●ぜひ、HPを訪問してください。子供達の劇的な変化を目の当たりに出来ます。→道草学習のすすめ
索引】<高速計算練習をしている人はコチラもどうぞ>
こだま先生のHP↓からの抜粋です
2005年07月15日:本当は怖い計算ドリル 〜番外編〜 わが塾の遍歴(その1)
今までの「本当は怖い計算ドリル」シリーズをお読みになってそれでもなお、「計算ドリル」は大切だと思われている方はたくさんいらっしゃると思います。それはある意味、仕方のないことだとも思っています。かくいう私も長い間、そう思いこんでいましたから。本当に長い間・・・。私は塾の業界に20年間ほどいます。12年間ほど、中堅塾や個別指導型の塾や大手の進学塾を勤めた後、現在の個人塾を立ち上げました。その個人塾も、今年で8年目になります。私が現在ブログで述べていることを身にしみて気づかされたのはおよそ2年前のことです。ということは、そうです。塾の講師をしている間、18年間も、気づいていなかったのです。本当の学習のあり方に。
「計算力なくして、応用力なし」
「算数・数学の基本は計算だ」
「読み書きそろばんは、考える力の土台」
ずーっと、そう思ってきました。その一方で、「考える学習」というのも真剣に考えてきたのも確かなことなのです。学校で、図を描かないで式をいきなり立てさせるのはけしからん。図を描いて考えなくちゃだめじゃないかと。私が個人塾を立ち上げたときは、不遜にも自信満々でした。難関中学校に合格させることに比べたら、学校の成績をあげることなんて、軽い軽い、と。だけど、いざ始めると、まもなくそんな自信が木っ端みじんに打ち砕かれることになります。ところで、私が以前勤めていた塾は、だれもが知ってる、いわゆる超大手の中学入試専門予備校です。(「応援します 輝く
目を持つ子どもたち」というキャッチフレーズを聞くとあ、あれね、と気づかれる方もたくさんいらっしゃると思います。この塾が一番長く、10年近く過ごしました。)ここでは、選抜テストで選ばれたいわゆる「かしこい子」ばかりが入塾してきます。どの子も当たり前のようにすらすら計算ができますので、錯覚するわけです。やっぱり計算ができないと、むずかしい問題ひとつ解けないなあと。時折、見かける「計算が苦手な子ども」はテストの成績が思わしくないから、ますますその思いを強くするわけです。個人塾をスタートさせたとき、いわゆる単純計算反復式のプリントばかりをさせる塾を非難していました。ですから、私自身の作戦としましては、「計算」と「考える学習」の両立。この2つは、車の両輪のようなものでどちらがひとつ欠けてもうまくいかない。相互に大きく関わっているのだ。そう信じて疑うことはありませんでした。これで、すべてうまくいくと。計算力をつけるために、子どもたちに計算プリントの枚数を決めてもらってそれを宿題にしていました。その時、自分で自分を管理できるようにとストップ・ウォッチでタイムを計測し、表に書き込んでいくスタイルを取りました。タイムがあがれば、やる気が出て、どんどん宿題を要求するだろう。(今、思えば)姑息な作戦です。結果は、タイムが大幅に縮む子と、たいして変わらない子に分かれました。タイムがあまり変わらないというのは想定外でしたので、悩みました。タイムが縮む子には、どんどん奨励して、たくさんのプリントを持って帰らせました。そうした子どもはタイムが縮むのが嬉しいものだから、たくさんの宿題を持って帰ろうとします。
一方、タイムが縮まない子に対して、いろいろなレベルの計算プリントを細かく細分化してあれこれ試しましたが、どれもうまくいきませんでした。その時、塾の中で、並行して行っていた塾オリジナルのプリントがあります。「考える力を養成する」プリント(のつもりでした。)そのプリントは、学校で習う問題よりもわざとやや難しめの問題を載せました。その難しい問題を解くために、超基本問題を例に取り、こちらで図を描きながら、解き方を説明していたのです。
それはまさに大手進学塾で長年培われた技術によるもので、理解させることには絶対的な自信をもっていましたので、その方法でうまくいくと信じていました。実際、ほとんどの子が学校で習わないような難しい問題も解けるようになるわけです。その場では。だけど、しばらくして、同じようなパターンの問題に出くわすとまたもや解けないわけです。仕方なく、超基本問題を例にとり、同じような説明を繰り返し再びできるようになるわけです。だけど、しばらくすると、またもや・・・同じことの繰り返しです。(大手の進学塾ではこういう経験はしませんでした。彼らはどんどんパターンを
覚えてくれるのです。受験で活躍しているほとんどの子どもたちは、暗記するのが得意なのは事実です。そのためか「算数・数学は暗記だ」といってはばからない本が書店にあふれています)その間、わが塾生の計算だけは速くなりました。計算が速くなることは、目に見える部分ですので、お家の人にはアピールしやすいわけです。「表をご覧なってください。ほら、こんなにスピードがついているでしょう」と。考える力もついているはずだったのに、それがついていないことに焦りがつのってきました。そのうち「本を読んで読解力をつけましょう」と自己弁護的な台詞を連発している自分にふと気がついて、苦笑したりもしました。(本を読んで、語彙力や読解力をつける重要性は今も大切なことだと思っていますが・・・)幸いにして、学校のテストには、思考を要する問題はほとんど出ないので、考える力がついているかいないかは、お家の人にはわかりません。(たとえば、割り算を習ったときには、文章題も割り算で解く問題しか出題されないので、子どもたちも楽々点が取れます。だから、学校のテストが本当にその単元を理解しているかどうかの指標にならないのです)だからといって、お家の人に「すいません。考える力をつけることはできませんでした」とそうやすやすと白旗をあげるわけにはいきません。手を代え品を代え、いろいろ試してみました。ある時、塾生から言われました。「この塾は、やることがころころ変わるね」何を言われようが、試すしか方法がありません。その間、計算プリントの宿題だけは
