ここに幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの何人かが毎日他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じであることを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態を描いた図なのである。─パスカル(『パンセ』)
人生は短い、あまりにも短い… 光陰矢の如く、人の生はあっけないもの。映画『リトル・ブッダ』のなかで今も心に留めているセリフがある。無常とは何か?
あと100年も経てば、私たちは誰も生きていない。無常とはそういうもの──
黒澤明監督の映画に『生きる』(1952年)という作品がある。数ある黒澤映画のなかでも最高傑作と賞され、これまで私は何千本と映画を見てきたかしれないが、そのなかでもとりわけて生涯のベスト3に入る映画である。かのスティーブン・スピルバーグ監督も、黒澤映画のなかでこの『生きる』が一番のお気に入りだとか。

映画『生きる』の主人公である市役所の市民課長・渡辺勘治(志村 喬扮する)は、30年間皆勤してきたほど仕事真面目な人間だったが、ある日不意に、自分が胃ガンで余命いくばくもないことを知らされる。これまで30年間いったいこの私は何をしてきたのか、ただムダに過ごしてきただけだったのではないか──落胆、絶望、彷徨しながら、やがて彼は「生きる」ことの本当の意味を見つけ出していく。

死に直面してはじめて「生きる」ことを決意する渡辺勘治の情熱といおうか執念は、凄まじくもある。30年間を“すっかり死んでいた”彼が、「いや…遅くはない…ただやる気になれば…わしにもできる…」と悲愴な覚悟で決意し、死ぬ間際になってやっと「生きがい」をつかみとった。その『生きる』が、今日アメリカで、エイズとともに生きる人たちの間で共感を呼び、評判なのだという。

話は変わるが、1994年5月29日にエイズで亡くなった平田 豊氏は生前こんなことを語っていた。
あるとき、病院の個室でテレビを見ていたんだ。ぼんやり見ていたら、新宿東口の辺りが映ったんですよ。人がごった返しているところ。そのとき、ふっと思ったことがあった。ああ、こうやって歩いている人も、いつかみんな死ぬんだなと。そうしたら、急に気が楽になった。エイズにかかれば99%死ぬ。だけど、人は100%死ぬんだと。そうしたら、何も怖いことはないじゃないか。体を病んでも、心まで病む必要はない。そう思った。(『AERA』1992年11月10日号)
みなさん ありがとう 最後までとても楽しかったです
いろんな人に迷惑かけてしまいましたが お先にいきます
それじゃあ グッバイ
そう辞世の歌を詠み、彼は旅立っていった。しかし遅かれ早かれ、いずれこの私(たち)も旅立たねばならない時は訪れる。以前見たテレビ番組『関口宏のびっくりトーク・ハトがでますよ!』のなかの1コマ、ゲストとして出演していた上岡龍太郎氏が平田 豊氏とまるで同じような発言をしていたので、併せてここに採録しておく。
関口 自分としてはやっぱり死を考えることが多くなった?上岡 ええ、すごく多いですね。で、ひとつね、考えついたんですが、心配しなくても、人間の死亡率は100%なんですよね。この事実に気がついたら楽なんですよ。
関口 ぼくも昔そう思いましたよ。死って怖いものね。死考えて寝られなくなっちゃったりなんかした子どもの頃あるけれど、でも死ぬことに失敗した人っていないなあ。
上岡 ええ、だから例えばガンにかかった人だけが死ぬ、あるいはエイズウイルスが体のなかに入った人だけが亡くなってしまうのなら、悔しくてツラくてイヤだけど、大丈夫なんです。ガンにならなくても死ぬんですから、みんな。自分の人生が決められたら、その間を充実して生きるのが、1番いいんやないですか。長い短いの問題やないと思うんですよね。そしたら、ぼくら今ダラダラ生きてますけど、ひょっとしたらみんな、明日死んでも何にもおかしくないし、あと30年生きたって誰もおかしくないですよね。ただ何年か分からんから、みんな無意味な時間過ごしたりしてるでしょ。いっぺん死と対面したらいいんですよ。死ぬってことわかったら、どう生きよう、と思います。ってことは、どう死のう、と思ったらいいんです。
この人生で何よりかけがえのない大切なもの、この私にとってのそれは〈時間〉である。渡辺勘治のような30年間を“ムダ生き”する人生だけは送りたくないものだ。その限られた時間の中での、人や自然との〈一期一会〉の出会いもまたかけがえのないもの。ほんのわずかな出会いだからこそ、もう2度と出会うことはないからこそ、ひとつひとつの貴重な出会いを、いとおしみたい。
【1994/09 江原・記】
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─高村光太郎(『夏書十題』)
〈時間〉こそかけがえのない大切なもの、と書いてから早15年、今は2009年9月。こうしてまだ生き永らえていることは実に「在り難い」。人の生は時間の始動とともにあり、人の死は時間の終焉として完結する。部落差別を通して人間差別の撤廃をテーマに描いた小説『橋のない川』で知られる作家・住井すゑさん(1902−1997年)は私が深く尊敬してやまない人だが、彼女の時間哲学には学ぶことが多い。
人間は時間のなかに平等に生きている命だということを認めることなんです。人間ってまことに不思議な動物でね、もっと長生きしたいとか、名誉も金も欲しいとかいろいろ考えるでしょう。でも人は時間の前ではみな平等で、あらゆるものを支配するのは人ではなく時間なんです。そして、かならず死ぬ存在であることを認識することだと思いますね。
それが住井さんの時間哲学を貫くメッセージである。彼女は言う、死ぬということは「地球の時間の外に出た」ことであると。しごく表現は易しいけれども真理を言い得ており、なんとも味わい深い(『家の光』1996年12月「いのちを見つめて生きる」より)。

