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EntryBody['E20091029234451'] = '\r<div><font face="HiraKakuProN-W3">語義を攻撃するとはどういうことか。</font><br /><br /><font face="HiraKakuProN-W3">先例がある。たとえば反鳥猟活動としてのバードウォッチング。動詞\nbird\nは「鳥を狩る」を意味し、鳥猟のことを\nbirding\nと言った。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">birding\nから bird watching\nへ。「bird」という単語を、watch\nの目的語として位置づける。「鳥は狩るものではなく、見るものだ」───獲物であるはずの\nbird\nを目の前にしながら、狩らずに見るだけ。いわば《おあずけ》を繰り返すことで、自分たちの中の辞書にある\nbird\nという名詞の語義を、狩猟対象から観察対象へと書き換えようという運動。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">この運動において、鳥を観察する行為は目的ではなく手段である。バードウォッチングの目的は、鳥の観察そのものではなく、その行為を通じて\nbird\nの語義を変える＝辞書を書き換えることにこそあった。</font><br /><br /><font face="HiraKakuProN-W3">世間の辞書には、いまでも\nbirding\nは鳥猟のことだと載っている。しかし、「birding」でググってみれば、鳥の観察のことを\nbirding\nと呼ぶサイトの目白押し。バードウォッチング団体は、これまで「bird\nwatching」と呼んできた行動を、ただ「birding」と呼び替えはじめているのだ。birding\nという言葉が、狩猟ではなく観察を意味するようになったとき、名詞\nbird\nも《狩りの獲物》という語義から解放される。</font><br /><br /><font face="HiraKakuProN-W3">whale\nをめぐっても、ホエールウォッチングといった活動があり、bird\nの成功例をトレースしようとしている。その目的は、辞書を書き換えることにほかならないだろう。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">whale\nが「クジラを捕る」を意味する現状、whaling\nが「捕鯨」を意味する現状を変えること。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">そうであるなら、IWC（International\nWhaling\nCommission）なる機関が捕鯨問題をあつかうこと自体が攻撃の対象とならざるをえない。whaling\nが捕鯨を意味してはならない以上、IWC\nが「国際《捕鯨》委員会」であってはならないのだから。</font><br /><br /><font face="HiraKakuProN-W3">ある種これは\nwhale\nという言葉を狩猟対象として定義してしまった西洋人の贖罪行為かもしれない。だが、彼らがそのことを意識することはない。</font>&nbsp;</div>\n\r';
EntryCategoryUUID['E20091029234451'] = 'C324767900';

EntryBody['E20090104015245'] = '\r<div><font face="HiraKakuProN-W3">傍証を２つ。</font><br /><br /><dl>\n<dt style="font-size: 1.2em">アメリカ映画『フリー・ウィリー』（1993）</dt>\n<dd>\nWilly Whale が悪い興行師につかまり、ホエールショーをさせられる。\n</dd>\n</dl><br /><font face="HiraKakuProN-W3">ウィリーは、私たちから見るとシャチだが、アメリカ人にとっては</font><font face="Helvetica">\nwhale\n</font><font face="HiraKakuProN-W3">である（だからウィリー・ホエール）。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">ちなみに、この映画のストーリーを</font><font face="Helvetica">\n<a href="http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD10748/"\ntarget="NewWindow">goo </a></font><font face="HiraKakuProN-W3"><a\nhref="http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD10748/"\ntarget="NewWindow">映画</a>は、「家族からむりやり引き離された<b>イルカ</b>と、母親に捨てられた少年」（強調引用者）と解説している。日本人の分類概念では「シャチ∈イルカ」、アメリカ人は「シャチ＝クジラ」となるらしい。</font><br /><br /><dl>\n<dt style="font-size: 1.2em">ドイツの小説『深海のYrr』（フランク・シェッツィング、北川和代訳）</dt>\n<dd>\np173<br />\nバンドウイルカやシロイルカは鏡に映った自分を認識する。クジラは思考し、プランを練るのか？\n<p>\np57<br />\n「バンクーバー島では二十三種のクジラを見ることができます。（略）たとえば、オルカには三種類あって」<br />\n「オルカ？　あのキラー・ホエールのことね」\n</p>\n</dd>\n</dl><br /><font face="HiraKakuProN-W3">引用における主人公（アラスカ先住民系アメリカ人の設定）は、「クジラ」（訳語）の代表として、当たり前にイルカやシャチ（学名オルカ）を引きあいに出す。</font><br /><br /><font face="HiraKakuProN-W3">こうした傍証を、図示してみたのが上の図。