「読み書きそろばんは、考える力の土台」をまだ信じていましたので、代えることなくずっと続けていました。だけど、もしかして、計算力をつけても考える力とはまったく関係がないのかもしれない。そんな考えが少しずつ頭をかすめ始めていた頃でもありました。いろいろ試しても、結果として現れない日が続きます。(だけど、それがテストの点数に現れるわけではありませんから、お家の人からクレームがくるということはないのです)なんとかしなくては。気ばかり焦る毎日が続きました。もうほとほと疲れて、いっそ何もかも投げ出すと楽だろうな。そろそろ限界かな。みたいなことを考えながら、ある日、ぶらりと書店に立ち寄ったのです。そこで、うず高く平積みされている陰山先生の本を手に取りました。「百マス計算」が紹介されていて、その効果が延々と述べられていました。−なぜ、こんなものが今さら、注目を浴びるのだろう。百マス計算の存在は、以前から知っていました。もともと百マス計算の形を上回るものとして、オリジナルの計算プリントを作成していたので、百マス計算が注目されていることに対してかなり違和感があったのです。ちょうどその頃、百マス計算ブームが湧き起ころうとしていた時期でした。百マス計算が効果がないのはよくわかっていたのですが、なにせ、状況が状況です。こんなにも話題になっている本です。もしかして、今の切迫した状態をなんとかしてくれることがこの本のどこかに書かれているかもしれないとわらをもつかむ思いで、いろいろなページをめくっては、目を走らせますが、どのページもどこかで聞いたような教育論の焼き直しにしか、私にはうつらず絶望的になっていたところ、陰山先生の本のとなりに目立つことなくひっそりと平積みにされていた本にふと気がついたのです。「絶対学力」なんとも不思議なネーミング。地味な装幀の本で、ぱっと目を引くデザインではないのですが、どこかしら不思議な光を放っているような感じがして何気なく手にしたのです。だけど、その本が私と塾の運命を大きく変えるとは、この時には夢にも思いませんでした。<続く>
……………………………………………………………………………………………
2005年07月20日:本当は怖い計算ドリル 〜番外編〜 わが塾の遍歴(その2)
「絶対学力」という不思議な本。(著者は、糸山泰造氏。かつて、大手の進学塾で教えられていて、現在はどんぐり倶楽部を創設し、巷の危険な学習方法に警鐘を鳴らす一方で非常にユニークな教育観を提唱されていらっしゃる方です。)
その本の帯の紹介文には、こう書かれていました。「9才の壁を乗り越えられないと高学年で学力不振に!!考える力の育て方!!」まさにこれだ!私が求めていたものは!!そう心の中で、叫びました。目次を開いてみると、他の教育書には見られないフレーズが目の中に飛び込んできました。「満点落ちこぼれ現象」「基礎学力とは計算を速くしたり、漢字を暗記したりすることだけではない」「やってはいけない家庭学習ワースト10」などなど・・・。魅力的な項目がずらりと並んでいます。すぐさま購入して、時間が経つのも忘れ、一心不乱に読みました。効果的な学習法、危険な学習法などいろいろ書かれていたのですが、
私が一番ショックだったのは、単純計算の反復によって、子どもの頭を「考えられなくなる頭」にする経過が克明に描かれている部分です。これには、愕然としました。よかれと思っていた計算プリントの反復が、実は「考えられない頭」」を作っていたなんて・・・。学校でも、塾でも、大半の指導者は次のように考えています。複雑なことも、結局は単純なことの寄せ集めである。単純なことが複雑にからみ合っているから、難しく感じるだけ。その単純なことをすばやく反射的にできるようにすれば、難しいこともできるようになる。という考えのもとで疑うことなく、多くの指導者たちは、せっせと計算問題をさせているのです。私もそうでした。個々の簡単な計算問題を大量にすばやく解かせるだけで、数の感覚が養えるような錯覚があったのです。思えば、大きな大きな錯覚でした。本当に、長〜い長〜い冬眠から、目覚めたような思い。これで直面している壁の正体がはっきり見えました。どうりで、子どもたちはじっくり考えようとしないで「わからない」を連発するはずです。「考える」問題を毎回解かせても、一方で「考えない」頭を作っていたわけですから。つまり、アクセルを踏みながら、ブレーキをかけていたわけなのです。ということは、ブレーキをかけるのをやめることが急務。結局、計算問題の反復練習は一切しないことに決めました。さらにこの本をじっくりと、読み込んでいくと、アクセルのかけ方もまちがっていたことにも気づかされました。
私が行っていた「図を描きながら文章題を解く」という方向は、まちがっていなかったのです。問題なのは、子どもたちではなく、私がその図を先に描いてしまったということ。まさに、そのことが大問題だったわけなのです。子どもよりも先に、教える側が図を描きながら、
「この問題はね、このように図を描けば、簡単に解けるんだよ」
「あ、ほんとだ」
「ね、簡単にとけるでしょ」
