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 ここは、Edit lab.つまり編集研究所(自称)のページです。
 私は、主にパソコン関係の出版に携わっていることもあり、「編集」と「説明するということ」に非常に興味があります。私の仕事からは、そのどちらも切っても切れない問題です。そこで、ささやかながら、これらのテーマについての情報提供を始めることにしました。といっても私の経験の範囲内からですが。
 それと、世の中の編集者に対する誤ったイメージをちょっとでも払拭したいという思いもあります。多くの方が編集者の仕事を知らないようです。企画や校正をしているだけではないということを、少しでも分かってもらい、編集者に対して正しいイメージをもって欲しいと思います。
 このページのトピックとしては、編集者の仕事、編集とは何か、説明文(テクニカルライティング)の在り方、などがあります。
 また、編集・説明することに関して広く情報も募集しています。書籍・ホームページ、MLなどありましたらお教えください。

 ちなみに冒頭の「murmur(マーマー)」とは、ぼやき、つぶやきといった意。



編集について 説明文について
コラム
 
バランス感覚
 
構成力とは
 編集者とライター、1人何役?
 デジタル編集者の時代
 編集者は何をしているのか?
 編集ってなに?
 編集者の資質
 インタビュー記事のまとめ方
 編集者のアンテナ
 世話好きな編集者

 原稿チェックの視点や態度

シラバス…ではないけれど
 編集とは?(授業プラン立案用アイディア)
 編集とは?(パンフ制作遂行にあたって)

編集のリソース
 書籍

コラム
 新聞に学ぶ説明文の基本構造
 説明文に主語的視点は必要か

 説明文はどこまで説明すればよいのか?
 理解への方策
 文章のスタイル


 

編集について


 

バランス感覚

 編集者の基本的な資質の一つとしてバランス感覚があげられます。これは、実にさまざまな側面で必要となります。たとえば…
@協力者への配慮
 制作過程における著者、取材協力者、デザイナー、カメラマンなどへの配慮。基本的に著者や取材協力者をメインに立てるのですが、でもあちらを立てたらこちらが立たないうのはまずいわけで、あちらもこちらも立ててあげないとならんです。でも、一番エライのは著者とか取材協力者なので、トラブルが起こった場合は、その他の人たちには泣いてもらったりします。一番泣くのは言うまでもなく編集者ですが。
A内容への配慮
 これは、常に読者を意識しているかということでしょうか。つまり、一般の人が読んで分かりやすい内容かどうか、著者が独りよがりをしていないか、という意味です。著者だけが分かる論理展開をしていないか、著者が著者独自の意味で言葉を使っていないか、など。編集者は1番目の読者でありつつ、2番目以降の読者=一般の読者、にどうやって伝えられるかを考えます。
B誌面への配慮
 デザイナーとの不可分領域ですが、写真やイラスト、文字のバランスへの配慮。これは面積比であることもあるし、文字の大きさであったりもするし、写真やイラストや見出しなどの適切性であったり。
C分かりやすい構成
 書籍、雑誌の全体的な構成です。言い換えれば、まあ章立てとでもいいますか。スムーズに読み進めていくために必要なバランス感覚です(これをバランスというのかどうかは?)。雑誌などでありがちなまずいことは、似たような内容の記事が同じ雑誌内で繰り返されたりすること。書籍の場合は、大きく、起承転結(読み物だけでなく説明文の場合もそれでいいのではないか)というスタイルになっているかどうか。(この構成を何度か文字で表そうとしているのだけど、どうもうまく伝えることができない。で、下に続く)

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「構成力とは」

 このコラムでもなんどか「構成力」という言葉を使ってきました。なかなか言葉で説明するのは難しいのですが、編集者にとっては必要不可欠な能力・技術なので、簡単にでも説明しておきます。前にも同様のことを書いていますが、容赦。

内容の構成力
 内容の構成というか、意味的な構成というか、概念的な構成力というか。ちょっとニュアンスが違ってきますが、たとえば章立ても構成力の1つです。また、適当な写真や図が欲しいと思うことも構成力の現れです。多分に書籍と雑誌では求められる能力が異なるとは思いますが、つまり、その記事の内容を、どうすれば十二分に伝えることができるか、に思いをめぐらし、表現(実現)するための能力と言えると思います。その際に、編集者の想像力が重要です。一体誰に読ませるのか、どんな場面でそれを読むのか、によっても構成が変わってくるはずだからです。

紙面上の構成力
 紙面に展開するのはデザイナーの仕事と思ってはいけません。もちろんデザイナーも仕事しますが。なんというか一般的に日本のデザイナーは意味的なことまでは突っ込んでこようとしません。分業は美しいと思っているのか、まともなギャラがないから、必要以上の仕事をしようとしないのか。ま、それは置いといて。
 編集者が紙面構成を考えるのは当然です。何をどう伝えたいかによって、見出しや写真の大きさや位置も決まってくるし、色使いまでも、本来なら「必然的に」決まるはずだと思うのです。デザイナーはデザインの専門性を発揮して、それをもっと効果的に表現してくれます。
 簡単に言ってしまえば、紙面の構成力とは、どれだけ具体的なラフが書けるかということでしょう。空間(二次元)の構成力と言えるかもしれない。

両者は表裏一体
 少なくとも、紙という媒体で表現しようとしたとき、内容の構成力と紙面上の構成力は、すべてとは言わないまでも、6〜7割くらいは同じもの、もしくは表裏一体のものではないか、あるいはそうあるべきではないかと思うのです。文字だけしかないものは別として(小説や学術書などは、どちらかというと著者が構成を行い、それに編集者が意見するというスタイル。僕はそれでいいとは思わない)、それ以外の編集者は、両方揃っていないとまともな仕事ができないようです。内容の構成と紙面の構成は、でも、使う頭は異なってくるようで、それぞれに得手不得手の人は当然いるでしょう。それに優れた人でも同時には力を発揮することができないと思うので、まず、内容なら内容の構成を立て、次に紙面構成を考える。それでうまくいかなければ、内容をまた考え直す、その繰り返しを行えばよいのです。この繰り返しを面倒がるようなら、あなたは編集者の資格はありません。さようなら。(1998/10/10)

