すべてのドラマは、予定調和である。
『水戸黄門』を観るお年寄りをバカにする人もいる。
ワンパターンだという。
でも、「恋愛するぞ」とわかりきってる恋愛もの、「事件を解決するぞ」とわかりきってる事件もの……。ドラマというドラマは、予定調和ばっかりだ。
『フランダースの犬』や『ある愛の詩』などは、主人公が死ぬことを、あらかじめ観客が知っていて、だからこそ見る。そして泣く。
結末がわかってるのに、なぜ見るのだろう?
その疑問は、設問自体がまちがっている。
人が物語を好むのは、結末が知りたいからじゃない。
結末を知ってるからこそ、物語を好むのだ。
《意外な結末》という宣伝文句を、しばしば聞く。
でも、意外ったって、せいぜい《予想外の人が犯人》という程度にすぎない。
恋愛ものと思いきや、じつはスプラッタだった! とかいうほうが、よっぽど意外だけど、そういうのは《意外》とはいわない。《拍子抜け》《期待外れ》とかいう。
フランダースの犬
アニメ『フランダースの犬』が放送中、「ネロを殺さないで」と投書が殺到して話題になった。
そうした意見を汲んで、ネロを殺さず、ハッピーエンドに終わったら、視聴者は満足しただろうか?
『フランダースの犬』において、原作のストーリーと、「殺さないで!」という要望とを、2つながらに満たす道が、ひとつだけある。
番組を終わらせないことだ。
何年・何十年と、放送をつづけてもいい。それが無理なら、いわゆる結末まで描かずに、平穏な日常の途中で放送を終える手もある。
これなら、どんな視聴者も満足する……か?
観客が期待しているのは、じつはネロの生き死になんかじゃない。
『フランダースの犬』という物語が終わることを期待してるのだ。
《美しい物語》をつくることはできる。
《完成度の高い作品》をつくることはできる。
けど、視聴者が期待してるのは、カタルシスがどうの、テーマ性がどうのでもなんでもなく、とにかく「終わる」ことなのだ。
その圧力を、視聴者はかけてくる。
けど、物語の終わり方は、基本的に3つしかない。ハッピーエンド/バッドエンド/オープンエンドの3つ。
どれを選ぶかだけが、物語の語り手の仕事……なんだろうか。
シェヘラザード
だれもが結末を知っている中で、1年間のシリーズを放送した『フランダースの犬』。
作品としてどうか? というと、正直疑問だ。だって、お話としては1時間もあれば語り尽くせる内容しかない。せいぜい単発番組で十分。
それを1年間かけて描き、投書運動まで起こさしめた意義はどこにあるか。
その1年の視聴体験にあるはずだ。
途中回の視聴者に聞けば、「どーなるのかしら? とハラハラしながら見ている」というかもしれない。
けれど、もしそうなら、途中回を見る視聴動機はない。
だって、視聴者は「ネロが最終的にどーなるか」を知っているし、途中回では「どーもならない(ネロは死にも生き残りもしない)」と知っているのだから。
終わらない物語はない。果てしない物語はない。
という、視聴者の先入観は度しがたい。
けれども、「終わり方が気になって」などという視聴者の言葉にまどわされてはならない。そこに、物語体験の真実はない。
「終わらない物語」を語った人物が、ひとりだけいる。
名をシェヘラザード。
彼女の物語が終わるときは、彼女が死ぬときだった。命を賭して、彼女は物語を語りつづけた。
これもまた、物語ではある。
だからこそ、物語の語り手の義務を諭している。
視聴者は・観客は・読者は──あらゆる物語の受け手は、シャフリヤール王である。
彼は、いまかいまかと、物語が終わるのを待ちかまえている。語り手を殺すための剣を、手に握りしめながら。
語り手は、王の期待に応えて、物語を美しく完結させてはならない。
そのとき、語り手は殺され、物語は死ぬのだ。
王は、決して《面白いお話》以上のものを期待してなどいない。
けれども語り手は、王が期待する以上の体験を、王に与えなければならない。
それだけの力が物語にはあり、それを引き出すのが語り手の役目だ。そのとき、はじめて《物語》は《お話》を超える力を持つのだ。