早稲田大学に出没 

してきた。
「放送研究会」なるサークル主催の、自主映画コンペティション上映会。

こういうイベントが学内クローズドで成立するのも驚きだが、技術的レベルの高さにはびっくり。この作品のカメラワークなんか、ほとんどプロはだし。っていうか Web まであるし。

技術はツールにすぎない。でも、同じハサミなら切れるほうがいいに決まってる。ハサミを研ぐとこから始めるのも乙だけれど、どれだけ研げたかを確認する作業としてハサミを使うって本末転倒なことにもなりがち。
すでに研ぎ済みのハサミコレクションのことを「文化」というとして、まさしく「早稲田文化」とやらの存在感を見せつけられた。 


それと、たとえ学生サークルでも組織は組織だってのが見えて、ちょっと考えさせられた。

なんと300名オーバーもの大所帯なんだそうで、ここまでビッグな人間集団になると、そこはかとなくローカルルールが醸成されてる。で、内部にいる人間は、どこまでがローカルルールかという境界線を意識しない。今回のイベントも、ゲストよりも身内のほうが圧倒的に多数派なわけで、ゲストにローカルルールを押しつけたほうが効率が高くなる。

これ自体は悪いことではない。どんな集団でも(家庭でも)、客をもてなすと称してローカルルールを押しつける。茶道なんかが好例で、ホストのしきたりに客が合わせることを「もてなし」と呼んでいる。
特殊な例でもなんでもない。外国を旅して、いくら日本茶や麦茶がほしくても、ホストが供してくれるマテ茶だのバター茶だのを甘んじて飲まなければ失礼にあたるのは当然だ。ゲストにお茶を出すのは、どの世界でも、ホスト側のローカルルールをゲストが文字どおり「飲む」という儀式なのであり、けっして「サービス」ではない。

これがお茶ではなくて酒になると、さらに儀式の意味合いが濃くなってくる。
2人以上の人間がいっしょに酒を飲むとき、フォーマルな会であろうがあるまいが、いっせいに口をつけるのが礼儀だ。なぜそれが礼儀なのかといえば、共飲行動はその集団に対する個々の帰属表明だからだろう。「カンパ〜イ」なんてレベルだと意識されにくいが、まったくの儀式行為として共飲がなされるときに、その意味は最も明白となる。たとえばワイン党のカップルが結婚するからといって、三三九度をワインで行なうことは許されない。三三九度は、それを行なう行為者のためではなく、神々というホストのためになされる。そうしたタテマエのもと、本当のホストであるところの列席者が構成する多数派社会への帰属を表明し、カップルをその社会の構成単位として受け入れてもらうのが、“結婚式”という儀式の目的だからである。
「オレの酒が飲めないのか!」と上司が怒るのも、故ないことではないわけだ。


思いっきり話がズレたが、そんなようなことを考えさせられる機会でした、ということで。
近ごろは思考力が減退しまくってるので、新鮮だった気がする。


上映会自体についての感想がないのも変か。

今回は人の代理で、“審査員”とやらだった。
エラそうに講評述べたり、審査したり。これがホントに難しい。
“プロの視点”を披露しないといけないんだが、「アマチュアをプロ予備軍として評価しても意味がない」というのが“プロの視点”なのだから。

高校野球の中継で、解説者にプロ野球関係者が呼ばれないのもそういうことだろう。結果として次代の球界を担う選手だっているだろうが、プロ野球を頂点とするピラミッドを支える底辺として高校野球を位置づけてしまったら、甲子園はただのパドックにすぎなくなってしまう。それは高校野球の面白さとは相容れない。
自主映画は自主映画として評価されなければならない。けど、そうした視座なんか、だれも期待してないというパラドックス。

では、どうしたらいいんだ……と低燃費の頭で考え出すと、また空回りするから、アイドリング・ストップ。
チーム・マイナス6%だからさ。 

月 - 6 月 27, 2005 at 01:47 []