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「編集者とライター、1人何役? 」

 ここ何年か、ライター兼編集者ということをやってきた。編集者から見れば、そういう状態はさして珍しくなく、自分の担当ページが埋まらなかったり、妙に興味のそそられるものだったりすると、自分で取材して原稿を起こしたりする。
 それは、自分も編集者出身なので分かっているつもりだ。だった?
 ところがなのである。今現在(1998/4/8)、ライター兼編集者を実際にやっている。それも、雑誌ではなく原稿が何に付け先行する書籍でだ。これは、自分の中での切り分け、使い分けが難しい。
 「ライター」として好きなことを好きなように書いて原稿をためた。その間、多少は仕上がりイメージも持っていた。
 にも関わらず、いざ、それを編集してデザイナーに渡すためにラフに仕上げようとしたときに、ほとんとお手上げだった。愕然とした。
 つまり、ライターとしての自分の仕事が終われば、同じ人間(つまり自分)なので、編集も比較的ラクに進むだろうと思っていたのだ。これは大きな間違いで、原稿執筆中に編集者としての自己モニターがうまく働かなかったため、ライターとしての自分が暴走して、好き勝手な原稿を作っていたのだ。
 これには困った。文字だけの原稿なら、レイアウトはどうにでもなる。ところが、図版を多数含む解説書の場合は違う。うまくレイアウト上の構成をしてやらないと、いい本にはならない。
 幸い今回はもう1人別の編集者がいて意見を聞けたから良かったものの、1人では暴走を止められなかったかもしれない。大いなる反省点だ。
 ちなみに、レイアウトの構成の手間を惜しむかどうかが編集者の性格なのだ。最後には、デザイナー任せになったり、そうするとなんとなく見栄えはいいもののよく分からないものになったりする。

 最近やっと、大方の原稿を書き終え、そろそろ自分が編集者になってきたので、原稿の善し悪しが分かる。結局ダメな原稿を受け取った編集者のつもりで、原稿(文字だけでなく図版も)を大幅に直しつつ、作業をしているわけである。

 結局、ライターと編集者は(少なくとも自分の中で)同時には両立しない! ということだ。そしてこのエピソードの教訓は、やはり最初に「編集者ありき」なのである。編集者よ、ライターに負けるな!(1998/4/8)

だいたいこんなプロセスで仕事をするのが望ましいんだろう。

 1)編集者は最初に仕上がりイメージを持つ。
 2)そして、編集者がライターに細かな指示を出す。
 3)編集者は上がった原稿をチェックし、もう一度構成を考える。
 4)そしてデザイン・レイアウトに入る...

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「デジタル編集者の時代?」

 全印刷物における現在のDTP率という統計は知らないのだけど、折りに付け、印刷所の人間に聞くと、だいたい(DTPも請け負っているところで)3〜4割と聞く。まだそんなものか、というか、もうそんなにというかは、分からないが、確実にDTP率は増えていることは間違いない。そんな中で編集者がDTPを扱えるか否かというのは、編集者自信が生き残るために必要な要素だろうか?
 編集者のDTPといっても、雑誌や書籍ではその扱いは異なるだろうし。何も編集者がデザインからやれといっているわけではない。ここで想定しているのは、文字の流し込みや、文字数の調整、誤字脱字の修正、簡単なレイアウトの修正だ。
 もちろんなんでもできるに越したことはないのだろうが、しかし、弊害も多く叫ばれる。たとえば締め切りを引き延ばす、たとえば最後に自分で直せばいいやと校正が甘くなる、たとえばDTP作業が企画や取材の時間や労力を奪う、など。
 たしかに、いろんな弊害はある。だけど、これからは企業ももっとスリム化してくるだろう。そうすると、大手はまだしも、中小はやはり何でもこなせる編集者が望まれてくる。また、当然企業の人減らしに併せて、逆に外注も増えてくるだろう。
 すると、企画力や取材力、構成力を十分に兼ね備えた人は、社内の人間でも社外の人間でも、食っていけるだろうけど、山ほどいるそこそこの編集者は、どこかで独自性を出さないとならない。人の仕事まで十分にカバーできたり、カンパケ納品ができたり、料金で勝負したり、そうしていかないと、生き残れない。そんなときに1つの強みがやはりDTPなのだろうと思う。
 これまでの編集者が校正ができるように、ラフ書きができるように、これからはDTPも編集者の能力として問われてくると思うのだな。

 DTPは、では当然として? いや当然にならざるを得ないでしょう。加えて、これからの編集者のデジタル性はもっと求められてくると思う。だってこれからもっと増えそうな、まともなWeb作りにおいて編集という観点をヌキには語れないから。ちゃんとしたところは、Web作りに編集者を使っているところもある。単なるビジュアル的な見せ方だけでなくて、Webというダイナミックなメディアのインターフェースまで考えられ、かつきちんと情報を整理できる編集者が必要なのだ。だって、見せたいものが、読者?視聴者?にきちんと伝わらないと、意味ないでしょ? ところがまだまだWebでは伝えたいものがきちんと伝わってこないものが多い(もっとも伝えたいものがないのかもしれないけど)。
 これからの編集者はもっと、そのようなインターフェースを勉強する必要があると思うな。
(1998/3/7初稿、1997/10/10加筆・修正)

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「編集者は何をしているのか? 」

 最近、とある関係で、ある財団が行う試験案内のパンフレット作りで偉そうに意見などさせてもらっています。また、最近「編集ってなにやるんですか」なんて聞かれるともあります。
 で、思うのが(下にもありますが)編集者の仕事はなんだろうということ。

 一般の人に分かりやすいのはリライト(書き直し)とか校正でしょうかね。でも校正は本来は編集者の仕事ではない。あとは、構成と整理。あれ、下と同じこと言っているな。
 具体的にどういうことなんだろう? ちょっと分かりやすい編集者の仕事を挙げてみます。

 編集者は著者から原稿をもらうと原稿を整理するということをやりますが、これは原稿の内容を体系化し直すということです。「こことあっちの内容は似ているから、別の見出しを立てて、1つにまとめよう」とか、「この箇条書きの部分は、もっと見やすくするために表にしよう」とか。

 さらに紙面に反映させる段階では、「この記述とこの図版は切り離せないから、なるべく同じ見開きページに入れたい」とか、「見出しはもっと太い(または大きな)書体で目立たせたい」とか。

