「オレはさ、何でもないものになりたいってよく思うけど…」──とは、『二十才の微熱』のなかで主人公のタツルが言っていたセリフだ。それには私も共感を覚える。すでに在る何かになってしまうことは鋳型に入れられるみたいで極力避けたい、脱線したい、というのが本心にあり、およそカテゴリーだのレッテルだの帰属意識だのとは無縁でありたいという。
「私は日本人である前に人間である。私は必然的に人間であるが、日本人であるのは偶然である」と、ちょっとばかりモンテスキューの名言を我田引水的に書き換えてみたけど、要するに言いたいのは、国家への帰属意識さえも無縁でありたいと。国籍というものが邪魔をして、なぜ鳥のように国境を自由に行き来できないのかと。同じことは会社や学校にも言えて、幸い私には縁がないが、やれ「肩書き」だの「記章バッヂ」(レッドリボンはぜんぜんOKだけどね)だのを誇示してよく恥じないものだと思うよ。きっと本人は何とも感じてないだろうけど、いかにも忠誠心まるだしでみっともないったらありゃしない。

以前から、GAOの存在はとても気になっていた。GAOというネーミングやハスキーヴォイスは言うに及ばず、その存在自体惹かれるものがあった。去年(1994年)11月にライブハウスの小さな会場で、『Wonder Child GAO-BASIC』というコンサートがあったのでふらりと出かけてみた。場内は圧倒的に女性の観客がほとんどで、「GAOカワイイ」とか「GAOカッコイイ」とか黄色い声がやたら飛びかっていたが、そんな私は心のなかでまったく同じ言葉をつぶやいていた。コンサートは生ギターによるGAOひとりきりのライヴ。至近距離でGAOと接し、GAOの世界を堪能することができてとても素敵な一夜だった。(ところで、GAOと西村和彦の顔ってどことなく似てない?)あるテレビの歌番組にGAOが出演したときのこと、こんな質問が寄せられたのを憶えている──「GAOさんは女なのか男なのか、本当はいったいどっちなのですか?」。確かGAOはどっちとも答えなかったと記憶するが、私はまたずいぶんアホな質問をするものだと思った。GAOが男だろうと女だろうとそんなのどっちだっていいし、現にGAO自身「性別を超えた存在になりたい」と語り、それを実践するように「年齢・性別・本名不詳」で通していて、何よりそれがGAOの魅力でもあるわけなんだから、『天才バカボン』ではないけれど、やっぱりGAOはGAOだからGAOなのだ、と言いたい。
年齢・性別・名前さえもできれば無縁でありたいという、GAOの存在はよけいに私をそういう気分へと駆り立ててくれる。たとえば性別、人はどれほどそれにこだわり、窮屈で、がんじがらめになってしまっていることか。異性愛/同性愛、と性別で分類して当たり前のようにこれを受け入れているけれども、その範疇に属さないケースだってあるわけで。なぜかヘテロセクシュアルからもホモセクシュアルからも蔑まれている立場なき存在としてのバイセクシュアルの人たちに対する、「男とも女ともできる」だの「両刀づかい」だのといった偏見は、結局のところ「性別への執着」にあるように思える。結果として男を、女を、好きになったにすぎないのであって、むしろそういった性別を超えたところで恋愛が成立したって全然おかしくはないし、モンテスキューの文句ではないけれど、男である前に、女である前に、人間として人間を好きになったっていいじゃないか、ってね。愛だろ、愛ッ!
このことは、突きつめていくと、「アイデンティティ」とも無縁でありたい、という究極的な境地にまで到達することになるのだが、よくよく考えてみれば冒頭の「何でもないものになりたい」というタツルの言葉も、そういった意味あいのようにとれなくはない。(余談だが、ジャーナリストの黒田清さんが「『アイデンテェテェ』なんてホンマ難儀な言葉やな、『わてはわて』でええんとちゃうか」と語っていたのを聴き、「なかなかええこと言うがな、このオッサン」と、素直に感心したことがある)
とかく異性愛者は異性愛者としてのアイデンティティを、また同性愛者は同性愛者としてのそれを保持しようとするけれども、理想がかなえば、私はそういったカテゴリー(「垣根」と言い換えてもいいが)からも逃走したいと思っている。「ゲイである」というアイデンティティを強化する、ということに抵抗を感じることのひとつは、自分自身に対してレッテルを貼りはしないだろうか、ということである。「ゲイである」ことを自ら請け負うことで、カセをはめることで、アイデンティティを固定(観念)化・制度化してしまいはしないだろうか、ということである。自分たちのアイデンティティに固守するあまり、他を排除しかねないこともありうるのに、そのことはとうにヘテロセクシズムで証明されたことではなかったろうか。ヘテロ/ゲイ/バイなどと紋切り型に定義づけたところで、そこからはみ出した人たちの存在、違和感を覚える人たちの存在はいったいどうなるのか? それよりむしろ、差別や偏見の“温床”(と考えているが)としての垣根をこそとっぱらってしまうべきではないだろうか。何より、
不自由ではありませんか?
こんなことを前に聞いたことがある。「身体障碍者」や「健常者」という言葉は、ふだんコロニーのなかでは使われないのだという。もともと対等な共同社会では、ことさらに区別(差別化)する観念を持ち合わせていないからだと。バイセクシュアルに「可能性としての恋愛」観をいだくのも、異性愛/同性愛、といった垣根をとり壊してくれる存在と思いたいから。本来、人が人を好きになるのに垣根なんか要らないんだ、誰を愛したっていいんだと。そのことに気づけば、少しは気がラクになると思うよ。──For Every Good Friend.
【1995/01 江原・記】
■GAO - 突然 君と出会いたい
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