闘病記 第11-20回

 父のほうでも書いてあるように父の入院生活が始まりました。私の大学からもわりに近いということと、またその頃家庭教師のアルバイトをしておりまして、その家が2駅のところにあったので、週に1〜2回くらい病院をのぞく形になりました。1番驚いたのは父の私物の多さです。あそこまで私物を病室に持ち込んだ人は見たことがありませんでした。しかしながらこれは悪い意味ではなく、共感の意味を込めての驚きです。あくまでも自分のスタイルを貫こうという意志が見られ、一つのプライドであり、また病院や医療に対する一つのメッセージと感じとったからです。わりによく外出許可を取っては外食をしていたようですし。「一つの私はこうして治したい」という意志の表れと感じたのです。

 しかしながらナースステーションの前を通る度に複雑な気持ちになりました。ここが自分の病院であるならば、カルテや検査結果を思うままに把握できるのにという思い、いっそのこと白衣を持ってきてまぎれ、盗み見てしまおうかとも思いました。また、大きな検査のあった日などには、それとなく興味本位という感じで、どんな感じがカマをかけてみるものの、ご家族の方には後ほどドクターのほうからという感じでかわされてしまい、なんとも中途半端ないらつきも感じておりました。

 この時期、ある一つの問題が持ち上がっていたのです。その問題とは果たして、どの程度真実を父を含めた家族に伝えるかということです。つまりは、術後の経過、術後成績、予後の問題です。やはり病状を考えると決して余裕のある状況ではなかったので、それをそのままありのまま伝えるのが良いのか、それともボヤかしていくらか軽めに伝えるのか。そこで、この状況に関して真実を伝えた3人の友人に意見を求めました。その中で一番強烈だったのが、同級生でしたが私よりも年上の一つ兄貴分のような形になる人の言葉でした。彼は、とても理性的な性格で、当時私が考えていた、いくらか軽めに伝えるということに対してひどく反対していました。彼の考えとしては、いかなる状況であれ、真実を伝えるべきでありその本人以外に、その真実を曲げる権利はないというものでした。いくらか事実を修飾して伝えることは一つの裏切り行為になると考えていたのです。当時はどうしても、それが正論とは思えたのですが、気持ちの上では納得がいかず、結局私は、いくらか状況を軽めに説明し、術後1年を経た頃に少しづつ真実を伝えていったのです。今術後の経過も良くいっているので結局は、どちらが良かったのかというのはわかりませんし、いまだに大きな問題点でもあります。はたして、真実とはそのままを伝えるのがいいのかそれとも、真実とは分割、修飾されてもいいものなんでしょうか。

 私にとっての、お見舞いというのは本当に奇妙な感じの連続でした。よく思い出したのは、私自身小さい頃に入院していたことがあり、その頃父がお見舞いにきてくれた、その思い出です。確か毎回プラモデルを買ってきてくれていて、手術前ですから、食道に病変が隠れている以外健康そのものに、見える父。まるで、私が見舞いにきてもらっているようなそんな奇妙な感じを受けたのです。特に励ましの言葉が必要なわけでなく、家の様子やら、日常のことを話して帰ることが多かったです。あらためて、励ましの言葉をかけるのは気恥ずかしく、またそのような言葉は返って不似合いなように思えたのです。しかし、入院生活は術前化学療法、放射線療法と着実に進んでいきました。その度に思うのは、本当に手術をしなくてはいけないのかという気持ちでした。もう治ってしまっているのでは、手術以外の方法のほうが良いのでは、まだ戻れる、そういった気持ちが交差していたのです。しかしながら、手術の日は着実に近づいてきました。

手術前の術前ムンテラ(説明)の日。少し大学を早く抜け出させてもらって病院に向かいました。そのとき思っていたことは一つだけ、果たして手術が最善の方法なのかということです。場合によっては放射線などのより侵襲の少ない方法でも変わらないかもしれない。つまり取ってしまったら元には戻せない、そんな方法を父に良いのではないかと伝えてよいのだろうかという迷い。心の中では放射線のほうが良いようにも思えた、傷もつかないし、あるべきものはあるままなのだから。しかし、放射線では全く治るようには思えなかった。アメリカなどでは半々くらいで選択されているとはいえ、その腫瘍が残存しているという感じ、なにやらずっと不安におびえながら暮らしていかねばならないような印象を受けていた。これは、私が当時受けていた教育、つまり医学部教育による一つの刷り込みのようなものかもしれなかった。しかし時は着実に進んで決断の場へと流れてゆくのであった。まさに説明が始まる5分くらい前だろうか、どうにも気持ちおさまらず、大学で信頼している友達にすがるような気持ちで電話をいれた。彼も手術のほうがいいのではと思うと言ってた。その言葉である意味、気持ちが固まった。説明のほうは、大学でもよく聞いていたので特に思うところもなかったし、任せようという気持ちになった。その場で術場に入れてもらえないかと聞いてみようとも思ったが、それはやめておいた。