みたいな感じで教えることは、一見、「わかる」ことを優先させながら、教えているように見えますね。だけど、このような教え方は、実は子どもたちから、自ら考える場面を奪いながら解かせているのと一緒なのです。大切なのは、子どもたちが自ら図を描かなくてはいけない。ここで、問題となるのは、子どもたちが自分で図を描けないことです。文章題を読んで、子どもがすらすら図を描けるのでしたら、だれも苦労はしません。だから、多くの指導者が図を描きながら解き方を教えてしまうのです。だけど、その時、子どもの頭は働いていません。なるほど、そう解けばいいのか。と解き方をなぞっているだけで、本当にわかったわけではありません。解き方を忘れたら、また解き方を教えてもらう。その時は、解けます。だけど、しばらくすると忘れます。だから、いつまで経っても自分で図が描けないし、問題も解けない。まさに、悪循環です。だけど、そのような難点を一挙に解決できるすばらしい問題をこの本の中で見つけました。<良質の算数文章問題>最初の問題。
「まいごの ありさんが、 かなしくて なみだを おとしながら あるいています。ありさんが 1ぽ あるくたびに なみだは 3つぶ おちて しまいます。では、ありさんが 4ぽ あるいた とき なみだは なんつぶ おちて しまうのでしょう。」
この問題を読んだ瞬間、衝撃が身体を貫きました。なんという詩的な文でしょう。読んだ瞬間、頭の中にありありとイメージされる文章です。これなら、子どもにも、図、いえ絵を描くことは可能です。−そうか、図でなく、絵を描くように言えばいいんだ。しばらくの間、この問題を見つめていました。−これしかない!ほとんど反射的にそう思いました。思えば、本当に長い間、かかってたどり着いた世界です。どんなにか、これまで回り道をしてきたかを思い知らされた瞬間でもありました。だけど、前方に明るい光がさぁーっと差し込んできたような感じに包まれました。方針が決まりました。こんなすごい問題、自分には作ることができるわけないと思いましたので、どんぐり倶楽部の問題を使わせてもらうしかありません。早速、「どんぐり倶楽部」のHPで登録のため、メールを送りました。私には、こんな素晴らしい問題は作れませんというようなことを書いて。まもなく、返事が来ました。
「どんぐり倶楽部」の糸山です。
●子供達をよろしくお願いします。
 先生にもできますよ、絶対に! Watch carefully and think deeply !
>●子供達をよろしくお願いします。
これには、感動しました。私は、このフレーズに限りない慈愛を感じます。他人の塾の子供のことをまるで我が子のように大切に思う気持ちから発せられた言葉です。この言葉によって、ますます身を引き締めてやらねばという気持ちを強くし、同時に、
先生にもできますよ、絶対に! Watch carefully and think deeply !
というありがたいメッセージによって、決心しました。どうせするなら、どんぐり倶楽部の文章題の「こだま」バージョンを作ろうと。<続く>
……………………………………………………………………………………………
2005年07月23日:本当は怖い計算ドリル 〜番外編〜 わが塾の遍歴(その3)
早速、どんぐり倶楽部の文章題を子どもたちに見せてみました。口々に、「何これ?わけわからん!どう解くと?」予想通りです。見慣れない問題は、どう解けばいいのかわからないので、解く前からあきらめてしまう子どもはたくさんいるだろうと思っていましたので。「この問題の解き方はね。まず、この文章の内容をそのまま絵に描いてね。それから、その絵に数値を書き入れる。その後、問題文を見ないで、絵を見ながら、ゆっくり考えるんだ。別に解けなくても、時間がかかってもいいから、じっくり取り組んでごらん。」というふうにアドバイスすると、ふつうは文章題を見ると、いやがる子どもたちも再び文を読み返すと、どんぐり独特の世界に魅せられるのでしょうか。やがて、いやがる様子もなく、文を読みながら、取り組み始めたのです。ある程度、想像はしていましたけれど、驚きでした。あれだけいやなはずの文章題に、絵を描くことによって、徐々に熱中し始めるのです。「なんでミミズに3本の足がはえているの」「コロコロって、なあに?」「自動宿題作成マシーンだって」「フンコロガシは知っとうけど、アンコロガシって、なんね?」なんてことをいろいろつぶやきながら、結構楽しみながら取り組んでいるのです。あの「悪名高き」文章題にですよ。文章題はいやだという子どもは、本当にたくさんいますよね。だけど、そういう子どもたちもどんぐりの文章題は楽しそうに解いているのです。思った通りでした。まず、勉強は楽しくなくっちゃ、ですね。やっぱりこれはいいぞいいぞとわくわくしながら、どんぐりの教材をすすめていくうちにまもなくショッキングな事が明らかになります。まさに機械的な計算の弊害を思い知らされるようなちょっとした、だけど生涯忘れることのできない出来事がありました。ある日、小学4年生になったばかりのT君とY君が、同じどんぐり問題を解いていました。この子たちは計算の宿題は毎回、たくさん持って帰るので、計算問題は得意ですらすら解くのですが、文章題は何度教えても、解き方を覚えることができなくて、私が心配していた子どもたちだったのです。(今思えば、たくさんプリントを持って帰っていたからそのようになったわけで、その時にはまさか計算プリントのしすぎが「考えない頭」を作っているとは夢にも思っていなかったものですから)
