物語はなぜ終わるのか?(2)——フランダースの犬 

お話っていうのは、「これからどうなる?」とドキドキワクワクしながら、読んだり見たりするんだと思っていた。
そうじゃない、と気づかされたのがアニメ『フランダースの犬』。
幼少のみぎりのこと。 

放送前、「今度のカルピス劇場は……」と聞いて、「あのネタで1年もつの?」というのがファーストインプレッション。
だって、だれでも知ってる話なんである。
結末を知ってるお話を1年も見れるとは、とても思えなかったし、すでに知ってる最終回なんか見せられても泣けるかいなと。

見れた。1年欠かさず。
そして最終回。泣けた。しかもボロ泣きもいいところ。


テレビの前で号泣しながら、「物語って、『これからどうなる』じゃないんだな」と思い知らされていた幼少の私。
って、いま調べたら10歳だった。幼少っていうかね。

放送中、ネロとパトラッシュ(主人公の少年と犬)の助命嘆願が殺到という新聞記事を見て、はて? と首をひねった覚えがある。
いや、気持ちは痛いほどわかるんだが。
助命嘆願するほどの濃いファンは、「これからどうなる?」なんてハラハラしてるわけでなく、「ネロたちがかわいそうなことになる」と確信してるからこそ、そんな運動に出たわけだ。
その成果あってラストが変わったとして、それは『フランダースの犬』であるといえるんだろうか? っていうか、そのラストを知ってるからこそ、濃いファンが発生したんじゃないの?


もしかしてわれわれは、ラストがどうなるかを知ってるからこそ、『フランダースの犬』を見てるんじゃないのかと。


ホントに幼少のころは、同じお話を繰り返し繰り返し聞きたがる。
いまの世で言えば、ビデオを何度も見返したりとか。

中学生くらいまで、一冊の本は暗記するほど読み返すのが常だった気がする。好きな本ほどボロボロになるので、出版社にお願いしてカバーだけ売ってもらったり。
好きな映画には何度も足を運んだ。ビデオのなかった時代なんで、一日中映画館にいたりして。4回転なら4回見るわけだ。

そんな個人的経験を照らし合わせると、ひとつのギモンがわくわけだ。

「それからそれから?」と、先行き不透明の状態を楽しむ。これが一次的物語体験。
この先こうなる、と知っていて、それを確認することを楽しむ。これが2回目以降の物語体験。

というふうに、すっきり切り分けられるものなのだろうか。
1回目の物語体験は本当に「先行き不透明」といえるのか。
アニメ『フランダースの犬』とは、では、どういう体験だったのか?

というわけで、つぎはミステリとコロンボの話。 

水 - 1 月 26, 2005 at 00:04 []