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">仮に、こうした</font><font face="Helvetica">\nwhale\n</font><font face="HiraKakuProN-W3">概念を欧米人が持っているとすれば、「捕鯨」とは、イルカやシャチたちを無慈悲に殺戮するイメージに直結する。日本ですら知名度の低いイルカ漁が、ことさらクローズアップされるのは、彼らの想起する捕鯨イメージにぴったり重なるからに他ならない。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">日本人の中には、捕鯨に賛成でも、イルカ漁には胸を痛める人も少なくない。しかし、そうした心性が欧米人には理解されることはあるまい。私たちは、イルカとクジラを峻別するけれども、彼らにはその区別がない。</font><br /><br /><font face="HiraKakuProN-W3">これは彼らがおおざっぱだからでも、不勉強だからでもない。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">逆に、日本人がおおざっぱで不勉強な例もある。私たちはニホンザルとゴリラを、ひとくくりに</font><font face="Helvetica">“</font><font face="HiraKakuProN-W3"><b>サル</b></font><font face="Helvetica">”</font><font face="HiraKakuProN-W3">という生きものとして認識する。だが、欧米人にとって</font><font face="Helvetica">“monkey”</font><font face="HiraKakuProN-W3">と</font><font face="Helvetica">“ape”</font><font face="HiraKakuProN-W3">は違う生きものである。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">シッポがあるとかないとか、そういう分類学的な弁別ではなく、彼らにとっては、「<b>可愛いのが</b></font><font face="Helvetica"><b>\nmonkey</b></font><font face="HiraKakuProN-W3"><b>、恐いのが</b></font><font face="Helvetica"><b>\nape</b></font><font face="HiraKakuProN-W3">」であるらしい。</font><br /><font face="Helvetica">ape\n</font><font face="HiraKakuProN-W3">が畏怖の対象であるからこそ、巨大な</font><font face="Helvetica">\nape\n</font><font face="HiraKakuProN-W3">が暴れる映画（キング・コングやマイティ・ジョー）や、</font><font face="Helvetica">ape\n</font><font face="HiraKakuProN-W3">が地球を支配する映画（猿の惑星）がつくられる。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">そうした</font><font face="Helvetica">\nape\n</font><font face="HiraKakuProN-W3">観の延長線上に、進化論をめぐっての問題が生まれる。「人間が</font><font face="Helvetica">\nape\n</font><font face="HiraKakuProN-W3">から進化した」というテーゼは、彼らにとって、いまもってセンセーショナルな響きを持つ（この物言い自体は科学的には正確ではないにせよ）。進化論に対する彼らの強固な抵抗感が、私たちには理解しがたいのは、それが倫理や宗教の問題ではなく、</font><font face="Helvetica">“ape”</font><font face="HiraKakuProN-W3">という単語の概念をめぐる現象の一環だからなのだ。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">クジラと、イルカ／シャチの弁別も同じこと。大きいとか小さいとか、模様がどうとか言っても始まらない。私たちが「それでもサルはサル」と思ってしまうように、彼らは「それでも\nwhale は\nwhale」と思うだろう。</font><br /><br /><font face="HiraKakuProN-W3">アメリカ人は</font><font face="Helvetica">\nape\n</font><font face="HiraKakuProN-W3">を畏怖し、『キング・コング』をつくった。クジラを畏怖する日本人は、その名をとり、『ゴジラ』をつくった。潮を吹き、勇壮なヒレを持つ巨大生物の伝説を。</font><br /><font face="HiraKakuProN-W3">日本人にキング・コングはつくれない。欧米人に</font><font face="Helvetica">\nGodzilla\n</font><font face="HiraKakuProN-W3">はつくれない。</font><br /><br /><font face="HiraKakuProN-W3">私たちが「クジラ」と言い、彼らが「</font><font face="Helvetica">whale</font><font face="HiraKakuProN-W3">」と言うかぎり、両者は永遠に理解しえないのではないか。</font><br /><br /><br /><font face="Helvetica" size="2">#\n</font><font face="HiraKakuProN-W3" size="2">この項では、意図的に</font><font face="Helvetica" size="2">“</font><font face="HiraKakuProN-W3" size="2">アメリカ人</font><font face="Helvetica" size="2">”</font><font face="HiraKakuProN-W3" size="2">の例を</font><font face="Helvetica" size="2">“</font><font face="HiraKakuProN-W3" size="2">欧米人</font><font face="Helvetica" size="2">”</font><font face="HiraKakuProN-W3" size="2">一般に敷衍した。