『隠し砦の三悪人』リメイクを見た(ずいぶん前)。
退屈な映画だ。物語はテンポよくスピーディに運ぶにもかかわらず、不思議なほど興味が湧かない。
あまりに不思議だったので考えてみた。
このつまらなさの最大の原因は、ヒロイン・ユキ姫の人物造型(キャラクター設定)に集約できるのではないだろうか。
『隠し砦』は、冒険行の物語である。
冒険行に不可欠なのは、強固な目的、ないしは目的意識を持つ牽引役だ。それが主人公である必要はない。『ロード・オブ・ザ・リング』は、形式的にはフロド・バギンズの冒険物語だけれども、フロド自身には強固な意志がなく、仲間たちが彼を引っ張る。『西遊記』では、目的意識の薄い主人公孫悟空やその同類たちを、三蔵法師が牽引していく。
『隠し砦』の場合、その牽引役を、ユキ姫がひとりで担う構造になっている。ところが、リメイク版では彼女にその重荷を背負わせることを捨て、凡百のヒロインとして描いてしまった。
ユキ姫のポジションは、架空のお家の再興とか、恋愛沙汰とかより何より、傲岸な武家の姫という記号として、物語を牽引することにあった。
それこそが、彼女が唯一持っていたリアリティであり、ただの登場人物を越えるポイントだった。
リメイク版でのユキ姫は、その記号さえ剥奪されてしまった。もしかしたら彼女を人間として/ヒロインとして描こうという試みなのかも知れない。だが、それはあたかも、人魚姫を最初から「人間」として描いてみるような行為にすぎない。それでは物語の基盤を成り立たせることができない。
『隠し砦』のプロットは、『勧進帳』が下じきになっている。黒澤には『虎の尾を踏む男達』(1945)という勧進帳映画があり、これのエノケンの役を主役に据える形で再構成したのが『隠し砦』ではないかと思う。
勧進帳といえば、弁慶をめぐるお話。
観客は、弁慶の機知にハラハラし、弁慶の思いの強さに涙する。しかし、勧進帳という物語を成立させているのは、活躍の目立つ弁慶や関守ではなく、義経である。関守が吹っかける難問も、弁慶がこらす機知も、個々のアイデアは恣意的なものにすぎない。もっといい他のアイデアを思いつけば、そちらにすげ替えても物語は成立するし、もっと面白くなるかもしれない。しかし、「この関を越えなければならない」という義経の状況だけは交換不可能だ。勧進帳のシチュエーション全体を成立させているのは、そうした状況を持つ義経の存在そのものなのである。
これは実話と作り話の差でもある——義経という実在の人物と、弁慶という架空の人物との。
勧進帳の面白さは、弁慶にある。だが、その物語自体を成立させているのは、義経の実在性にある。義経が実在していればこそ、はじめて弁慶の物語が生まれえた。逆にいえば、弁慶は義経の実在性を側面支援するために存在する。
『勧進帳』や『西遊記』といった架空の物語なくして、義経や三蔵の名を私たちが知ることはなかったと断言できる。百歩譲っても、私たちは弁慶のいない義経の物語や、悟空のいない三蔵の物語に、興味を持つことができない。
義経は、鞍馬天狗に兵法を授かったり、弁慶に打たれることによって——三蔵は、暴れる悟空に手を焼くことによって——その実在性を永遠のものとした。
『隠し砦』のユキ姫にも同じことが言える。
架空の物語である。何が起こってもいい。どんな人物が登場してもかまわない。ただ絶対に代え難いのは、ユキ姫という名の女性版義経が、強固に存在しながら物語を牽引していくことだった。そうすることで、ユキ姫は実在の人物以上の実在性をもって、観客の中で永遠の生命を得ることができたはずだったのだ。
彼女は、永遠に生きられるはずだった。
人間になろうと思いさえしなければ……。