戦争が始まった。イラクがクウェートに侵攻し、アメリカ(「多国籍軍」という呼び名もあるが、実情は「アメリカ軍」とでも形容すべき性格のものである)が爆撃を開始した、いわゆる「湾岸戦争」がそれである。よく引用される譬えとして、サダム・フセインは“強盗”で、それをつかまえるブッシュは“警察官”なのだと概してよく言われている。つまりイラクは「悪」で、アメリカは「正義」だとする見方だ。確かにフセインは強盗に違いないだろうが、同じように警察官までが盗みを働いていたらどうだろう? このことは、ある意味で「死刑制度」ともよく似ている。人を殺した行為は確かに悪い。悪いが、だからといってその殺人者を死刑(リンチ)によって抹殺する行為はなお悪いことである。死刑こそは国家による「殺人行為」といってよい。
ではブッシュは、アメリカは、イラクのやった行為を何のわだかまりなく非難できるのか──いや、できないのだ。ベトナム侵攻にしろパナマ侵攻にしろ、土台やっていることはイラクと大差ない。むしろイラクには侵攻するだけの「正当な理由」があったが、アメリカにはそれすらもない。
では国連安保理が決議した、武力行使の「容認」ならば許されるか? アメリカが最後まで連関(リンケージ)を拒否し続けた「パレスチナ問題」を例にとれば、国連のパレスチナ分割決議、ついで安保理によるイスラエルの生存権承認こそが、今日のパレスチナの地(イスラエルとは呼ばない)における諸悪の根源なのだということは自明の理であろう。すでに国連は必ずしも平等で中立的な機関とは言えまい。
今回の「湾岸戦争」は、まずアメリカがイラクに宣戦布告したことに起因しており、とりわけこれは重視しておかなければならない。問題は、「誰が戦争を始めたか」である。もちろん繰り返しておくが、イラクによるクウェート侵攻は非難されなければならない。だが、アラブの問題はやはりアラブの中で解決するべきであって、クウェート侵攻を根拠に「戦争」も辞さないとするのはしごく荒唐無稽な、飛躍した論理である。すでに大半の人びと(アメリカの“非論理的思考”に屈従する人びと──日本人もそれに含まれる)はアメリカのイラク侵攻を、あるいは日本からの軍資金援助や軍隊機派遣を「仕方ない」ものとして許容するのだが、とりもなおさずそれは、戦争行為の「黙認」でもある。そうして私たちの最も恐れていたこと──本来なら、憲法第9条の文意に准じて「(良心的)戦争不参加」を内外にアピールしなくてはならないはずの日本が、ついに「戦争への加担」に踏み切ってしまったのである。
ところで、少し「戦争の原理」について私見を述べたい。従来、戦争とは「国家の政治的対立」または「敵国領土の植民地化」を理由として引き起こされ、その最終的目標は「勝つ」ことにあった。しかし今日、その形態は大きく変化した。今度の場合もそうだが、腑に落ちないのはイラクのクウェート侵攻を、アメリカは事前に偵察衛星などで察知していたにもかかわらず、それを見逃したことである。実はアメリカにとってイラクの動きは、“飛んで火に入る夏の虫”だったのではないか。
そして常道として、「戦争遂行によって誰が得をするのか」ということも見落としてはならない。ベトナム戦争でアメリカは敗北したとされるが、一部の輩は“嬉しい悲鳴”を上げた。その輩とは「多国籍軍需産業」のことを指す。今回においてもそれは顕著で、事実上「ハイテク兵器産業見本市」の感を呈している。武器を大量に浪費することで内需を拡大し、また実験成果を世に知らしめることで効果的に世界市場を開拓する。さらに貿易赤字も解消できるとあってはやらない手はない。突きつめて考えれば戦争とは、すぐれて「経済的行為(ビジネス)」なのである。ベトナム戦争がそうであったように、「勝つ」ことが目標ではなく、できる限り戦争を長引かせることが大事なのである。おそらく今回もまたそうなるであろう。
フセイン大統領が、さる1990年10月22日にNHKとの会見で語った以下の発言は、決して無視しえないものがある。
われわれは中東でも世界でも平和を求める。私が戦争を望んでいると言われるが、それは米国指導者の考え方であり、正しくない。戦争を望むのは米国だということが、やがて明らかになるだろう。
とかく私たちは、フセイン大統領を“ヒトラー”(フセインに武器を調達しここまで育てたのは実はアメリカだった、だから正確には“フランケンシュタイン”の方が妥当か)の再来としてステレオタイプに見立てたりするが、実は本当の“ヒトラー”は「目に見えていながら」「まだ誰の目にも見えていない」のではあるまいか。最後に、第2次世界大戦の開戦と余りに酷似したこの「湾岸戦争」が、第3次の幕開けとならなければよいのだが…
【1991/02 江原・記】
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