月 - 12月 12, 2005『キング・コング』 ジャパンプレミアにて、『キング・コング』
を観る。
『ロード・オブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソン監督が、12歳の頃からの夢であった1933年製作『キング・コング』 のリメイクを、248億円もの制作費を投じ、3時間を超える超大作として作り上げた作品。さすがに、元祖『キング・コング』に対する思い入れたっぷりで、ストーリーもほとんど同じだし、セリフもそのままの部分が多い(映画史に残る、あのラストの一言もまったく同じ)。 前半の髑髏島のシーンは、CGをふんだんに盛り込んであり、迫力はあったがやや長くなり過ぎているような気がしたが、後半のニューヨークのシーンは、圧倒的な見応えであった。エンパイア・ステート・ビルの場面は、その迫力に小便ちびりそうになり、感動に涙がちょちょギレそうになる、涙腺も尿道も緩みっぱなしの素晴らしい出来映えである。オリジナルにはない「氷の上」シーンを観た時、この作品が歴史に残る名作になるコトを確信した。とらわれたコングを劇場で見せ物にする場面も、オリジナルと少し違う工夫が施されていて、こちらの方がコングと美女アンとの関係が切なく感じられ、素晴らしいアレンジであった。 ラストに、『この映画をオリジナル版を作った製作者に捧げる』というテロップが出るのだが、そんなモノを出すまでもなく、リスペクトがスクリーンの隅々から感じられる。本作を観れば、オリジナルの素晴らしさも再確認できるし、リメイク版もそれを超越する完成度となっているコトに感動を思えずにはいられない。70年前の映画人のアイディアと、現代の映画人の才能と、そしてテクノロジーが見事に融合した本作は、間違いなく、数多あるリメイク映画の頂点に立つ一作である。 Posted at 10:43 午後 | | 日 - 10月 30, 2005恋とiPodと満員電車 先日、酔っぱらいで箱詰めになった終電間際の満員電車に乗った。
私の目の前にはハタチ前後のカップルがいて、必要以上に体を寄せ合っていた。腰は密着し、頬と頬もくっつく寸前。キミらは雪国の猿か、と心でツッコミながら眺めていたワケだが、やがてそれだけ密着している理由がわかった。彼らは、1台のiPodのひとつのイヤフォンを2人で聴いていたのである。カレシの右耳とカノジョの左耳に、白いイヤフォンがひとつずつ入っていたのである。 何とも微笑ましい光景であったが、このカレシの方は音楽なんて耳に入っていない様であった。ハタチの男子といえば、発情期のネコもビックリの性春……、いや、青春まっただ中。これだけ女のコと密着していて心も体も穏やかでいれるなら、悪いコトは言わぬ、今すぐ俗世から離れて禅寺へでも行って出家するコトをオススメする。 カレシの右手は、最初はつり革をつかんでいたが、列車が3分も走らぬうちにカノジョの腰に手を回し始めた。更にその手をそぉっと、まるでルパンが宝石を盗むかのような慎重さで尻へと伸ばしてイッたのである。こっそり触ればバレないとでも思ったのだろうか。 さて、今私の目の前で尻をまさぐられているカノジョ。コーディロイのジャケットにフレアスカートという上品ないでたちで、原田三枝子を3日間水につけふやかして色気をヌイたような、お嬢様風のなかなかの美人。カノジョがどんな反応をするか固唾をのんで見守っていたのだが、意外な反応に驚かされた。 「イヤ〜ン! エッチィ! どこ触ってるのぉ!!?」 メチャクチャ声がデカいのである。周りの観客は、きっとカノジョが痴漢に遭ったとでも思っただろう。 そう、カノジョは耳にイヤフォンを装着していた為、声がデカくなっていくコトに気づかなかったのである。誰もが一度は経験がある、あの現象である。