これはバクロ話(笑)かな?
『恐竜戦隊ジュウレンジャー』第11話。いまをときめく渡辺勝也監督の、公式デビュー作でもある。
ペーペー時代の私(いまもペーペーですが)も隅っこで参加していた。
脚本打合せの席上、メインライター・杉村升氏が乗り込んできて、いきなりちゃぶ台をひっくり返した。
ミノタウロスやスフィンクスみたいな、伝説/神話上の怪物をかたどった怪人が、『ジュウレンジャー』の敵という設定。
今回の敵はジン──『アラジンの魔法のランプ』に出てくるランプの精。
わたしたちは、「魔法のランプで、なんでも望みをかなえ、子供たちの欲望をかぎりなくかきたてる敵」というストーリーを進めていた。
そこに「待った」をかけた杉村さん、一喝していわく、
「ランプの精は、子供たちにとって夢だろう。それを悪者にして、子供の夢を壊すのか? それが、子供番組をつくる者の姿勢か!」
こんなケンカ腰じゃないけど、主旨はこう。
まさに《つうこんのいちげき》。
『ジュウレンジャー』では、ホントにいろいろ教わったが、中でもこれは最大級のひとつ。子供番組の担い手の姿勢ってだけでなく、もっと広い教訓として……。
『アラジンの魔法のランプ』の著作権は切れてるので、どう利用しても勝手。もちろんジュウレンジャーと戦わせるのも勝手。
けど、それは《ランプの精》が《共有財産》だからこそ。
財産価値を失わしめる形で利用してしまったら、それは《財産》ではなくなってしまう。
そうした財産のことを《文化》というのだが、その恩恵をこうむる者には、その財産価値を守らなければならない社会的責任がある。
「セックスあり、ドラッグあり」のミッキーを世に送り出せないような、共有財産であるべき文化財を自由に利用できない状態は著作権保護の弊害だとか説く人たちの主張が、空疎にしか聞こえないのは、それは本来的に「著作権」の問題じゃないからだ。
推理小説の犯人を言いふらす自由や、「サンタなんかいないよ」と子どもたちにバラして回る自由は、だれも持っていない。
法律が規制するからじゃない。「文化を自由に利用する権利」など、本来だれにもないのである。
映画『フルメタル・ジャケット』(1987)のラスト、ミッキー・マウス・マーチを歌いながら行進する兵士たち。痛烈なスパイスのきいたシーンだが、「ミッキーはいい子ちゃんの代表」というイメージが観客との間で共有されてないと、キューブリック監督の風刺は意味をなさない。アイロニーでもパロディでも、原イメージが守られていなければ、文化は機能しない。
小学生のころだったか、音楽の授業で、教師がレコードをかけた。
「ジャジャジャジャーン!」
曲が流れ出したとたん、教室中は爆笑のうず。
わたしたちには、その『運命』という曲は、もはやギャグシーンに使用されるギャグ音楽にしか聞こえなかった。『運命』を、その曲自体として鑑賞するチャンスは、すくなくともわたしには永遠に訪れない。
(第4項につづく───もしかしたら『ヴァン・ヘルシング』を観てから)