ドイツの小説に言及したのは、その補強のためだが、例証としても脆弱。「</font><font face="Helvetica" size="2">whale</font><font face="HiraKakuProN-W3" size="2">」という英単語と「クジラ」とは意味領域にギャップがあるのでは？\nという問題提起のためのレトリックとしてお許しいただきたい。</font>&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20090103204317'] = '\r<div> &nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20081211233718'] = '\r<div>これ以上は思いつけないような手厚さ。<br />単に、コミュニケーションを密にしているだけなのだ。それだけで、私のようなエンドユーザは感動し、忠誠を誓ってしまう。<br />巧いなあ、と唸ったのはまず電話対応。相手のスキルをすばやく見きわめ、言葉巧みに情報を引き出す。シリアルナンバーを３回聞かれても、ちっとも不快にならない。「Mac\nの\nM」とか、かならずフォネティクスで復唱するので、インターナショナルにマニュアル化されてるんだろう。<br /><br />ユーザインターフェース命でノシてきた会社だけある。<br />かつて、日本法人が営業を日本企業に外注していた時代とは違うのだな……。見ならわなくては！&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20080902003201'] = '\r<div>一方、<a\nhref="http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-33531420080901"\ntarget="NewWindow">ロシア首相はトラ退治をしていた</a>。って……。&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20080601230012'] = '\r<div>『隠し砦』は、冒険行の物語である。<br />冒険行に不可欠なのは、強固な目的、ないしは目的意識を持つ牽引役だ。それが主人公である必要はない。『ロード・オブ・ザ・リング』は、形式的にはフロド・バギンズの冒険物語だけれども、フロド自身には強固な意志がなく、仲間たちが彼を引っ張る。『西遊記』では、目的意識の薄い主人公孫悟空やその同類たちを、三蔵法師が牽引していく。<br />『隠し砦』の場合、その牽引役を、ユキ姫がひとりで担う構造になっている。ところが、リメイク版では彼女にその重荷を背負わせることを捨て、凡百のヒロインとして描いてしまった。<br /><br />ユキ姫のポジションは、架空のお家の再興とか、恋愛沙汰とかより何より、傲岸な武家の姫という記号として、物語を牽引することにあった。<br />それこそが、彼女が唯一持っていたリアリティであり、ただの登場人物を越えるポイントだった。<br />リメイク版でのユキ姫は、その記号さえ剥奪されてしまった。もしかしたら彼女を人間として／ヒロインとして描こうという試みなのかも知れない。だが、それはあたかも、人魚姫を最初から「人間」として描いてみるような行為にすぎない。それでは物語の基盤を成り立たせることができない。<br /><br />『隠し砦』のプロットは、『勧進帳』が下じきになっている。黒澤には『虎の尾を踏む男達』（1945）という勧進帳映画があり、これのエノケンの役を主役に据える形で再構成したのが『隠し砦』ではないかと思う。<br />勧進帳といえば、弁慶をめぐるお話。<br />観客は、弁慶の機知にハラハラし、弁慶の思いの強さに涙する。しかし、勧進帳という物語を成立させているのは、活躍の目立つ弁慶や関守ではなく、義経である。関守が吹っかける難問も、弁慶がこらす機知も、個々のアイデアは恣意的なものにすぎない。もっといい他のアイデアを思いつけば、そちらにすげ替えても物語は成立するし、もっと面白くなるかもしれない。しかし、「この関を越えなければならない」という義経の状況だけは交換不可能だ。勧進帳のシチュエーション全体を成立させているのは、そうした状況を持つ義経の存在そのものなのである。<br />これは実話と作り話の差でもある——義経という実在の人物と、弁慶という架空の人物との。<br />勧進帳の面白さは、弁慶にある。だが、その物語自体を成立させているのは、義経の実在性にある。義経が実在していればこそ、はじめて弁慶の物語が生まれえた。逆にいえば、弁慶は義経の実在性を側面支援するために存在する。<br /><br />『勧進帳』や『西遊記』といった架空の物語なくして、義経や三蔵の名を私たちが知ることはなかったと断言できる。百歩譲っても、私たちは弁慶のいない義経の物語や、悟空のいない三蔵の物語に、興味を持つことができない。<br />義経は、鞍馬天狗に兵法を授かったり、弁慶に打たれることによって——三蔵は、暴れる悟空に手を焼くことによって——その実在性を永遠のものとした。<br />『隠し砦』のユキ姫にも同じことが言える。<br />架空の物語である。何が起こってもいい。どんな人物が登場してもかまわない。ただ絶対に代え難いのは、ユキ姫という名の女性版義経が、強固に存在しながら物語を牽引していくことだった。そうすることで、ユキ姫は実在の人物以上の実在性をもって、観客の中で永遠の生命を得ることができたはずだったのだ。<br /><br />彼女は、永遠に生きられるはずだった。<br />人間になろうと思いさえしなければ……。&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20080417230640'] = '\r<div>ファーストインプレッション。<br /><br />全体に反応トロい。モディファイアキーを押してキートップが再描画されるのに１秒弱かかる。タッチは浅くて重い。ピッチも広すぎ。表面はアクリル然としてつるつる。