本人はカレシにしか聞こえないような小さな声で話しているつもりなのだろうだが、その声は隣の車両の乗客にまで聞こえるほどデカかった。その車両の中で2人の声がデカいコトに気づいていないのは、当のカレシとカノジョの2人だけだった。カレシは続けてこう言った。 「ちょっと太ったか!!?」 またまた声がデカい。そして、その問いに対するカノジョの答えに、同乗した酔っぱらいサラリーマンたちは一斉に酔いを覚まさせられるコトになる。 「今日、毛糸のパンツ履いてるんだもん!!!」 毛糸のパンツ。毛糸のパンツ。毛糸のパンツ……。乗客の頭に、この言葉が響き渡った。この、いつも成城石井で買い物してるような、吉野家なんて行ったコトがないような、週末にはお母さんとお父さんと隠れ家的レストランでイタリアンのランチコースを食べているような、そんな上品なカノジョが、毛糸のパンツ、毛糸のパンツ、毛糸のパンツ……。 そういえば、めっきり朝晩冷えて来たなぁ……。そろそろ冬物のコートでも出すかぁ……。季節の変わり目を、見知らぬカノジョの毛糸のパンツで知るコトとなった。 Posted at 09:18 午前 | | 木 - 10月 27, 2005また来年も我がタイガース セントラル・リーグのペナントレースを圧倒的強さで制し、2年前に達成できなかった悲願の日本一を今年こそは! と挑んだ我がタイガースが、日本シリーズで千葉ロッテに対し予想外の惨敗を喫して、12時間が経とうとしている。ショック状態もそろそろ癒えたので、何とかキーボードを叩くくらいの気力は回復した。
世間では、「プレーオフを勝ち進んだロッテに勢いがあった」とか「ペナントレースが終ってからタイガースは3週間も試合がなかった」、「村上ファンドによる上場問題が心理的に影響した」など、我がタイガースの敗因を分析する論調があるが、私はこれからのコトを言い訳にしたくない。今回は、実力の差がはっきりとしていたコトを認める。現在のプロ野球界では、千葉ロッテと福岡ダイエーの2チームの力が抜きん出ている。 それに加え、千葉ロッテは我がワイガースを徹底的に分析していた。聞くところによると、ボビー・バレンタインはアメリカから凄腕の統計アナリストを連れて来て、チームを作り、我がタイガースの全試合、打者の全打席、投手の全球を分析したのだという。お陰で、今シーズン我がタイガースを牽引した赤星、シーツ、金本、今岡はまったく(本当にまったく)仕事をさせてもらえず、我がタイガース投手王国の象徴である藤川球児の低めの変化球には(恐らく投げる前にクセで読まれていたのだろう)、千葉ロッテの打者は誰一人引っかからずスイングしなかった。防御率2〜3点台で頑張った橋本、江草にいたっては、まるで2流投手のようにポカスカ打ち込まれた。勿論、我がタイガースのスコアラーたちも頑張ったのだろうが、今回は相手の方が一枚も二枚も上手だった。 例えば岡田監督は、シーズン中と同じく、1〜8番まで不動のラインナップで打者を揃えたが、これは短期決戦には不向きな戦術ではないだろうか。長いシーズンなら不調の打者が調子を取り戻すのを待つコトもできるが、4戦の戦いではそんな悠長なコトは言ってられない。調子の上がらぬ者を下げたり打順を組み替えたりする必要がある。ところが、シーズン中からそんな経験のない我が岡田タイガースは、日本シリーズだから言って突然そんな戦術はできなかった。お陰で、打線に関しては何の策も講じるコトができず、完璧に押さえ込まれた。 この敗戦は悔しい。胃が痛くなるほど悔しい。 しかし、私は今シーズンのリーグ優勝は、2年前の優勝よりも嬉しいのだ。3年連続最下位だった我がタイガースを勝てるチームにしてくれた星野仙一監督(現シニアディレクター)には、私は一生足を向けて眠れない。しかし、星野氏はいわば、我がタイガースを窮地を救う為にお願いして来て頂いた監督。