 手術当日大学の実習は休みをもらい、朝から病院に行った。朝、オペ室にゆく父を見送った。ストレッチャーの上でちょっと海外に出張でも行ってくるというような感じの笑顔を見せていた。そのときの表情はまさに、子供のときに、成田にて父を見送る感じに似ていた。その1日は本当に長かった。なぜか疲れが肩に覆いかぶさるようにでてきた。父がいぬベッドに横になって待つこととした。母や妹などは待合のソファで待っていたが、座っていられるほどの気力も残っていなかった。そのうちに会社を終えてきた弟も合流した。とにかく長い1日だった。予定の時間も過ぎ夜も9時頃だろうか、オペレーターの先生に呼ばれ手術室の外まで行き、オペの説明を聞いた。そのとき標本を見せてもらい、説明を受けたのだが、ほとんど覚えていない。とにかく、終わったんだという安堵と疲れの混じった気持ちでいっぱいだった。そうして、ICUに戻ってきた父に会ったのだ。

 しかしながら術後の父の状態には、今働いて患者さんと接している目から見ても驚くものがあった、オペ直後にあれほど意識がはっきりして、しかも新聞を読みたいと言っていたのには驚いた。それが父誇りというか、プライドであったのだとも思うがその精神力のすごさには驚いた。これほど点滴ラインが似合わない患者もなかなかいないんじゃないかとすら思えた。
 その姿を見ると、やはりオペをして良かったのではないかという気持ちが強くなった。オペもうまくいき、あとは本人の回復力次第、この回復力が一番心配であったから、術後のその姿はとてもたのもしく思えました。それと同時に、術後のいわゆる5年生存率というか、その5年という術後の戦いが始まるのだなとも、なんとも不安と期待の入り交じった感じがしました。まずは、術後1年、これを乗り切ればという思い。

 術後は本当に力が抜けました、自分でも気がつかないうちに相当な疲れがたまっていたのを自覚しました。あとは、とにかくは早くの退院をひたすら考えていました。やはり抗癌剤治療の副作用のせいで、食欲が落ちている父をみると、早いところ家に連れて帰って、食べられるものをという気持ちが働きました。確かに病院食は健康な私でさえ、あまりおいしく感じないものですから。父の苦労とは裏腹に、家族として、また当時のいくらかの医学知識からすると、放射線と化学療法の併用は理想的であり、なんとか頑張って欲しいなと勝手に思い込んでいました。かなり無理を言って当時父を励ましたように思います。しかしながら、父にとっては、かなり辛い応援であったろうし、今にして思うと反省するところが多いです。その頃は、とにかく確実にという気持ちが強くて父の気持ちまではかり知るゆとりがなかったように思います。こういうのを、病気を見て、人を見ずという状態なのだろうなと今にして思います。

 術後の放射線治療と化学療法の併用療法のところまで書きました。この両者の併用療法が一ついろんな意味で悩みといいますか、気持ちの
上で揺れるもととなっていました。一つは化学療法、ゲーゲーやっていてもちろんその姿を家族に見せることはありませんでしたが、食欲も落ちそのような様子をみながら、それを勧める自分の姿。そこにある根拠は治療報告や論文で「効果があるようだ」という説得力があるようで、実は強い、例えば経験であるとか、体感した事柄であるとか、そういった強い根拠に満ちた分けでない理由から、その治療を勧めるということ。特に父の場合、白血球の低下とその回復の遅延がありましたから、その上であえて勧められるのかという点。また放射線治療に関しては、放射線科のドクターが「私なら、手術はしないで放射線治療だけで治すと思う」と言っていたという事実。実際この点に関しては、欧米などでは半々くらいもしくは放射線治療を選択するケースのほうが上回るという報告を聞いたりしていましたから、実際に手術前に迷った点でもありますから、術後のまだ不安定な状態で放射線科のドクターからそういう話があったということはかなり辛いものがありました。しかしながら私は力なく両者の併用療法を勧める日々となったのです、父の副作用に苦しむ姿を見ながら。

 放射線治療、化学療法もある程度メドがついてくると父の状態も落ち着いてきたように思えました。しかしながら、頚部から前胸部にかけては放射線照射の痕が痛々しく、強気な姿勢ながらも、やはり痩せてきている姿には今回のこの病気は本当にギリギリのところで切り抜けていっているんだという思いが強く浮かび上がってきました。しかしながら家族としても、外出が可能になり退院の声も聞こえてくると本当にほっとしてくるものがありました。不思議なものですが、病気は良くなってくると勢いづいて良くなるし、悪くなると本当に日の単位で悪くなっていきます。これはある意味残酷な感じが致します。そうして父が自宅に帰ってくるわけです。母としてもなにを食べさせたら良いかといろいろと悩んだみたいです。確かに術後ですから食べやすい、食べにくいはあるかと思いましたが、あるがままが一番、日常が一番いいのではないかと思いました。

 退院してみると、はたして家族として何ができるんだろうかっていうことになってきます。おそらくはみな、とまどいが大きかったように思います。まずはとにかく痩せてしまった父の体。病気をするまえは、食べることも食事を作ることも好きで、食にはうるさかった父が、あまり食べられないという状況食べてももたれてしまい、ゲフゲフやっている姿には、相当動揺していたようにも思います。できることとして当時思ったのは、まず第一には治ったと思うこと、そして今ある状況をよしとして思うこと、決して他の物事、人のせいにはせず、自分のこととして受け入れることが大事なように思いました。