| ココリコ!奮闘記 |
フランスという国を象徴するモノにエッフェル塔、ベレー帽、細長フランスパン、ワインにチーズにエスカルゴ、ブルボン王朝の百合紋、トゥール・ デ・フランスといろいろある。シャネル、エルメス、ディオールなんてのもある。 今日ここでご紹介したいのは、雄鶏である。そう、「コケコッコー!」と啼いて夜明けを知らせるあの雄鶏くん。もちろん、「ココリコ!」とおフランス語で 啼く。今日ではスポーツウェアとして輸出されるほか、教会の塔のてっぺんで風の様子を見るのを生業としている。 アルプスを超えて征服に来たローマ人が、そこに住んでいたケルト人をガルス gallus と呼んだ。フランス語読みでゴロワ gaulois、タバコのゴロワーズと同じだ。ラテン語のガルスには「雄鶏」という意味もある。そこでガロ・ロマノ文化の象徴となり、軍旗やコインの意匠 にも使われていたという。その伝統が、今日のフランス第五共和国にまで受け継がれている。 これからお話しするのは、教会の塔のてっぺんで四天をうかがっているはずの雄鶏くんに何故か怒鳴られっぱなしだった、我が四人家族のフランス入門の記録 である。 |
| 目次 1. 「ムリです!」 2. 「ムリです!」今むかし 3. 「やってみましょう!」 4. 「娘を返して!」 5. 味方、現る! 6. ふたたび、「ムリです!」 7. ミィがしおれちゃう! 8. 「まだわからないの?」 9. メインストリーム 10. ふたたび、味方現る! 11. 「聞こえすぎます」 12. 「ママ、黙って!」 13. フランス革命の評価はまだ早い |
| 1 「ムリです!」 |
「聾の子どもに三か国語ですって? あなたたち、親としていったい何を考えてるの?」 電話口でいきなりこう怒鳴られた。フランスに引っ越してきて日も浅い三年前のある日。相手はもちろん会ったこともない耳鼻科の権威。パリならここ、と推 薦された小児科病院だ。 西洋人にはかなり単刀直入な物言いをする人がいる。しかも、フランス語などひと言もわからない私のために、あちら様はそれほどお得意でない英語でお話し くださっている。となれば、こういう「すごく」単刀直入な言い方もしかたがない。しかたがないのはわかっている。わかってはいるけど…でも、ねぇ、これっ てあんまりなご挨拶。ウェルカム・トゥ・フランスって空港に書いてあったのは、ありゃ観光客だけのためですか。 とにかくこの思い上がった親の頭を冷やしてやらなくちゃ、と言ったのかどうかはわからないが、電話線のむこうのL女医がフランス語でぶつぶつとつぶやく 声が聞こえる。そしてまた英語で、 「そんなこと、ムリです。聴覚障害のお子さんは何人も何人も診てきていますけれどね、そんな話は聞いたこともありません。」 開いた口が塞がらない!と目と口を丸く開いた顔が見えるようだ。声から察するに、多分、鼻梁が細くてこころもち尖っていて、血管が透けて見えるほど色 白。年齢は私くらいか。 「忠告しておきますよ。試してみるのはご勝手ですけれど。」 最後にこう言って、女史は口をつぐんだ。この時はまだ知らなかったことだが、こうやって自分の意見を強くぶつけた後で「もちろん、どのようにもご勝手 に」と最後の球を軽く投げ返し、そのままあっちを向いてしまう、というのはフランス人がよく使う〈凄み〉のトリックなのだ。 しかし、そんな小手先のトリックに怖じ気づくほどこちらもヤワではない。むこうが一歩退いたのをチャンスとばかり、肝心の用件に話を戻す。 「とにかくですね、娘を診ていただけないでしょうか。そちらは子どもへの人工内耳埋め込み手術を多く手がけていらっしゃると伺いましたので…。人工内耳は 五年前、スイスで手術を受けました。」 「もちろん私は医者ですから、診ることは診ます。けれど……、まあ、一度来院いただいてからゆっくりお話しすることにしましょう。」 「ほっ」と心の中でため息をついたものの、指定された診察日は六週間後。どうしてそんな気が遠くなるほど先なの? それじゃあ、娘の幼稚園が先に始まっ ちゃうじゃないの! 一瞬、血が頭に上る。ス〜、ハ〜。深呼吸一つしてやり過ごす。ここでじたばたしてもどうにもならないのは経験でわかっている。フランス国民の半分がバカ ンスで留守になる八月なんかに引っ越してくる方がバカなんス。気持ちは焦るが、しかたがない。せいぜい威厳を保とう。 「わかりました。ありがとうございます。あの、でも、もしも、もしもですね、その前にキャンセルでもありましたらお電話いただけると嬉しいのです が……。」 