<br /><br />この手のキーボードは、スキャンコードをいじってフルカスタマイズできてこそ、やっと本当の評価に値すると思うが、ドライバとカスタマイザは、まだまだベータ版の域を出ておらず（Windows\n版は\n0.0.0.10）、スキャンコードがらみの実装もこれから。開発は急ピッチで進んでいるようなので、楽しみに待ちたい。どのみちこの会社の放置プレイには馴れた。<br /><br />日本人アイコンつくるの得意だし、ユーザ増えるといいなと思う。注文時には送料入れて\n$2,000\nクラスだったと思うが、いまや\n$500\nくらい？　円高だしお買い得になった。&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20060714042742'] = '\r<div>争点は、改正法の施行時点（2004年1月1日）で、1953年公開の映画の保護期間（当時50年）が切れていたかどうかにある。細かいことをと言うなかれ。切れていなかったとすると、改正法が適用されて、プラス20年間のオマケがつくのだから。<br />この法改正を主導した文化庁の法解釈が重視されている。<br /><br /><blockquote class="cite" cite="http://www.asahi.com/business/update/0711/146.html">\n　５３年公開の映画の著作権について文化庁著作権課は、公式ホームページなどで「<b>０３年１２月３１日午後１２時と改正法が施行された０４年１月１日午前０時が接着している</b>」として、改正法が適用されて保護期間が２０年延長されるという判断を示してきた。（略）<br />\n　だが、東京地裁は著作権の保護期間を把握する基本的な単位は「時間」ではなく「日」だと指摘。５３年公開の映画は０３年１２月３１日で著作権が消滅したと判断し、文化庁の<b>「接着」という理屈</b>を認めなかった。<br />\n<br />\n　文化庁著作権課は「上級審の判断を見守りたい」と話し、<b>ホームページの記述</b>を変更する予定はない、としている。\n</blockquote>\n<div class="book">\nasahi.com -- <a href="http://www.asahi.com/business/update/0711/146.html" target="_blank">格安ＤＶＤ販売認める　「著作権消滅」と東京地裁</a>」2006.7.11　（強調引用者）\n</div><br />これは……！　と先日から<a\nhref="http://www.bunka.go.jp/"\ntarget="NewWindow">文化庁のサイト</a>をあさっていたが、その記述がなかなかみつからない。<br />文化庁著作権課（文化庁長官官房著作権課）が、啓蒙活動に精力的に取り組んでいることはよくわかった。たとえば『<a\nhref="http://www.bunka.go.jp/1tyosaku/pdf/chosaku_text_18.pdf"\ntarget="NewWindow">著作権テキスト</a>』は、手続き論に偏ってるきらいはあるにしても、実務的にわかりやすくまとめられた好著だと思う。<br />このテキストでは、保護期間の計算を次のように説明している。<br /><br /><blockquote class="cite" cite="">\n　計算方法を簡単にするため，<u>すべての期間は，死亡，公表，創作した年の「翌年の１月１日」から起算します</u>(第57条)。例えば，手塚治虫さんの著作物は，手塚さんが平成元年(1989年) に亡くなられましたから，平成２年(1990年)１月１日から起算して，50年後の，平成51年(2039年) 12月31日まで保護されます。\n</blockquote>\n<div class="book">\n文化庁長官官房著作権課『<a href="http://www.bunka.go.jp/1tyosaku/pdf/chosaku_text_18.pdf">著作権テキスト ～初めて学ぶ人のために～</a>』平成18年度、4-(4)-(3)-ウ（下線原文）\n</div><br />この明快な説明にしたがって計算するなら、1953年に公開された映画の保護期間は、2003年12月31日までとなる。たしかに2004年1月1日の時点では切れている。地裁判決のとおりだ。<br />しかし報道によると、12月31日までではなく、翌1月1日までとみなせると文化庁が主張しているというのだ。12月31日と1月1日が「<b>接着</b>」していることによって。<br />もしも本当なら、スゴい離れ業だ。うう、原文が読みたい。<br /><br /><br />そして文化庁サイドは、こんなコメントを寄せている。<br /><br /><blockquote class="cite" cite="">\n<h3>『53年』守る目的</h3>\n<b>甲斐正道・文化庁著作権課長の話</b>　文化庁としては、一九五三年公表の作品の著作権を守る目的で法律を作った。\n</blockquote>\n<div class="book">\n日本経済新聞 「格安ＤＶＤ販売認める」2006.7.12朝刊\n</div><br />本当にそうか。<br />日経は当該記事内で、53年公開の主な邦画として『東京物語』『君の名は』をあげている。では、翌54年には何が公開されたか。<br />『七人の侍』、そして『ゴジラ』――<br />法律を書き換えてまで守らなければならないのは、『東京物語』か、それとも『七人の侍』か。<b>『君の名は』か、それとも『ゴジラ』か？</b><br /><br />法解釈がどうあれ、改正法下で、確実にプラス20年保護期間が延長される54年映画。<br />文化庁の目的は、あくまでも「<b>54年映画</b>」にこそあったと考えられてならない。<br />度重なる法改正によって、アメリカ著作権法が「ミッキー・マウス著作権法」などと異名をとるのであれば、わが国のそれは「ゴジラ著作権法」と呼ばれるべきだろうと思っている。<br /><br /><br />今回の判決や文化庁の主張の是非についてコメントする気はない。法改正についても同様。ただ、著作権という概念が「期間」と分かちがたいことを、あらためて示してくれた事例だった。&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20060710015512'] = '\r<div>発話者の意図は同じだが、言い回しが異なる。<br />どちらが効果的に発話者の意図が伝わるかは言うまでもない。