職業柄ぶつかる“コンピュータで扱える文字数の少なさ”という問題に深入りしていくうち、ついに「補助漢字フォントの公開・配布」まで始めてしまった私ではあるものの、実はいわゆる「旧字・正字が云々」という問題については結構淡白で、「略字(あるいはJIS第1・第2水準)で済むならそれでいいじゃん」とすら思っている。たとえば、「崩し字」で書かれた史料を翻刻・引用する際、その“正しい姿”が正字か略字か、などというのは殆ど意味をなさないであろう。また、「活字史料」というものが、すでにして原史料の全情報のうち、元通りの組やテクスチャ等を切り捨てて“テキスト情報”のみを抽出したものになっていることも忘れてはなるまい。そういった刊本からさらに引用する場合、我々はまず間違いなくその“テキスト”が示すコンテクストという抽象物を論究対象としているのであり、その運搬物でしかなくなっている文字の形を云々したとて、それが結論に影響を及ぼしはしないのだ。よって私にとっては差し当たり、<JIS第1・第2水準に「略字」すら存在しないが史料に頻出する文字>だけが、喫緊の問題ということになる。
ただし、「文字そのもの」の時期的変遷や地域的・人間集団的差違を研究対象とする場合には、事情はまったく異なってくる。それこそ「過去、現在および将来にわたる、多くのアジア諸国の文字を収集」するという、文字鏡フォントの如き存在が要請される所以であろう。しかし、ここでこそ我々は、深刻な困難に逢着することにもなるのだ。フォント・セットおよび文字コードの策定に際しては、常に個々の“文字”をめぐって「どこまでが文字そのものの違いで、どこからが単なるデザイン差か?」ということが激しい論議の的となる。これを一義的に決定してしまわねば、工業的規格として機能し得ないのだから議論になるのは当然だが、これはそれこそ「研究」によってはじめて明らかになる問題でもあろう。そしてこの種の研究は、新資料がひとつ見出される毎に、大幅な修正を余儀なくされることも稀ではない。まして文字が世につれ人につれ変化を重ねていくものである以上、その成果は永続性の期待が薄い「とりあえず」のものでしかない。ところが「規格」なるものは、永続とまではいわぬにしても、ある程度の長きにわたって変更なく用い得るものでなくてはならないし、それ故に「文字」の用法という“文化”に一定の枠を強制する“権力”としても機能してしまう。だからこそ文字コードにまつわる議論は、文化論や権力論の様相を帯びてくることになるのだろう。こうなると「文字そのもの」について大した造詣も教養もない私としては、その筋の専門家の方々に、程良く“実用”と“学問”との折り合いをつけていただくことをお願いするしかないのだ。
とはいえ、文字コード問題について自分なりの見解を何も示さぬまま、「補助漢字フォントの配布」に及ぶというのも少々無責任な気がして内心忸怩たるものがある。そこで今回は、いわゆる「Unicode問題」を糸口に、ひとつだけ気になっていることを述べてみたい。Unicodeとは、インターネットの爆発的普及による電子情報のボーダーレス化などといった動向を踏まえ、これまで各国毎に策定されていた文字コードに代えて、世界の諸言語で用いられる文字を一つの規格で網羅し、以て多言語環境を実現しようというものである。しかしその理想とは裏腹に、「漢字」の扱いに関して各国毎の差違に配慮が行き届いていない乱暴さや、相変わらずの「文字数不足」等も指摘されている。この「文字数不足」を理由に「正しき日本語・日本文化の圧殺」といった論が生まれてくるのはJISコード策定の時と事情は同じだが、Unicodeの場合、欧米メーカー主導で成立した規格であることが手伝い、やれ「欧米人による画一化・文化侵略」だのとなり、そのトーンもいや増すといったところがあって、何とも面倒な話になっている。いわば「Unicode亡国論」である。
