「クジラ」と聞いて、私たちは、大海原を遊弋する巨大な海洋生物を思い浮べる。
だが、「whale」と聞いて欧米人は、水族館で愛嬌を振りまくイルカやシャチを思い浮べるのではないか。 学術的にではなく、一般的に、下図のような概念領域の断絶があるのではないかと疑っている。 傍証を2つ。
ウィリーは、私たちから見るとシャチだが、アメリカ人にとっては whale である(だからウィリー・ホエール)。 ちなみに、この映画のストーリーを goo 映画は、「家族からむりやり引き離されたイルカと、母親に捨てられた少年」(強調引用者)と解説している。日本人の分類概念では「シャチ∈イルカ」、アメリカ人は「シャチ=クジラ」となるらしい。
引用における主人公(アラスカ先住民系アメリカ人の設定)は、「クジラ」(訳語)の代表として、当たり前にイルカやシャチ(学名オルカ)を引きあいに出す。 こうした傍証を、図示してみたのが上の図。 仮に、こうした whale 概念を欧米人が持っているとすれば、「捕鯨」とは、イルカやシャチたちを無慈悲に殺戮するイメージに直結する。日本ですら知名度の低いイルカ漁が、ことさらクローズアップされるのは、彼らの想起する捕鯨イメージにぴったり重なるからに他ならない。 日本人の中には、捕鯨に賛成でも、イルカ漁には胸を痛める人も少なくない。しかし、そうした心性が欧米人には理解されることはあるまい。私たちは、イルカとクジラを峻別するけれども、彼らにはその区別がない。 これは彼らがおおざっぱだからでも、不勉強だからでもない。 逆に、日本人がおおざっぱで不勉強な例もある。私たちはニホンザルとゴリラを、ひとくくりに“サル”という生きものとして認識する。だが、欧米人にとって“monkey”と“ape”は違う生きものである。 シッポがあるとかないとか、そういう分類学的な弁別ではなく、彼らにとっては、「可愛いのが monkey、恐いのが ape」であるらしい。 ape が畏怖の対象であるからこそ、巨大な ape が暴れる映画(キング・コングやマイティ・ジョー)や、ape が地球を支配する映画(猿の惑星)がつくられる。 そうした ape 観の延長線上に、進化論をめぐっての問題が生まれる。「人間が ape から進化した」というテーゼは、彼らにとって、いまもってセンセーショナルな響きを持つ(この物言い自体は科学的には正確ではないにせよ)。進化論に対する彼らの強固な抵抗感が、私たちには理解しがたいのは、それが倫理や宗教の問題ではなく、“ape”という単語の概念をめぐる現象の一環だからなのだ。 クジラと、イルカ/シャチの弁別も同じこと。大きいとか小さいとか、模様がどうとか言っても始まらない。私たちが「それでもサルはサル」と思ってしまうように、彼らは「それでも whale は whale」と思うだろう。 アメリカ人は ape を畏怖し、『キング・コング』をつくった。クジラを畏怖する日本人は、その名をとり、『ゴジラ』をつくった。潮を吹き、勇壮なヒレを持つ巨大生物の伝説を。 日本人にキング・コングはつくれない。欧米人に Godzilla はつくれない。 私たちが「クジラ」と言い、彼らが「whale」と言うかぎり、両者は永遠に理解しえないのではないか。 # この項では、意図的に“アメリカ人”の例を“欧米人”一般に敷衍した。ドイツの小説に言及したのは、その補強のためだが、例証としても脆弱。「whale」という英単語と「クジラ」とは意味領域にギャップがあるのでは? という問題提起のためのレトリックとしてお許しいただきたい。
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Total entries in this category: Published On: 2009.01.04 02:26 |