 あとは用語を統一するとか、誤字脱字を直すとか、より見やすい(かつ目を引きやすい)紙面を作るとか、そういうことを、半ば無意識にやっているような気がします。
 私の場合、(時間がたっぷりあれば)原稿を元に、イチから原稿を書き直す(丸々リライト)こともあります。
 実際にレイアウトしてみると、文字が足りなかったり、溢れたり、特に書籍の場合など、成り行きでページの増減が可能なこともありますが、それでも次のページに1行だけ溢れてしまったりすると、体裁が悪くて、なんとか1行分文字を減らそうとします(もしくは行をもっと増やそうとします)その方法として、文字の加減はもちろん、図版や写真を追加したり・削除したりして調整するのです。その結果、また他のページに同様なことがおきて、また調整が必要になったりもします。

 …こんなことが目に見えやすい仕事ですが、それでもどちらかというと、これらは編集の後半の仕事です。編集の仕事の始めは「企画」と「構成」、それと「人選」。これがいい本(これが売れる本ではない)を作る秘訣かもしれません。
 人選というのは、1冊の本には、著者だけでなく、デザイナー、イラストレーター、カメラマン、写植屋(最近はDTP屋)、校正者、そして編集者と版元、とこのような人たちが関わるわけですが、どんな人を選んでいくかというのも編集者の腕とコネにかかってくるのです。もちろん予算にも左右されてきます。

 まだ、企画、構成について述べていませんが、また後日。(1998/2/17)

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「編集ってなに?」

 私は自分のことを編集者と言っていますが、実は編集ってなんなんだろうって、よくわかりません(日本語じゃないな)。本の編集もあるし、ビデオの編集もあるし。それに、編集者の仕事の領分というのもわかりません。本の仕事をしていて、DTPなどかじったものだから、ますます編集者の仕事が分かりにくくなっています。

 先日、編集者3人が集まった飲み会で、「編集というのは、その情報を必要とする人に取捨選択して、届けること」と言った人がいました。だから、そういう仕事をする人は、どんなメディアに関わろうと(メディアでない場合もあるかも知れない)編集者であるわけです。
 私自身の理解を申しましょう。編集というのは情報を整理すること、ですね。

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「編集者の資質」

 編集者の資質なんてものを語れるほど、僕自身はエライ編集者ではありません。が、これまで8年間やってきて必要だなと思うことを挙げてみましょう。コネ、ハッタリ、まめさ、神経質さ、無神経さというか無遠慮さ、こだわり、熱意、酒好き、人付き合いの良さ、誌面の品質が見えること、etc.(順不同)。

こだわりは公私の区別を排除する?
 一般に編集者は、なにか興味のあることがあって、その分野の出版を行いたいと思う人が多いはずです。
 ですが、入社してみたら全然興味のない部署へ配属されたなんてことも少なくありません。それでもやっていこうと思うのはサラリーマン編集者のかがみです。でも、そこで、別の興味を見つけることが出来れば幸せですけど。あるいは、出版そのものに興味があって、出版する内容にはこだわらないという奇特な人もいるかもしれませんね。
 とにかく興味がある分野でないと、編集の仕事は努まらないでしょう。だって、ちょっとでも編集の仕事をやってみれば分かりますが、公私の私がとても浸食されますから。「仕事だから」という意識で続けていくと、いずれ自分自身に無理が来るでしょう。好きだからこそ、「私」を削って仕事ができる、そういうものなんです、編集の仕事というのは。
 もっとも、趣味だか仕事だか分からなくなっている編集者の方が多いかも知れませんが(笑)、それはそれで一つの幸せ。

コネ・宴会・無遠慮
 えと、自分が多少なりとも編集の仕事をやってきて、思うことはコネが大事だということ。それも「無理の利くコネ」です。編集者にはいろんなコネが必要です。誌面を作るのに直接的なのは、著者、デザイナー、イラストレーター、カメラマン、校正者、コーディネーターなど。その他、編集者同士のコミュニティとか、興味のある分野のコミュニティを知っておくことが大事です。そのためには、いろんな会合に無遠慮に参加することが必要です。特に飲み会は有効。名刺を交換しても、社交辞令的なお知り合いには、なかなか仕事を頼みにくいし、無理を聞いてもらえません。しかし、飲み会の場での付き合いとなると、お互いにベールが一枚剥がれた形でコミュニケーションできますから、親近性はより高まるものです(自己開示性が高まる→相手の腹の内を勘ぐらなくなる→信頼性も高まる)。だからといって、酒の勢いに任せ、相手に絡んだり、相手を否定したりするのは、ま、避けた方がいいでしょう。失敗することも多いです(含自分…、いえ僕はそんなに後悔してませけどね)。こんなノミュニケーションは日本特有なのかもしれませんが、でも結構大事ですよ。

構成力と興味・関心・こだわり
 別の側面で大事なことは、構成力ですね。これは編集の仕事に欠かせないでしょう。あるテーマを、その企画に沿うように、上手に、読者の興味を引くように組み立てること、です。これで、記事の価値の半分は決まるといってもいいです。どういう原稿(あるいは記事)の順序にするのか、ページとページの関係をどうするのか、見出しやリード、写真、イラストをどのように効果的に使うか、などなど。企画全体の構成とそのページや見開きの構成には、最大の力を払うべきものだと思います。
 さらに、構成ができるということは、扱うテーマに関心がなければできません。やっぱり、興味、関心、こだわりは編集者に必要なんです。
 また、編集者というとどうしても「文字(とその意味)」に関心が偏ることが多いのですが、見せ方を追求しないと、読者は満足しないことも気に留めておくべきです。特に情報誌系は、情報の検索性が命なので、ビジュアル面で配慮は欠かせません。

著者と編集者
 さらにさらに、頼んで上がった原稿を、どうブラッシュアップするか。できれば、著者の仕上げたものを、もう一度編集者がリライトしたいですね。でも、なかには「先生」と呼ばれる人がいて、手を加えられないものもあるのですが、できる限り著者と編集者の意識の擦り合わせを十分行い、編集者が望むものを仕上げてくれることを期待したいものです。なんたって、その企画の責任者は編集者ですからね。加えて編集者もできる限り著者の専門性に近づくべきでしょう。でも、それなら著者に頼む必要ないじゃないか、と思うかも知れません。確かにそういう場合もありますが、この理由は、やはりずっとそれを専門にしてきた著者の幅広く、深い知識とか経験を期待しているのです。だから、著者は編集者が望むもの以上の原稿を上げないと、次回からは依頼がないこともあるのです。著者の皆さん、力を抜かないで下さいね。もっとも、書き手が絶対的に足りなくて、とにかくページを埋めたいという、消極的な理由で原稿依頼があっても、(自分の筆力・自分の知識が素晴らしいなどと)勘違いしないで下さいね。自戒を込めて記しておきます。

