| BACK | HOME | NEXT |


アルマゲドン計画

ジェームズ・マン




cheney_rummy.jpg
Source: AP



アルマゲドン計画

ジェームズ・マン

2004年3月 アトランティック・マンスリー


レーガン政権の時代に、ディック・チェイニーとドナルド・ラムズフェルドが中心となった秘密計画があった。核攻撃で万一政府首脳が死亡する事態となった場合に、正式な法手続を経ず直ちに新「大統領」を政権に据えようとするものだ。この計画をみれば9/11以後のブッシュ政権の動きもわかりやすい。

1980年代、ディック・チェイニーとドナルド・ラムズフェルドは少なくとも年に1度は姿をくらました。当時チェイニーは連邦議会議員を勤勉に務め、共和党の出世株だった。一方ラムズフェルドはフォード政権の国防長官を務めたのち、シカゴでビジネスエグゼキュティブとして活躍していた。GDサール社[製薬会社、現在の社名はニュートラ・スイート社]の社長となったラムズフェルドの尽力で、ニュートラ・スイート[甘味料アスバルテームの商品名(または商標)]、イコール、メタミュシルなどの製品の売れ行きは順調だった。そんな中、時おり3、4日にわたり議会のだれもチェイニーの行先を知らず、サール社でもラムズフェルドの居場所がわからないことがあった。妻たちでさえ緊急用として何やらよくわからないワシントンの電話番号を渡されていただけだった。

1日の仕事を終えたラムズフェルドとチェイニーが向かったのはワシントン郊外のアンドリューズ空軍基地だった。ふたりはそこから二手に分かれ、夜の闇をついて国内の人里はなれた軍の廃基地や地下避難施設などをめざした。それぞれに連邦政府の役人40人から60人とレーガン内閣の閣僚1人がついており、どちらの行先にも高性能の通信機器その他の機材を積んだ鉛張りのトラックの一団も向かっているのだった。

ラムズフェルドとチェイニーはレーガン政権の最高機密にあたるこの計画で中心的役割を果たしていた。ソ連との核戦争を想定し、戦中戦後に政府が滞りなく機能するよう政府役人が密かに詳細計画の演習をしたこのプロジェクトでは、場合によっては超法規で秘密裏に後継の「大統領」とそのスタッフを選ぶことが認められていた。政権の継続性維持を目的として迅速さを最優先するため、面倒な法的手続きを省こうという考えで、下院議長、臨時上院議長、その他議員の役割は大幅に縮小されることになる。

この計画はラムズフェルドあるいはチェイニーの発案ではなく、政権内から出てきた考えである。ラムズフェルドが少しのあいだ中東使節を務めていたことをのぞき、ふたりともレーガン政権において閣僚ではなかった。それにもかかわらず、ふたりはこの計画の中心人物であった。

年月を経て、この取り組みに関する詳細がいくらかは明るみに出てきた。しかし計画がどのように機能していたのか、チェイニーとラムズフェルドが果たした中心的役割は何なのかについては何も明らかになっていない。この計画は、2001年9月11日のテロリスト攻撃の数時間後、数日後、数ヶ月後における子ブッシュ政権の考えと行動を説明するものとしていま特に注目すべきである。チェイニー副大統領はブッシュ大統領に、その日はワシントンに戻らないよう強く要請し、ラムズフェルド国防長官は、ウォルフォウィッツ副長官に市外へ行くよう命令した。チェイニー自身は、ワシントンから「秘密の場所」へと移動を始め、連邦政府のその他の役人らはその後ワシントン以外の場所に移されて業務を続けた。さらなる攻撃があった場合にも政府機能を維持するためである。これらの措置はすべてレーガン政権の秘密計画演習に基づいたものであった。

1962年のキューバ危機以降のアメリカ政府で、ソビエト連邦との核戦争の可能性を最も深刻に捉えていたのは第一期レーガン政権であった。レーガンは1980年の選挙キャンペーン中にアメリカが核の応酬に勝ち残るための民間防衛プログラムの必要性について述べていたが、大統領の座についてからは民間防衛の拡大推進にとどまらず、ソビエト連邦に対する核戦争の長期化までを見越した新たな防衛方針を承認した。核戦争に備えたこれらの公的な取り組みの陰の構成要素として、チェイニーとラムズフェルドが参加していた演習があったのである。