「みのむししょうがっこうでは、あさから きに ぶらさがって たいそうをします。きょうは てんきが いいので みんなで 16にんが ぶらさがっています。1ねんせいが 1人[ひとり]、2ねんせいが 2人[ふたり]、3ねんせいが4人[よにん]です。のこりの 4・5・6ねんせいは おなじ にんずうずつ きているとすると、4・5・6ねんせいは なんにんずつに なりますか。」
これを一読して、「先生、わけわからん!」とふたりそろっていいます。−やはり君たちもそうか。絵を描いて解くようにうながすと、はじめはぶつぶついいながらも、やっぱり楽しくなってきたのでしょうね。そのうち熱中し始めました。
ミノムシの絵を16匹描いて、1年生1匹、2年生2匹、3年生4匹にマルで囲むと、9匹のミノムシが残ります。ここで2人とも、はたと手が止まったのです。「先生、ここからどうするの?」同じように口をそろえて言うわけです。
−え、どうする?って。あとは3匹ずつ、マルで囲んでおしまいやろ!!!と言いたい気持ちをぐっとこらえて、
「もう一度、問題をよ〜く読んでごらん。4年・5年・6年の人数はどうだっていってる?」
「同じ人数ずつって書いてあるよ」「じゃ、そういうふうに囲めばいいね」
そこで、2人とも、同じ人数ずつ囲もうとするのですが、3匹ずつ囲めば、すぐに3つのグループができあがるということがどうもピンとこないのでしょうね。はじめに2匹マルで囲んで、また2匹マルで囲んで「あれえ、5匹も余ってしまった。わけわかんなくなっちゃった」といって、頭を抱え込んでいるのです。2人とも。私も心の中で、彼らと同じく頭を抱えました。このようにしたのは、私だ。思わず自分を責めました。2人の名誉のために言っておきますが、学校の成績はいたって問題なく、いつも算数のテストでは、満点か満点近く取っているのです。単純な計算は速いです。だけど、日頃から、少し問題をひねられると文章の意味を取ることができなくなるから内容を読み取る力・考える力の不足を
感じていた2人です。それにしても、・・・。がく然としました。この子たちは実は9÷3を理解していなかった!
4年生でありながら・・・。私の予測をはるかにうわまわるものでした。もちろん、9÷3=3という計算問題は、まったく問題なくできます。だけど、9÷3=3の本当の意味は、理解されていなかったのです。これはもしかして、この子たちだけではなく、他にも同じような子がたくさんいるのではないかとも思いました。(この時初めて、低学年における九九の暗唱がもしかして危険なものではないかという思いがふと頭をかすめました。そして、その後の検証によって、
 そのことも大問題だと切実に感じるようになったのです。九九の暗唱こそが、日本の算数教育をささえていると信じて疑っていなかったものですから)ふつう、授業ではわり算を次のように進めます。まず最初に、おはじきなどを使って、じっくりとわり算の意味を理解させます。その後まもなく、計算の答を出す練習に移ります。その時、九九を使って答を出すと便利だよという具合にもっていき、計算ドリルで、大量に割り算の計算問題をさせるのです。そのことによって、せっかく習ったわり算の意味がどこかに吹っ飛んだのでしょうね。目の前の9匹のミノムシを3つのグループに同じ数ずつわけることができない!また、そのことがわり算の式で答を出すことだということがわかっていなかった!さすがに、ここまでわかっていなかったとは想像すらしていませんでした。どうりで難しい問題のパターンを教えても頭に入っていないはずです。パターンとしてその場では出来ても、またわからなくなるわけです。(正確に言えば、最初からわかっていなかったのです。「できた」ら、「わかった」と錯覚してしまうのは、指導者によくある落とし穴のようです。)解き方の手順を暗記していただけですから。このことで、さらにどんぐり倶楽部の文章題の奥深さを見せつけられました。
つまり、どんぐりの文章題は、学力を養成するのみばかりでなく、現在の子どもたちの学力の真の姿をあぶり出してくれるのです。現行のテストの点数では、真の理解度を測定することは不可能です。たとえば、わり算を習ったときのことを考えてみましょう。宿題の計算ドリルでは、当然「わり算」ばかりです。ひらすら、九九の逆算を使って答を出します。計算ドリルに時折出てくる文章題でさえも、「わり算」の式を使う問題、つまり「わり算」を使って解くパターンの問題ばかりで、考えることなく、目の前の大きな数を小さな数で割るという機械的な単純作業にいそしむことになります。文章題の本来の役割は考えさせることにあるはずなのに・・・。この事情は、テストでも変わりません。ヘッドタイトルに「わり算」と書かれています。子どもたちは、考えることなく、ひたすら「わり算」の計算をするだけです。計算問題も文章題も・・・。つまり、学校のテストで判定できるのは、わり算が本当に理解されているかどうかではなく、「わり算」の答を正確に出すことができるかどうかだけなのです。ともかく、どんぐりの文章題をはじめて、1年半近くが経過しました。(途中で、私自身も見よう見まねで、どんぐりの文章題もどきを作って、塾生には私が作成した問題をさせていますが、それはまさしくどんぐりの文章題をさせているのと同じ効果が得られるのです(とはいえ、なかなか
あの素晴らしい「どんぐり倶楽部」のオリジナル問題のレベルにはなかなか届かないなあ・・・。いつも四苦八苦!)。
それは、いきなり式を立てるのではなく、絵や図を描いてから、それを見ながら考えることができるからです。つまり、文という抽象的な世界を、イメージという具体的な世界に置き換える練習が毎回できます。これができてはじめて「考える」ということができるわけです。その結果、成果が目に見える形で現れました。(注 成績ではありませんよ!)
