《事件》を起こした人物がブログや日記を公開しているケースが増えている。するとそこにおける言説が、《事件》に至る動機や心境を探るために注目される。事件を起こすような人間の心の闇や歪みをくみ取ろうという視点から解読されはじめる。
それと同時に、その言説は排除の対象とされる。「グルムグンシュ」は、事件が報道されると同時に 404 エラーになった。 事件発覚以降、本委員会では、長時間に渡り討議を行ってまいりました。 「空中庭園」製作委員会 「映画『空中庭園』公開についてのお知らせ」 2005.8.29 「作品自体に罪はあるのか?」というテーゼは、ある言説が、発話者自身から切り離された存在であることを前提としている。だからこそ「映画は監督一人だけの作品であるのか?」という問いが先行する。《映画は監督一人だけの作品ではない》ことが確認され、大前提となってこそ、《作品自体に罪はない》という結論がみちびきだされる。 このテーゼの裏にひそんでいるのは(すくなくとも否定していないのは)、「映画が監督一人の作品であったなら、作品自体にも罪がある」という思想である。発話者が罪を犯したならば、その言説もまた、その罪に応じた断罪を受けなければならないのだ。 この映画のパンフレットからは、監督のインタビューが削除されている。衣裳や編集に至るまで、ほとんどスタッフインタビューで構成されているパンフレットで……そのインタビューの多くが、自身と監督との関わりについて語っているにもかかわらず……。 「グルムグンシュ」の《解読》も《排除》も、同じ思想の両面なのである。罪を犯した者の言説は、その《罪》をふくんでいるという思想。罪を犯すに至る何かをふくんでいるからこそ、その何かをさぐるために解読という作業が行なわれ、その同じ何かが社会に伝播することを防ぐために排除の作業が行なわれる。 一種の宗教行為といっていい。 解読であれ排除であれ、それが有意義的であるとする前提の妥当性が検証されないまま、そのドグマにのっとった行為が倫理的に正しいとされているからだ。ある思想のそうした無自覚な受容の仕方は「信仰」と呼ばれる姿勢にほかならない。 なんらかの信仰を持つこと自体は問題ではない。 ただ危機感を覚えるのは、《解読》というポジティブな作業よりも、《排除》というネガティブな作業のほうが加速しつつあるように見受けられることだ。 解読と排除が同じ思想の両面であるとして、より重要なのは《解読》のほうなのはいうまでもない。けど、つねに《排除》と表裏一体である以上、《解読》の重要性が叫ばれれば叫ばれるほど、《排除》の圧力も強化されていく。そして《解読》が何か成果をあげたとしても、それは《排除》を基礎づけるためのコジツケとしてなのではないかという疑念がぬぐいきれない。 「こういうことを言い出すヤツはアブナイ」というようなことが「分かった」としても、何の意味があるのか。社会から排除されるべきペルソナ・ノン・グラータのリストを、より充実させること以外に。 「罪を憎んで人を憎まず」が《解読》なら、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のが《排除》だ。ともに憎しみというネガティブな感情を出発点とするなら、ともにネガティブな結論に至るのは当然である。 (2006.02.21 一部改稿)
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