この秘密演習は、ワシントンに核攻撃が仕掛けられた場合、アメリカが「首なし状態」にならないよう、つまり文民指導体制に空白が生じないよう迅速に行動する必要があるという前提に基づいている。核戦争を戦い抜くレーガン政権の戦略の中心は、政府・軍部の要人と彼らの通信回線を攻撃することでソビエトの指導体制を首なしにすることにあったと思われる。レーガン政権は、アメリカの核戦略家がソビエト連邦に対して計画していることを、ソビエトはアメリカに対して絶対に実行することができないようにしたかったのである。

トルーマン政権とアイゼンハワー政権下において、アメリカ政府はバージニア州ブルーリッジ山脈のマウントウェザーと、ペンシルバニア−メリーランド間の州境に沿ったキャンプ・デービッド近くに巨大な地下施設を建設した。これらはいずれも戦時に大統領の軍令本部として使用できるものであったが、重大な問題が残っていた。いずれかの施設に大統領が到着するのが間に合わなかったらどうなるのか。

憲法には、大統領が死亡した場合または執務不能となった場合に副大統領が後継者となることが定められている。そこから先の継承順位については何も記されていないが、これについては連邦法(最新のものは1947年の大統領継承法)に詳細が定められている。副大統領が死亡もしくは職務遂行不能となった場合、下院議長が大統領となる。その次には上院の臨時議長(通常は与党で一番長く務めている議員)、そして閣僚(職位が定められた順すなわち国務長官に始まり、財務長官、国防長官などと続く)の順となる。しかしながらレーガン政権は、この手順ではソビエトと全面戦争になった場合に瞬時を争う緊急性に対処できないのではないかと懸念した。核攻撃で仮に大統領と副大統領、さらに下院議長まで死亡したらどうなるのか? 継承法の順番でまだ生きている次の人間を探すのに手間取っている間、誰が国政にあたるのか? アメリカ軍司令官に攻撃への対応を直ちに指示する文民指導者は誰なのか? その指導者はどうやって軍部と連絡を取ればよいのか? 核の応酬が続く中、誰がソビエトの指導者と戦争終結の合意を取り付ける権限をもつのか?

計画の概要は単純なものだった。アメリカが核攻撃を受けた(または近々受けると考えられる)場合、ワシントンから3つのチームがそれぞれ国内の異なる場所へ送られる。どのチームもいざとなれば国の指揮をとる態勢にあり、大統領になる用意のある閣僚1名が含まれている。ひとつのチームがその場所をソビエト連邦に突き止められ核攻撃を受けた場合には、第2または必要に応じて第3のチームが任務を引き継ぐ。

これは具体性のない机上の計画ではなく、明確な詳細をもって実施された。各チームには例えば「赤」や「青」などの色で名前がつけられ、それぞれのチームに新しい大統領首席補佐官として動くことのできる経験豊富な高官が1人含まれていた。つまり行政府、できれば国防機関で上級職を務めた人間だ。チェイニーとラムズフェルドはふたりともフォード政権で大統領首席補佐官の経験がある。そのほかには、後にCIA長官となったジェームズ・ウールズリー、一時期レーガンの実際の大統領首席補佐官を務めたケネス・ドゥーバースタインなどもチームリーダーとなったことがある。

各チームの閣僚には国防の経験が乏しい者もいた。様々な時期にこの秘密演習に参加した面々は、例えばレーガンの最初の農務長官であるジョン・ブロックや、商務長官のマルコーム・ボールドリッジなどである。メンバーは外交における経験ではなく、むしろスケジュールが空いているかどうかで決まるのであった。これらの「大統領」の中にはチェイニーやラムズフェルドのような経験豊富な補佐官のための単なる名目上のリーダーも含まれていたと言っていいだろう。それでも、命令を出すのはその閣僚たち、つまり、少なくとも閣僚たちの名前の下に命令が出されたのである。

