Winny 開発者逮捕 (2) 

ワンソース・マルチユースの罠 


(2) ワンソース・マルチユースの罠


けれども、「現状がこうである」ことと、それが正しいかどうかは別問題だ。
ワンソース・マルチユースというビジネスモデルのネックを、1つだけあげる。



《ワンソース・マルチユース》モデルのミソは、1つのコンテンツをめぐる経済現象を、ソースとユースという「支出と収入」に切り分けたところにある。
ワンソース・マルチユース=「1つの支出・複数の収入」ということだ。
ビジネスにおいては、支出よりも収入のほうが大事だ。支出ばっかりしているソース(コンテンツメーカー)部門と、収益を上げてばかりいるユース(コンテンツホルダ)部門とでは、どちらの発言力が強まるかはいうまでもない。

「ソース」から、それがもたらす経済的価値を「ユース」と呼んで切り離したのだから、経済現象としては、ソースには支出しか残されていない。
ソース自体の価値は、ソロバンに乗っからない。

ローリスク・ハイリターンを追求するのがビジネスの原則であるから、制作コストというリスクは、最小限まで切りつめられなければならない。
このモデルが成功すればするほど、「リスク」を担うソース側は圧迫され、「リターン」を担うユース側が肥え太るという二極分化が拡大する。

こうして、出資者としてのユース側が、ビジネス上の決定権を掌握する。
コンテンツの作品的価値なんてものは、できあがってみなければ評価しようがないけれども、評価しようがなければ出資しようもない。
ここでコンテンツに求められるのは、計算可能性である。
早い話が、定評あるスタッフ・定評あるキャスト・定評あるネタによる「こういう作品」と、定量的に予測できるようなソースでなければ、ユース側のGOサインは出ない。

極論すれば、このビジネスモデルのもたらすのは、決まりきった作品が、低いコストで制作される状況でしかない。



もっと深刻な問題も多々あるが、立場上省略する。
広くいえるのは、「ワンソース」といいながら、その価値を否定してはばからない逆転現象が起こっていることだ。
しかし、コンテンツの価値を軽視しがちなのは、生き馬の目を抜く企業ばかりではない。


テレビの公共性と、CMのマス・メリットは、対称的なものではないにもかかわらず、視聴率という指標を持ち込むことで、その非対称性をオブラートにくるむという、一種の詐術によって無料放送が維持されてきた。
これが、ある意味でうまく行きすぎたため、「放送」と「番組」までが対称に見えてしまっている。

視聴者や評論家は、個々の番組に対して「良質な作品」「低俗番組」といった評価をくだしたりする。
それが、まっとうで健全な番組評価なのだと思われている。
そんな中で、なるべく良質な番組を提供しようとするのは、コンテンツメーカーとしての良心ではあるだろう。私も一応、そのはしくれとして、一翼を担っているつもりではいる。
しかし、そうして個々の番組を、放送上のコンテクストから切り離し、「コンテンツ」という独立した作品として評価することが当為なのであれば、次のような三段論法が成立してしまう。

  1. 放送は無料で当然だ。
  2. 個々の番組を、独立した作品として評価して当然だ。
  3. 評価されうるコンテンツが、無料で提供されて当然だ。

だが、そんなのは、幻想にすぎない。
いろいろな収益構造が模索されるなかで、現在のようなコンテンツビジネスの形もあるのだが、そもそも前提からして幻想にすぎないのだから。

そうして、テレビ番組を「コンテンツ」化するのを助長しているのが、《ワンソース・マルチユース》モデルの無視しがたい弊害のひとつなのである。


私自身、「コンテンツ」なんて気軽に口走ってしまっているけれど、これは本来、テレビ番組制作者サイドが口にしていい言葉ではない。
放送が、「コンテンツを流すための器」であってはならないからだ。

テレビ放送が、コンテンツの一次流通メディアとして注目されるのは、その圧倒的なスケールメリットによる。
全国ネットで、世帯視聴率が1%しかとれない番組は、たとえ深夜枠であろうと「失敗」の烙印を押されてしまうかもしれない。けれども、一口に「1%」といっても、これはおよそ100万人規模にも相当する(視聴率は人数には換算できないので、あくまで推計)。
書籍やCDなら、100万部も売れたら超大ヒットだろうが、ミリオンセラーですら失敗として切り捨てられてしまうほどのスケールで動いているのが、テレビメディアなのである。
だからこそ、その公共性や社会的影響力を、揺るがせにすることは許されない。

ある番組が、DVD セールスを当て込んで制作されるとしよう。
宮崎駿や宇多田ヒカルは例外として、DVD や CD は、万のオーダーに乗れば大ヒットという世界であるらしい。
DVD を1万枚売るには、100万人の浮動票を漠然と狙うより、まず、1万人の固定票の趣味嗜好にアピールしなければならない。
しかし、特定の1万人(視聴率換算では0%)に向けて制作される番組に、公共性があるといえるだろうか?

「公共性がない」と批判することはできる。
けれども、批判したからといって、番組コストをどうやって補填するかという問題は解決しない。
コンテンツは、ただではつくれない。

そうした状況が生まれるのは、無料放送の基盤自体がおびやかされているからだとすれば、その利益を享受しているはずのユーザ側に「コンテンツは無料」という意識が蔓延する一方なのは、ちょっと無自覚にすぎる……と思うのは、コンテンツメーカー側の勝手な言い分だろうか。

放送は無料で当然。
番組はビデオに録画して当然。
DVD はリップして当然。
ネットワークに放流して当然。

そうしたユーザ意識が、当然の時代認識なのだとしたら、コンテンツビジネスに関与している人間にも、同じ意識が共有されていても無理はない。
コンテンツを無料で享受するユーザが蔓延するのと、その制作コストをゼロに見積もりたがるビジネスが蔓延するのは、根っこは同じ気がする。

双方に共通するのは、「コンテンツ固有の価値」に対する無頓着にほかならない。


著作権法の不備や、著作物の流通における集金・課金システムの未整備を指摘する向きもある。
けれども……。

というわけで、次回はようやく通信技術の話。
 

火 - 5 月 18, 2004 at 11:16 []