が、この種の論に対しては、かねてより「言語・文字は時代とともに変化する生き物であり、“正しい日本語”などという固定したイメージは、ある特定の時点の“日本語”を特権化・美化したイデオロギーに過ぎない」という、有効な批判が存在している。ここでは、さらに踏み込んで、「そもそも“日本語”などあるのか?」という問題を提起してみよう。詳論は避けるが、近年の歴史学においては、近代国家による「国民統合」のメカニズムが具体的に解明されつつある。ごく大雑把かつ乱暴にいうと、近代以前には国家権力の規制力などてんで弱くて、「国家」が勝手に引いたつもりになっている「国境」なんぞお構いなしに、「国境」の向こうの村とも「隣の村」という感覚で行き来してたような連中に、どうやって近代国家は「国境」を意識させ、「お前等は××国の『国民』なんだ」という仲間意識=排外意識を植え付けていったか、という話といってよい。そこで実際以上に「我々は遠い先祖の頃から仲間意識をもってこの国を盛り立ててきたんだ」などと強調した「国家史」「国民史」なんぞを編纂し、全国均質な近代学校教育システムをとおして浸透させていく。そして実は「国語」というものも、首都近郊のコトバを“標準”とし、対して各地域のコトバを“方言”としてその下位に位置付けつつ、同じく人為的に再編されたものだったりするのだ。あえて極論すれば、お互いまるで意志疎通が不可能そうな津軽弁と鹿児島弁とが等しく「日本語」に括られているのは、どちらの地域も「大日本帝国」の支配下にあったから、とすらいえてしまう余地がある。
さて、こういった問題が自覚されてきた背景には、経済活動の越境的展開や民族紛争の頻発といった事態のなか、「国家」というものが機能不全に陥りつつあるという現実がある。いわば「国家」「国民」だけを主軸とする認識枠組から自らを解放して、新たな状況に対処しようという意識がなさしめているともいえるだろう。文字コードの問題に引きつけるならばここには、近代においては国家権力に独占されていた「規格策定権」を分散・多元化してしまおうという志向が見出せる。そしてここまで述べればお気付きであろう、文字コード問題とは、現代における国家による「国語」制定問題の一部をなすということに。だからこそこの問題は、勝れて権力論の問題そのものなのだ。よってJIS文字セットの“貧弱さ”を以て、それを定めた「国家」を批判する「憂国論」者もまた、たとえ無自覚であったにせよ、国家権力による言語・文化統制そのものについてはこれを是とする、旧来型の勢力といわざるを得ないであろう。
とはいえ、「国家が文字コードを策定するのは国家主義的でけしからん!」などという積もりは毛頭ない。やはり実際問題としては誰かが「規格」「標準」を定めなくして、電算社会は機能し得ない。そして上述の如き近代史の経緯があるからこそ、この問題は逆に国家が関与せぬことには収まらぬだろう。ただ、その絡繰りを自覚し常に相対化し得る意識を保つことにより、権力の“暴走”を抑止するのみである。そしてかかる観点からは、Unicode問題は現代におけるひとつの逆説を提起しているといえる。Unicode登場の背景は、まぎれもなく「国境」を無効化していくボーダーレス化であったのだが、その規格策定の内側では、各国の政府系機関がそれぞれの「国家」と「国語」とを代表して、「母国語」の採用枠を確保すべく、シノギを削っているという現実を見逃してはならない。たとえば「日本語」の場合には、JIS第3・第4水準という「国家」規格の文字セットが、如何にUnicode上にマッピングされるかというかたちで問題が具体化するのだし、「CJK漢字」という問題設定自体が、それがC・J・K各「国」の「国語」たることを、「国際社会」という場における相互交渉と連関のなかで、さらに強く固定化するものであるといえるのだ。よって、その現実的な必要性は理解し評価したうえで敢えていおう。Unicodeを「欧米による文化侵略」などというのは皮相に過ぎる、これはいわば、各国権力が「自国」の言語・文化に対する独占的支配権を相互に確認しあうことを通じ、その歴史的趨勢としての衰頽に抗わんとしている、政治的な“場”なのである、と。そしてこれは一面では、脱・「国家」化の要請により生まれたものの担い手が、実はまだ「国家」以外にはあり得ないという、現代社会を貫通する厄介さの、見事なまでの象徴でもあるのだ。
【追記】
誤解なきよう断っておくが、現在JISやUnicodeといった規格策定に携わっている方々の多くは、私がくどくどと述べるまでもなく、かかる“逆説”を自覚しつつ、困難な作業にあたられているものと思う。真に問題とすべきは、その外側から知ったふうな口で「正しい日本語が云々」といったお気楽なゴタクをならべる連中であろう。