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2009.0413をもちまして、 下記のアドレスにサイト移転しました。 http://web.mac.com/cleanh
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2009.0112-2009.0312(3761)
自分史 高校時代
入学した時に、売店で購入した コンパクトな漢字辞書を もっている。 「角川 新字源」だ。 漢文の授業は、1年の時、めがね かけたまじめ男先生、2年の時は、 非常勤講師の若い男先生。 どちらの先生の授業も残念ながら 消化不良。 だが、漢詩という文があり、 試験もあり、それを解く方法 があることだけはわかった。 当時の不勉強を物語るように、 新字源を開くと書き込みもなく、 きれい。においをかいでみると、 新品だった時のにおいがまだ におってた。 「使ってないから、保存状態がいい」 ネットで調べてみると、プロの 文章屋さんや、中国詩専攻の 学者さんにとって重宝する辞書で あったらしい。なんか特徴のある 辞書みたい。 今では、漢字の筆順や 字の成り立ちを調べたりするのに たまーに利用する。 例えば、「飛」の書順や 「福」の意味を知りたいときに。 「福」とは、神からさげわたされる めでたい酒、ひいて「さいわい」。 角川 新字源 123版。P.725
2008.1226-2009.0111(3674)
自分史 高校時代
2年生になると、1ヶ月ほど連続して 学校を休む。家で昼メロをみてた。
登校拒否。自律神経失調症。 午後、1時頃学校に行くことも。そっと教室の 入り口からはいる私。みんな、くすくす、 笑ってた。(こんな風なめだちかたもある) 野球部の人と話すようになり 彼は私の家に遊びにきてくれた。 当時、ヤマハのフォークギターをもっていた。 割と高価なもの(4、5万)だった。 野球部の彼はギターをもって「これ弾けるように なったら女にもてるのに」とかなんとか言ってた。 私はギターは駄目で,中学の時、ヘイジュード、 アンドアイラブハーなどをベース演奏しただけ。 バカ話ができる相手がクラスにできてから 登校拒否、直る。
3年 家庭教師に大学生がきてくれた。 「英語は単語をおぼえよう」と、彼は 連想記憶術の本をくれた。
psychology=サイコロジーと見る”心理”
この記憶術と森先生のでる単は今でも 持っている。一昨日、引っ張りだしてみると 1279個もおぼえないといけないんだ。 おぼえる事ができない、、、心残り、、、。 暗記はだめかあ。 それならば、MS-DOSのEDLINという 付属エディタで古エプソンPCに打ち込んでみた。 このパソコンもかれこれ15年選手。 保存先はフロッピ1枚で十分。 273個まで打ち込んだ。こんな事をしてみよう と書いている本があったので、こんな事を している、今のわたしなのでしたあ。その本は、 「16ビットパソコンを使いこなす」 脇英世 著、講談社現代新書 1986年 大学生にもらった記憶術の本は 「英単語連想記憶術」 武藤騤雄 著 青春出版社 1974年 高校3年にもどる。 ARBのワイルド・ローティーン・ガール、 キンクスのユー・リアリ・ガット・ミー、 ローリング・ストーンズの ジャンピング・ジャック・フラッシュ、 を文化祭でベース担当。へただったけど、楽しかった。 めだつと、楽しい。
2008.1122-1225(3651)
自分史 高校時代
昼休みは、おとなしいタイプの 男2人と食べていた。売店へ、モーモーパン。
このモーモーパン(ミルクパン)とラスク、それと ドーナツにチョコレート味がついたパン、 マンハッタンは人気だったと思う。
「おばちゃん、モーモーパン!」と叫ぶ、 女子バレー部の人がいた。元気いいねえ。
食堂では、やきそばとめしという取り合わせ も人気だった。 元気のいい連中と仲良くなりたいと思っていた。 元気のいい→勉強あまりせん→運動部所属→おもろい
修学旅行で、そんな一人と話ができるようになった。 そこから、いろんな連中を知って、中学時代の喧嘩列伝 も知った。おとなしいやつほど、格闘技が好き。 喧嘩話は興味津々で聞いていた当時の私。
14年前、田舎の同級酒席で、当時の喧嘩列伝をあーだ、 こーだと話していると、他高校出身の人から 「自分がみてもないのに、語るな」と。 私の列伝には、彼の名前も入っていたので、 すぐに、「すみませんでした」と謝った。
