宇宙戦争 

柄にもなくレビュー風。

『宇宙戦争』で、スピルバーグは「東京大空襲」か「ヒロシマ」を描こうとしている。
私が日本人だからそう感じるのかもしれないが、だとしてもスピルバーグの意識的な誘導だ。 


スピルバーグという人は、誤解されてる。
もっといえば、不当に低く評価されている気がしてならない。

彼は娯楽作品とジミ系の映画を交互にやるから、「こっちは娯楽モード」とか、決めつけられがちだけども、そんな区別なんかホントはない。
「いかにも娯楽」な映画をつくれる彼が、その同じ才能で、「いかにも文芸のかほり」な演出もしたりしてるだけの話だ。
スピルバーグ作品は、どれもこれも、個人が単身「世界」という名の理不尽なシステムと対峙をよぎなくされる物語である。表現者としての彼のテーマなのか、それとも本人的にも無意識のうちに、そういう題材ばかり選んでしまってるのかはわからない。
手を替え品を替えて、同じ旋律の変奏曲を奏でつづけている。

一級の職人監督、もしくはエンターテイナーとしてのスピルバーグは、それを娯楽性に昇華しうる能力値をいかんなく発揮する。『宇宙戦争』も、トテチトテー♪ なつくりでアメリカンな観客に迎合する。
けど、職人監督でもエンターテイナーでもないスピルバーグは、この映画で、東京大空襲やヒロシマの体験をアメリカ人にも与えようとしている。


この作品に多用されてるメタファは、「目」である。

この映画は目で始まり、目で終わる。
視点の対比。神の視点と、人間(とくにダコタ・ファニング)の視点。

宇宙人のウォー・マシンも、目のオバケとしてデザインされてる(1953年版をちょっと彷彿とさせるが、オマージュじゃなく、むしろ53年版に触発されてのアイデアなのだと思う)。けど、スピルバーグが描きたいのは「宇宙人の目」じゃない。目のオバケそのものズバリ(触手の先に目がついてる)まで出てくるのに、そいつの主観映像(「見た目」)は極力避けている。宇宙人はあくまでも客観として描かれる。
スピルバーグが描こうとしているのは、人間の視点であり、その対比としての神の視点なのである。

トム・クルーズがダコタ・ファニングに目隠しをするシーンが何回かあるが……。

……。
とか書いてくとホントに映画評になってしまうのでやめ。


ただ。
アメリカ人はスピルバーグのサービス精神に乗せられて、イケイケドンドン映画として見てもいい。けど、この映画の真意を酌んでやるべき観客が世界のどこかにいるとしたら、それは日本人だろうなーという気もするのだ。 

金 - 7 月 8, 2005 at 03:47 []