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インタビュー記事のまとめ方

 誰かにインタビューしてそれを記事にまとめるとき、どんな形でまとめるかで、読者の印象とか理解度が変わる(こともあるだろう)。体裁としては大きく次の4パタンに分けられるのではないか。

1)すべてライターの言葉でまとめ上げるもの
 取材対象者の言葉がなく、ライター自身の言葉として書かれているもの。レポートという体裁に近い。

2)すべて取材対象者(被取材者というのか?)の言葉でまとめるもの
 ライターの言葉はなく、いわば被取材者の一人語りのように書かれているもの。

3)ライターの言葉の中に引用として被取材者の言葉が使われるもの
 基本的には1)のスタイルだが、強調したい部分に本人の言葉を引用するもの。

4)Q&A形式、会話形式になっているもの
 取材者と被取材者とのやり取りとして書かれているもの。

 それぞれ一長一短があると思うが、読んでいて最もつじつまがあうのが、1)と3)のタイプだろう。これは、ライターが自分の考えをまとめる作業に近いので論理的な整合性を取りやすいため。
 ライブ感があるのが4)と3)。どれがイチバンということはない。ケースバイケースで使い分けることが多いはずだ。
 取材がうまくいっていろんなことが聞き出せれば、結局どの方法でも読者は有益さを感じるはずだ。取材があまりうまくいかず被取材者から言葉をうまく引き出せなかったときは、どうしても1)か3)の形にならざるを得ない。
 取材者と被取材者のやり取りを楽しませたいと思うなら、4)の会話形式がグッドだが、その場合は取材者のネームバリューも大事で、認知度の低い取材者の言葉を聞いても読者は楽しさを感じることは少ないだろう。同じ4)でもQ&A形式の場合はイメージが異なるQ&AはQによって聞きたいことが端的に明示されるわけだから、読者の(理解しようとする)負担は少ないと考えられる。
 2)のパタンは、取材という記事の形式から見ると、被取材者の言葉で書いているわけだから被取材者を著者にすればいいという考えもあって、やや特殊に見えるかもしれない。この手法が使われるときは、取材記事とい枠組みであっても、被取材者の言葉だけでまとめることで、他を排除し被取材者をクローズアップさせるときか。著者にすることとは違った、ある程度の第三者性を出すことができるのかもしれない。
 3)の形式は1)の形式の亜流(?)で、わざわざ被取材者の言葉を引用という形で出すほどの内容でもないのだが、多少なりとも人間くささとか、取材しているライブ感を、漂わせたいときの手法と言えると思う。

 ところでインタビュー記事というと、知らない人は、ほぼ誌面通りにインタビューが進行したのだと思っているだろう。しかし実際は、文章の入れ替えや、まとめ直し(別々の質問の答えを1つにまとめたり)などが頻繁に行われている。また、被取材者の言った言葉がそのままの文で活字になることは少ないはずだ。もちろん意味の改変はしないけれども、きちんと文章化したり、つじつまを合わせるために、どうしても手を入れることになる。昔は、そういうことは単純に良くないことだと考えていたが、実際にインタビューを記事にしようとしたとき、話し言葉ではまともな記事にならないことに気づいた。頑なに被取材者の言葉を(分かりにくくても)忠実に再現しようとする人もいるにはいるけど、でも編集者として考えれば、より分かりやすくなる方を選ぶよねぇ。(1998/12/12)

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編集者のアンテナ

 編集者は、つねに自分に刺激を与え続けて、同時に感度のいいアンテナを1つは持っていなければならない、と、思う。特に人と会うことの比較的少ない僕のようなフリーの人間はそうだ。これは、編集者に限ったことではない。何かを作る、そんな仕事に携わる人は、意識してそうすべき。積極的に会合に出る、たくさん本を読む、テレビ・ラジヲを見聞きする、世の中をウォッチングする、そういった努力を怠ったときに、編集者としての職業は終わるかもしれない。

アンテナほしい
 自分に刺激を与えることととアンテナを張るという行為は別ものだが、表裏一体でもあるだろう。アンテナというのは、特定の情報をキャッチするための受容器だ(本物のアンテナだって特定の周波数を捉えるようにできている)。つまり、受容器に合致するものしか受け止めることができない。この受容器を備えるためには、意識的に受容器を作りだし磨いておく必要がある。これが、自分自身に対する刺激である。
 普通は、このアンテナは、興味という言葉で置き換えられる。興味のある分野が進むと、オタクとかマニアに昇華(落ちぶれて?)しまうのだけど、編集者としてそれはちょっとまずい。もちろん編集者がオタクになったって全然かまわないのだけど、リソースと世の中を橋渡しするという、職業的な責任を、オタクになると忘れがちだからね。そうすると、ただの同人誌的になってしまう。同人誌は楽しいのだけれど、あれは商品ではないしね。

 ちょっと話が逸れた。まとめ直すと、「アンテナを張る」こと、そして「アンテナを錆び付かせない」こと、がポイントなんだろう。アンテナを張っておくと、知らず知らずのウチに、関連する色んな情報が引っかかってくるものだ。錆び付かせない努力を怠らなければ、アンテナはさらに感度を増し、それまで引っかからなかった情報もキャッチしてくれるようになる。

悲しいかな、錆び付くアンテナ
 でもね、そううまくはいってくれない。結局来る仕事が優先だから、アンテナを張っているのに、情報にアクセスすることを許さない物理的状況というのも、確かにあるからだ。つまり、仕事、それも考えるよりは単純な作業漬けの毎日という日々が続けば、アンテナはほとんど役立たないし、アンテナを張る気力も萎えてくる。アンテナを張り続けたくても、降ろされてしまう。そんな葛藤の毎日だ。ま、それも、個人の意識の問題も多少はあると思うけれど。

感度のいいアンテナを1つ
 ところで、さきに感度のいいアンテナを1つ、といったのにはわけがある。どこかで書いたかもしれないので、察しのいい人はピンと来るだろうけど、あるいはフリーの人も思い当たる節があるかもしれないけど、なんでも引っかかるアンテナを売りにするのは、フリーにとっては、致命的なこともあるからだ。なんでも仕事をそつなくこなす人は、仕事も頼みやすいけど、なんとなく仕上がりが平板になったりすることが多い。これは僕の経験上。つまり面白みがないというわけ。器用貧乏っていうんですか。この分野ならこの人って思われればしめたものなんだけどね。
 でもだからといって、自ら仕事を減らすかといえば、それも難しいのだけど。はあ、フリーの悩みは尽きないねぇ。(1999/3/4)