「愛のムチ」なんていうけれども、親しくもない人間から送られてきた\n(B)\nを読んで、愛を感じ取るのは無理な相談だ。<br /><br />同じことを言うなら、ムチよりもアメのほうがはるかに効果的だ。公衆トイレに「きれいに使っていただいてありがとうございます」なんて書いてあるのは、「<b>汚すな</b>」と同じ意味だが、アメ的に言い換えているわけである。……と、わかっちゃいるのに、ついついムチ型の言辞を吐いてしまう。<br />酒の勢いで昨日もやってしまい、心から反省しきり。<br /><br /><br /><img src="http://homepage.mac.com/cron/image/060629-infoseek.gif" width="175" height="178" align="left" hspace="5" vspace="2" border="1" />気がかりなのは、自分をふくめて、ムチ型的な物言いが増殖しつつあるように思えてならないことだ。<br />左の画像は、先月末の某ニュースサイトのトピックス一覧。<br />気になって思わずスクラップした。<br />全体にネガティブな印象を与える見出しが並んでいる。しかし、たとえば「<b>広末涼子で大コケした実力派監督</b>」というのは、堤幸彦監督の映画『明日の記憶』『トリック２』が同時期に公開され、ともに大ヒットしているという記事。「<b>TBS、地味コンビにド肝抜かれる</b>」は、映画『タイヨウのうた』のヒットを報じる記事だ。<br />中味はグッドニュースなのに、見出しはバッドニュース風味でまとめられているわけである。<br />グッドニュースさえもストレートには報じず、シニカルな味つけをほどこし、その風味を見出しに持ってくる。見出しはよりセンセーショナルに——というテクニックを超えて、ここに時代の空気感が反映されている気がしてならなかった。<br /><br /><br />Ｗ杯サッカーで、自国のチームが思わしい戦績を収められなかったとする。ここでファンには２つの道がある。チームの奮闘を称えてねぎらい、次のチャンスに期すか。それとも監督や選手をさんざんにこき下ろすか。<br />後者的な言説のほうをより多く耳にしたのは、気のせいではないと思う。<br /><br />海外遠征を終えた選手たちは、どんな国に帰りたいだろう。<br />歓呼とともに労苦をねぎらってくれる国か。<br />不成績を罵倒し、メンバーの更迭を叫ぶ国か。<br /><br /><br />いま、わが国は帰りたくないような国になっていないか？<br /><br /><br />……などと、こういうエントリを書いてしまう私のこの言い方自体が、すでにムチ型的なのだ。<br />病の根は深い。<br />「時代の空気感」とやらにすり替えて、自己の責任を棚上げするつもりはないけれども、最近気になっているのである。&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20060626031555'] = '\r<div>さっそく試してみた。<br />こ、これは……！<br />ワインのまずさがゴボウの中で凝縮され、より際立った。<br />不味さのエッセンスを固めた固形物として、ゴボウたちがそこにいる。歯ざわりさえキシキシと神経を逆なでる。<br />「<b>ここで使うワインは飲み残しや特売品で充分</b>」とあったが、やはり不味いワインは不味い料理を生む。<br /><br /><br /><img src="http://www.homepage.mac.com/cron/image/cook/060625.jpg" width="160" height="120" alt="ラムのワイン煮" align="left" hspace="5" vspace="2" />同時に試したのが、よくお世話になる「<a\nhref="http://bosscooking.com/" target="NewWindow">HIRO HIRO\'S\n料理のページ</a>」さんの「<a\nhref="http://bosscooking.com/okazu/index.cfm?id=224&amp;title_id=1"\ntarget="NewWindow">牛肉のワイン煮</a>」。<br />赤ワイン＋トマト缶＋コンソメキューブで煮込むというもの。<br />これをラム肉で試した。<br />煮汁が不気味な色になったので、別ゆでしたブロッコリーを入れてゴマかしたのがこの写真。<br /><br />こちらは成功！<br />普通に食べられる。肉もうまい。ワインの不味さというハンデからしたら、逆転サヨナラホームラン級といえる。<br />しかし、なぜゴボウがダメで、こちらが\nOK\nなのだろう。<br />トマトの酸味が、ワインの不味さを打ち消してくれたのだろうか？<br /><br /><br />思い当たるフシもある。<br /><br />白ワインは飲み物としては苦手だが、白ワインを使うレシピはやたらにあるので、料理用に常備している。料理目的オンリーで買う。<br />それでついつい安手のヤツをえらんでしまい、さんざんな目に遭った。<br />ゲベルツトラミネールなんかは、飲んでもおいしいと思うけど、お値段的に、料理酒として買うにはちょっと二の足を踏む。<br /><br />赤ワインは飲むために買っているから諦めもつくが、白ワインはそうではない。<br />さすがに対処法をつかんだ。<br /><b>仕上げにレモン汁を利かせるのだ。</b><br />ハズレの白ワインを使っても、ハズレな風味はなくなる（酸っぱくはなるけど）。<br /><br /><br /><b>不味い白ワインはレモン、不味い赤ワインはトマトで迎え撃つ。</b><br /><br /><br />おそらく《酸味》がキーである。<br />酸味を加えることで、ワインの不味さは解消できる。とするなら、私があるワインを「不味い」と感じるのは、酸味に起因するのだろう。<br /><br />あくまで私の味の好みだ。<br />一般的な\nTips\nにはならない。<br />そもそもワインを料理に使うのは、アルコール分の効果以上に、風味をつけるのが目的なわけで、その風味を相殺しようというのは本末転倒。<br />料理に使うワインも、まず、きちんとおいしくなければいけないのは言うまでもない。<br /><br /><br />ただ、冒頭の「<a\nhref="http://www.misbit.com/recipe/mid00407.html"\ntarget="NewWindow">ごぼうの赤ワイン煮</a>」を試したときは、レシピにあったプルーンを省いた。