まず、どの子どもも「わからない」といって、問題を投げ出すことはなくなりました。わからないまでも、絵や図を描きながら、うんうん唸って解こうとするのです。だけど、苦痛ではないようです。「やった!」解けた瞬間、ガッツポーズをする子もいます。えっ、T君とY君はどうなったって?そうですね。気になりますよね。現在、彼らはかなりむずかしい文章題を絵(図)を描きながら、楽しみつつ解けるようになっています。現在5年生で、まだ学校では割合も習っていませんが、「800円の3割引きは?」ぐらいの問題はすらすら解きます。もちろん公式はまったく教えていません。(「〜割」の意味だけを軽く教えているだけです)図を描いて、しくみを観察しながら、解けるのです(公式に頼らなくても)。思えば、こうした力もどんぐりの文章題を解いているうちに培われてきたのです。計算ドリルのおそろしさに気づいて約2年、どんぐり倶楽部の問題を実際に導入して1年半近くが経過しました。たった1年半で、この成果です。(^_^)vこれから、この子たちがどう成長していくのか。考えただけで、わくわくする毎日です。そして私自身の課題は、塾のどんぐりもどきのオリジナル問題を「どんぐり倶楽部」の文章題のレベルに少しでも近づけるように頑張るしかない毎日です。子どもたちといっしょに成長していくしかないですね。(^^;)これからも、ずっと・・・。
<追記>
なお、この記事に登場してくれたT君とY君とお母様には、この記事を書くことを快く承諾して頂いています。この場を借りて、改めてお礼を申し上げます。
索引
こだま先生のHP↓
http://blog.livedoor.jp/yoursong2005/archives/28100555.html

……………………………………………………………………………………………
道草学習のすすめ〜公的カリキュラムへの挑戦!〜2006年01月31日「陰山学級物語掲示板」
という有名な掲示板がある。私はこの掲示板は、見ないことにしている。なぜなら、見るとついコメントしたくなるから。この掲示板はもともと陰山メソッドを愛好する方たちがどのようにしたら、もっとよりよい学習が可能かなどを議論している場である。そんなところへ、私のような計算ドリル反対論者が割り込んでいくと、そうしたわきあいあいとした雰囲気の中をぶちこわしてしまうのはわかりきったことである。さすがに、私もそのことは気が引ける。だけど以前、一度読んでしまって、どなただったかお母様が低学年の計算で悩んでいたのをどうしても、いてもたってもいられなく、
ついコメントしてしまった。このコメントがこの掲示板の意に添わなければ削除してもいいですよと言いながら…。そうすると、翌朝、その掲示板を見ると、陰山先生じきじきに長いコメントをくださったのだ。いろいろお書きになっていただいていたのだが、要約すれば、「こだまさんのようなコメントは困る」という内容だった。当たり前だのクラッカーだが…。だけど、ここはチャンスとばかり、かなり長い文章で議論を挑んだ。だけど、返信はなかった…。(T_T)それ以来、この掲示板は見ていない。だけど、最近、なにかのきっかけでつい読んでしまった。幼稚園のお子さんに1日に30分お勉強をさせているとのこと。このことはどうなのか?というコメントだ。ううっ。またもや、私の中で御節介虫が蠢き始めるのを感じた。立場上まずいとは知りつつも、今回も書き込んでしまった。2回目のコメントである。残念ながら、今回の私のコメントに対しての陰山先生のおでましはない。(完全に嫌われちゃったかも… (^_^;))で、今もそのコメントのやりとりが続いている。このブログをお読みの方にも、目を通して頂きたい内容なので今回は紹介することにしました。ぜひ、お読みになってください!杏さんというお母様のコメントから始まるスレです。
「陰山学級物語掲示板」注意:この掲示板はスパム攻撃がひどいようで、ページがすぐに下がっているようです。もしクリックしてその記事がなければ、他のページを順々にクリックしていくと、いずれ出てきます。
Posted by yoursong2005 at 11:20Comments(56)TrackBack(0)
2006年02月03日
続「陰山学級物語掲示板」
先週はインフルエンザで、今週は、「陰山学級物語掲示板」のレスにかかりっきりで、肝心な「絵解き「お話」文章題」のアップが2週間以上も遅れています。ご利用になっている皆様、本当に申し訳ございませんでした。m(_ _)mようやくコメント等も一段落つきましたので、明日には、記事をアップできるように頑張ります!それにしても、Toshi先生のせっかくのコメントが昨日「陰山学級物語掲示板」上から、突如として消えてしまいました。なぜ?こんなことになるのなら、コピーすべきだったのにと悔やんでいたら、なんと、今日先生がきのうのToshi先生のコメントを全文、コメント欄に掲載してくださっているのです。いやあ、ネットの凄さに感謝!今日先生、本当にありがとうございました。m(_ _)mそこで、昨日のToshi先生のコメントをここに全文掲載することにします。