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世話好きな編集者

 僕が昔、とある先輩編集者(今は評論家)に、編集者は世話焼きが身上だ、みたいなことを言われたことがある。僕もそう思う。
 世話好きが好まれるのは、ライターへのフォローが徹底するからだ。自分の仕事を裏方ときちんと認識して、ライターにいい原稿を書いてもらうために、資料を集めたり、アポ取りを手伝ったり…。ときには原稿を手伝ったり(?)。こういう仕事面でのフォローは、仕事への責任感だけでなく世話好きという性格的なものがないと、実際やってられないことも多い。仕事以外でも飲み会を企画したり、いろいろ話を聞いてあげたりと、そんな役目も編集者の仕事のうちと思っている。
 ところが、最近の個人志向が編集者にも及んでいるようで、仕事を依頼したら、あとは原稿上がるまで知らんぷりという人も少なくない(僕も最近その気があるのだけど)。これは、誌面を作る上で、編集者とライターの共同作業を半ば放棄しているようなもので、決していいことではない。実際には本当に編集者が忙しくて、手が回らないということもある。大概そのような場合、その編集者が別のメインの企画を担当していているからというケースが多く、発注された側はなんとなくページの重要性が低いようでもの悲しい気持にもなるけれど。ま、いいや。
 一般に世話好きな編集者は、自分を殺すことが多いようだ。別に仕事があっても、打ち合わせ中の今の雰囲気を壊したくないので退席しないとか、気配りを欠かせない人もいる。結局、編集者は、色んな人との付き合いの中で誌面を作っていくから、関わる人たちのやる気を喚起させる役目も持っている、ディレクター的な存在でもあるわけ。いくら仕事だからといっても、どうせなら気持ちよく仕事したいしね。ま、独り泥を被るのが編集者だったりするわけだ。
 そんな編集者像はちょっと古いかしら?(1999/3/11)

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原稿チェックの視点や態度
 技術的な原稿をチェックするとき、難しいことのはずなのになぜか読み飛ばしてチェックしない場合がある。言われて指摘されると、それに気づいたり、また原稿を読んでいる段階でも引っかかっていたことを思い出すほどなのに、なぜか自分のなかでは直しの対象として意識されないのだ。その原因を考えてみた。

A・原稿の内容に向かうベクトル

 1)注意力が足りない
   原稿の読みが甘い。注意深く読んでいない。怠慢。
 2)内容に関する知識が足りない
   知らないことが多いので、どこまでチェックしていいかもわからない。

B・原稿以外、著者や読者に向かうベクトル

 1)エライ著者なので無闇に直せない
  著者がエライと原稿に手は入れにくい。
  また著者との信頼関係が希薄だと、心理的な壁ができる
 2)この本の読者はハイレベルという思いこみ
  自分が知らないことばもこの本の読者は知っているのだろう。

C・またAとBの相互作用(というよりこのケースがかなり多いと思うが)として

 1)ハイレベルな著者と原稿に対しては、心理的に鵜呑みにする傾向がある。

 ざっと内省してみたりするとこんな具合か。チェックを厳しくするには、読者としての読み方(態度)と同時にやはり原稿をチェックするという編集的読み方は必須。その際に、編集者はどのような視点で原稿を読まなければならないのか。
 単に読者的視点だけでは足りない。編集者的視点=神の目とか、あるいは、たとえば10人の異なった読者を想定してみるとか、あるいは著者とか読者とか雑誌というバイアスを意図的に無視するなど、か。いずれにしても、日常的な自分の視点から離れることを要求されるわけだ。それも特定の誰かの視点ではない。中間的な視点だ。これが案外難しい。だからこれは編集者としてのスキルの一つなのだ。訓練すればある程度は身に付くだろうが、自分の視点を離れるわけだから賢さは必要だろう。
 やっぱり編集って難しいのね、としみじみ思う。(2000/11/18)

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「編集」という授業を行うための覚え書き(その1)

(この項は、2000年度後期の東京コンピュータ専門学校、編集出版コースで、編集という授業を行うために、他の先生方に共通理解を得てもらうために提出したメモです)

■編集技術編
 編集とは何か?
 編集・出版・印刷のワークフロー(大まかな仕事の流れ)
 資料収集技術(新聞・文献・インターネット、人に聞くなど)
 取材の仕方(アポの取り方〜取材・インタビュー〜原稿)
 原稿の書き方(インタビュー・ルポ・レビュー・店舗製品などの紹介・エッセイ、etc.)
 校正技術
 印刷のためのQuarkXPressの操作
 印刷のためのPhotoshopの操作
 製版・印刷・製本知識

■企画編
 社会の動向などを背景にした企画の立て方(独り善がりにならずに)
 説得の技術
 プレゼンテーションの方法と技術
 企画書の書き方
 企画と誌面(紙面)展開=大ラフ〜ラフ〜誌面ダミー作成

■デザイン編
 編集デザインは何を目指すか
 編集デザインの動向
 オーソドックスな編集デザイン技術、センスの習得
 アバンギャルドな編集デザイン
 イラストの見方
 写真の見方
 デザインと印刷

■編集的な思考・技術を身につけるために

●「ユーザー」・「コンシューマー」ではなく「情報の発信者」「クリエイター」になること。
 情報・サービスの受け手から発信者への視点・思考の転換

●編集・デザインの最終目標は、情報をわかりやすく・効果的に伝えること

●編集とは何か?

プロセス0)企画:世に知らしめたいという個人的な好みや趣味を客観化する。
>なぜ、その企画を人に伝えなければならないか?

