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国民的ヒロインの孫娘として(上) | |||||||||||||||
国民的ヒロインの孫娘として グェン・チ・ゴク・ラン 国民的なヒロイン、チュン姉妹の詩を私は自分の生まれた北部の国境地方の州都、カオ・バンの小学校の生徒だったときに、すでに空で覚えていました。 彼女たちの子孫である栄誉を知って、私はベトナムの女の子が誰でもそうであるように、深い考えはなしに、ただ彼女たちを尊敬し、あこがれていました。 1948年、私はハノイのアルベル・サロというフランス系中学校の生徒でした。学校での授業中にフランス軍の爆撃機の音をしばしば聞きました。それは解放地域の村々の役場や兵舎を爆撃し、兵士や役人を殺し、平和を愛する村人や罪のない子供たちをさえ殺していたのです。私の心は痛み、そして、解放地域で働いている父親が心配でした。また犠牲になった家族の悲しみがが私の心を苦しめました。私はフランス侵略者に心から怒りをおぼえ、外国の侵略に立ち向かう軍隊を、象に乗って導く2人のヒロインの姿が私の心に浮かび、私は愛国心に目覚めたのです。私は救国の戦いに貢献したいと思いましたが、自分に何が出来るのか分かりませんでした。 1949年、17歳の時にチャンスがやってきました。私の家の近くの店で働いていた時計修理屋さんが、私に非合法の新聞や文書を見せてくれたのです。その後、その人は、市民に民族抵抗運動への支持を訴えるビラを渡してくれました。それを夜、家々に投げ込むのです。彼は私を秘密組織に加入させる前に敵に捕まってしまいました。それは私を悲しませ、絶望させました。当時フランス植民地主義者に占領されたハノイで、愛国者たちの秘密活動に参加できるチャンスが来るのを、私は再び待たねばなりませんでした。それはまもなくやってきました。母が、姉と私に数学とフランス語の補習を受けさせるために教師を呼んだのです。その先生のおかげで、私はハノイの愛国的学生の組織に入り、私の学校の責任者として活発に活動をしました。その20人のメンバーのうち、18人が女生徒でした。私たちは侵略者に抵抗する運動に熱心に参加しました。例えば、愛国的な生徒たちが大量に逮捕されたことに抗議するストライキに学生を動員したり(1949年)、アメリカの介入に抗議するデモの中で、かいらい憲兵に殺されたサイゴン(現在のホーチミン市)の中学生、チャン・バン・オンの追悼式を行ったり(1950.1)、新聞やビラを印刷して配ったり、民族抵抗運動を支えるためのお金を集めたり、前線で戦う兵士に送る毛糸のセーターを編んだり、平和を求める署名を集めたり、といったことです。 当時の沸き立つような日々のいくつかの愉快な出来事は、私や私の友人たちを今でも笑わせてくれます。8月革命(8.19)、民族の祭り(9.2)、国際労働者の日(5.1)、ホー・チ・ミン大統領の誕生日(5.19)などの記念日には、私たちは学校に国旗をひるがえし、教室・廊下や中庭にスローガンを貼り付け、ビラをまきました。生徒たちの注意を引くために、私たちは旗の下に下げた爆竹をならそうと計画しました。それで私は爆竹を1箱買ってきて、その音を試そうと、1つに火をつけてみました。それはとても大きな音がしたので、下の階にいた私の母が血相変えて2階の私の部屋に飛んできて、姉と私に「すぐにピストルを渡しなさい!」と命じたのです。私たちは笑って本当のことを話したのですが、母は私たちがピストルを隠していると思って、どうしても信じてくれません。私たちが危険なことになると思って泣き出してしまいました。とうとう、私たちは、学校のお祭りの準備をしているのだと嘘をついて、準備を進めたのでした。ある時、私たちのグループは、硫酸の化学反応で作った水素でふくらませた風船に国旗をつけて飛ばす計画を立てました。私たちはそれを浴室で作りました。それがうまくいったときはなんと嬉しかったことでしょう! 出来上がったいくつかの風船を、私は衣類棚にしまいました。その夜、赤に黄色い星の旗をつけた風船が飛ぶ様を想像して、姉も私も眠れませんでした。私たちは早い時間にベッドから出て風船を取り出しました。だけど、悲しいことにそれはしぼんでいました。自分たちの任務をやり遂げられず、私たちはがっかりしました。 写真はハノイ市内にて(2001年:翻訳者撮影) |
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