これらの演習で研究された課題のひとつは、チームが信頼性を確立するための具体的な段階であった。アメリカの国民や同盟国、さらにソビエトの指導者に対し、ブロック「大統領」あるいはボールドリッジ「大統領」がいまや国政の長であり、アメリカの正当な指導者として扱われるべきだということを立証するにはどうしたらよいだろうか? 選択肢として考えられるのは、新しい「大統領」に命令を出させ、潜水艦を深海から海面まで浮上させることであった。潜水艦を浮上させる権限は、その権限をもつ者が軍を完全に掌握していることをはっきりと示すからだ。軍部を支配下に置くというこの点が、外国でのクーデターに際し、アメリカ政府がその指導者を承認するかどうかの判断基準のひとつとなっている。

「我々が直面した厄介な問題にはこういうのもあった」、このプログラムを計画した関係者のひとりは明かす。「つまり核攻撃後に議会を再生させるかどうかだ。結論は、議会なしの方がやりやすいということになった」。ひとつには、議会を再召集して死亡した議員の代わりを選ぶのには時間がかかりすぎると考えられたことがある。さらに、もし議会が再召集されれば、新たな議長が選任される可能性があり、秘密計画で大統領になるよう決められた農務長官や商務長官より、その議長の方が大統領として正当性があるということになりかねない。下院の新議長を選ぶ選挙は時間がかかるだけでなく、混乱を引き起こす可能性がある。レーガン政権が第一にめざしたのは、核戦争という緊急事態における分刻みの要求に対応できる指揮系統を定めることであった。このような場合には通常の継承プロセスで新大統領が宣誓就任する時間はなく、新大統領が新しいスタッフを任命する時間もないと考えられた。ただレーガン政権は、このプロセスの確立にあたり、議会に諮って合憲性を得ようとはしなかった。

レーガン大統領は秘密の大統領命令により政府続行計画を定めた。レーガン政権下で国家安全保障担当補佐官を務めたことのあるロバート・マクファーレンによると、大統領自身がその3チームの長を決める最終判断を下した。当時の国家安全保障会議においてこの秘密計画の「実行役員」だったのがオリバー・ノースで、のちにイラン・コントラ疑惑の鍵を握る人物となる。ブッシュ副大統領は、これらの取り組みの一部を監督する権限を与えられた。そのために新たに設立された政府機関は国家計画局という毒にも薬にもならない名称だったが、ワシントン近辺にオフィスビルを持ち、二つ星の軍司令官が管理にあたっており、秘密予算は年間数億ドルにも上った。この資金のほとんどは、各チームがアメリカ軍司令官と確実に通信するための最新鋭通信装置に使われた。実は、この秘密計画について明らかになっているごく限られた情報(おもに1991年のCNN調査レポートによる)は、元はといえば、民間企業に対する契約発注における無駄や不正の疑惑、そしてこの装置の誤作動についての申し立てから始まったのだった。

この演習は、チェイニーが連邦議会をなるべく欠席せずに済むよう、通常は議会の休会中に行なわれた。チェイニー、ラムズフェルドと、もうひとり、3つ目のチームのリーダーは各演習に参加したが、閣僚はその時に誰の都合がつくかによって異なっていた。(1度などメッセ司法長官は、バーガー最高裁長官が辞任した翌日1986年6月18日の夜明け前にアンドリューズを出発し、この演習に参加した。ある関係者が司法長官を見て「最初に最高裁判所長官が辞任、そして今やアメリカは核戦争に突入か。縁起でもない」と思ったと語っている。)

指名された大統領補佐官と大統領に加え、各チームには国務省、国防総省、CIA(中央情報局)、そして様々な内政機関の代表者も含まれていた。演習の狙いは、核戦争下で最低限の要員によりいかに連邦政府全体の舵取りをするかであった。バージニア州とメリーランド州の知事とワシントンDC(コロンビア特別区)の区長を参加させるという話も一時出たが、身元調査の結果に何らかの問題があったため実現しなかった。

演習は緊迫感が感じられるようにできていた。参加者は短時間で集合しなければならず、移動と活動は早朝に行なわれた。居住は陸軍基地のような場所で、食事は軍隊用に大量生産された携行食(初期のもので特にまずいタイプ)であった。演習期間は全体で約2週間だったが、各チームが参加するのは3〜4日のみだった。1つのチームがワシントンを出発し、演習を行った後、今にも核攻撃を受ける恐れがあるかのように次のチームへ引き渡すのだった。

