父の視点 第1〜10回
1998年の12月の月半ばのころだったと思う。朝パンを急いで食べていると何かのどがつかえるような気がして、風邪でもひいてのどをやられたのではいかと思い 取り敢えずP・クリニックの先生のところへ行って風邪薬を処方してもらった。正月休みが明けても違和感が無くなくならぬので再度、先生のところに行ったら、今度はマーロックスをくれて一度胃カメラを飲んだらとのことであった。そんなとき、ふと数年前に胃の上部、食道とのつなぎめの辺りのガンで亡くなった幼なじみの友人のことなどが頭をよぎった。また、それまであんなに嫌がっていた妻が妻の実家のそばの開業医の先生のところで胃カメラの検査を受け、いかにスンナリのめたかをおおいに吹聴していたのを思いだした。クリニックの先生のアドバイスがあったり、岩崎君のことがあったので、じゃあということで妻がお義母さんに電話をしてくれて、手早く検査の日取りを取ってくれた。当日、朝一で出かけ畳半畳と思われるような狭い診療所のベッドに横たわり胃カメラをのんだ。結果を待つことしばし、そこの先生から、T病院で精密検査を受けるようにとの指示があり薄いハトロン紙に入った紹介状と密封した胃カメラの写真を渡された。毎年健康診断を受けていたときも血糖値かなにかで精密検査を言い渡されたことがあったので、またそんなことかと思った。
息子も行ってくれるというので妻と三人で出かけた。診療室の前で待っていると中の話し声が診察室の上と下のすき間を通して聞こえてくる。何と無神経なやり方なのかとあきれた。プライバシーを重んずる欧米ではこんなことはまず有るまい。順番が回ってきた。担当の先生は外科部長と聴いていたが小柄で思ったより若く見えた。紹介状に目を通し、胃カメラの写真を見て、食道ガンですと告げられた。そして頚のリンパ節の所を再度触診し、ベッドが空き次第手術しましょう、その前に通院でできる検査はできるだけ済ませておきましょうとのこと。告知について事前に家族との話し合い云々など全く無く、ポンときた。
家族構成を見て息子が医学生だったからなのか。おや、くるべきものがきたかと思う反面、ひょっとしたら誤診ではあるまいかという思いも頭をよぎった。父が同じ年ごろ胃ガンを宣告され都内の総合病院で手術を受けて開けてみたら単なる胃潰瘍だったという記憶が鮮明に残っていたからだ。医療技術の進歩した今日では、30年前とは大違いでそんなことは今日まずあり得ないのであろうが、それは手術当日まで、そして今でもほんの少しは残っている。これは判断を誤らせる可能性はあったものの、気を楽にさせるようにも作用した。また、先生から患部の写真を見せられたとき、腫瘍部分が土星を取り巻く星雲状にくっきりと隆起してはいたがくずれてはおらず、素人考えながらこれならなんとかなるのではないかという思いもあった。というのは、私の友人の場合は、腫瘍が壁面から内部に広がり、リンパ腺を通して他の部分にかなり早い時期から転移していたと後から聞いたことがあったからだ。
1999年1月25日(月)入院。
ベッドがいっぱいで一ヶ月ぐらい待つと言われたが、1週間もしないうちに入院の連絡あり。今から考えてみると主治医の先生が診断結果の告知の後頚部のリンパ節の所を再度触診していたが、肺等への転移を心配して入院を特に速めて下さったのではないかと思う。手術は3週目の火曜日、2月10日に決まる。手術に備えての内視鏡、エコー、超音波内視鏡、レントゲン、等の再検査。一回目の自己血採血。正式にガンが告知され、入院日が決まったので、長期休暇に入る旨、取り敢えず会社に連絡、支店長にもその旨を電話しようと思ったがはて食道というのは英語で何というのか、そこでナース・ステーションに聞きに行った。食道って英語で何というのですかという問いに、”レストラン”じゃあありませんかという返事が返ってきた。此れには参った。しかし、この問題は杞憂に終わった。エンド・オブ・ザ・デェイ、この病院の看護婦さんは素晴らしかったの一語に尽きる。良かったのは医療の技術水準もさることながら看護体勢のすばらしかったことがあげられる。特に、足掛け八ヶ月の長期入院の場合はこれがいえる。