プロセス1)一時取材:自分の興味を、さらに広げ、深めるために、文献、人物、資料などにあたる。
>記事にするに足るテーマだという確信が持てたら、構成にかかる

プロセス2)構成:ページ構成(台割)ならびに、具体的なページのラフ作成
人材確保:どのようなライター・カメラマン・イラストレーターが当企画にベストマッチするか?
セッティング:取材場所・取材対象のアポ・セッティング
取材ならびに記事作成

プロセス3)デザイン出し:一般に雑誌形態は後割がもっぱら。先のラフをもとにより詳細なラフと仕上がりイメージを確保する
>当然デザイナーとの共同作業。ラフイメージを伝える

プロセス4)入稿:テキスト・グラフィックを揃えて、入稿する

プロセス5)初校:文字、レイアウト(図版・写真の位置なども)の校正

プロセス6)再校:初校のアカ入れがきちんと修正されいてるか。新たな校正入れ。

プロセス7)色校:写真・色部分のチェック

納品:

(2000年10月)

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「編集」という授業を行うための覚え書き(その2)

(この項は、1988年度の東京コンピュータ専門学校での授業で配布したメモです。当時、パンフレットの制作課題を出していて、その際に、どのような心がけ、あるいは意識を持たなければならないかということを説いたつもりのものです。編集とは、なかなか自分でも難しい作業だし、現場経験のない学生に理解しろといってもそれも難しいものですが、いつか振り返って思い出してもらえればという思いで書いた記憶があります。)

まだ、皆さんは学生なので、本当の編集者やデザイナーの仕事のようには行かないと思いますが、それでも以下のことは、クリエイティブな仕事に就きたいと考えているなら、欠かせないことなので、言わせてもらいます。

■他人がどう見てくれるかを常に考えること
 皆さんの企画書・ラフを見せてもらって感じることは、何度も言うように、「ものを自分の側からしか見ていないこと」です。これは、編集とか企画とかの技術以前の問題です。この問題を克服するには、自分で意識して、見方を変えていかなければなりません。「こういう文章にしたら分かりやすくなるだろうか?」「どうデザインしたら情報が伝わりやすくなるだろうか?」ということを常に意識していないと、人に見せられるクォリティは実現できません。このクォリティとは、つまり、他人を説得できるか、納得させられるか、という問題です。「僕は自分の作りたいものを作る」というのは結構ですが、それが結局独りよがりなら、売り物にはなりません。同人誌にはなるかもしれないですけど。
 例を考えてみましょう。たとえば、駅前を歩く見ず知らずの人に「コーヒーの産地ってどこですか?」とか「あなたの知っている魑魅魍魎を教えてください」と聞けますか? 聞けないでしょう? じゃ、次のシーンはどうでしょうか。「コーヒー好きのためのコーヒー講演会」に多くの人間が集まったとしましょう。そこで「コーヒーの産地ってどこですかね」と聞いても不自然ではありません。
 分かりますか? これを専門用語で、「(生活の)文脈」と言ったりします。その状況における背景と言ってもいいでしょう。独りよがりのものの見方というのは、読む人の文脈を全く無視していることなのです。だから、普通の人には、皆さんの言っていることが伝わらないのです。この問題がクリアされないと、次に進むことができません。そして編集やデザインというのは、この文脈のお膳立てとも言えるのです。

■ 構成力と分析力
 この2つのことも、まだまだ修行が足りません。誌面構成の基本は、「タイトル」、「リード」、「(小}見出し」、「本文」、「図・写真」、「キャプション」です。これらの基本を分かった上での、省略はいいのですが、皆さんのラフを見る限り、分かってはいないようです。まずは、この基本を抑えてください。この基本を抑えることで、多少は、他人を自分の文脈に引きずり込むことができるのです。
構成には、「内容の構成」と「誌面の構成」があります。切り離すことはできませんが、敢えて言えば、内容の構成は編集者の仕事、デザインの構成はデザイナーの仕事ということになります。内容の構成とは、文章を分かりやすくまとめなおしたり、適宜小見出しを付けたり、内容が薄いと思ったら幅と深さを追求したり、必要な図版や写真やイラストのアイディアを出すということです。誌面構成とは、タイトル、見出し、本文、図版などを、そのテーマに合ったデザインで訴求することです。
 これらが構成の基本ですが、この基本の上で、さらに具体的にどう見せたいかというレベルになるわけです。たとえばリードを図版で代用することもあるでしょう。また重要な見出しや図は大きく、それほど重要でないものは小さく、というランク付けも行います。デザイン上でもっと言えば、本文のQ数、1行の文字数、段組設定や、1段の行数など、すべてに編集者とデザイナーの意味づけがなされます。非常に感覚的な面も多分にありますが、そのラフを描いている瞬間、「なぜそうしたか」を考えてみてください。

 次に分析力。これも皆さんには足りません。分析力というと、1つのテーマを深く追求すると思われがちですが、それだけはなく、多面的なものの見方も大事です。またコーヒーの例ですが、「コーヒーの成分は何だろう? その効用は?」と追求していくのと併せて、コーヒーの別の側面を見つけることが大事です。たとえば、コーヒーは、何度だと一番美味しく飲めるのか、煎れ方にはどんな種類があるのか、本当にお湯で飲むのが一番美味しいのか、カップによって味は変わるのか、コーヒー豆の種類にはどんなものがあるのか、コーヒーの産地はどこか、どうしてそこがコーヒーの産地になったのか、日本には喫茶店が何件あるのか、日本人のコーヒー好きは何割くらいか、日本にはコーヒーの輸入業者は何社あるのか、コーヒーのシミは簡単にとれるのか、etc.。
 このように、味や健康・趣味的なことだけでなく、どんなものにも社会的・文化的、あるいは経済的な側面があるものです。そのような情報まで掲載されていれば(もちろんすべてを載せることはできませんが)読む人はもっと面白く読めるはずですし、読んだ後「得した」気分になるはずです。

■構成と分析の次に
 以上のような、十分に練られた構成と分析が合わさると、きっと面白いものになるはずです。ただい、デザインが悪いとせっかくの構成と分析も台無しです。僕が常々思うのは、雑誌は「内容半分、デザイン半分」だということ。どんなに優れた内容でもデザインが悪いと、読者は手にとって見てくれません。逆にデザインが良くても内容が無いと、読者は読んだ後に怒り出します。デザインは好みの問題も入ってくるので、どれがいいと一概に言えないのですが、少なくとも「情報を整理して見せる」ということに気を付けてください。

 最後に、ちょっと臭いですが「好きこそものの上手なれ」という言葉があります。何かを上達するのには好きであることが確実な方法だ、というような意味です。編集もデザインもどちらも狭き門です。皆さんの態度を見ると、本当に編集とかデザインなどの仕事に就きたいのか、不思議に感じることが多々あります。勉強も就職活動も、もっと、積極的に行うべきです。
 皆さんは雑誌や広告を読者として読んだり見たりしてはいけませんと言いたいところですが、それよりも、まず、もっと雑誌や書籍や広告やパンフレットやカタログを見てください。世の中でどんなことが話題になっているのか、自分の興味だけでなく、幅広くアンテナを張って情報に溺れてください。図書館や本屋、あるは本がが嫌いというなら、この職種には向いていません。
 それと就職について。繰り返しですが、皆さんからはこの仕事に就きたいという意欲が感じられません。この仕事に就きたいと思うだけなら勝手なのですが、どうもその意欲すら希薄に感じます。どうしてもその仕事に就きたいと思うなら、恥も外聞も捨てて、直接、出版社なりデザイン事務所なり、広告会社なりにアタックしてみるくらいの気概が必要です。
 どうせなら、やりたい仕事をしたいでしょ?