陰山先生の掲示版に書き込みをするようになるとは想像もしていませんでした。それだけに、こだま先生の果敢な取組に、敬意を表します。たった今、ナチュラルさんのすばらしいコメントが入り、ただただうれしくなりました。育ちつつある子どもにとって、何が大切かを、明快に論じていらっしゃると思いました。『こういうご時世だから、ドリル学習に力を入れなければならない。』という主張です。これは、誤解を招き兼ねないなと思いました。あとでは主張を変えられたようですが、わたしは公教育においても、思考力の育成は大事だと考えます。これはもう、皆さんが論じていらっしゃるように、自ら主体的に学ぶ力、生涯学習力、問題解決力、楽しい学習、自己肯定感とかかわり、公教育においても、大切にされなければなりません。ただドリルは不要、有害とまでは論じたくないのですが、わたしの気持ちとしては、それを説かれるこだま先生のご主張を受け止め、そういう弊害は確かにあるのですから、そうならないように、子どもの心を重視し、意欲的になるように配慮しながら、使う必要があるでしょう。ただし、そのわたしも、スピードを競うような、ドリル学習は絶対反対です。そんな力を養えとは、国の指導要領もいっていないと思います。この掲示板では、『生き生きと取り組んだ。意欲的にやった。』という論調もありますが、わたしは、ナチュラルさんのおっしゃるように、一時的なものだと思います。わたしは、61歳になりますが、昭和30年ごろの自分が取り組んだ学校教育をしっかりと覚えています。それは、学ぶ必然性、切実感があったからです。リンクさせていただきましたので、お読みいただければうれしく思います。当時、この掲示板でこだま先生やナチュラルさんの主張されている点は、民主主義教育のあるべき姿だったのです。最後に、公教育においても、こうした教育は次代の国民を自立させる教育として、大切にされなければなりません。学力検査が、知識・技能に偏っているのなら、それを是正すべきです。少なくとも我が地域ではそれをやっています。

現在も、あのスレは続行中です。→ 「陰山学級物語掲示板」
2006年02月08日続々「陰山学級物語掲示板」〜二兎を追う者は一兎をも得ず〜
どうやらこの「陰山学級物語掲示板」の例のスレッドも終わりを迎えつつあるようです。で、全体の空気の流れは、要するに「計算力」も「考える力」も両方しましょう。というところに落ち着きかけているようでしたので我ながらしつこいなあと思いつつ、今日、最後の書き込みをしてきました。以下、その文をのせることにします。
すいません。こだまです。これが最後の投稿になります。本当はこの前の書き込みを最後にしようと決めていたのですが、どうも最後の結論が要するに「計算力」も「考える力」も両方しましょ。という「いいとこ取り礼賛」の空気が流れていますので、気になりまして、最後に一言だけ言わせてください。「計算力」と「考える力」の養成。これは私が塾を始めて、6年間ずっと試してきたこと。そして、それが見事に大失敗に終わったこと。もちろん計算は速くなりますよ。
子どもによってはかなり速く。私の塾でも、そのことで自信がついた子もたくさんいました。(だけど、後にいろいろなきっかけによってその自信はくずれることになります。私のところでは、学校よりもややむずかしめの文章題もあつかっていましたから)だけど、私も始めの2,3年間はまったく疑問に思わず、文章題が解けないのは、計算力がないからだと勝手に思い込み「これでいいのだ」とただひたすら突っ走っていました。だけど、途中で重大な欠陥に気がついたのです。確かに、学校のテストのレベルの単純な問題を解くのであれば問題ありません。(テストで良い点も取れるようになるでしょう。だけど、これで自信がつくのならいいじゃないかとの反論もあるでしょうが、後からのこと(中学・高校以降のこと)を考えると、いいとは思えません。その自信を維持するために、危険な学習を続けることになるかもしれないからです)私自身は、かつて中学入試専門の塾で働いていました。その現場から、小学校のカリキュラムに対して問題を抱いていたのです。なんで、そんなパターンだけで終わるような簡単な問題しか解かせないんだ。それだったら、考える力は養成されないじゃないか。ということで、自分の塾を始めたときに「計算力の強化」と「考える力の養成」の
いいとこ取り作戦でいったのです。(だから、「いいとこ取り」作戦でいこうとされる方のお気持ちは痛いほど分かります。私も自分で塾を開いたばかりで生活がかかっていましたから、失敗は許されない。せっぱ詰まったところでやっていましたから)だけど、途中で気づきました。「計算力強化」のために行っていた単純計算の徹底反復が、「考えられなくなる頭」を作っていることを