高校の帰りに、やきそばの上に目玉焼きがのったのを よく食べてた。そんな学校の帰り道、「語るな」 と私を制した高校時代の彼をみかけたものだ。 彼はスクーターを2人のりして、僕らの眼前を 乗り回していた、金髪の人だった。(当時、金髪は めずらしかった)。私の高校のチョイワルたちは、金髪の人を みて、小さくなっていたものだ。
昔の面々も厳しく接してくれた方ほどよくおぼえているし、 その人たちのおかげで、 今日まで、生きてこれているのだなあ。
2008.1012-1121(3598)
自分史 高校時代
高校の3年間は充実していなかったようで、 よくよく考えると、転機でもあったのだ。
毎日毎日、だらだら過し、1年生の終わり頃になると 親父から「中学ときのおまえは、どこにいったんかあ!」 と、まじめだったころの私と比べるのだった。
深夜、テレビをつけて無名のボクシングの試合 をみたのをおぼえている。 「本物のボクサーの1ラウンドのパンチは見えんね。」
2年、5月頃、卓球部をやめた。 夏の合宿がきつすぎるのと、卓球部の仲間にバカにされたり するんで、つきあうのがいやになったのだろう。 表向きの理由は、「学習の遅れをとりもどす為」だった。
異様に外見を気にするようになり、ポパイでグッズの確認など行う。 東京の姉にコンバースのスニーカーを買って送ってもらう。 FMラジオやレコードをきく毎日。ELO。YMOの福岡公演、デイブ・グルーシン (ジャズ系ミュージシャン)のコンサートやってた。 YMO=テクノカット。コンサートは一人で行くことが多くて 回りの刈り上げ頭の人々の中、少し寂しい。 フォリナー、なんてバンドもあった。
なーんもすることがない、、、。 ある日、テレビを見ていると、榊原郁恵さんが歌っていて 一目惚れ。高校3年の3月、受験で東京にいったとき、郁恵さんの家 を訪ねたりした。ストーカーじゃん。ピンポーンをならしたか どうかは定かではない。
「郁恵さん、今行くよー」、神奈川県の厚木市まで電車でゴー。歩き、バス、歩き・・・。 家のみならず、幼稚園、小学校、中学校、高校と郁恵学歴めぐり。 確か、高校は厚木東高校だったと思う。一通り回り終えて、 郁恵家近所の通りがかり人に、「榊原郁恵の出身地でしたよね」、と 尋ねてみる。「ああ。この町からスターがでた。一時はみんな騒いでた」と その人。間違いではなかった。
姉の東京下宿に夕方帰ると、「あんた、時間の無駄や。バカや」 『これで、郁恵ちゃんとお別れなんや』→心の声。何ヶ月か前に、 郁恵狂いは意味がないので、明星や平凡の、写真プロマイドを全部 焼き捨てていたんだ。でも家巡りだけはなんとなくしてみたかった。 やっぱり、アホやね。 東京の私立大学の定時制を受験したのだが失敗。 中部地方の私大も落ちていたので、これで浪人確定。
実は、2年の終わり頃、加藤諦三という人の人生論に感銘し、 勉強、スポーツ、商売ができるだけが、人生じゃないと、 「愛」大事なんやと、敗者にやさしい「愛」にめざめた。価値観のコペルニクス的転回。 『なんや、気取って生きる事ないじゃん』と。肩の荷が下りた。
勉強も少しはするようになって、親の言う事も聞くようになってきた。 三浦綾子「岩に立つ」という小説を読む。
3年のときに、男女混合クラスになる。好きな女子ができて 告白するも、「わからん、・・・。私、気になる他の男子がおるけ」と。 この後もしつこく言い寄ったが、回りの他女子が小声で「しつこいね」と。
夏の高校野球甲子園の時期。中学校の同級生がテレビにでていた。 レギュラーで、出場がきまったらしい。
「試験にでる英単語」を手に、あいつは野球か、ぼくは勉強、、、、? とりあえず、勉強しかなかった。
2008.0921-1011(3514)
自分史 高校時代
高校入学後、7月頃かなあ、数学の授業で 黒板に問題の答えを書く、というのがあった。 40代の男先生は、口厳しい方だった。 わたしの答えをみて、「こんなおかしいこと 書いたやつは、問題だね」と。 もう、数学はわからなくなっていた。 9月頃か。全科目の成績は低空飛行をしていた。 母と相談して、「数学の塾に通う」ことになった。 ところが、はっ...
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