黒澤明監督の『夢』は八話からなるオムニバス形式の映画であるが、とりわけて第八話の「水車のある村」が気に入っている。ある一人の老女の死を祝って人びとが盛大に音楽行進する葬列シーンが、気高く、凛として、素敵に思えた。その女性に生前恋した老人(笠 智衆扮する)は静かにこう語る。
本来、葬式は目出度いもんだ。よく生きて、よく働いて、ご苦労さんと言われて死ぬのは目出度い。生きるのは苦しいとか何とか言うけれど、そりゃ人間の気どりでね。正直、生きてるのはいいもんだよ。とても面白い。
死を嘆き悲しむでなく、祝い寿いでこそ喜ばしい。私も死ぬときはこうでありたいと思える感銘を受けた灰谷健次郎氏の遺言(遺書「親しくしていただいている方」より)を掲げて結びとしたい。
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【2009/09 江原・記】
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エイズ明かし理解を訴えた 平田豊さん死去
エイズウイルス(HIV=ヒト免疫不全ウイルス)に感染していることを公表し、差別や偏見がつきまとうエイズへの理解と支援を呼びかけてきた平田豊(ひらた・ゆたか=筆名)さんが29日午前5時13分、肺炎のため、千葉市の病院で死去した。39歳だった。入退院を繰り返しながらも精力的に活動、「感染者であることを隠さなくてもいい社会にしたい。病気は怖い。けれど、感染した人は怖くない存在なんだ」と訴え続けていた。
平田さんがエイズと診断されたのは1991年夏だった。免疫力が落ちるとかかりやすくなるカリニ肺炎をすでに患っていた。感染を公表することが、感染者と共に生きていく社会をつくる一助になればと、92年10月、都内のホテルで記者会見した。
ただ、公表する名前は、家族のプライバシーを考え、短歌を詠む時の筆名とした。それまでHIVに汚染された血液製剤によって感染した患者が、訴訟にからんで名乗り出たことはあったが、性行為による感染者としては日本で初の公表だった。
エイズヘの理解を求める団体の代表を務めるかたわら、支援集会やシンポジウムに出席、体験や思いを語り歩いた。昨年暮れには半生を語った本も出した。
「この病気のいいところはすぐに体調が悪くならないってこと。その間に、命を見つめ、自分の人生を意義あるものに立て直すことができる」。何度か口にした言葉だ。
支援団体による「追悼式」が行われるが、日取りは未定。(朝日新聞 1994/05/30)名作映画:ベスト100に「生きる」など4邦画 米誌選出
米誌タイムは22日、同誌が選んだ「ベスト映画100本」を発表した。黒沢明監督の「生きる」(1952年)など、日本映画4本が含まれており、「生きる」は50年代の最高傑作に選ばれた。ベスト映画100本は23日発売の同誌最新号で一部が紹介される。100本に順位は付けられていない。
ほかにベスト100本に入った邦画は小津安二郎監督の「東京物語」(53年)と溝口健二監督の「雨月物語」(同)、黒沢監督の「用心棒」(61年)。
洋画では「カサブランカ」(42年)「アラビアのロレンス」(62年)「ゴッドファーザー」(72年)「シンドラーのリスト」(93年)「ロード・オブ・ザ・リング」(2001年)などが入選した。
年代ごとの最高傑作としては「メトロポリス」(20年代)「孔雀夫人」(30年代)「市民ケーン」(40年代)「生きる」(50年代)「仮面 ペルソナ」(60年代)「チャイナタウン」(70年代)「デカローグ」(80年代)「パルプ・フィクション」(90年代)「トーク・トゥ・ハー」(2000年代)が選ばれた。(ニューヨーク共同)(毎日新聞 2005/05/23)「兎の眼」「太陽の子」の作家・灰谷健次郎さん死去
小説「兎の眼」「太陽の子」などで知られる作家で、教育問題に積極的な発言を続けた灰谷健次郎(はいたに・けんじろう)さんが23日午前4時30分、食道がんのため静岡県内の病院で死去した。72歳だった。故人の遺志により葬儀はしない。自宅は非公開。
神戸市生まれ。働きながら定時制高校に通い、大阪学芸大(現・大阪教育大)へ。神戸で小学校教師を務め、創作活動も始めた。72年に退職してインドやタイ、沖縄などを放浪。74年、工場地帯の学校を舞台にした「兎の眼」を発表した。
多感で繊細な子供たちや、彼らと向き合う個性的な教師たちを生き生きと描いた「兎の眼」は、児童文学として出版されたが、広く大人にも読まれてミリオンセラーに。国際アンデルセン賞特別優良作品にも選ばれた。
78年、神戸の琉球料理店の少女が、太平洋戦争と沖縄に思いを深めていく「太陽の子」を出版。その後も、寡作ながら絵本「ろくべえまってろよ」(絵・長新太)や、少年の成長を追った大河小説「天の瞳」など、ヒューマニズムにあふれた作品を発表。教員体験や独自の死生観をもとに、子どもや教育をめぐる問題にも積極的に発言した。83年には神戸市に保育園を開いた。
97年に、新潮社の写真週刊誌が殺人容疑の少年の顔写真を載せたことに怒り、同社との出版契約をすべて解消して抗議の意を表した。
作家デビュー後、兵庫県の淡路島で農耕生活を10年余り続けた。91年には沖縄県の渡嘉敷島に住居を移し、漁をして暮らした。04年12月に食道がんの手術を受け、回復していたが、今年9月に再入院していた。
97〜99年、本紙家庭面(当時)にエッセー「いのちまんだら」を連載。2冊の本になっている。(朝日新聞 2006/11/23)
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