淀川長治のカミングアウト



映画評論家で「日曜洋画劇場」の解説者としてもおなじみの顔だった淀川長治は、晩年の栖(すみか)を東京六本木の全日空ホテル34階の一室で過ごした。ひとり暮らしをするうえでホテル住まいが何より便利で快適だったこと、そのホテルが当時番組の解説をしていたテレビ朝日のすぐ近くにあったことから、約10年あまりをそこで過ごしたのだった。晩年彼の口癖は「もうすぐ死にますから、何でも聞いてください」で、死に際は「映画館で映写が終わったのに、まだ座っている老人がいる。従業員が『お客さん、もう終わりましたよ』と声をかけると、死んでいた。そんな最期が最高」と願っていた。映画は映画館で見るのがベストというのが彼の持論だったそうだが、テレビで映画解説を引き受けたことについてはこう語っている。


正直申してジョン・フォードの『駅馬車』をテレビで見るのはしんどい、つらい。だが、見ないよりはいい。それもテレビでやると、いつもは劇場に行けない人までみんな見られる。トルストイの名作を一人で読むより、100人、200人、300人が読めた方がずっといいんです。


くだらない映画については、「どんなくだらない映画でも絶対いいところがある。それを拾ってみんなに説明するのが私の使命」だとも。つまり彼がその映画をくだらないと見ているかどうかは解説から知れるというわけである。また淀川は「日本語吹き替え」をひとつの芸術ジャンルと見なしていたが、洋画の「日本語吹き替え」はオリジナルにはほど遠い。そのほか、画面のトリミング、放映時間に入りきらないシーンのカット、CMの挿入など「テレビ映画」にはむしろ弊害こそ多い。「時間芸術」たる映画に対する冒涜といってもよい。映画を本当に愛するなら、それらの悪しき処置に断固抗議するか、謙虚にテレビ解説を辞退するべきであったと私は思う。

さて、淀川長治は終生独身を貫いたことでもよく知られていた。黒柳徹子の『徹子の部屋』という番組にゲスト出演したときのこと、黒柳は単刀直入に「なぜ結婚なさらなかったんです?」と訊いた。それに淀川は何と答えたか? 『徹子の部屋』オフィシャルサイトのバックナンバーにあったエピソード「私が一生涯独身を貫いた本当の理由」から──


なぜ結婚なさらなかったのか? その答えは母親に対する深すぎる愛情にあるというご自身をマザコンと語る淀川さん。お母さんと一緒にお風呂に入っては、背中が真っ赤になるまで熱いお湯をかけてあげたとお母さんと暮らした日々のことを語って下さった。お母さんを愛しすぎるあまりお嫁さんを傷つけてしまう事を恐れ結婚にふみ切れなかったという。


しかしこれが「一生独身を貫いた本当の理由」でないことは、彼の著書『私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない』(PHP刊、1973年)を読むとわかる。それによれば、彼は「十六歳のときから独身のひとり暮らしをきめこ」んだという。以下はそのくだりから──


さて……私がひとり者で今日までとおしましたのは、このリウという母への仇を討ったとは聞こえはよろしゅうございますが、かたくなな私は、なんとなくそうすることで母の仇を討ったという妙な一人ぎめをしたわけでございます。
これは母にとりましては、えらい迷惑なことでありましょうが、私は母のことを思うにつけ、淀川家の家のその血の犠牲になりはてた母のリウがいとおしくて、それゆえそのようなリウの運命を作った淀川の家をいっそ断たしてやろう、そう考えたのが十六のときでございます。家というものの大切さを知らぬではございませんが、その家ゆえにリウの生涯はなんとも哀れすぎました。たとえ良人の又七にどのように愛されようとも命令ずくめで縁を結ばれて、それも子供を産ますために、子供と大人のようなひらきのままに結ばれて、そしてそれを結ばせた淀川の家に腹を立て、それがついに私に淀川の家をつぶす決意をもたせたわけでございます。


つまり淀川長治は、淀川家を継ぐ子供を産ませるためだけに淀川家へ嫁いだ母の不憫を思い、その母を苦しめた淀川家への復讐のため、一生独身を貫く決心をしたのである。おそらくその決心は本意であったろうが、なぜか「もうひとつの理由」の方はあえて語ろうとはしなかった。そのもうひとつの理由とは、彼がゲイだったことである。