プルーンの酸味や甘みが加わってこそ、「飲み残しや特売品で充分」なレシピだったのかも……。<br /><br />ちなみに白ワインはロバート・モンダヴィの\nWoodbridge Chardonnay\nにたどりついた。飲んだことはないが、料理酒として自信を持ってオススメ。<br />風味はいいし、1,000円切るし、スクリューキャップだし。&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20060619012520'] = '\r<div>石板って何だろう。<br /><br />残念ながら手にしたことがないが、生徒が銘々の石板を持つようなので、スペリングの練習をするための道具なのだろうと推測する。<br />私たちが学校教育において、紙のノートと鉛筆と消しゴムを与えられたように、アンの暮らした時代・場所においては、undo\n可能なワーキングスペースとして与えられる道具なのだろう。<br />道具自体の目的性はそこにある。石板でも黒板でも紙のノートでも“らくがきんちょ”でもなんでもいい。存在論的に「untitled」であることで、「untitled」である自由を保証されたキャンパス。<br />けど、気に入らない相手の頭にたたきつけて、粉みじんにたたき割ることができるキャンパスは、石板の他に知らない。<br /><br />『アンの物語』としては、その後アンはギルバートと結ばれるわ、みずからは教師となるわという経緯をたどる。だが、その契機は、すべてこのシーンに端を発すると思う。彼女が彼の頭に石板をたたきつけた瞬間に、彼女の将来が決定づけられたのである。<br />もしも彼女が持たされたのが、石板ではなく、紙のノートであったり、あるいは\nPC\nであったなら、アンはギルバートと結ばれることもなければ、教師になることもなかった。<br />アンがギルバートにからかわれたとき、石板を持っていなければ、拳固を使っただろう。そうであったら、ギルバートが真摯にアンに向かい合うことはなく、まして彼女が「教育」に目を向けることもなかっただろう。<br />石板とは、<b>書いて、消す</b>という目的的な試行錯誤ができると同時に、人の頭にたたきつけてたたき割ることができるツールである。お話上のこととはいえ、「石板」という物理的存在が、ひとりの少女の一生を決めたのだ。<br /><br />ある一定の目的を果たすために機能的に特化されることで「ツール」とみなされながら、いわば「洩れ」の部分で意味的な意味を持つ。<br />あらゆるツールは、そういうものだと思う。<br /><br /><br />では、ワープロというツールは、私たちにとって何だったのか？（過去形）、という話を経て、生成文法と正規表現の現代的意義について話す予定です。<br />（そのための前フリエントリですが、忘れたらごめんなさい……）&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20080323232634'] = '\r<div>AppleTalk（not over\nTCP/IP）でマウントされる。文字化けもない。<br />納得いかんけど！<br />（2006.5.21\n追記）この問題は、10.4.6\nあたりで解消された。<br /><br /><img src="http://homepage.mac.com/cron/image/050501-mpeg2.jpg" width="100" height="75" align="left" hspace="5" vspace="2" />QuickTime\nが強制的に 7\nになるが、QuickTimeMPEG2 6.3\nと相性悪げ。<br />MPEG2\nをうまくエクスポートできない。たとえばピクチャにエクスポートするとこんなことに。<font size="-1">（MPEG がデコードされてない？）</font><br />エクスポートがマルチタスク化したのはすばらしーんだがなあ！&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20060512040357'] = '\r<div>少し前、ウィキペディアに自分の項が設けられているのを知った。<br />本人だけに、事実誤認がわかるので少々興味深い。たとえば、ここで私は仏文科卒という設定になっている。<br /><br /><blockquote class="cite">\n但し本人の弁によれば「映画ばかり撮ってて単位が足りなくなり、仏文科の籍を借りて卒業させてもらった」との事。\n</blockquote><br />と、エスクキューズまでしているそうだ。<br />私自身は仏文科を卒業してないし、「籍を借りて卒業」なんてことが可能なのかどうか知らない。しかし、平凡きわまりない事実はさておき、こうした記述のほうがドラマチックだ。そんな面白げな事実の持ち合わせがないのは、寂しくも恥ずかしくもある。<br /><br />曽我さんが「降板を申し付けた」という記述は、5月8日の版で発生したようだ。<br />そうした事実が、実際に起こったのかどうか心当たりはないけれども、起こっていたほうがドラマチックだし、曽我さんの伝説性は高まる。<br />それも供養のひとつなのだろうとは思う。&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20060508000946'] = '\r<div> &nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20060415015940'] = '\r<div>登壇されたとたん、すっくと背筋が伸びた。まるで背丈が１メートルも伸びたように見えた。<br />そして、言葉の弾丸を飛ばすようにして話しはじめた瞬間、淀川さんの存在が場内を覆い尽くさんばかりにふくれあがったのを私たちは見た。<br /><br />その鋭い舌鋒も視線も、テレビでおなじみのにこやかでおだやかな淀川さんのそれとは、まるで異なっていた。<br />フリッツ・ラング監督の演出技法は。当時のドイツのスタジオの体制は。どんな政治的状況におかれていたか。世界の映画状況は——<br />つぎつぎとあふれ出す膨大な知識と識見。<br />何よりも驚いてやまなかったのは、（<b>この人は、『ジークフリード』のカット割りを完全に覚えている</b>！）ということだった。