物語はなぜ終わるのか?(3)——コロンボはオチをバラしてますか 


冒頭部で犯人と犯行手口を視聴者に教えて、刑事コロンボがその謎を解明していく独特のスタイルは、新鮮で画期的だった。
『刑事コロンボ 完全版』DVD の宣伝から(強調引用者)

ミステリならオチに当たる「犯人」を、最初からバラしてしまう。だから『コロンボ』はスゴい。

『刑事コロンボ』を評して、そんなふうにいう人は多い。はじめて見たときは、私もそういう印象を受けた。「オチから始まる画期的な番組だ」と。
けど、その印象は『コロンボ』の実態を反映していない。 

各話のストーリーラインを見れば一目瞭然。

犯人が事件を起こす。

刑事が容疑者を捜査する。

刑事が犯人をつかまえる。

れれれ?(銭形零風) 時間軸に沿って描いてるだけで、べつに「オチからはじまって」なんかないんですけど。

「独特のスタイル」も何もない。ストーリーライン自体は、刑事もののパターンのひとつでしかない。
これのどこが、新鮮で画期的に見えたというのだろう?


前項では、ラストを知ってるか・知ってないかという物語体験をめぐって、「ラストを知ってるから、物語が楽しめるんじゃないか」というギモンを示唆した(つもり)。
だからって、「コロンボもオチからはじまるから面白いのだ」なんていうつもりはない。もうちょっと、オチとは何かという問題が、明確にしぼりこまれないと議論にならない。
その前に立ちはだかる難敵のひとつに、「ミステリ」というジャンルの物語がある。

ミステリといえば、「オチをバラしたら台無し」といわれる物語の大横綱。

ミステリで重視されるオチ=ラスト=結末とは、上でいうような「犯人と犯行手口」の2つの情報である。
犯行トリックは、犯人の正体を隠蔽するためのものにすぎないから、せんじつめれば「犯人はだれか」の一点につきるといえよう。
「犯人をバラす」なんて、万死に値する大罪。日本推理作家協会会報2005年1月号の、直井明さんのエッセイが面白かった。「犯人守秘ルール」という専門用語まであるらしいですね。
その大事な大事なオチを、最初からバラしてかかるコロンボは、逆転の発想だ! ということになるんだろうけど。

じじつ、コロンボは画期的な番組だと思える。けれども、その理由を「オチからはじまる」というミステリ的な視座で説明するのは、一見もっともらしいが、コロンボの実態とはかみ合っていない上に、論理的な誤りをおかしている。

「コロンボはおもしろい」
「オチをバラしたら台無し(面白くない)」
「コロンボはオチからはじまる」

この3つの命題は並び立たない。
どれか1つは偽になるんである。だから「オチからはじまる」といって、コロンボのスゴさを称えようとすると自己矛盾する。Q.E.D.(銭形零風)


そんな説明さえもっともらしく聞こえてしまうのは、「ミステリにおけるオチ」の位置づけがあいまいだからだ。
そこがあいまいであるかぎり、コロンボの真の意義もぼやかされてしまうし、いつまでたっても「オチ」という曖昧模糊とした妖怪にとらわれつづけて、一歩も先へ進めない気がする。

コロンボと対比しながら、《ミステリ》というジャンルにおける《オチ》に検討を加えつつ、「物語とオチとの関係」を探るのが、ここからの数回のテーマになる。
というわけで、次項からミステリの殿堂に分け入ってみることにしたい。

(最近のミステリ感覚が銭形零なのは不安だけど……) 

土 - 1 月 29, 2005 at 19:43 []