岡田監督は、我がタイガースがドラフト1位で引き当て、育ち(ま、途中でオリックスにお貸ししたコトもあったが)、85年奇跡の優勝の立役者で、2軍監督としても実績を残した、我がタイガースの生んだ我がタイガースの為の監督なのだ。そんな岡田監督のもとで、本当にたくましい戦いをしてリーグ戦を勝ち抜いてくれたコトが、本当に嬉しい。 しかも、相手が千葉ロッテだ。80年代から90年代、「万年最下位」「リーグのお荷物」と言われ続けた両チームが日本シリーズで戦うコトになろうとは、誰が予想できたであろうか。タイムマシーンで20年前に行って、「2005年の日本シリーズはタイガースとロッテだ」と言ったら、きっとみんなに鼻で笑われるだろう。 10月22日。千葉マリンスタジアムで我がタイガースと千葉ロッテの一戦が始まった瞬間、私は目頭が熱くなった。「本当に、タイガースとロッテが日本一をかけて戦っている」。こんな光景を見るコトができるから、プロ野球ファンはやめられない。いずれ、東北楽天と広島カープが日本シリーズで戦う日も来るだろう。 千葉ロッテファンのみなさん、おめでとうございます。できるコトなら、千葉ロッテには来年もパ・リーグを制して日本シリーズに出て来て欲しい。我がタイガースもセ・リーグを勝ち抜き、そして千葉ロッテの胸を借りて、リベンジしたい。また来年負けたなら、再来年に挑戦したい。日本一になるまで、我がタイガースには勝ち続けて欲しい。 今年もプロ野球の季節が終った。かつては「ゴールデンウィークにはもう終っている」と言われたタイガースの戦い。今では10月末まで応援し続けるコトのできるチームになった。それが何より幸せである。我がタイガースの選手には、また数ヶ月休んで、春には縦縞のユニフォームを来て戻って来て欲しい。我々も春まで、野球のない季節を静かに過ごすコトにする。 Posted at 08:15 午前 | | 水 - 10月 26, 2005刑期について考える まだプロ野球が華やかし頃、昭和30〜40年代。巨人・大鵬・玉子焼きとうたわれた通り、猫も杓子もON(王、長嶋)に夢中だったようで、子供たちは銭湯の下駄箱を、ONの背番号である1と3を我先にと使いたがった、というのは有名なお話。
かの私も、幼少の頃か我が阪神タイガースの掛布雅之が大好きで、小学校の時、「僕の出席番号を掛布の背番号である31番に変えてくれ」と担任の松田先生に直訴したコトがある。松田先生は「理由がなければダメだ」と言うので、私は胸を張って答えた。「今の出席番号の7は、僕の大嫌いな読売ジャイアンツの柴田の背番号だから嫌です」と。ところが松田先生は「そんなのは理由にならない」と一蹴するのだった。 松田先生はわかっていない。たかだか背番号と思ったのだろうが、その数字ひとつで、小学生がどれだけ学習意欲を削がれ、ポテンシャルを引き出す妨げとなったかを。もしあの時、先生が私に31番を与えていれば、私の成績は2〜3レベルはアップしたハズである。何しろ、毎朝学校へ行き、授業前に出席を取られたワケだが、「7番、○○!」と呼ばれるたび、「あぁ、俺はあの柴田と同じ7なんだ……」と落ち込んでいたのである。朝からブルーになっている小学生に、授業を聞いて学習せよ、という方が無理な相談である。 こんなニュースがアメリカから届いた。 『憧れのスポーツ選手にあやかって、刑期を3年延長志願した男』 強盗殺人を犯したこの男。懲役30年という判決に異論を申し出た。彼はNBAの大スター、ラリー・バードの大ファンで、その背番号である「33」にあやかり、懲役も33年にして欲しい、と願い出たのである。こうして、前代未聞の刑期延長処置がとられるコトになった。 記事によると、判事は「彼はムショ入りして落ちぶれるなら、ラリー・バードのユニフォームも道連れだと言っていたので、この上なく喜んでいます」とのコト。 この判事もわかっていない。この犯人は、強盗殺人を犯した凶悪犯なのである。