<br /><br /><br />映画を見るからには、カット割りを頭の中で再現できるほど真剣に見なければ意味がない！　というほどの覚悟。その上で、各カットの意図・各シーンの意味を読み取れなければ、観客として怠惰である！　という叱咤。<br />そうは直接言っていないのだが、それほどの気迫が伝わってくる淀川さんという存在がそこにいた。<br /><br /><br />ようやく合点がいったことがある。<br /><br /><br />そのちょっと前、大学の教養課程に映画ファンが集まる映画ゼミというのがあるというので、お気楽に参加した。<br />でも、お気楽にはいかなかった。<br />「<b>逆ズーム</b>（トラック移動とズームを併用する技法）<b>が使われた映画をあげろ！</b>」「<b>ヒッチコック作品で、セットに天井があるシーンをあげろ！</b>」とかなんとか、教授が学生に問う。われわれ学生も、映画を見るだけは見ているので、普通に答える。<br />だが、うかつに答えると、「<b>そのカットの意味を言え！</b>」「セットは照明の都合もあり、普通天井まではつくらない。<b>天井をつくった意図を答えろ！</b>」とかなんとか、さらに迫られる。<br />カルトクイズじゃなくて授業なので当然なのだけど、しどろもどろにさせられつつ、（製作者でも演出家でもない教授が、なぜそんなディテールを？　映画って娯楽じゃないの？）と疑念も抱いた。<br /><br /><br />淀川さんという巨大な存在を目の当たりにして、そのギモンは氷解した。<br />そうなのだ。映画に文芸的な感興以上の意味が何かあるなら、その意味を問えなければ映画の製作者に値せず、その意味を受け止められなければ映画の観客に値しない。<br />それを身体で体現した巨大な”観客”淀川長治が、目の前に存在する。現実は現実である。どんな理屈も通用しない。<br /><br />映画ゼミの教授は、蓮実重彦さんという人。<br />いまの私は、かならずしも彼らの見方に与しない。けれど、蓮実氏編纂の『リュミエール』誌も、なかんずく淀川さんと彼との（くだらない題名のついた）座談会本も、いまでも私の宝ではある。&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20060415015727'] = '\r<div>映像作品のストーリーテリングに関わる者が、真っ先に教わることの一つに、「<b>行って来い</b>」（名詞）を避けるというのがある。<br />たとえば刑事ものというのは、ざっくりいえば「刑事たちが刑事部屋と外を往復する話」だ。（基地のある）ヒーローものも含めて、ほとんどすべての事件ものが、そうした往復によって構成されている。これは見やすさにもつながるけれど、ドラマ的に無意味な往復も発生しやすい。それが<b>行って来い</b>だ。<br />ストーリーづくりに際して、<b>行って来い</b>に陥らないよう、神経を使ってあれこれと工夫する。それがセオリーだ。<br /><br />ところが『西遊記』というドラマは、セオリーを逆手にとった。<br />いったんセットの外にハケて、また戻ってきてタンカを切る——典型的な<b>行って来い</b>に見える。毎回、それを堂々と見せ場に持ってきた。むしろ<b>行って来い</b>を売りにし、<b>行って来い</b>自体に意味を持たせた。あげく最終回のクライマックスでは、<b>行って来い</b>のつるべ打ちで盛り上げきってみせた。<br />セオリーを破りつつ、そうと視聴者に気づかせずに見やすい娯楽作として仕上げ、ヒットさせた手腕は並大抵ではない。<br /><br /><br />これが正しい見方だとか言い張るつもりはない。けど、「脚本」をとくに取り上げて評価する以上は、お話としてでも文芸作品としてでもなく、「脚本」として評価しなければ意味がない。<br />冒頭の記事は風の噂で聞いただけで、実際にはまだ読んでいない。どういう切り口で『西遊記』の脚本を、脚本としてワーストと断じたのか、楽しみでもある。<br />一方、いくら辛口批評ばやりで、いくらあの雑誌といっても、テレビ誌がワーストとか言い出すのは、世も末感がなきにしも……と切なくもある。<br /><br /><br />故・淀川長治さんは<a\nhref="http://www.tv-asahi.co.jp/nichiyou/"\ntarget="NewWindow">日曜洋画劇場</a>の解説で、どんな作品も誉めた。Ｂ級だろうがＣ級だろうが、淀川さんは誉めた。映画でさえあるかぎり、どんな映画にも、かならずいいところがあるはずだと。<br />淀川さんはウソはつかない。「脇役のこの俳優は、他にこんな映画にも出ていて……」とか「この映画の舞台はこんな映画にも使われていて……」とかなんとか、話をあっちの方向にそらすこともあった。（どうしてもいいところが見つけられなかったんだな）と視聴者にも分かった。それでも淀川さんの映画に対する愛は伝わってくる。私たちは幸せな気分で日曜の夜を過ごした。<br /><br />淀川さん自身は、著書や対談で見るかぎり、むしろ“辛口批評”サイドの人であったと思う。けど、彼が映画解説において選んだのは、自分の感性とやらを押しつけるでもなく、さりとてコマーシャルトークでもなく、映画というものに対する愛を自らの身体をもって表現する道だった。<br /><br /><br />横行する辛口批評を見聞きするたび、ふと空を見上げ、淀川さんを偲ぶ。<br />ふと偲んでしまったので、<a\nhref="http://homepage.mac.com/cron/iblog/C1790922926/E20060415015940/index.html">たてつづけのエントリ</a>で淀川さんの思い出を。&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20060302004221'] = '\r<div>なんか成功。<br />魚介からダシが出たらしく、煮汁がジューシー。うまくて食いすぎた。<br /><br />ほとんど上記サイトのレシピどおり。ホタテ、ヒイカをカレー粉を振って炒め、下ゆでしたゴボウを加えて、醤油・酒・みりんでさっと煮る。<br />煮上がったらいったん冷ます。このちょっとした時間が、煮物を格段においしくすることを最近学んだ。<br /><br />課題としては、ヒイカの下ごしらえの仕方がよくわからない。<br />小さななりして、りっぱに中骨があるが抜きにくい。面倒になったので、煮上げてから取り除きながら食した。<br />アサリやシジミの味噌汁は、貝殻を捨てながら食う。ブイヤベースもエビやカニの殻をむきながら食う。それとどこが違う——とか自分に言い聞かせつつ。なんだかむなしい。<br /><br />下ごしらえを検索してたら、主婦らしきかたのブログが可愛かった。<br /><a\nhref="http://blogs.yahoo.co.jp/maa0927jp/26021772.html"\ntarget="_blank">きゃはは♪「『ひいか』って知ってます？？」2006.2.10</a>&nbsp;</div>\n\r';
