羊飼いのスケジュール帳 

某社員作家(?)から聞いた話。

世界を旅する彼女は、大草原で羊を放牧している羊飼いを見て、うらやましかったという。
スケジュールに追われることもなく、ただのんびりと、羊の相手さえしてればいい暮らし。
こんなふうに生きられたら、どんなに楽だろう、と思ったそうだ。

だが彼女は、「そうじゃない!」と気づいた。

楽なわけがない。羊飼いは、この草原で、来る日も来る日も、羊の相手をしなければならない。スケジュール帳を持つ意味もないほど、彼のスケジュールはびっしり埋まっている。ホワイトボードに行き先を書く必要もないほど、行くべき場所が決まっている。
自分よりも彼のほうが、はるかに忙しい「仕事人間」なのだと。 


なるほど……。
この例を借りると、最近痛切に感じてることを言語化しやすいかもしれないな。


いまさら思うに、「忙しい」というのはクセモノだなと。
電話がバンバンかかってきたり、人がわんさと押し寄せたり、会議から会議へ渡り鳥したり。
誰の目にも「忙しそう」って映るし、自分も「オレって忙しいヤツ!」とか思える。

自他ともにわかりやすくてよろしいが、忙しいかどうかは仕事の目的と関係ない。

羊飼いがのんびりして見えるのは、仕事の目的を達成するためだ。
狼が出るとか羊が病気にかかるとか、非常事態が発生したら、彼だって大わらわになるだろうし、そのための対策も事前に講じないといけない。やれ出産だ、毛の刈り取りだとめまぐるしい時期もあるだろう。
けど目下のところ、無事に羊たちを健康に発育させることが、現在の作業目的なのである。
そうである以上、のんびりするのは彼の義務だ。意味もなく忙しそうだったら、羊たちもパニックになってしまい、彼の目標は達成されないのだから。


羊飼いの場合、仕事の目的そのものが「羊」という具体的な対象物として目の前にいてくれるから、彼はカン違いに陥ったりせずに済む。ミッションを確実に遂行できる。
それとちがって、目の前に羊のいない仕事はわかりにくい。目的が具象的でないと、わたしたちは、手や身体を動かしたり喋ったりといった、身体的活動自体に意義を求めてしまいがちになる。みずからの身体という具象物を「羊」に見立ててしまう。


一日「忙しく」してると、あたかも何かをなしとげたかのような達成感に満たされる。あたかも自分が、立派な仕事人間であるかのような錯覚に見舞われる。
でも、それはスポーツマンとしての達成感であり、スポーツマンとしての立派さにすぎない。


身体的運動そのものを目的とする人間の行為をスポーツという。
「仕事」とは呼ばない。
仕事をスポーツ化して楽しむことも大切だろう。けど、それはモチベーションをかきたてるコツとしてだ。仕事のスタートラインではあるかもしれないが、けっしてゴールではない。


わたしたちは、やはり羊飼いをうらやむべきなのだ。
目の前に「羊」がいない仕事では、つねに自分にとっての羊は何かを自問し、本当にそれが羊かどうかを検証しつづけなければ、たちまちスポーツもどきに陥りかねない。
わたしたちは皆、牧草地で草をはむ羊をのんびり見守る羊飼いを目指さなければならない。「羊」も「牧草地」も、目には見えないとしても。 

金 - 7 月 1, 2005 at 00:02 []