どうしてそんな人間の願望をわざわざかなえてやるのか。もし、こいつが「33番」の大ファンだとわかったら、あえて刑期は「32年」にするのが正しい裁判官の判断ではないか。「あぁ、俺の大好きな『33』だぁ〜」と幸せな気持ちで33年刑務所で過ごすのと、「どうして1年足りないんだぁ!」と、悶々とした気持ちで32年過ごすのと、どちら凶悪犯に相応しい刑罰か、考えずともわかるだろう。 これからは、裁判所は刑期を、初犯だから5年とか、殺人だから20年とかいったように杓子定規で決めるのではなく、罪人それぞれのパーソナルなデータに照らし合わせて決めるべきではないか。例えばラッキーナンバーが7の人間には懲役6年11ヶ月を、占いで字画が悪いと改名した人間には、元の画数の年月を求刑する。ヨン様ファンには5年、二郎さんファンは3年、ついでにサブちゃんファンは死刑でどうだ!? Posted at 06:49 午後 | | 木 - 10月 20, 2005未知との遭遇 私ほど、幽霊やUFOの存在を信じていない者はいないのではない。
何故なら、私ほど幽霊やUFOに一度で良いから遭遇したいと願っている者がいないからである。道を歩くときは、空にUFOが飛んでいないかと絶えず視線を空に向けているし、暗闇に行くと、どこかに幽霊がたたずんでいないかと目を凝らして探す。そんな努力を日々重ねながら30年以上生きて来たが、たった一度も空飛ぶ円盤にも幽霊にも出会ったコトがない。たった一度も、である。その結果、やはり幽霊やUFOは存在しない、という結論を導き出さざるを得ないのである。 よく、UFOに拉致されて宇宙人に謎の手術を施された、という話を耳にするが、出来れば私もやって欲しい。もし宇宙人がそんなに人間で実験をしたいのなら、私がいち早く立候補する。どうぞUFOで拉致してくれ。私の所在地が知りたいなら、コメント欄にカキコしてくれ。 幽霊も、誰かの前に化けて出たいのなら、こんなにあなたのコトを想っている私の前に出れば良いのに、と思う。どうして人一倍恐がりの人間の前にばかり出てくるのか。不公平である。できれば20年前に死んだ祖母に出て来て欲しいが、ここまできたらワガママはいわない。どんな幽霊でも結構である。24時間お待ちしている。 なぜ私の前に現れないのか、と思ったら、本日、こんなニュースを目にした。 『小金沢昇司、UFOの激写!?』 あの、歌手の小金沢君(一体この人はいつまで「君」付けで呼ばれるのか)が、UFOを激写し、新曲の発売と同時に発表するのだとういう。 記事の中に、こんな一文があった。小金沢君は25年前にもメキシコでUFOを目撃し、昨年も函館の露天風呂で3つの謎の光に遭遇しているそうで、「UFOのは縁がある」そうだ。 これが本当だとすれば、私にはUFOにも幽霊にも「縁がなかった」というコトになる。昔、いつか2人きりで遭遇したい!と願っていた女のコから「縁がなかったと思って諦めて」と言われたコトがあるが、まさか幽霊とUFOにも縁がなかったとは……。女も幽霊も、願いが強すぎてはイケない、というコトなのだろう。 Posted at 04:02 午後 | | 月 - 10月 10, 200510月10日という日 10月10日といえば何の日かご存知だろうか。体育の日(ハッピーマンデー導入の2000年以降は10月第二月曜日になったが)。正解である。目の愛護デー。それも正しい。具志堅用高がファン・ホォセ・グスマンを破り世界ジュニアフライ級チャンピオンに就いた日。新宿の歌声喫茶「灯」が閉店した日。それもこれも正解だ。