それで、2年前から、塾から計算ドリルを一切廃止して、今、本当に順調にいっているのです。この2年間だんだん私は授業中、楽になっています。(つい先日も、娘から言われました。「お父さん、塾の間、ひまそうだね」と)なぜだか、おわかりですか。子どもたちが「わからない」といって質問しなくなったからです。その一方で、子どもたちが解く問題の難易度はこの2年間でどんどんあがっています。(だから、子どもたちは学校の問題は簡単で物足りないと言っています)だけど、彼らはたくましく解いていってくれるのです。時々、ふと計算ドリルをしていた時期の彼らとだぶります。目の前の子どもたちは、本当にあの時の子どもと同じなのだろうか。少しでもややこしそうな問題にあたると、自分では全然考えようとしないで「わから〜ん」と叫んでいたあの子たちと。現在、こうしてたくましく図を描きながら、いろいろな文章題を解いている子どもたちを見ていると、ふと思い浮かぶことがあります。かつて、私の失敗によって、芽が出なかったたくさんのお子さんたちの顔を。(特にお詫びしたいお子さんがいます。10の補数ができない小学2年生の男の子でした。まずは5の補数から練習しようとして、5−2=3,5−1=4…のような問題ばかり毎回させていました。私としては、5の補数のような簡単な問題ができなくては次に進めないと思いこんでいたのです。そして、失敗しました。5の補数の繰り返しも功を奏さず、数ヶ月、そんなことをくり返して(本人はさぞかし苦痛だったと思います。だけど私を信じてけなげになんどもくり返してやってくれました)、一向によくならず、結局塾をやめていきました。今、思えば、ゆっくりと数のイメージをつけさせればなんなくクリアできる壁だったのに・・・)始めから、今の方法でやれば、途中で苦しんでいたお子さんもたくさん助けることができたのに。悔やんでも悔やみ切れません。過去に戻れるなら、過去に戻ってどんなにやり直したいと思ったことか・・・。いまだに思い出しては、苦しみます。なんて取り返しのつかないことをしてしまったのだろうと。だから、みなさんには、もうこれ以上、私のような失敗をくり返してほしくないのです。ですから、そのことが仮に自信をつけるためだけであっても、単純計算の徹底反復は私としてはお勧めできない危険な方法なのです。(確かに一時的に自信はつくことでしょう。だけど、…なのです)自信は別の方法でも、つけることはできます。いいとこ取りをしようとされている方はこれから「どんぐり倶楽部」さんの文章題も、されようとしていますよね。自信をなくされている算数の苦手なお子さんは「どんぐり倶楽部」さんの年長さんレベルからされるのがよろしいかと思います。(年長さんレベルだからといって馬鹿にしないでくださいね。かつて途中から入った中学生でこの年長さんレベルの文章題がとけませんでした。きけば、ずっと単純計算の徹底反復の塾に小学校の間、6年間通っていたと言うことです)ちなみに、学校ではいつも満点近く取っていた一見問題ない小4のお子さんは小1レベルが解けませんでした。おそらく絵を描かなければ解けない問題は多いと思います。(もし絵を描かなくても、すらすら解けるようであれば、小1レベル以上に進んで、絵を描かずに解けないレベルまで進むといいと思います)で、次に「文の内容を絵に表してみよう」とお子さんにうながすのです。1行読んだら絵を描く。また1行を読んだら絵を描く。はじめのうちは、こんな感じでいいと思います。もし文章の意味がわからなければ、お家の方と一緒になって読んであげてことばの意味を教えるのはOKです。だけど、こうかけばいいと、指示してはだめですよ。次にここが最も大切なところなのですが、
式を立てるのではなく、絵を見て答を出すだけでいいのです。(慣れてくると、絵を描いた後に式を立てる(逆は絶対にダメ!)ということをしてもいいですが、焦りは禁物です。1年間ぐらい、式を立てないで答を出すことをしていても一向に構いません)これをくり返すと、確実に自信がついてきます。「なあんだ。わからない問題も、要するに、絵を描けば、なんとかなるじゃないか」と。こういう気持ちが芽生えてくれば、しめたものです。このことの積み重ねが本当の自信につながっていきます。また、この解き方を通じて、「本物の計算力」が育っていっています(表向き、その力がわかりにくいでしょうが…。あとになって、振り返れば、「ああ、こういうことだったのね」と分かってくれる日が必ず来ます)。最後に、「いいとこ取り」をされようとされている保護者の方へ私のこの8年間の営みを綴っている次の記事を
どうかじっくりとお読みください。
「本当は怖い計算ドリル 〜番外編〜 わが塾の遍歴 (その1)」
「本当は怖い計算ドリル 〜番外編〜 わが塾の遍歴 (その2)」
「本当は怖い計算ドリル 〜番外編〜 わが塾の遍歴 (その3)」
このコメントと、この3本の記事をお読みになってもなお、やはり計算力を鍛えるために百マスをされるというのであれば、仕方ありません。縁がなかったのでしょうね。あきらめます。お子さんの明るい未来のために、是非とも、正しい学習法をお選びになることを祈ります。取り返しがつかなくなる前に…。
PS
「百マス計算」をご家庭で毎日していて、その弊害に気づかれたお父様のブログがあります。是非、お読みになってください。トップ・ページに次のように書かれています。百ます計算を止めた理由を詳しく知りたい方は2005.12.13からのブログをお読み下さい。
「百ます計算からどんぐり倶楽部へ」「二兎を追う者は一兎をも得ず」いいとこ取りをされようとしている方が追いかけているのは実は1羽のウサギです。それが「計算力」というウサギと「考える力」というウサギの2羽に見えるのです。二兎を追いかけていると結局どちらも捕まえることはできませんよ!
