1965年の初めのその朝をよくおぼえている。その日、フエの町から厳重に封鎖された車がやってきて、トゥイ・フォンの三叉路で停まった。2人のカイライ兵士が一人の人間を道ばたの草の上に放り出して、そしてフエに向かって走り去った。村人たちが駆けつけると、それは2年間トゥア・フーの監獄に投獄されていた「偉大な」女であった。ぼろぼろの服を着た彼女は骨と皮だけにやせ衰え、体中カイセンにおおわれ、ひどい臭いがした。両眼をとじて、やっと息をしていた。親切な村人たちは彼女を連れ帰って世話をした。彼女は1年間ベッドで過ごしたあと、やっと立てるようになった。 この事件以来、「偉大」さんは以前よりももっとしばしば、もっと遠くへ、大雨の日も、激しく照りつける日も、うろつき歩くようになった。寒い冬も、暑い夏も、彼女はきちんとした着物を着ていなかった。裸の体の肩からぼろがぶら下がり、ズボンはつぎあてだらけだった。黄色い髪をいくつかに束ねた彼女の頭は傷だらけだった。それはまさに、敵の野蛮な拷問の結果であった。彼らは、彼女の柔らかい髪を扇風機に結びつけ、それを最強にしてスィッチを入れた。プロペラは彼女の頭から髪の束を、皮膚を、次々にむしり取ったのだった。 村の少女たちは彼女に好奇心をもってみつめたが、軽蔑して怒らせるようなことはしなかった。村人たちは彼女を愛し、大事にした。時々、彼女は歩いている途中でどこかの家族に招かれた。そこでは、一杯のご飯や、両手に一杯の餅、いくつかのサツマイモなどが振る舞われた。そして、誰にも知られないように小さな包みが渡されることもあった。彼女はたとえ死ぬほど叩かれても、その秘密を明かすことはなかった。 写真は、マイ・チャウ村(2001年:翻訳者撮影) |
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