某テレビ誌が日本版ラジー賞ということで、ワースト脚本賞に『西遊記』を選んだとか……。
個人的には相当感心した脚本だったので、ちょっと反応してみる。 お題が西遊記とくれば、早い話が『水戸黄門』的なつくりを想像しがちなところ、今回の月9版はちがった。 毎回1つ豪華なセットをドカンと建て込み、お話はもっぱらそのセット内で進行するという趣向なのだ。 たとえば最終回のクライマックスでは、セットで三蔵法師がタンカを切る。 やがて三蔵がハケ、入れ替わりに悟空がやって来てタンカを切る。 そうするうちに3人が戻ってきて、口々にタンカを切る。 つまり、レギュラー陣がセットを出たり入ったりして、代わるがわるタンカを切る——それがクライマックス。 スゴい! どうスゴいのか、ピンと来ない方のために、少し説明を試みたい。 映像作品のストーリーテリングに関わる者が、真っ先に教わることの一つに、「行って来い」(名詞)を避けるというのがある。
たとえば刑事ものというのは、ざっくりいえば「刑事たちが刑事部屋と外を往復する話」だ。(基地のある)ヒーローものも含めて、ほとんどすべての事件ものが、そうした往復によって構成されている。これは見やすさにもつながるけれど、ドラマ的に無意味な往復も発生しやすい。それが行って来いだ。 ストーリーづくりに際して、行って来いに陥らないよう、神経を使ってあれこれと工夫する。それがセオリーだ。 ところが『西遊記』というドラマは、セオリーを逆手にとった。 いったんセットの外にハケて、また戻ってきてタンカを切る——典型的な行って来いに見える。毎回、それを堂々と見せ場に持ってきた。むしろ行って来いを売りにし、行って来い自体に意味を持たせた。あげく最終回のクライマックスでは、行って来いのつるべ打ちで盛り上げきってみせた。 セオリーを破りつつ、そうと視聴者に気づかせずに見やすい娯楽作として仕上げ、ヒットさせた手腕は並大抵ではない。 これが正しい見方だとか言い張るつもりはない。けど、「脚本」をとくに取り上げて評価する以上は、お話としてでも文芸作品としてでもなく、「脚本」として評価しなければ意味がない。 冒頭の記事は風の噂で聞いただけで、実際にはまだ読んでいない。どういう切り口で『西遊記』の脚本を、脚本としてワーストと断じたのか、楽しみでもある。 一方、いくら辛口批評ばやりで、いくらあの雑誌といっても、テレビ誌がワーストとか言い出すのは、世も末感がなきにしも……と切なくもある。 故・淀川長治さんは日曜洋画劇場の解説で、どんな作品も誉めた。B級だろうがC級だろうが、淀川さんは誉めた。映画でさえあるかぎり、どんな映画にも、かならずいいところがあるはずだと。 淀川さんはウソはつかない。「脇役のこの俳優は、他にこんな映画にも出ていて……」とか「この映画の舞台はこんな映画にも使われていて……」とかなんとか、話をあっちの方向にそらすこともあった。(どうしてもいいところが見つけられなかったんだな)と視聴者にも分かった。それでも淀川さんの映画に対する愛は伝わってくる。私たちは幸せな気分で日曜の夜を過ごした。 淀川さん自身は、著書や対談で見るかぎり、むしろ“辛口批評”サイドの人であったと思う。けど、彼が映画解説において選んだのは、自分の感性とやらを押しつけるでもなく、さりとてコマーシャルトークでもなく、映画というものに対する愛を自らの身体をもって表現する道だった。 横行する辛口批評を見聞きするたび、ふと空を見上げ、淀川さんを偲ぶ。 ふと偲んでしまったので、たてつづけのエントリで淀川さんの思い出を。
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