1月27日、入院して検査が始まり合わせて手術後に備えて点滴を通すことが始まった。眠れぬまま点滴の落ちるのを見ていると途中の調整用のつなぎ手のところで水滴がいったん玉になってポトリと落ちる。そのいったん小さな玉になったときにキラリと光るのである。最初それが電気的なディバイスのように思われてこんなところにまで細工がなされているのかと感心していた。後で分かったことだがそれは単に水滴になったときに窓の外の下の街灯の方から漏れてくる光を反射しているに過ぎないということが分かったが、入院当初の感情が高ぶっていたときの幻影のようなものだ。深夜なかなか寝つけず下の方の街灯の光が反射する天井をポケッとながめているといろいろな想念が去来する。1・8mX2mのベージュのカーテンで囲まれた天井を見ながら子供のころ読んだ、トルストイのロシヤ民話、”人間にはどれだけの土地が必要か”を思い出す。ある農夫が旅の果てにある領主のところにやって来る。そして、太陽の上がっているうちに歩いたところを与えられると告げられ、できるだけ大きな土地をもらおうと必死に歩き日没までにようやっともと来たところまでたどり着くが、そこで倒れ墓場に運ばれる。領主は、ああこの男には此れだけの土地が必要だったのだと独りごちする。(退院してしばらくして図書館の児童図書欄で読み返してみたが2−3ページの短編と思っていたのが、20ページもありロシア人の話の長さを今さらながら思い知らされる。)
2月4日(木)
主治医の先生より治療方針の変更、すなわち、放射線と抗がん剤の前半2週間分を先行させる旨告げられる。放射線と抗がん剤で患部を縮小化させてから手術するのがア・ラ・モードの由。放射線治療中週末は帰宅してよいとのこと。
2月8日(月)
放射線と抗がん剤始まる。放射線担当の医師より説明あり。放射線は患部とリンパ腺に狙い撃ちで当てるとのこと。数年後に尿腺に障害が出る可能性もあるといわれたのはちょっとショック。手術が遅れて時間があったためいろいろな話が耳に入ってくるようになった。その後まわりから聞いた話を総合すると、僕の場合アメリカだったら手術か放射線かは50%、50%であったろう。日本では切腹の伝統があるせいか医者はすぐ切りたがる。”ガンと闘うな”などという本の広告も目に入ってくる。また、友人が玄米食を主とした食餌療法で治癒した実例に関する本を3冊も届けてくれる。全くの親切心からなのでこたえる。もっとも担当グループの先生は丸山ワクチンでもその他の療法でもやりたいものがあったらやってよいとおっしゃっていた。必要とあれば丸山ワクチンをもらうのに必要な書類も作ると。ただし丸山マワクチンの場合は事後依頼書を作成した医師が定期的に報告する義務があるのでそれがチョット大変だとのこと。友人が見舞いに来て碁を打つ。
2月10日
抗がん剤治療3日目より食欲無くなる。何をするのもおっくう、意欲極端医に落ちる。放射線科の医師との初めての面談の時、ガン治療には手術と放射線治療の二つの潮流がある云々の話あり。それを三回目だったかの面談の折り担当グループの別の医師に持ち出すと、誰がそんなことを言いましたかとむきになる。二週目別の友人が見舞いに来る。ポケットしていないで本でも読めというが抗がん剤、放射線の副作用で落ち込んでそれどころではない。味覚がとげとげしくなる。すっぱいものがよさそう。
3月8日(月)曇り
放射線と抗がん剤の影響で白血球が2000ギリギリまで落ち、手術が延期となって数日が経つ。週末は家に帰るが月曜日の点滴開始時間までに病院に戻る。追加外泊のOKがでたが、たいぎなので病院にとどまる。娘が大学にうかった由連絡あり。まずひと安心。エレベーターの中で、今日退院の老人に出会う。問わず語りに、昨年11月に肺ガンの手術で入院したが、腸閉塞もあり、退院が今日になったとのこと。荷物は宅急便で送ったとのことだが、出迎えの人無く、悲しい。退院を報告する相手がないので僕に話しかけてきたのだろう。売店に降りたついでに表通りの様子を窺うと街往く人々をながめ、また、まわりのベッドの人を訪ねてくる見舞い客をみていると、なんと傲慢に見えることか。
3月9日(火)小雨
