(と、blog
っぽくリンクしつつ、内容はあまりリンクしなかったりして)
悪いかどうかは別として、「夢オチ」を成立させるためには、2つの前提があると思う。
(1)物語は終わるものぢゃ。
(2)どう終わるかが、物語の価値を決めるのぢゃ。
ある様式の「オチ」がいいか悪いかという話ができるのは、物語の語り手と受け手の双方が、この2つを前提として共有しているからだ。
語り手は「どう終わらせようか?」と悩み、聞き手は「どう終わるんだろ?」と期待する。
この圧力を、仮に《オチ圧》とでも呼んでみる。
一方、『サザエさん』『小さな恋のものがたり』(チッチとサリー)みたいな物語には、この逆の圧力が働いてるように思われる。『暴れん坊将軍』の吉宗は、マツケン様の実年齢がどうあれ、未来永劫にわたって「若様」でなければならない。『暴れん坊将軍』という《物語のありよう》の圧力は、主演俳優の身体性にすら優先する。
こちらを、《パターン圧》とか呼んでみる。
オチ圧はお話を終わらせようとし、パターン圧は終わらせないようにする。
物語の語り手&聞き手に、2つの相反する圧力がおよんでいるように見える。これは、どういうことか?
この問題について、しばらく考えてみたい。
次回は、(例によって)アニメ『フランダースの犬』をめぐって。
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サイトを整理中。過去記事をいくつか抹消しました。