しかし、もっと重要な一日であるコトを、我々は忘れてはイケない。それは、多くの子供たちが性の目覚めと人間の神秘について考える日である。 我々は小学校高学年にもなると、ある事実を知るに至る。いかなる行為と仕組みで子供ができるのかというコト。そして、そうやって仕込まれた子供は、十月十日で産まれてくるコトを。 赤ちゃんは結婚すればコウノトリが自然に運んで来てくれる、と真剣に信じていた者にとって、これはサンタクロースの正体が実は我が親父であるというコトを知るのと同じくらい、アイドルが公表しているスリーサイズは結構いい加減だというコトを知るのと同じくらい、衝撃的な事実なのである。 そしてこの二つの事実が頭にインプットされた瞬間、子供たちは幼い頭をフル稼働させ考える。受精、妊娠、トツキトオカ……。こうして熟考の末、ある結論が導きだされるのだ。「というコトは、10月10日生まれのヤツは、親が元旦に……」 思春期を終えた人間にとっては、まったくどうだってイイことなのだが、これは子供にとってみれば衝撃的な事実である。「みんながこたつで隠し芸大会を観ながら雑煮を食っている時に、こいつの親ったら!」というワケだ。 こうして、クラスに1人はいるであろう10月10日生まれの人間は、みんなから一斉にこの言葉を投げつけれる。「お前は親が正月にヤッてデキたんだぁ」と。 私の同級生だった10月10日生まれの井上君も、クラスのみんなから言われていた。10月10日生まれの有名人、野坂昭如も風見しんごも栗山千明も、そして元X JAPANのTOSHIも、きっと一度や二度は言われたコトがあるだろう。ヘタをすると、10月9日生まれの人間は、「お前の親は紅白観ながら……」なんて言われたコトがあるかもしれない。 そんなコトを言われても、10月10日生まれの人間は困ってしまうだろう。なぜそんなコトで小馬鹿にされたような言い方をされなければイケないのか。正月だなんて、考えようによっては非常にめでたい事実とも言えるではないか。それでも子供たちは、声に出さずにはいられない。そんなコトを言ったり考えたりしてイクうちに、人間誕生の意味や尊さを学んでイクような気がする。 10月10日生まれのみなさん、お誕生日おめでとうございます。 Posted at 05:57 午前 | | 月 - 10月 3, 2005『お熱いのがお好き』 新文芸座にて、『お熱いのがお好き』
を観る。
初めてこの作品を観たのは、小学校5年生の時だっただろうか。確か、NHK教育の映画番組だったと思う。それをたまたビデオま録画していたテープは、以降、何度も何度も再生されるコトになる。しかし、デカいスクリーンで観たコトはなかった。 高校の頃には、1万円以上出しVHSソフトを購入し、勿論、DVDは発売と同時に入手した。今世間は、次世代DVDがHD DVDかブルーレイかでモメているが、私は『お熱いのがお好き』を出した方を支持しようと思う。 「あなたはどんな人間ですか?」と尋ねられれば、私は「『お熱いのがお好き』と阪神タイガースとビールとデビュー当時の牧瀬里穂が好きな人間です」と答える。 初めて本作を観た時、マリリン・モンローは何て色っぽい女性なんだと思った。気がつくと、撮影当時のマリリンより年上になってしまった(当時彼女は32歳)。改めて観てみると、何ておきゃんなんだと思った。 映画史上最も完璧なあるひと言で終るラストシーンは、何度観ても笑えるし感心する。歳を重ねるにしたがって、あのセリフの意味がより素晴らしく感じられる。 映画監督のキャメロン・クロウが、ビリー・ワイルダーの元に押し掛け、延々と話を聞く名著『ワイルダーならどうする?』(ワイルダーの人を食ったような受け答えは絶妙で、ワイルダー喜劇を観ているようですらある)には、このセリフの誕生の秘密などが書かれているので、映画鑑賞とともに併読するコトをオススメしたい。本当にイイ本である。 とにかく、こんなに色あせないコメディなんて、奇跡と言ってもイイ。やっとデカいスクリーンで観るコトができて、我が人生でやり残したコトが、またひとつなくなった。 Posted at 01:50 午後 | | 木 - 9月 22, 2005『シン・シティ』 試写にて、『シン・シティ』
