学生時代に一度だけ、生・淀川さんをお見かけしたことがある。
『ジークフリード』の上映会に行ったら、期せずして淀川さんが解説で登壇されるという。 もう晩年に近かった。 車椅子で会場に入ってくる姿は、痛々しいほど衰弱されているように見えた。 だが。 登壇されたとたん、すっくと背筋が伸びた。まるで背丈が1メートルも伸びたように見えた。
そして、言葉の弾丸を飛ばすようにして話しはじめた瞬間、淀川さんの存在が場内を覆い尽くさんばかりにふくれあがったのを私たちは見た。 その鋭い舌鋒も視線も、テレビでおなじみのにこやかでおだやかな淀川さんのそれとは、まるで異なっていた。 フリッツ・ラング監督の演出技法は。当時のドイツのスタジオの体制は。どんな政治的状況におかれていたか。世界の映画状況は—— つぎつぎとあふれ出す膨大な知識と識見。 何よりも驚いてやまなかったのは、(この人は、『ジークフリード』のカット割りを完全に覚えている!)ということだった。 映画を見るからには、カット割りを頭の中で再現できるほど真剣に見なければ意味がない! というほどの覚悟。その上で、各カットの意図・各シーンの意味を読み取れなければ、観客として怠惰である! という叱咤。 そうは直接言っていないのだが、それほどの気迫が伝わってくる淀川さんという存在がそこにいた。 ようやく合点がいったことがある。 そのちょっと前、大学の教養課程に映画ファンが集まる映画ゼミというのがあるというので、お気楽に参加した。 でも、お気楽にはいかなかった。 「逆ズーム(トラック移動とズームを併用する技法)が使われた映画をあげろ!」「ヒッチコック作品で、セットに天井があるシーンをあげろ!」とかなんとか、教授が学生に問う。われわれ学生も、映画を見るだけは見ているので、普通に答える。 だが、うかつに答えると、「そのカットの意味を言え!」「セットは照明の都合もあり、普通天井まではつくらない。天井をつくった意図を答えろ!」とかなんとか、さらに迫られる。 カルトクイズじゃなくて授業なので当然なのだけど、しどろもどろにさせられつつ、(製作者でも演出家でもない教授が、なぜそんなディテールを? 映画って娯楽じゃないの?)と疑念も抱いた。 淀川さんという巨大な存在を目の当たりにして、そのギモンは氷解した。 そうなのだ。映画に文芸的な感興以上の意味が何かあるなら、その意味を問えなければ映画の製作者に値せず、その意味を受け止められなければ映画の観客に値しない。 それを身体で体現した巨大な”観客”淀川長治が、目の前に存在する。現実は現実である。どんな理屈も通用しない。 映画ゼミの教授は、蓮実重彦さんという人。 いまの私は、かならずしも彼らの見方に与しない。けれど、蓮実氏編纂の『リュミエール』誌も、なかんずく淀川さんと彼との(くだらない題名のついた)座談会本も、いまでも私の宝ではある。
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Total entries in this category: Published On: 2008.09.02 00:41 |