手術に備えて自己血400cc採血。レントゲン。そういえば、入院間もないころ公衆電話の前を点滴の台を引きずりながら通り過ぎると、若い人が受話器のところで誰かに多分後輩であろう、しきりと何かの本を薦めている。そして、”残された時間はもう少ないのだから”と応えていたのが耳にはいってきた。もう一人の若い患者さんはやせ細って、顔色はもうみどりいろがかっており、見るのも痛ましいほどすすんでおり、ただ車椅子に乗せて廊下を回っている付添の若い女性、奥さんか、恋人か或いは妹かそのはち切れんばかりに健康的なのが印象的だった。ある晩、夜中に目が覚めてナース・ステーションの明かりに引き寄せられて何となく見に行ったら、その人は車椅子によこたわって煌々たる灯の下にあった。残された時間を看護婦さんに見取られていたのだろう。数日後その青年はみかけなくなった。もう一人若い人で内蔵の主要な臓器は取り去ってしまったという人もいた。その人は週末ごとにハイキングにでも行くようないでたちで外出していたが、やがて見掛けなくなった。
3月10日(水)曇り
”熟年ゆとりの田舎旅”英国、アイルランド編を読む。入院から手術まで、結局2月以上の時間があったので週末は帰宅が許され、江ノ島に海を見に行ったり母を見舞ったりした。母は脳梗塞で倒れてから五年以上がたち認識のレベルも相当
落ちてきており、多分子供達の中でもそれとわかるのは、僕ぐらいだけだったであったろう。手術直前に見舞ったとき、いつもだったら別れ際に口癖で”また来てね”というのに、その時は”さようなら”とそれまで口にしなかった
言葉をはっきり言ったのにはショックだった。それに42,42という数字があちこちで目に付くようになる。テレホンカードも43か、41を過ぎてからきろうとする
のに受話器を置くとあと42回残っている。また13という数字も目に付く。
3月13日1999
フランスレストランで妻、息子、娘とランチ。人々はごう慢に生きている。しかし我が身をふりかえって人生がいとおしいい。
3月15日
金属製のパイプは二週間ごとに替えるのですか、いいえ入れたままです。そうですか余命もあまり長くないということですね、いいえそういうことではないです、といった会話が先生と患者さんの間で行き交う毎日。同じ病室のKさん、
奥さんは見るからに全く無頓着な人で、ご当人は居合の高段者でなにもかにも分かっているが口に出しては言わないタイプ。こういうタイプの人にガン患者が多い。
Iさんは僕が看護婦さんに言いたい放題を行っているのを見ていて大分看護婦さんにいろいろと話をするようになった。胃ガンの手術で4,5時間かかるといっていたの
に、予定よりもはるかに早く3時間足らずでベッドに戻ってきたAさん。早く手術が済んで良かったと思ってみていたらどうも家族の反応がおかしい。どうやら横隔膜のあたりまで転移してしまって手の施しようが無かった様子。担当医は
手術ではなく、抗がん剤治療に切り替えることにしましたと説明していたが、少し知識のある人ならどのような状況にあるのかわかる筈だどうやって自分を納得させていたのか。また、こんな人もいた。隣のベッドに来た人で、体調が何となく
悪いので病院に来て、特に変ったこともないでしょうということで会計を済ませて帰ろうとしたとき、何となく館内放送で自分お名前が呼ばれているような気がして
よくよく聞くとやはり自分の名前であった。受付に行くと直ちに入院して下さいと言われたとのこと。
3月24日(水)
前年12月、本当に年の瀬に食道癌の手術を受け第2クルーの放射線と抗がん剤をやっていたFさん。建設の下請けをやっているそうだが、手術が成功した余裕のせい過か実に良くしゃべる。手術前後のこと、特に当日の様子など何度か聞か
されたので、いってみれば、バーチャル体験をしたようなもので、お陰で未知の恐怖からは幾分、いやかなり救われた。彼は常々、外科医長のU先生にみてもらったのだからこれ以上望むものはない、また、ここ2,3年を生き延びれば医術の進歩でガンに対する治療法の革新も起こり救われるにちがいないと言っていたが、
僕も同意見である。平市から来た患者さんの話。福島県では、食道がんのオペ例は11件しかなく、この病院を紹介された由。手術後抗がん剤2週目に白血球が1700まで落ちてしまい髪の毛が二日間で真っ白になってしまった、竹林の
ようにまばらになってしまったと嘆く。目下、隔離病室で部屋から出るときはマスク。手術後3週間集中治療室からでられなかったということで、その間花園に行ったという臨死体験をしたとのことである。(痛み止めの麻薬でいい気持ちになっていたのでは)。隣の方は26日退院の予定と。2回目の食道がんだ
が、食道の内部から入れる放射線治療で厳しかった由。3回やって念のためもう一度どうですかといわれたが断ったとのこと。その方は、毎日真向法の体操をベッドの上でやっていた。また、正岡子規の「仰臥漫録」を読んでいて、子規は
