翻訳可能性(2)——ホワイトヘッドをめぐって(2) 

雑な訳で恐縮だが、前回の引用部は、約こんな意味なんじゃないかと思う。

ある現実的な事象(「下地」と呼ぶ)が、いかにして創造過程をもたらしうるか考察せよ。
変わりばえのしない事象に新しさが加わるというのは、現実世界に、一連の新しい概念形式が見いだされることである。時の推移という言葉の意味は、世界において概念が刷新されることなのだ。
ある大哲学者は、時間とは空間の記憶だと言っている。
一つの実体験の中核が一つ新しく生まれることに注目して、概念形式がこうして新しくなることを、「結果」と呼ぼう。
よって、私たちがいま考察しているのは、先行する出来事がもたらす特定の下地と、結果との間の、特定の関係性である。
(暫定的な試訳)

難しげだが、意味がくみ取れないこともない。
なぜ意味がくみとれるかというと、私が原文を読んで勝手に意味を解釈し、それを日本語で表現したからだ。
そうした行為を《翻訳》と呼ぶ。 

齋藤訳が誤訳だとか、原文を読んだ自分はエラいとか言いたいのではない。
《翻訳》は可能なのだろうか? という昔年のギモンを改めて抱いてしまったのだ。

前回あげた原文を読めば見て取れるとおり、言い回しにクセがあるのは確かだし、言葉ひとつひとつに著者特有の定義があり、そっくり日本語に移し替えるのは無理な相談に思える。
もしもホワイトヘッドの言いたい内容を忠実に伝えようとするなら、「center of experience」しかり、そのままでは日本語に移し替えられない概念を、まるっきり別の言い回しに置き換えていかなければならない。すると、それはしだいに《翻訳》というよりも、訳者の独自解釈による《解説》に近いものになっていかざるをえない。

日本語として意味を通じさせるためには、訳者の解釈を避けては通れない。しかしそれはあくまでも訳者個人の受け取り方にすぎない。原著者ホワイトヘッドの主張とはかならず一定のズレが生じる。そのズレは、もちろん英語と日本語という言語のちがいにも依るけれど、それ以上にホワイトヘッド個人と訳者個人の、思想やセンスのちがいにもよっている。訳者が10人いれば10通りの解釈があり、10通りの《ホワイトヘッド》が生まれるわけである。
斎藤訳は、たしかに日本語としてはチンプンカンプンだと思う。英語解釈上の問題もあると思う。けど私の試訳だって、日本語として多少もっともらしく見えたとしても、原文の意図との距離は、斎藤訳と同じか、それ以上に離れている。この訳を読んだ読者が、「ホワイトヘッドの考えがわかった」とか言えるようなものではない。
そうであるなら、一見もっともらしい日本語として読めてしまうような訳文よりも、「なんだそりゃ?」と首をかしげさせて原文にあたらせる斎藤訳のほうが、はるかに「ホワイトヘッドの思想を日本人に紹介する」という目的に対する達成度が高いといえる。現に私も(一部とはいえ)原文にあたる気になったのだから。


原文にあたる
これを初めてやったのは、たしか高校生のころ『ライ麦畑でつかまえて』に大感動しつつ訳文に納得がいかなくて、丸善でペーパーバックを買ったとき。一文一文、比較しながら読んでわかったことは、当たり前だけど自分なんかより、訳者のほうが圧倒的に英語の読解力があるということだ。学校のテストだったら100点満点の和訳なのだ。
生意気なガキである自分が、いったい何に不満を持ってたのかというと、結局それは「訳者の文体」に他ならなかった。私はサリンジャーの原文を読んでから「この訳文はないだろう」と思ったわけじゃない。訳文を読んで、その生硬さに違和感を覚えただけで、原文も生硬である可能性だってあった。そして当時の(今も)英語力では、原文が生硬なのかどうかの判別がつくわけもない。
つまり、日本語としてこなれた訳文でありさえすれば満足していた。原文にあたろうなんて気を起こすこともなかったはずだ。逐語的な意味としては原文とまるっきり異なる文章になったとしても(=テストなら0点をとるような訳でも)、むしろ日本語のテキストとして成立することを自分は望んでいたわけである。

だったら、《翻訳》って何だ?


ということを、長々と考えて今に至る。
# あらぬ形で注目されそうなのでブログ論はお休みし、こっちの話をしばらくつづける。 

日 - 10 月 16, 2005 at 02:46 []