「無事」法案
米軍に侵略される…これこそ「真の有事」
内田 樹
現在、議論されている「有事」法案は、わが国にとっての「有事」とはどういう事態であるかを真剣には考慮しておらず、それゆえ、「国家危急存亡の秋(とき)」に際会したときに、たぶん何の役にも立たない。私はそう思っている。以下にその所以を述べる。
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「有事」とは何か。まず、その根本のところから考えてみよう。
日本史を播(ひもと)くと、わが国が「有事」の呼称にふさわしい武力攻撃を経験したことはそれほど多くない。まじめに数えると、2度の元寇
(げんこう)(1274、81年)と薩英(さつえい)戦争と馬関戦争と沖縄戦(1945年)、この5回だけである。728年間に5回。薩英戦争と馬関戦争では、鹿児島は市街の一部を焼かれ、長州藩は砲台全部を壊されたが、戦死者は数人にとどまり、戦闘期間も3日にすぎなかった。この2つの象徴的攘夷(じょうい)戦をとりあえず除外し、さらに元寇を「あわせて1回」と数えると、わが国が経験した「大侵略」はこれまでに2回であり、歴史的インターバルは364年という数値が得られる。これを単純に当てはめると、「次の有事」の訪れは、2309年ということになる(そのころまで日本があれば、の話であるが)。
もちろん、「有事」の時間的間隔の平均値そのものには何の意味もない。しかし、それから知れることもある。それは、「真の有事」というのがきわめて例外的な事例であるということである。日本が経験したそれ以外の「外患」は、実はほとんどが「日本が他国を侵略した」ことに端を発しているのである(あらかじめ侵略準備を進め、自分の方から仕掛けておいて、「一朝有事」はないだろう)。
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もう一つ気づくことがある。それは、わが国がこれまで経験した5回の「有事」については、その相手方がすべて世界の「スーパー・パワー」だということである。モンゴル帝国、大英帝国、フランス帝国、そしてアメリカ合衆国。なんと堂々たるラインアップではないか。
つまり、日本史上における「有事」とは、同盟者のいない孤立無援の局面で、超大国による武装侵略を受けることなのである。それ以外の戦闘はおよそ「有事」の名に値しない。
だからこそ「有事」への「備え」がますます必要となるのではないか、とさらに反論する人がいるかもしれない。
本気でそんなことを言っているのだろうか。そうおっしゃる夫子ご自身、本気で「孤立無援」で「世界最強国」と戦うだけの「備え」をする覚悟がおありなのだろうか。私は懐疑的である。
というのは、現在の世界最強国はアメリカ合衆国であり、そのアメリカはわが国の“軍事同盟国”だからである。そうである以上、論理的に考えれば、この国際関係論的文脈において、「有事」と呼ばれる事態は次の2つの場合しかありえない。
アメリカが日本を侵略する。
他国が日本を侵略するのを、アメリカが黙認する。
この2つだけが真に「有事」の名に値する危急的事態である。
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しかるに、現在の「有事」法案議論では、だれ一人この危機の可能性には論及しない。「在日米軍が攻撃を受けたらどうするのか」という問いかけはあるが、「在日米軍が中立不干渉を決め込んだらどうするのか」「在日米軍が日本を攻撃してきたらどうするのか」という問いかけはだれも口にしない。たぶんその問い自体を思いつかないのだ。「有事」を熱く語る人々自身、骨の髄まで「平和」に弛緩(しかん)したせいで、「真の有事」とは何かを、想像することさえできなくなっているのだ。
「真の有事」は決して到来しない、世界最強国は忠実な同盟国として永遠に日本の安全を保障してくれる、というゆるぎない主観的願望の上に策定された「有事法案」。私はそのようなものを「有事」法案とは呼ばない。ぜひ「無事」法案と呼ばせて頂きたいと思う。
内田 樹
うちだ・たつる 1950年、東京都生まれ。神戸女学院大学教授。専門はフランス現代思想。東京大卒、東京都立大大学院修了。同大人文学部助手などを経て現職。近著『「おじさん」的思考』(晶文社)で「正しいおじさんの常識」擁護論を展開。他の著書に『ためらいの倫理学』など。
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