えらい人だと言っていた。絵も描くとのことで、週末は公園までスケッチに行き疲れたといって帰ってきた。昼、妻、娘と街のお店でうどんすき。フランス語教室に立ち寄って、6 月ごろすなわち、後半からは出席できるのではないかと思って土曜日のクラスと四月からの春学期の登録を済ませる。妻は何も言わないで支払いを済ませてくれた。
3月29日
前日夜、外科部長の先生から手術の概要の説明があり誓約書にサイン。8時間ぐらいかかるとのこと、いまとなってはいやも応もない。剃毛屋が現れる。これにはおどろいた。何と昔ながらの、というよりは昔懐かしい時代物の一本刃の剃刀である。しかも、ごしごしとやるので、そりあとがひりひりと痛む。第一、
不衛生である。ホテルの洗面キットに入っている使い捨ての安全剃刀の方が切れ味も良くかつ衛生的だ。それから、手術室担当の看護婦さんがやってきて麻酔から始まる手術当日の手順の説明があった。きつそうな、あまり愛想のいい方では
なかったがてきぱきしている様子でまず安心。それから、麻酔の先生が説明に来た。女医さんでこれが大変な美人。まあしようがないやという気分になる。入院以来2月間、何人もの人が手術室へ向かう手術前日のこの儀式を見ていたので、
ああ自分の番が回ってきたなということでさしたる感慨も無かった。
3月30日
手術当日。午前8時に高めのキャリアーに乗せられて手術室に向かう。すぐ意識を失ってしまったのかその後のことは覚えていない。”もういいです先生この辺でもう止めにしておきましょう”と言ったような気がする。その時”
手術は終わりました”と告げられ麻酔から醒めたのだ。
午後7自15分仮設の集中治療室に戻って来る。11時間15分の長丁場だった。頚部を12−3センチ、右脇腹を12−3センチ、そして胃のところを立てに15センチ位。手術の痕は実にきれいである。頚のところなどちょっと見ただけ
では分からない。胃のところの立ての傷はそれとわかるが、先生が後から10時間以上の手術だったので若い女の子でもないので見えないところは適当にやっておきましたと言っていらしたが、まあその辺のところは。ところで退院して
暫くしてから、右のろっ骨のところがでっぱっているのが気になった。定期検診の時うかがってみたらレントゲンを撮って、ああろっ骨が胸を開けるとき折れたのですね、機械でガット開けるので時々折れるのですとのこと。命に別状無い
わけだから致し方ないか。
手術後に入ったのは北病棟の集中治療室ではなく、南の2人部屋に機材を持ち込んで臨時に立ち上げたICUだった。その数日前、すい臓を手術した患者さんが北病棟のICUの看護婦さんの態度が悪いと大げんかして南の仮設のICUに移った
らしい。その後を引き継いだ形だ。その方はやがて回復して退院していった。だいたい看護婦さんとけんかするような人は元気になる
3月31日
これほどスッキリした目覚めはここ数年、いや、数十年、思い出そうと思っても思い出せないほどのものであった。様子を見に来られた主治医の先生に調子はいいようですとこたえたが、若干不整脈があるといわれたのはショックだった。
手術前に練習しておいた通り、紐をつたって起き上がり日経新聞を読もうとした。そこに偶々外科部長の先生がはいってこられてどうしてこんなことをしているのだと看護婦さんがしかられていた。
その晩から苦闘が始まった。点滴が何本かぶら下がり、チューブが5,6本でているという完全なスパゲテイ状態。夜中に何度か当直の看護婦さんがそっとやってきてベテランらしく静かにしかし時間をかけて丁寧にチューブの点検をしてくれて
いた。
3月31日
二日目辺りからはもはや地獄。胃と食道のない新しい体の状況に体が対応をし始めたのだ。とにかくきつい。眠いのだが眠れぬ。日中も苦痛を逃れるために寝たいのだが眠れぬ、意識は混乱する。時計の長針を見ながら、午後5時20分
から、ああ五分過ぎた八分過ぎたとただ時間の過ぎるのをまつのみ。目を閉じ、此れで睡眠薬の点滴の時間まで少しでも近ずいたという思いだけで時間を過ごす。ある晩にはナースステーションの前で点滴をしていて極限を過ぎて突然昏睡状態
に陥り看護婦さんに掴まったまま一緒に転倒した。明け方気がついたらナースステーションの近くの手術直後に集中治療室のかわりに入っていた二人部屋にいたテレビを見ていると画面がスーット遠景の方に押しやられていくように感じたのは
このころのことだと思う。