映画関係者の間で、彼がゲイだったことを知らない人はまずいないだろう。それは周知の事実、公然の秘密だった。しかし淀川は別段それを恥じても隠してもいなかったと見受ける。なぜなら彼の映画批評から、彼がゲイであることはおおよそ推察できたから。ある意味で、映画批評自体が、彼の「カミングアウト」(ゲイであることを公表すること)だったかもしれない。たとえばルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』の批評では、この映画で描かれている金持ちの御曹司フィリップ(モーリス・ロネ)と旧友リプレー(アラン・ドロン)の愛憎関係は「男同士のホモセクシュアルな関係」だと指摘する。なるほど、そう言われてみれば首肯ける。また彼のお気に入りだった映画、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』は「世界映画史上ベスト5に位置する名作であろう」と評価も高い。言うまでもなくホモセクシュアルを描いた名作である。そしてゲイのロードムービー『プリシラ』にも「腰が抜けた。バツグンの出来なのだ」と絶賛だ。

映画批評ではないが、私が淀川の文章で今でも印象に残っているのは、朝日新聞に掲載された『BENT』の劇評だった。マーティン・シャーマンの戯曲『BENT』(劇書房刊、1981年)は、ゲイのラブストーリーを描いた作品として最高傑作であるが、淀川はこの作品についてこんな褒め言葉を贈っている。


私はこれまでに映画や芝居でどれだけのラブ・シーンを見てきたかは数えきれないが、『BENT』のラブ・シーンくらい痛ましく悲しく美しく強烈なラヴ・シーンに接したことはなかった。


かつてナチス・ドイツは、同性愛を「ドイツ民族を破滅に導く堕落の兆候である」として、「同性愛禁止法」をつくり、強制収容所へ送り込んだ。ユダヤ人ほどには注視されなかった史実であるが、ようやく『BENT』によって広く知られるところとなった。淀川のいう「ラブ・シーン」は、強制収容所という極限の状況に置かれた中で交わされる、人間としての尊厳、自由、愛を恢復できる唯一の抵抗なのだった。そしてブロードウェイで大ヒットしたこの作品は、のちに『ベント/堕ちた饗宴』(イギリス映画、1997年)として映画化もされた。この映画のショーン・マサイアス監督が来日したとき、淀川が彼にこんなことを訊いている(「淀川長治の銀幕旅行」)。


かかる題材を映画にした監督にあってあんたも同性愛者かと聞くとイエースと一言のうろたえもなく私に答えたよ。


「あんたも同性愛者か」という問いかけがなかなかに意味深だ(笑)。その映画版であるが、もともと演劇的な作品だからか、映画の方は興行的にたいして成功を収めることなく、戯曲ほどの感銘も受けなかった。そもそも「堕ちた饗宴」などという副題からして勘違い、偏見も甚だしい。幸い私は戯曲を先に読んでいたが、もし『BENT』に興味を持たれたなら、映画は後回しにしてでも、まずは戯曲を読んでいただきたい。少なくとも映画でこの作品を評価する愚は犯してほしくないと思うから。

先の『BENT』についてのコメントなども、彼なりのカミングアウトと言えるだろう。しかし晩年になるにつれて、いっそう意気軒高たるものとなっていく。そのエピソードをひとつ。アーノルド・シュワルツェネッガー(愛称:シュワちゃん=淀川長治命名)が映画の宣伝で来日したときの逸話である。以下はその対談から──


シュワちゃん「本当に87才? ちょっと待って。あなたの健康の秘訣を教えてください」
淀川長治さん「一緒にお風呂に入ったら教えてあげる」
シュワちゃん「わかりました。じゃあ、お風呂でお聞きしましょう」


好々爺もいいところだが、そのシュワルツェネッガーに向かって「私アンタの息子になりたい」とのたまうところなど向かうところ敵なしで、ターミネーター以上に手ごわいかもしれん(笑)。

1998年11月11日、淀川長治は89歳で亡くなった。彼が『日曜洋画劇場』で最後にした映画解説は『ラストマン・スタンディング』(1998年11月15日放送分)、死の前日に入院先の東大病院から車椅子でスタジオに出向いて収録されたのだった。
最後に、著書『男と男のいる映画』(青土社刊、1996年)のあとがきから。淀川長治はそこでついに告白をするにいたる──


子どものころから男が好きだった。


【2001/12/30 江原・記】



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