情報の共有 (10) ──パスティッシュの是非 (2) 

「じっちゃんの名にかけて!」

と少年が誓うために、必要な条件は何か? 

少年が、いくら「じっちゃん」を持ち出したって、その祖父を知らない人には、誓いの重さはわからない。
また、祖父を辱めるような孫であったら、その誓いは意味をなさない。

つまり、少年が誓えるためには、

(1) 読者や観客が、その祖父を知っていること。
(2) 孫が、祖父の名声を傷つけないこと。

という2つの条件が必要になる。

偉大な祖父の孫というのは、総じてスケベに育つらしく、「不二子ちゃ〜ん」と鼻の下を伸ばしたり、童貞を捨てることで頭がいっぱいだったりする。その一方で孫たちは、受け継いだ名前の重さにふさわしい誇り高さを持ち合わせてもいるし、祖父への揺るぎない尊敬を抱いてもいる。

『ルパン三世』や『金田一少年の事件簿』が、アルセーヌ・ルパンや金田一耕助といった先行作品を「利用」しているのは歴然たる事実だけれども、ストーリーや絵柄、キャラクター造型といった内容面では、ルブランや横溝正史からの借り物はゼロにひとしい。「ルパン」「金田一」の名を借りなくても、十分成立するだけのオリジナリティがある。
ただひとつ借りたのは、《スマートな怪盗紳士》や《隔絶された環境の難事件を解決する名探偵》といったブランドイメージ。

「ルパン」や「金田一」でなくても、お話は成立するけれど、ブランドを借りることで、より面白くなったわけだ。
言い換えれば、作品の送り手と受け手との間で、「ルパン」や「金田一」といった《文化》が共有されてるということ。その《文化》こそが、「面白さ」の源泉なのだ。

同じく先行作品を利用した少年探偵ものでは、少年ホームズの活躍を描いた『ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎』(1985)も有名だ。
しかし、この映画は、受け手が持っているホームズ像を破壊する。
シャーロキアンは『ヤング・シャーロック』を楽しめないし、この映画の少年ホームズが気に入った観客は、成長後のホームズを好まないだろう。『金田一少年』が金田一耕助像を損なわず、逆に、このコミックの影響で横溝正史作品がふたたび注目を浴びたりしたのとは対照的だ。
独立した映画としての『ヤング・シャーロック』自体の評価はともかく、この映画を観ることで、シャーロック・ホームズという古典を楽しむ機会が奪われてしまうとすれば、その存在は、文化に対する呪いとしか言いようがない。

孫か本人かは関係ない。原作・原キャラクターを尊重するかどうかの違いだ。
利用する先行作品を尊重せず、ただ利用するのでは、文化を破壊する行為にしかならない。

(第3項につづく) 

日 - 8 月 22, 2004 at 16:03 []