を観る。
ロバート・ロドリゲスが、コミックの原作者フランク・ミラーと共同監督し、クエンティン・タランティーノも1シーンだけ友情演出(?)している。本作の特徴は、ナンと言っても白黒を基調に一部分だけカラーをつけたスタイリッシュな映像なワケで、どこを切り取ってもアメリカンコミックそのまんま。完全なる「アメコミ様式美」である。これが驚くほど原作コミックを忠実に再現している。どれくらい再現しているかといえば、以下に原作コミックのひとコマと本編の映像を並べてみた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ここまでくれば、絵コンテ代わりに原作コミックを持っていたのではないかと推測される。 物語は3つのエピソードからなり、犯罪が犯罪を呼ぶ罪深い街、シン・シティで、男が1人の女を守るために闘う、という共通点はある。ハードボイルドな原作コミックを忠実に再現している為、矢継ぎ早なネレーションで物語をどんどん説明しちゃうという、映画的には御法度な手法も、遠慮なくじゃんじゃん使用している。まぁ本作には、これまでの映画定石は通用しない(させる必要はない)ワケで、音楽を含めた映像や感覚こそ体感すべきモノなのである。 それにしても、豪華俳優陣の中で、化け物メイクのミッキー・ロークもすごかったが、最も目を引いたのが、クライブ・オーウェンだった。『クローサー』を観た時に思ったあの感動は、やはり本当だった。「こいつはアメリカのルー大柴だ!」。 そんなアメリカン・ルー大柴が、二丁拳銃をぶっ放して大活躍したり、歯の浮くような台詞で女を抱いたりするのだ。『クローサー』の時のようなモテない女たらしも良いが、ハードボイルドなプレイボーイ役もなかなかのモノだった。誰もがその存在感と違和感と演技力に、視線が釘付けになるだろう。本当にいい役者だと思う。 Posted at 11:16 午前 | | 月 - 9月 19, 2005『バッド・エデュケーション』『コーヒー&シガレッツ』 新文芸座にて、『バッド・エデュケーション』
と『コーヒー&シガレッツ』を観る。
『バッド・エデュケーション』は、『オール・アバウト・マイ・マザー』『トーク・トゥー・ハー』のペドロ・アルモドバルによるミステリーである。ミステリーといっても、そこはペドロ兄さん、一筋縄ではイカない変わった作品に仕上がっている。 ある新進映画監督、エンリケのもとに、同級生だった名乗る俳優、イグナシオが尋ねてくる。イグナシオは、幼い頃の自分たちをモデルにした物語を書いたので、自分を主演にその映画を撮って欲しい、というのだ。実は、エンリケとイグナシオは、初恋の相手同士だった。そう、この作品は、ミステリー&ゲイによるラブストーリーなのである。 物語は、エンリケがイグナシオの書いたシナリオを読み進める「劇中劇」スタイルで進行する。全寮制のカソリック小学校時代、教師である神父にいたずらされたり、同性愛が見つかって退学になったりと、インモラルな思い出の数々が語られる。シナリオの後半はイグナシオの創作なのだが、それを読んだエンリケは、このイグナシオはかつて愛したイグナシオとは別人ではないか、という思いにかられる。エンリケは、そのシナリオでイグナシオ主演の映画を撮りながら、真実に迫ろうとする。現実を元にした映画と、現実かどうかわからないリアルが交差いつつ、この複雑な入れ子構造でサスペンスとしてはなかなか見応えのあるモノとなっている。 とにかく、これほど男同士のSEXをじっくり描いた濡れ場のある作品も珍しい。本作の登場人物の行動は、モラルや道徳、あるいは宗教的教えに反するコトのオンパレードなワケだが、タイトル(悪い教育)が示す通り受け止めるなら、「受けた教育が悪かった」というだけの話なのだが、そこだけにとどまらず、人間の本質的なトコロまでテーマを広げている。