(2000年10月アップ)


編集に関するリソース


書籍紹介

 ここでは「編集」をテーマとしている書籍を紹介しています。編集に関するガイドブックを探すとどうしても編集工程と称して「制作」の話題がほとんどの本が多いのですが、ここで紹介するのはクリエイティブな仕事としての編集をテーマにした本です。編集の楽しみを知ることができるでしょう。

●「別冊宝島134 編集の学校」
 西岡文彦著 宝島社刊 1,010円 1991年6月9日発行

 編集の作業を構造的に解説しようとする好著。誌面に表現する作業としての編集の仕事が理解できるはず。「コピー」の意味、図版の大きさの意味、媒体にあったデザインの文法などが、ワークショップ形式で学べるように構成されている。著者の考える編集観は示唆に富み、編集志望者のみならず、現に編集に携わる人、一般のビジネスマンにもお勧めの1冊。

●「編集者とはどういう人たちか」
 小菅 宏著 はまの出版社刊 1,500円 1998年8月28日発行

 大手総合出版社での編集者の実態が読みとれる。編集者はどうあるべきか、どのような人は編集者に向いていないのかなど、比較的軽く読める内容。編集者の生態や気質を知るにはよいが、具体的な仕事を知りたい人には向かないかも。

●「ミニコミの作り方」
 近藤 恵著 情報センター出版局刊 1,300円 1997年8月25日発行

 実際にミニコミ誌を発行している著者が、著者の履歴と共に、ミニコミを作るようになるまで、ミニコミを作るプロセス、ミニコミ制作に必要な道具、ミニコミ制作のテクニックなどを、平易な文章で語る。何かを作りたいという編集者の意欲の根元はミニコミにあり、とまで思わせてくれる、読んでいて楽しくなる本。

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説明文についてのコラム


 

「新聞に学ぶ説明文の基本構造 」

 これは、私の学生時代に新聞がそんな構造になっていると、何かで読んでから、ずっと意識してきました。
 説明文の原点とも言える新聞は、専門家ではなく一般に対して何かを説明していますからね(※1)。この手法を真似るのは決して悪いことではないと思います。

「要約」−「本文」という形
 新聞の書き方ですが、ほとんどの記事では、必ず「要約」−「本文」という形になっています。これは、前もって、これから説明すべき内容の概要を読者に意識(スキーマの喚起)させ、以降の本文の理解を助ける働きがあると思われます。

 しかし、記事の内容や要約が、読者のまったく未知のものであると、「要約」を先行して与えることの効果は、少ないか、あるいは逆に理解を妨害するかも知れません。しかし、少しでも理解できる概念が「要約」に含まれていれば、本文の理解を促進するかも知れません。あるいは、読者の未知の内容でも、記事が伝えたい内容を抽象化して与えることで、理解を促進する(心理学で先行オーガナイザと呼んでいる)とも言われています。あるいは、説明したい内容と同じ知識構造を持つ別の内容を、要約代わりに与える(アナロジー、類推、例え…)ということでも、理解が促進されそうです。

 雑誌でも「リード」−「本文」という構造をとることが多いですが、レイアウト的に凝られた雑誌の場合は、「リード」と「本文」がレイアウト上、離れていると、必ずしも先行して読まれるとは限りません。説明文を記述・レイアウトする場合には、それなりに意識しないと、伝わるものも伝わらないかもしれません。

「本文」−「要約」という形
 先行して要約を与える…ということの逆も考えられますね。つまり、「本文」の後に「要約」を与えるというやり方です。これだと、本文をうまく整理できなかった読者に効果的かもしれません。
 一般に、知らない内容を説明されても、読者は頭の中でオーバーフローを起こしますから、それをすぐ整理して理解しろという方が無理です。ですから、読者は何度も「読み返し」を行っているわけです。要約を後から与えることで、その理解しようとする行為をサポートできる可能性はありそうです。

大事なことは、読者の能動的な読み方
 こういってしまうと身も蓋もないような気がするのですが、「要約」−「本文」にしろ「本文」−「要約」にしろ、読者が主体的にその記事を理解しようとする姿勢がなければ、効果ないかもしれません。「知りたい」という要求がベースにある、これがきっと大前提でしょう。個々の読者の知りたいという要求は、それぞれいろいろな理由からだと思いますが、問題はそれを阻害してしまうこと。たとえば、レイアウトがあまりにひどくて読みたくなくなる、用語の使い方がバラバラで何を言っているのか分からなくなる、誤字脱字が多くてイヤになる、文字が小さすぎてイヤになる、等など。このあたりも追々思いつくまま、編集を考えるページで書いていこうと思います。

※1
この場合の新聞記事は、三面記事や、一般的な社会・経済・風俗など、すでに読者一般が持っている既有知識で簡単に理解できるようなものを想定すると分かりにくいです。どちらかというと、科学・技術に関連する記事を想定してください。

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「説明文に主語的視点は必要か(仮題) 」

 「説明文は客観的でなくてはならない」、「第三者的物言いでなければならない」「主観を交えてはならない」なんて言われます。書き手のバイアスをかけないという意味では正しいのだと思いますが、一概にそうなのかな、と思っています。

主語のある説明文
 主語がない説明文というのは、存在するのでしょうか。説明文の書き手は、なるべく主観を排除して、「誰が語っても同じ意味で捉えられる言葉」を模索するのです。たとえ個人的な「私」が登場しても、それはあくまで著者の「私だけ」の特例であって、一般的な見解ではないことを訴えようとします。どうしてそうするのかというと、主語=語り手、の具体的像を存在させないためです。まったくの抽象=神(?)の言葉として受け取られたいがためだと、思っています。説明文には、極個人的な思想、志向、思い入れを混入してはならない、という書き手と読み手との間でのルールがあるようにも思えます。