この計画は、各チームの行先がソビエトのスパイ衛星に察知されないように考えられた巧妙な偽装のもとに行われた。そのため、チームは夜中に出発し、演習ごとに場所を変えた。通信装置を運ぶ本物の輸送隊に加え、おとりの輸送隊が派遣されることもあった。ともかく、各チームが陣取っている可能性のある国内の仮施設を3箇所ともソビエトが標的とすることはどう考えてもできないだろうというわけである。

常に移動できるようにするために数々の手段が取られたが、出色なのは国家緊急時用空中コマンドポストと呼ばれる特別機だった。これはアンドリューズ基地のボーイング747を改造したもので、会議室と最新型通信装置が特別に設置されている。機内で大統領は、空中にいながらにして、核対決のさなか国を動かすことができる。ある演習では、チームはこの飛行機で沿岸を上へ下へと飛行しアメリカ全土を東西に行ったり来たりして、空中給油をしつつ、3日連続で上空に留まっていた。

父ブッシュが1988年に大統領に当選した時、レーガンの秘密計画のメンバーはこれを喜んだ。最初からこのプロジェクトに深く関わっていたブッシュには、その複雑な内容の手ほどきは必要なく、また、この計画を見直す気もないと思われたからだ。実際、モスクワとの関係が劇的に改善されたにもかかわらず、ブッシュは演習を続行し、変更はほとんど加えなかった。チェイニーは国防長官に任命され、チームリーダーを降りることとなった。

ベルリンの壁が倒され、ソビエトが崩壊した後、演習の根拠は変わってきた。ソビエトによる核攻撃は明らかにもう説得力を失った。しかし、もし核兵器を持ったテロリストがアメリカを攻撃して大統領と副大統領が死亡したら? しかし結局、クリントン政権初期に、このシナリオは時代遅れで無理があり、冷戦の単なる遺物であるということになった。アメリカの覇権を奪う力をまだ持っている敵など世界のどこにもいないとして、この計画は中止されたのだった。

2001年9月11日まで事態に変化はなかったが、この日チェイニーとラムズフェルドは突然、何年も前のリハーサルどおり、脚本にあった役を演じ始めた。チェイニーは、ホワイトハウスの地下シェルターから大統領緊急オペレーションセンターに電話をし、ブッシュ大統領にフロリダからワシントンへ戻るフライトを遅らせるよう進言した。国防総省では、気乗りのしないウォルフォウィッツに、ラムズフェルドが、ワシントンを出て核攻撃に備えた地下壕に避難し安全を確保するよう命じた。チェイニーはまた、ハスタート下院議長やその他の議会リーダー、ベネマン農務長官とノートン内務長官をはじめとする数人の閣僚に、首都から離れ所定の安全な施設に避難するよう命令を出した。チェイニーは数日後に、こうした行動をNBCのティム・ラサートに説明したが、「核攻撃の可能性に関連して冷戦中に多くの計画を立てていたのだ」と言葉を濁し、レーガン政権時代の計画や、自分とラムズフェルドが定期的に参加して国家運営の訓練をした秘密演習については言及しなかった。

憲法の枠外の政府続行計画にチェイニーとラムズフェルドが参加していた事実はそれ自体驚くべきことだが、それだけではなく、このふたりの背後に潜む真実も広く明らかにするものだ。フォード政権以降30年にわたり、ふたりは行政府にいなかった時でさえも、政権から遠ざかったことはなかった。防衛、軍事、情報局のスタッフに常に求められて連絡が絶えることはなく、ふたりはある意味で、アメリカの隠された永久国防装置の一部ともいえた。そこでは大統領は来ては去っていくが、アメリカが戦いをやめることはないのである。


(訳=川井孝子/TUPメンバー 「TUP-Bulletin」HPより ※文中[ ]内の注釈は訳者による)