劇中、エンリケとイグナシオが学校を抜け出し映画館へ行き、お互いの股間を慰め合うシーンがあるが、映画というモノは学校をサボってイク観に行くという本質を突いているような気がする。イケないコトは心地良い。 『コーヒー&シガレッツ』は、ジム・ジャームッシュが10年以上かけて撮りためた、11編の短編からなるオムニバスで、いかにもジャームッシュらしい小洒落た作品である。 俳優やミュージシャンが2、3人集まって、タバコを吸ってコーヒーを飲みながら、うだうだと10分ほど喋る。そんな白黒映像が11本も続く。ただそれだけの作品である。ドラマティックな展開などまったくない。しかし、出演者たちが魅力的で、どこまでがシナリオでどこからがアドリブなのかもわからない、不思議な世界観を醸し出している。私も仲間と、タバコを吸いコーヒーを何度もおかわりしながら、ファミレスで20時間くらい喋り続けたコトがあるが、誰もが経験しているあの不毛感と疲労感と、そして不思議な幸福感を見事に表現している。 個人的には、イタリア訛りのロベルト・ベニーニとスティーブン・ライトが、通じているのかどうかわからない会話のやりとりでナンセンスな笑いを生む作品や、トム・ウェイツがバーでコーヒーを飲みながらニコニコ話していたが、ジュークボックスに自分の歌が入ってないと聞かされると急にキレ出す一本などがお気に入り。一番笑ったのは、アルフレッド・モリーナとスティーヴ・クーガンの「いとこ同士?」だ。自分は有名俳優だというコトを鼻にかけているモリーナは、クーガンが「自分たちはいとこなんだ」と言い寄ってくることを、まるでストーカーか変態を見るかのような態度であしらう。ところが、モリーナの携帯電話にスパイク・ジョーンズから電話がかかって来ると、態度を一変させ、ゴマをすり始める。どこの国にもこんなヤツがいるんだと実感させられるエピソードだ。 このゆっくりした映画は、タバコとコーヒーと友人を前にしたまったりとした時間の過ごし方に、よく似ている。 Posted at 08:26 午前 | | 金 - 9月 16, 2005『酔画仙』『大統領の理髪師』 新文芸座にて、『酔画仙』
と『大統領の理髪師』を観る。
『酔画仙』は、1800年代後半、朝鮮時代末期に実在した天才画家チャン・スンオプの生涯を描いた大河ドラマである。酒と女に溺れながらも、筆を手にすると天武の才を発揮する豪傑なスンオプを演じるのは、『オールド・ボーイ』のチェ・ミンシク。人間味ある人物として好演している。巨匠イム・グォンテクの壮大で美しい。美術も豪華である。 しかし、今ひとつ心に迫るモノが感じられなかった。激動の時代に生きた破天荒な天才の人生とくれば、さぞや波瀾万丈であろうと思うのだが、ヤケにあっさりした感じ。編集のテンポが悪いのか、ひとつひとうつの出来事がさっさと流されてしまっている印象を受けた。 一方、『大統領の理髪師』は、1961年、クーデターで政権につき、70年代末に暗殺されるまで、韓国を独裁したパク・チョンヒ大統領の時代を描いた半・実録映画である。大統領公邸のある町で散髪屋を営んでいた平凡な男が、ひょんなコトから大統領専用の理髪師になる。彼の視線を通して、当時の韓国の世情や政界を描くコメディである。 理髪師を演じる『殺人の追憶』や『南極日誌』のソン・ガンホのとぼけた演技もさることながら、本作の成功は、これがデビュー作となる脚本・監督のイム・サンチャンによるトコロが大きい。 まだ30代半ばだというこの新人監督は、韓国近代史を現代の若者にも伝えたかった、という意図の元に撮ったようだが、ただ単純に真正面から再現ドラマを撮るのではなく、平凡な理髪師という典型的庶民を絡めるコトで、批判的でシニカルな視線のコメディに仕上げている(そういえば、理髪師と権力者の取り合わせは、チャップリンの『独裁者』でもあったっけ)。ナンといっても、ほんの3,40年前の出来事を、すでにここまで咀嚼し、達観し、客観的にバカバカしいお笑いにしている点が素晴らしい。我々が韓国の近代史にもっと詳しければ、尚おかしさも増しただろうが、それを差し引いても、監督の歴史観と人間讃歌には頭が下がる優れた作品である。 Posted at 06:53 午後 | | 火 - 9月 13, 2005「で」がないといけない、「で」が。 ご存知の通り、東京は田舎者の集まりである。
