ミステリの犯人をバラすのはご法度だ。
けど、ミステリの結末をしゃべっちゃいけないわけじゃない。
「そのミステリ、探偵が犯人を言い当てるよ!」
なんて言われても、「ハア、そうですか」だ。
だって、そんなことはみんな、ハナから承知なのだから。
ここでいうミステリとは、「いわゆるミステリ」(10人中9人が「ミステリ」に分類するたぐいの作品)のことだが、いわゆるミステリでは「あまりに難事件すぎて、迷宮入りしました」なんて結末は許されない。かならず「犯人はお前だ!」とならなければならない。
シンデレラや白雪姫が、王子様と結婚しなければ「めでたし、めでたし」にならないのと同じように、ミステリという物語は「犯人当て」に帰結しなければ終わらない。
逆にいえば、犯人当てという作業が終了した時点で、物語としてのミステリは幕を下ろす。そのあと、登場人物がどういう行く末をたどるかは、ささやかな後日談にすぎない。犯人がつかまろうが、「また会おう明智くん! わははは!」とか逃げおおせようが。
つまり、ミステリとは、「この物語は、《犯人当て》に帰結しますよ」という《約束事》に、話し手と聞き手が同意した物語のことであり、その約束事にのっとって、どれだけ面白い(≒意外な?)犯人像を提示できるかが、ミステリ作家の腕の見せどころである。
「落語」や「洒落」という言葉自体に、すでに「落ち」がふくまれているように、落語や洒落を聞く人は、聞く前から話が「オチ」で終わることを知っている。そうと知らなければ笑えない。米大統領の一般教書演説やローマ教皇の定例会見が、どれほど洒脱なユーモアにあふれたとしても、聴衆はだれひとり笑ってくれないだろう。
物語とは、そういうものらしい。
これからどんな構造の物語が語られ、どんな結末に至るかという《約束事》が、まず話し手と聞き手との間でとりかわされる。その上で、具体的な《オチ》の価値が評価される。
落語の聞き手は、話者のスピーチがお笑いに帰結すること前提で、オチの内容を評価する。同じように、ミステリの読者は「俺はミステリを読んでる」と自覚した時点で、物語がかならず「犯人当て」に至ることを知る。その前提に立って、「だれが犯人か」という情報の内容を評価する。
約束事とオチ。物語形式と物語内容。
ベタだが《文法》と《単語》の関係になぞらえることもできるだろう。日本語の話し手と聞き手は、日本語の語順を知っている。述語としての具体的な単語が発話されてはじめて、聞き手はそのメッセージの意味内容を解釈し、吟味することができるようになる。
もんのすごく当たり前のことばっかり言ってるように聞こえるのはわかっている。
けれども、この《約束事》は、話し手が話しはじめる前/聞き手が聞きはじめる前にとりかわされるのだ。いったいどうしたら、まだ発話されてもいないお話に関する《約束》をかわすことができるのだろう?
次回は、「意外な犯人」は何が意外か? という話。