これは糸口なのだ。そう自分に言い聞かせた。たぶんかなり重要な糸口ではあるけれど、糸口のひとつでしかないことには変わりがない。癇癪を起こして力づ くで引っぱってしまってはほどけるものもほどけなくなる……。 どうしようもなくこんぐらがっていそうな糸は、まずじ〜っと見て、見当をつける。それからそっと引っぱってみる。少しほどけるか、かえって輪が締まって しまうか。どんな大当たりの糸口も、それを引っぱったらするすると全部解けるなんていうことは滅多にない。少しずつ。あっちを少し、こっちを少し、とほど いてみる。そうやっているうちに大勢が見えてくる。 新しい土地で生活を始めるのもそれに似ている。家を探す、銀行口座を開く、車を買う、保険をかける、学校を捜す、電話ガス水道電気の類いを申し込む、か かる医者を見つける・・・。それぞれ自分たちの欲しいモノやサービスを探し出して、質と値段を吟味して、手続きをして、という具合に、そのひとつひとつと にらめっこをしてほぐしていかなくては何も始まらない。リロケーションサービスなどといって外国に移り住む人間の手助けをしてくれる便利屋さんはいるが、 選択や決断を代行してくれるわけではない。インターネットで何だって見つけられる時代でも、肝心の接続までの数日の空白は避けられない。原始に戻り、毎日 役所やディーラーやイエローページを当たって、自分の足で少しずつ見当をつけていくしかない。 障害を持った子にもっとも望ましい環境を適えていこうとする努力も、基本的には同じことだ。 思った通りに行かないことの方が多い。ことばの壁は厚いし、国を挙げて外国人排斥運動をしているんじゃないかと勘ぐりたくなることもままある。癇癪を起 こしてその国の国民全員を呪うこともしばしばだ。でも結局の所、呪いながらも再びドアを叩きに行くことになる。かかっているのは自分たちの生活、となれ ば、イヤだと言って避けて通るわけにはいかないのだ。顔で笑って心で怒鳴る。疑りながらも視点を変えてみる。まさか!と思うことを試してみる……。するっ といく日もあるし、何日も一つの結び目に手こずることもある。 そして、ある日、ふと気がつくと、いつの間にか糸のあらましがほぐれて、「日常」が始まっている。 私の経験した限りでは、官僚国家プロイセンの伝統息づくドイツしかり。すべて値段も高いが質も高いスイスしかり。モノは悪いがサービスはいい(とも限ら ないが)アメリカ合衆国しかり。国によって、また、ことばを含めたこちらの前知識によっても違うが、この「気がつくと日常」という段階に辿り着くまでプラ スマイナス六ヶ月くらいか。 その後ももちろんいろいろと問題は起こる。でもその頃にはもう、アイガーの北壁と見えていたものが富士山の三号目くらいの傾斜であることに気づいてい る。解決の糸口を見つけたら、あとは体力なのだ。 しかしフランスは……。 耳鼻科医との電話の後、正直言って少なからずショックの余韻を感じていた。こりゃあ今までよりちょっと手強そうだ。フランスという糸のかたまりはくせ者 だ。やたらと繊細な絹糸でできてでもいそうで、遠目には美しい織物のように見え、いざほぐそうとする手にひっかかる。間違った糸を引けば玉ができてしま い、強く引きすぎれば切れてしまう。ほぐし方の手引きはというと、もちろん、フランス語で書かれているのみ……。 こうやって右も左もわからないまま、二週間後には娘の幼稚園が始まってしまうのだ。見知らぬ集団の中に娘をひとりぼっちで送り込まなければならない。耳 が不自由な上にフランス語を知らない子を援助のあてのない場所に連れて行くなんて、車椅子に乗った人を階段だらけの建物に一人残すくらい惨いことじゃない のか? 親として、何を考えているんだろう? まったく、怒鳴られたって文句の言えた義理じゃない。 でも弱気になっているヒマはない。娘を信じてやってみるんだ。 確かなことはひとつ。私もフランス語を学ばなくちゃ!ということだ。 私の荷は重いのだ。一日も早く、幼稚園の先生や教育委員会や聴覚障害児教育施設やらと対等に渡り合い、娘の必要と権利を主張できるようにならなくてはな らない。いかにも「開いた口が塞がらない!」とばかり驚いていた女医先生にもひと言申し上げなければならない。ムリそうに見えることもムリとは限らないこ とを、堂々と主張しなくてはならない! そう。ムリそうなことを始めから諦めていたら、今の娘は、ううん、今の私たちはないのだから。 目 次へ |
| 2 「ムリです!」今むかし |