私も十数年前に京都から東京へやって来て、いろんな地方から人間が来ているコトに驚いたのだが、最も感心したのは、狭い日本と言いながら、地方によってこれほど文化が違うのか、というコトである。 例えばジャンケン。上京早々、関東出身の友人とジャンケンをする機会があったのだが、できないのである。呼吸が合わないのだ。あの、グーとチョキとパーを出す、最もシンプルなゲームの一種であるジャンケンが、同じ日本人同士なのにできないのだ。 具体的に言うと、関東の人間は、「ジャンケンポン!」とまくしたてるように言って手を出す。はなはだ乱暴である。ところが京都出身の私は、「じゃぁ〜いけぇ〜んで、ほぉ〜い」と言って出す。非常に優雅である。優雅と乱雑では、リズムが合わない。関東のヤツに言わすと、「で」がわからないという。「じゃいけんほい」で良いじゃないか、というワケだ。ヤツらは、なぜ「で」が入るのか、と問うてくる。理由は知らない。 しかし、ジャンケンは2人以上、時には10人近くでやるゲームだ。「で」が入るコトでどれほど大勢が参加しても、呼吸が合うのだ。その証拠に、京都では、例えば引っ越しの時に2、3人でタンスか何かを持ち上げる時のかけ声は、「せ〜の〜、で!」で持ち上げる。「で」が重要なのだ。「で」がないと、持ち上がらない。ところが関東では「で」が入らない。これでは引っ越しにならない。 だから、「ジャンケンポン!」と乱暴に言われても、「で」がないので、手が出ないのだ。シャレじゃない。もっと驚いたコトに、関東の一部の地区(私の知人は千葉だったが)出身の人間は、「ジャンケンポン!」ではなく、「ちっけった!」と言い。何だそれは。ゲームの名前が「ジャンケン」なのに、かけ声は「ちっけった」だ。しかも、「あいこ」の時は、「あいこでしょ!」ではなく、「った!」と言うのだ。無茶苦茶である。あいこが続くと、「ちっけった! った! った! った!」と叫び続けるのだ。もはや日本語とは思えない。 ちなみに、「だるまさんが転んだ」という遊びも、京都と関東では違う。関東では目隠しして、「だーるーまさーんがころーんだー」と言って振り返り、動いたものを指摘するのだが、京都のかけ声は、「坊さんが、屁をこいだ」である。更に続けて「匂いだら、臭かった」という。数えてみると、どちらも10文字なのだ。「インディアンのふんどし」というのもあったが、これは全国区なのだろうか。 文化の差で、逆に関東の人間を驚かせたのが、のこぎりである。関西の人間は、のこぎりを手にすると、必ず「お〜ま〜え〜は〜、あ〜ほ〜かぁ〜」と歌う。間違いなく歌う。歌い飽きているのに、体が勝手に反応して歌ってしまうのだ。これは、横山ホットブラザーズのギャグ である。もしこの歌がわからなければ、近くにいる関西人に、そっとのこぎりを渡してみると良い。会議中だろうが葬式中だろうが、彼(彼女)は間違いなく歌ってしまうだろう。「お〜ま〜え〜は〜、あ〜ほ〜かぁ〜」と。 Posted at 11:53 午前 | | |
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Published On: 12 16, 2005 10:43 午後 |
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