情報の共有 (4) ──極論のレトリック 

池田信夫とレッシグのワザ 


残念ながら、黒沢も溝口も小津もこの世にないから、彼らの創作意欲がこれによって高まることはありえない。では、今後はどうだろうか。50年後に生きている作家は少ないし、映画会社やゲーム会社は存在するかどうかも疑わしい。延長の効果は、せいぜい権利を相続した孫の小遣いが増えるぐらいだろうが、文化庁はこれが競争力を高めると本気で信じているのだろうか。

ミッキーと著作権については、あらためて語るとして、《極論》の一例としてこのコラムをとりあげます。

このコラムの内容には立ち入りません。
黒澤映画の著作権について論じるのに、少しでも真剣な気持ちがあるなら、その当人の名前を誤記するなんてありえない(これだけ短いコラムに、固有名詞の誤記が他にも2件)。
また、著作権について少しでも知識があれば、「使用」と「利用」の区別くらいできるはず(上の引用でも、「権利を相続」とかいってますね…)。
映画についても著作権についても、議論をするための土俵にすらあがっていません。

内容はさておき、上記引用部分のレトリックを検討してみましょう。


映画作家ってだれ?


ここでは、亡くなった監督はハッスルしないから、もう著作権は必要ないと論じています。

しかし、監督ひとりで映画はつくれないし、ロードショーもできない。ハッスル論=著作権インセンティブ論は、そのままでは映画には通用しません。
でも、どーしても監督個人のハッスル問題に集約させないと、池田の論は通らなくなってしまいます。

そのジレンマを突破するために、ここで池田が使ったレトリック(4つ)のうち、いちばん効果的なのは、「作家」という言葉でしょう。

フツーに「50年後に生きている監督は少ない」といわれたら、「映画は、監督ひとりがつくるものじゃないだろ?」と、誰だって気になります。脚本家や作曲家・カメラマン・出演者をはじめ、おおぜいの力を合わせないと、つくれないのは常識。
けれど、「50年後に生きている作家は少ない」と聞かされれば、なるほど〜! と思える。

「監督」について話してたのに、途中で「作家」に言葉をすりかえる。
一種のトリックです。
でも、このトリックは、池田の発明ではありません。

元ネタはこれでしょう。↓

著作権期間が変わっても、作者が現在作品を作るインセンティブは変わらない。自分の遺産管理人がいまから四分の三世紀後にお金を受け取るかどうかで本を書くかどうか決める作家はいない。映画作家についても同じことがいえる。ハリウッドのスタジオは、収益予想をするときほんの数年先までしか見ない。九五年先の収益などだれも見ていない。
ローレンス・レッシグ 2001、山形浩生・訳『コモンズ』(翔泳社)2002、p382(強調引用者)

ここにも、「映画作家」という、聞きなれない言葉が出てきました。

レッシグは本の話をし、「同じこと」といって、映画に話をすりかえます。
論理の飛躍をつないでいるのが、本を書く「作家」と、映画をつくる「映画作家」という、似た言葉の連鎖。

映画監督や映像作家は聞きますが、「映画作家」とは、耳なじみのない言葉です。
映画作家って、だれのこと?


producer という author


原文を見てみましょう。

A change in the copyright term would have no effect on the incentives for authors to produce work today. There is no author who deciedes whether or not to write a book depending upon whether he or his estate will receive money three-quarters of a century from now. The same with a film producer: Hollywood studios forecast revenues a few years into the future, not ninety-five.
Lessig, Lawrence, The Future of Ideas -- First Vintage Books Ed., Vintage Books, 2002.(強調引用者)

producer は、「製作者」や「プロデューサー」と訳すのがフツー。
その定訳を捨てて、わざわざ「映画作家」という不自然な訳語を当てているわけです。

また、author を「作家」と訳すのもおかしい。
法学者レッシグが法律について語る文脈で、「author」「film producer」と法律用語を使ったら、「著作者」「映画製作者」と訳すのがスジ。
そうしないで、同じ「author」を「作者」→「作家」と訳しかえたりして、「映画作家」という不自然な言葉が、なるべく自然に聞こえるように誘導しているのが山形訳。

「ストレートに訳したのでは、論が通らない」と、判断したのでしょうか。そういえば後段にも、原文にない「だれも見ていない」が足されて、より論旨が補強されていますね。

しかし山形訳は、単語レベルではともかく、全体としては原文に忠実。
というのは、もともとレッシグが、トリックを使ってるから。「for authors to produce work」(著作者が著作物を生産するための)というフレーズがそれです。

映画製作者も法律上は author(著者)なので、それを利用して本の話をする。でも、それだけでは読者も本=映画とはみなしてくれない。
そこで「produce」という言葉を、あらかじめ「author」と結びつけておくことで、「film producer」も本の著者と同じ、という印象をかもしだしているわけです。

けど、それは英語でしか通用しないトリック。似た効果を発揮するトリックを、日本語で工夫したのが山形訳だといえます。


3人がかりのトリック


その訳文をパラフレーズして、監督を「作家」と言い換えたのが上記の池田。
レッシグ→山形→池田と、三人がかりで編み出したのが、プロデューサーや監督を「作家」と言い換える論法、といえます。

そうしたトリックをほどこさなければならないのは、たぶん、映画(やテレビ)には出版モデルのような、単純なインセンティブ論が通用しないから。

「映画作家」に、やる気があろうがなかろうが、撮影所やテレビ局といった製作母体が維持されていなければ、だれにも映像作品なんかつくれません。ストレートに映画の話をしようとすると、映画会社や興行網や、ひいては映画ビジネス全体の活性化について論じるハメになり、《著作権保護強化ハンタイ!》という主張とズレてしまう。
そこで、著者個人の意欲にかかっている「本」の話に差し戻したり、監督ひとりに集約するなどして、話題をすりかえないといけない。

でも、主張自体はどうあれ、トリッキーな論法で読者をたぶらかすのは、公正とはいえないのではないでしょうか。
著作権問題って、「何が公正か」を論じる文脈なのでわ?
 

日 - 7 月 4, 2004 at 00:23 []