「○○監督」っていう呼び方はすっかり定着してるように見える。
現場でも、監督のことを「監督!」と呼ぶ人が多い。
で、「監督」は敬称だろうか?
「監督」と呼ばれて怒る人も多い。
怒る理由は、おもに2種類に分けられると思う。
1つめは、「俺は『監督』じゃない、ディレクターだ!」というもの。「監督監督呼ばれていい気になってる人種といっしょにするな!」とかね。わからんでもないが、自己同定や映画界への反感といった個人的感情に根ざすとこが大きいと思うので、あんまり一般化できない。
もう1つのほうが問題だ。「『監督』は敬称じゃない、職能名だ!」という主張。
たしかに、小津や黒澤あたりの時代は、監督は「監督」じゃなく、「先生」と呼ばれていたようである。かれらが特別エラかったとか、先生っぽかったとかじゃなくて、監督という監督は「先生」だったみたいだ。
思い当たるフシもある。
たとえば演劇。
日本映画の源流をたどると演劇に行きつく。映画業界用語には演劇用語からの借用がやたらに多いし(かみて・しもて、テレコ、どんでん等々)、東宝や松竹みたいな大映画会社も、もともと演劇興行メインだったくさい。
で、本家本元の演劇で、演出家や舞台監督のことを、なんと呼ぶか? 「○○先生」「○○さん」と呼ぶのだ。「○○演出家」や「○○舞台監督」ではなく。
その分家であるところの映画界で、どうして「監督」が敬称として使われるようになったか。
職能名が敬称化する事例には、他に何があるだろう。
学校教師を「○○教師」「○○担任」とは呼ばない。「先生」や「教諭」みたいな敬称をくっつける。けど、「校長」「教頭」あたりなら、そのまま敬称に使える。
「社長」「専務」「部長」は敬称に使えるが、同じ役職名でも、「役員待遇」や「部長代理」なんかは使えない。
こうした使い分けルールをつらつら見るに、《エラそうさ感》がキーなんじゃないかなと。たとえば、「課長!」と呼んでた人が部長代理にステップアップしても、「部長代理!」とは呼べない。「お前はしょせん『代理』だろ」って感じに聞こえちゃう。「代理」っていう、エラさをマイナスするワードが、足を引っぱるんじゃないだろうか。
つまり、文句なしにエラい人! という共通認識があるかどうか、ですかねー。敬称化しうるかどうかを決めるのは。
演劇において、だれがエラい人なのかは、いまいちよくわからん。脚本作家か座長か演出家か、はたまた舞台監督か。たぶんケースバイケースなのだ。だから職能名が敬称にはなりにくい。だれに対しても、とりあえず「先生」とでも呼んでおくしかない。
けど、映画の撮影クルーが「○○組」と称されるように、映画界は、「エラさのトップは監督」というムードが定着している。職能名である「監督」が、敬称化しやすい環境のように思われる。
しかし、似たような業界でもテレビ界だと事情が異なるわけで。
現場を指揮するのはディレクターなのは変わりないのに、「演出家中心」が明示的ではない。ディレクターより、主演俳優のウエイトが高いのはもちろん、同じスタッフどうしでも、脚本家やプロデューサーやスポンサーにスポットが当たるケースのほうが多かったりする。ケースバイケースさかげんは、演劇界以上。こういう場所では、職能名が敬称化するような現象は起こりにくいかもしれない。
じゃあどうして、映画界にかぎって、「監督」はエラいんだ! というムードが定着したんだろう。
野球の影響じゃないか? と考えている。
球団の顔は監督である。
けど、楽天球団の立上げの報道なんか見てると、監督のカの字も出てこない。球団運営におけるイニシアティブを握っているのは、監督じゃない。当たり前だ。
それでも、あと半年もすれば、楽天球団を代表するのは田尾監督になるだろう。とくにシーズン中は、監督を前面に押し出したほうがわかりやすい。視聴者にとっても、試合中にテレビに映ってくれる人だから。
そうして監督に集約するのが野球の報道だし、結果、「監督」という言葉を敬称としても一般に定着させたのは、球界の功績だと思う。
映画界と球界は、一見関係なさそうに見えるけれど、各メジャー映画会社がこぞって球団を運営していた時期があったのだ。その時期に、「監督」が敬称化したんじゃないかなあ?
というわけで。
「監督」は敬称じゃないだろ! とは、よく責められるけれども、歴史的経緯をともなう映画界(というか映画会社系の現場)の事情もある。受け入れてもらうしかない。責めるなら球界を責めてほしー、っていうか。(^^;
HP200LX
がぶち壊れて仕事にならん(ここはふだん
200LX
で書いてます)。腹いせにこんなくだらん話を。