5人で1人(断片) 

集団ヒーローのカタルシス 


なぶり殺しのカタルシス


《5人ほどの男女が、寄ってたかって1人の敵をなぶり殺しにする》
という構造の番組が、「いかがなものか」と批判されることがある。
「卑怯だ!」「イジメだ!」ってことだ。

「5人が力を合わせないと倒せないほど、敵が強大なんだから仕方がない」
「悪いヤツなんだから、5対1だろうがなんだろうが、倒さないといけない」

というのが、タテマエのひとつ。
警察官が寄ってたかって犯罪組織を摘発しようが、あるいはひとりの犯人をつかまえようが、卑怯でもなんでもないのと同じというわけ。

でも、《どうして集団ヒーローが、つねに「寄ってたかって」でなければならないか》の説明としては、十分ではない。

武士47人が寄ってたかって、老人をなぶり殺しにするのに拍手喝采を送るのが『忠臣蔵』。
この拍手は、浪士たちの忠臣ぶりを称えての拍手、ということになっている。

けど、彼らの行動の実態は、「大きなカブ」を抜くのと大差はない。
敵が強大=たしかにカブは大きい。倒さないといけない=たしかにカブは抜きたい。
カブを抜くことが、忠義でも正義でもないように、この拍手は、善悪論とか是非論の次元で語れることじゃない。

カブを抜くカタルシス


人民が団結して、カブを抜くカタルシス。
浪士が集結して、主君の恨みを晴らすカタルシス。

これらの物語のカタルシスは、行為の結果ではなく、そのプロセスにある。
村一番の力持ちがカブを抜いたって、お話にならない。カブを抜くか抜かないか、がテーマじゃないからだ。
パーティの集結──だからこそ、『水滸伝』『八犬伝』といった物語が面白い。
集団ヒーローのミソは、「5人揃って」倒すことではなく、5人揃うこと自体にある。

しかし、カブを抜くために集結したパーティは、カブを抜いたら解散だ。
赤穂浪士もしかり、桃太郎とお供たちもしかり。
パーティの集結は、基本的に、一回こっきりしか効かない。

あれほど魅力的だった三銃士は、いったん一丸となったとたんに、ダルタニャン応援団になりさがる。
『七人の侍』の侍たちが全員生き残って、シリーズ化されても、あまり面白そうじゃない。里見家の再興を果たした八犬士の、《つぎの活躍》に期待する気にはなれない。
ところが、これを描こうというのが、集団ヒーローものなのだ。
力を合わせてカブを抜きつづけるために、「カブ抜き隊」を結成する──という話なのだ。

でも、『西遊記』は成立する。
『桃太郎』や『ブレーメンの音楽隊』と大差ない構成のパーティが、延々と活躍をつづける。そのかわりに、かれらは仲違いと仲直りを繰り返す。
玄奘三蔵が高僧のわりに、なんだか肝っ玉が小さいのは、パーティをしばしば分裂させるためなのだ。

集団が集団としての面白さを保つためには、けっして一枚岩ではいけない。
その集団は、つねに分裂の危機に直面していなければならない。
もしくは、『三匹の侍』『三匹が斬る!』『ルパン三世』『必殺シリーズ』のように、基本的に別行動の登場人物たちが、毎回たまたま集まるか。

そうすればかれらは、つねに《集結》することができるから。

集団ヒーローのセオリー


集団ヒーローものにおいて、多対一という構造は、結果論にすぎない。
「カブはひとりで抜かなければならない」などという倫理基準はない。けれども、ひとりで抜けるカブを、いつも5人で抜くのはおかしい。
それだけの話だ。

娯楽性においても道義性においても、集団ヒーローの本質は《分裂と集結》にある。
集団ヒーローにおいて、わたしたちが考えるべきは、どうやって集団をバラバラにするか、その集団をどうやって再集結させるかであって、それ以上でも以下でもない。
 

水 - 7 月 21, 2004 at 02:25 []