原文:The Armageddon Plan
http://www.theatlantic.com/issues/2004/03/mann.htm



【関連記事】

米外交に破滅的な災禍 チェイニー・ラムズフェルド一派を批判
イラク開戦など重要な米国の国防政策をめぐる意思決定が、“徒党”を組んだチェイニー副大統領とラムズフェルド国防長官一派にによって密かに下された──と、パウエル前国務長官の首席補佐官を務めたローレンス・ウィルカーソン氏がブッシュ政権の指導体制を痛烈に批判している。(ベリタ通信=有馬洋行)

ウィルカーソン氏は25日付の米ロサンゼルス・タイムズ紙に「ホワイトハウスのカバル(徒党)」と題する一文を寄稿。ブッシュ政権の意思決定システムが、チェイニー・ラムズフェルド氏らによる少数グループによって牛耳られ、この結果、米国の外交政策に破滅的な災禍をもたらしていると指摘している。
同氏は、重大な国防政策は国家安全保障会議(NSC)によって意思決定が行なわれるはずなのに、ブッシュ第1期政権下では、NSCが事実上無視され、チェイニー・ラムズフェルド一派が、ブッシュ大統領の全面的支持あるいは委任によって密かに意思決定を行なったと指摘した。
NSCは第2次大戦後制定された国家安全保障会議法に基づき、1947年に誕生した。同年には米中央情報局(CIA)も作られている。国防政策に関する意思決定を行い、大統領に助言する重要な任務を持つ。事務局長は大統領補佐官(国家安全保障問題担当)が務める。
ブッシュ第1期政権ではライス氏(現国務長官)が事務局長を務めた。メンバーは、大統領、副大統領、国務、国防両長官。統合参謀本部議長やCIA長官も出席することがある。
ウィルカーソン氏はNSCが形骸化し、政府内に「二重の意思決定システムが存在した」と述べ、NSCをまとめる役割を持つ当時のライス補佐官は、チェイニー・ラムズフェルド一派に圧倒され、その役割を果たしていなかったと批判した。
またチェイニー・ラムズフェルド一派の意思決定のプロセスを「狭量かつ秘密的」と述べ、この手法は、迅速かつ効率的に意思決定を行なうことに都合がよいかもしれいないが、これでは、民主主義というより独裁制に近いものになると批判した。
さらにチェイニー・ラムズフェルド一派が国務省内などの反対意見を無視し、その後の外交政策に多くの不具合を生じさせたと指摘。指導部に属する者は、反対意見にも耳を傾け、「分析し、総括し、熟考し、そして決定する」ことが必要だと指摘した。
一方、ウィルカーソン氏は、パウエル国務長官が当時、「新人で経験のない大統領」を懸命に手助けしたと賞賛。パウエル氏の支援がなければ、ブッシュ第1期政権は、もっと惨めなものだっただろうと述べた。
具体的には、01年4月に起きた中国軍用機と米偵察機との接触事故の後始末や、イラク戦争をめぐって関係がこじれた欧州諸国との調整役を務めた。
ブッシュ政権の対イラク戦争をめぐっては、イラクの復興支援に従事した国務省高官のロビン・ラルフ氏が、米議会が資金提供している非営利組織「米国平和研究所」が行なっている口頭記録作りの中で、ブッシュ政権は、対イラク戦争に準備不足のまま、性急に突入したと批判している。同氏は、イラク戦争を急いだのは、ブッシュ大統領の再選キャンペーンを有利に運ぶのが狙いだったとの見方をしている。
一方、父親のブッシュ元大統領の補佐官を務めたスコウクロフト氏も、最近米誌ニューヨーカーに対し、イラク戦争に異常なまでの熱意を見せたチェイニー副大統領の独走を嘆く見解を寄せている。同氏は、「チェイニー氏を友人を考えている。彼を30年間も知っているが、今やチェイニーのことがわからない」とさじを投げる発言をしている。(日刊べリタ 2005/10/26)

ref. The White House cabal (Los Angeles Times 2005/10/25)



【関連サイト】

核戦争 “アルマゲドン計画” 実際稼動(韓国・京郷新聞)

'Armageddon' Plan Was Put Into Action on 9/11, Clarke Says (Washington Post)



btn_back.gif  btn_home.gif  btn_next.gif

| BACK | HOME | NEXT |