 そういう読み方というのは、「説明文を読む」という文化的に規定された人間の態度としておそらく、日常的に訓練づけられているのではないかと思うのですが、でも、自分の知らない概念が書かれているような説明文の場合、知らない言葉で知らないことを説明されても、まったく頭の中に書かれていることをイメージできないことがよくあります。
 そのようなときに、まったく無機的な立場で、説明文が書かれていると、なぜか余計に分かりにくい、という気がするのです{気がする、なんてあいまいな表現でしか言えなくてすみません)。もちろん、無機的な説明文を読むのが得意な人もいると思いますし、書き手が用意周到な論理展開で上手に理解させてくれることもあると思います。
 ですが、一般には(ここで私が想定するのはどうしてもパソコン書、マニュアルなのですが)、なかなか書き手も読み手もそういうレベルでは読みません。

「視点」の提案
 そのような場合、書き手が何を言おうとしているのか、それを理解させる手助けとして、主語、というか、視点、を明らかにするというのが大事なのではないかと思うわけです。
 「私がどのような立場で、どのような状況に置かれ、どのような目的のために、こういうことをしている、あるいはしなければならない…」そういう明確な視点の上で話が進めば、読者の理解も助けられると思えます。それを、概念だけを取り出して、それを別の概念で説明しようとするから、難しく感じてしまう。
 これは新しい概念や(マニュアルだったら操作)を、その状況の中で関係付けるというか、意味づけるという、ことです。ただ、視点を強調しすぎると、あまりに具体的になりすぎて、その概念の般化が起こりにく、その状況にのみしか使われない概念になってしまうこともあるかもしれません。

視点をどう取り入れるか
 なんとなく、経験的に感じていることですが。

・そのような分野に初めて接する読み手には、より具体的な視点で話を進める。
・その分野に興味を持っている、多少は知識があるような読み手には、視点をそれほど明示せず(だからといって書き手の視点を失うということではなく)、話を進めていく。

 前者は、書籍、単行本の入門書の類の手法、後者は雑誌的なやり方、と漠然と感じています。もちろん、ケースバイケースですが。

視点の効用
 この文章自体が、視点がぼやけているので(笑い事ではない)、あまり説得力がないかもしれません。
 なにか、いい例がないかと考えたのですが、こういうのはどうでしょう?

 あなたは、たまたま雑誌を読んでタイトルや著者を確認せずに、本文を読み進めていました。すると「なんで、こういうことを書くんだろう?」「なんでこういう発想をするんだろう?」と感じて、著者とそのプロフィールを確認します。すると、「ふーん、こういう生き方、背景、志向をもっているから、そういう発想になるんだ」と、妙に納得します。

 こういうことありませんか? これが視点の役割だと思うのです。これを、上手に説明文に活かしていけたら、もっと説明文も楽しくよめるんじゃないかと思うのですが。

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「説明文はどこまで説明すればよいのか? 」

初心者には過剰な説明は避ける
 パソコン関係の記事を書いていたり、メールでデジタル環境を説明したりするとき、悩むのがどこまで説明を掘り下げればいいのかということだ。
 数年前に悟って(?)から、なるべく、特に初心者向きには、過剰な説明は控えるように心がけている。書き手にとっての、これを説明するのに、あれも説明しておかなければならない、という心情はよく分かるし、論理的に進めていこうとすればするほど、細かな条件やらを説明したくなる。しかし、それらの説明の多くは、さし当たっての情報を端的に知りたい人にとっては、余剰情報でしかないことがままある。いやそればかりではなく、それらの余剰情報が読み手の理解を妨げることにもなりかねない。その理由を考察すると。

@情報が多すぎて読み手が処理できない
 特に初心者の読み手にとって新しい概念が多いと、概念の定位に注意リソースが割かれるため、多くの情報量を処理(記憶のバッファに止めておく)できない。

A意味構造を構築できない
 概念の定位ができないので、当然説明されている概念の関係を構築することができない。特に入り組んだ関係は、難しい。

 しかし、だからといって説明を端折っていいわけではない。何でもかんでも説明すればいいわけではないし、説明が足りなくてもならない。これを調節するのが、書き手や編集者の技術・力量なのだろう。
 読み手が何を求めているかといことを書き手は理解して、本質的でない、あるいはなくても困らない情報は思い切って省くことが大事だ。その意味で、仮想読者を設定することは重要である。具体的なイメージがない、つまり「一般」といものを想定するから、説明が冗長になるのだ。
(1998.09.27) 

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理解への方策

 説明文を理解してもらうというのは、難しい。言葉をただ並べればいいというものではない。説明のための説明でもだめである。だから、注釈という形で説明のための説明は本旨から逃がしたりするのだが。それはおいといて、純粋な論理展開とか、比喩とか、説明文の展開方法はいくつかあるだろう。
 説明するということは、読者に記述を読んで考えてもらって、その頭の中に何らかのモデル・イメージを作ってもらうことだ。そのための方法というのは大きく分けると「帰納」と「演繹」しかないはず。何かを例えに出すというレトリックも帰納の1手法だし、何かを暗黙の前提として論を進めるほとんどの説明文は演繹の手法である。日常的にも演繹的な思考は行っている(「遅刻したらいけない」から「遅刻しないように早めに家を出る」)が、それは具体的な生活場面であって、知らない分野で語られる概念(科学とか技術の話題だけでなく、デザインとか美的なもの)を使って説明される、説明文は分かりにくい。
 そんなときに役立つのが帰納的な方法だ。比喩が一般的であるが、比喩はある分野の事象を別の分野に適用するものだ。それはそれで役立つのだが、説明する対象の分野内で、比較するというのも有効な手法ではないか。条件を統一してある1点だけ違っていれ、その違いがわかる。なぜ違いが生じたのかを考えていくことで、理解に達する。そんなような直感がするのだが…。(1999/01/26)

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文章のスタイル

 説明文にどのような文章のスタイルがあるのか、ちょっとだけ整理できたので、忘れないように書いておこう。
 一つは、平易な文章で進めるスタイル。これは読み物ふうの比較的読みやすいもの。アナロジーなどを利用するのも現実場面に即して、平易さを保つ工夫だろう。
 もう一つは、固有の用語を使いながら論理的に進めるスタイル。論文調のものか。
当然と言えば当然だけれど、意識するのとしないのとでは、書き手の態度はずいぶん変わる。(1999/02/10)

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