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EntryBody['E20080323232349'] = '\r<div><img src="http://homepage.mac.com/cron/image/031122_1.jpg" width="128" height="80" align="right" />右に配置するというのは、こうやってテキストを回り込ませることだ。<br />これをブロック内でやるのを IE6 は許さない。というか、いま書いてるこのテキストも、表示してもらえないのかもしれない。<br />右傾化するご時世に警鐘を鳴らしたいのか、それとも\nright, right\nとかまびすしく権利を訴える声から耳を閉ざしたいのか。<br />ありていにいえばバグだ。<br /><br />ぐぐってみたら、ブロックに「width:\n100%;」などと width\n指定すれば回避できるらしい。<br />しかし、やみくもに\nwidth\n指定を乱発すると他のブラウザにおかしな影響が出るので、ブラウザを判別して切り分けないといけない。<br /><br />多様性信仰の持ち主ではあるけれど、こういう多様性は要らない。仕様どおりでお願いします。&nbsp;</div>\n\r';
EntryCategoryUUID['E20080323232349'] = 'C1790922926';

EntryBody['E20080323232426'] = '\r<div>Apple が消滅し、Mac\nがディスコンされる――<br />一見、これが最悪のケースに思われる。<br />だが、Apple\nほどの大企業がそうむざむざと消滅することはない。かならず起死回生のための悪あがきをする。<br />その悪あがきとして、Apple\n社がビル・ゲイツ氏を\nCEO に迎えたり、Micorosoft\n社に吸収されたりすることがあったら――<br />これぞ、まさに最悪のシナリオだ（当時の私にとって）。<br /><br />Windows\nのニオイのするゲイツ製\nMac\nなんて見たくもない。それで\nMac\nがディスコンを免れたとしても、もはやそれは、私にとって\nMac\nではない。<br />こんな事態が起こったとき、私はゲイツ氏や\nMicrosoft\nに非難のノロシを上げるべきだろうか？<br /><br />上げてはならない。<br /><b>私にできるのは、ゲイツ氏にエールを送ることだけだ。</b><br />そう思い至ってガクゼンとしたが、どう考えてもそうなのだ。<br /><br /><br />私の望みは、一刻も早くジョブス氏に復帰してもらい、以前の\nMac\nらしさを取り戻してもらうことだ。あるいは、せめて１機種でいいから、ジョブス氏指揮下での“ホンモノの\nMac”をリリースしてもらうことだ。<br />ところが、この希望を言挙げすることはできない。<br />そんな希望を表明してしまった瞬間に、実現性が永遠に絶たれてしまうから。<br /><br /><b>批判勢力が希望する人事や製品にゴーサインを出す企業など、この世のどこにも存在しない。</b><br /><br />だから私が絶対にしてはならないのは、ゲイツ氏を批判したり、ゲイツ氏体制下の新製品を非難したりすることだ。それをした瞬間に、私の希望に耳を傾けてくれる人間は、Apple\n社内に誰ひとりいなくなる。<br />私の希望を通すには、自分の思いを隠しとおさなければならない。<br />むしろ積極的にゲイツ氏の手腕と威徳を褒め称え、彼の経営再建を後押しし、Apple\nが難局を乗り越えて盤石の体勢が整うのを見定めてから、「ジョブス氏みたいな製品も、たまにはあってもいいのでは？」と要望を出してみる――せいぜい、それしか道はないのだ。<br /><br /><br />10年近くがたち、あらゆる不安を払拭して、ジョブス体制下の\nApple\nは盤石そうだ。<br />そして、いまの私は、さほどの\nMac\nファンでもないし、反\nMS\nでも何でもない。それでも\nIntel Mac\nには、ひとつの大きな時代が終焉を迎えたという事実を、まざまざと突きつけられた思いがする。<br /><br />10年前の私の心配は、杞憂に終わった。けど、現在の\nMac\nのありかたは、かつて私が\nMac\nに望んでいた方向性とは真逆に進んでいる。<br />その点では、本当に杞憂に終わったのだろうか？　と思いもする。<br />だが悔しいかな、<b>私は\nIntel Mac\nを買うだろう</b>。<br /><br />私の願いは、永遠にかなえられそうもない。<br />だが、Apple\nの選択につねにエールを送りつづけるかぎり、可能性がゼロになることも、また永遠にないのだから。&nbsp;</div>\n\r';
EntryCategoryUUID['E20080323232426'] = 'C1790922926';

EntryBody['E20060130020106'] = '\r<div>「この瞬間が永遠につづいてほしい」と願うのも、「いつかまた会いたい」と願うのも同じだ。願うのはいい。でも、願っているだけでは何も継続しない。「いつか」も訪れない。<br />だからこそ、一瞬一瞬を大切にしなければならないし、実現可能なことは実現すればいい。<br /><br /><b>「会いたかったら、会いに行けばいいじゃない？」</b><br /><br /><br />高校の先輩に、こそっと「十年来ご無沙汰してる皆さんにお会いしたいです〜」と言ったら、一瞬にしてミニ同窓会を開いてくださった。<br />スゴい！　と思った。<br />声を上げるべき人が声を上げさえすれば、たちまち人は集まる。集まれるかぎりの人が。<br />それが、人と人とのつながりだから。&nbsp;</div>\n\r';
EntryCategoryUUID['E20060130020106'] = 'C1790922926';