PS
後から掲示板を読み返すと、自分があまりにもだだっ子のようにヒステリックな様子で叫んでいる感じがしていたたまれない思いでいます。この記事はこのブログの中だけにとどめておけばよかったと今では後悔しています。もし掲示板から来られて気分を害されている方がいらっしゃったら、まことに申し訳ございませんでした。本当にお騒がせしました。今後一切、あの場所には立ち寄らないことにします。なお、この記事は私のいつわらざる意見ですので、ここに残すことにします。(2月8日 PM 3:24 記)Posted by yoursong2005 at 12:05
……………………………………………………………………………………………

頭の健康診断はコチラ:年長〜小6:中学生は小5-6を使って下さい
*今の学習形式がお子さんに合っているかどうかも診断できます<診断表>*
※ご自由にお使い下さい<転載可:添削例の転載は御相談下さい>

※数百本の映画を2時間で観るのと(魅力的な)1本の映画を2時間かけて味わうのでは、天と地ほどの栄養の差がある。同じものが「毒にも薬にもなる」ことを心して扱いましょう。「バランスよく〜」という言葉に惑わされて栄養を与えているつもりで「バランスよく毒薬を」与えていては、どんなに回復力がある子供でも自力で立ち直ることは出来ません。
●「いいとこ取り:どっちも適度にやらせればいいんじゃない」は通じません。いくら大人には「適度なアルコールは健康にいい」と言われても子供にお酒を飲ませる人はいないでしょ?「子供は小さな大人ではない」というのは医学界では昔からの常識ですし、スポーツ界でもスポーツ障害が研究された今となっては常識になりつつあります。残念ながら一番遅れている(気付いてさえいない)のが教育界です。
●正確な反復を必要とする運動(体の制御)とは違って、柔軟で多様な視覚イメージを必要とする思考においては徹底反復や必要以上のデータは不要である。幼児・児童期には処理することではなく様々な処理が出来るように様々な処理回路(思考モデル:思考回路)を作ることが最重要課題だからである。従って、運動では必要とされる条件反射的な、判断さえも自動化する反射の形成は極力さけなければならない。頭と体の学習の違いを知っておかなければならないのです。頭の肉体化は最も危険な教育であることを認識すべきです。視考力養成のつもりで行われる最も危険な勘違い学習方法は高速単純計算に代表される、頭を使うことなのにスピードを強いられる学習方法である。反対に運動競技(スポーツ)においては無意識下で動くことを多くの部分で要求されるので条件反射の形成は必要となる。頭と体の学習を混同しないことが健全な子供を育てる要である。
●「習熟:慣れ」について:スポーツでの実践の試合のような臨機応変に複雑な操作(思考モデル)を要求されるものについては習熟は多様な思考モデルの作成と同じですから、健全な頭を作りますが計算の様な単純な思考モデル(「10の補数と九九」しか使わない)しか使わないものの習熟は習熟すればするだけ単純思考しかできなくなる不健全な頭を作ります。考える力とは全く反対の考えない力を強化していまう単純な思考モデルを頑丈にしているだけだからです。一度固定された思考モデルは柔軟な思考モデルを食いつぶしてしまいます。回復は非常に困難です。幼児期の間違った教育が才能溢れる子供の脳力を最低の反射しかできない脳にしてしまうのです。暗記・計算は最も危険な考えない学習です。そこには思考力の基盤となる多様な思考モデルを育てる要素は全くないからです。
※質を量ではカバーすることはできません。幼児・児童期には不可能ですし、全く違うことです。つまり、コピーするという1つの回路を1万回使って1万個の知識を得ても、肝心の思考モデル(思考回路)は全く増加しておらず、反対に最も単純な1つの回路を強化して他の回路作成環境を悪化させていることになるのです。お金と時間をかけて才能を潰していることに気付かない。これでは、どんなに回復力のある子供でも...ヤバイです。...子供を見ましょう。そうすれば、分かります。特に目には気をつけましょう。
●単純思考の味をしめた子供は好きあらば、その単純思考(なるべく考えないで反射的にすること)に力を注ぎます。勉強以外でもです。ここが怖いところです。計算の反復練習も文章問題も<バランス良く>と思っている人は勉強以外の圧倒的に長い学習時間のことを忘れているのです。24時間のうちの数時間を<バランス良く>学習せていても、そのバランスは非常に悪いのです。誰にも何にも言われなくても、自分で<考えることが楽しいから〜>と自然になるように育てなければならないのです。だから、幼児・児童期には<手抜き学習・徹底反復・高速学習>は極力させてはいけないのです。ましてや、そんな学習方法を評価してはいけないのです。成長途上の子供に向かって「アルコールは体にいいぞ〜」とは言わないでしょ!
……………………………………………………………………………………………