パリ第一の小児科病院の医師を呆れさせたものは何か? 私たちは、フランスに住むのだから子どもたちにはフランス語を学ばせ、フランスの普通学校に通わせたいと思った。ごくあたり前のことだ。 ただ、上の娘は耳が不自由。それは確かだ。 上の娘、ミィは年長に進級するところだった。年長の一年は小学校への過渡期ということで、これまで住んだスイスでもアメリカでも、またご当地フランスで も重要視されている。まして一年生になる前にフランス語も覚えさせなくてはならない。もちろん、フランスはとても社会主義的な国で、移民の子であろうが障 害児であろうが子どもは等しく共和国の教育を受けることができる、というより、受けなくてはならない。問題は、その際に必要となるサポート体制を整えるこ とだ。我が家にとっては緊急課題だった。下の娘はまだ二歳半だったので後回し。 聴覚障害は今日、克服できる障害になった。克服できるといっても、ナシにしてしまうことではない。うまくサポートしてやれば、障害があってもかなり「フ ツウ」の暮らしができる、ということ。 そのサポート体制作りには、医療、補聴技術、それに教育の三本柱が欠かせない。それぞれの分野で糸口を見つけて、聞こえる子として社会にとけ込むために 協力してくれる専門家を捜し出すところから、新しい土地での私たちの生活は始まるのだ。 ところが、だ。協力どころかいきなり「ムリです! 何を考えてるの?」とのご挨拶。これでは身も蓋もあったもんじゃない。 もっとも、「ムリ」をめぐる押し問答は初めてではない。 ミィの重度聴覚障害がわかった時、ミィは一歳と二ヶ月。私たちはドイツ語圏スイス、チューリヒの近くに住んでいた。 診断のショックは、あえてひと言でいうなら「喪失感」だった。腕の中に抱いていた子が、急に遠くへ連れ去られてしまった。かけていた声が、厚い防音ガラ スに跳ね返されて届いていなかった。この子は目の前にいるのにとてもとても遠い……。その宇宙的に巨大な喪失感のまっただ中で、私たちはミィのことばにつ いての決断を迫られていた。 同じ月齢の聞こえる赤ちゃんはすでにことばを理解し始め、二言三言自分で言えるようにもなってきている。世の中のいろいろなことを、音を、声をとおして 理解するようになってきている。ミィをこれ以上(文字通りの)ツンボ桟敷においておくことはできない。何とかコミュニケーションの手段を見つけ、旺盛な知 的好奇心を満たしてあげなくてはならない。そう言われた。 手話という選択がある。聞こえない子どもにとってはもっとも自然な言語であり、人格形成を妨げない唯一のコミュニケーション手段である。なぜなら、聞こ えない子が音声によることばを習得するのは長いイバラの道であるだけではない、音声言語だけに頼って生きていくことは事実上ムリだから。手話ならば、今日 からすぐに、ことばを与えてあげることができる。手話の世界では、ハンディを負わずに生きていける。そう言われた。 手話は、ある地域のろう社会で自然発生的に生まれ、発達してきた自然言語だ。アメリカ手話、日本手話といった風に各国語があり、それぞれ独自の文法構造 をもつ。手だけでなく顔、腕、ほとんど上半身全部を使って豊かな表現をする。パントマイムの延長だとか、音声言語を身振りでなぞる二次的な言語だとか誤解 されがちだが、使われるのが(多くの場合)ろう者のコミュニティーに限られているというだけで、言語としての価値は音声言語に劣らない。 でも私たちは あえて音声言語の道を、「聴く」訓練の道を選んだ。 「ムリなことなどでは決してありませんよ。今日の補聴技術をもってすれば、どの子にも聴いて話せるようになる可能性があります。そしてどの子にも、親と同 じ、まわりのみんなと同じことばを学び、同じ社会に生きる権利があるのです。」 私たちは子どもたちの聴能訓練に半生を捧げている人のことばを信じた。確信というより、そうであってほしい、そう信じたい、可能だと信じることで初めて 可能になることだってあるはずだ、そんな思いだった。 そうしてミィは補聴器を着けたその日から音声のことばのシャワーを浴びることになった。 しかたない、日本語はまず諦めよう。パパのことばはドイツ語、スイスのことばもドイツ語。当然、訓練もドイツ語だった。二歳になった時には、人工内耳と いう、感覚器では初めての人工器の埋め込み手術を受け、「聴く」訓練を続けた。人工内耳によって物理的には音が脳まで届くようになったので、その音を脳が 「音」とわかり、その意味を理解するようになるための訓練だ。毎日の生活の一つ一つの場面が、遅れて生まれたミィの「耳」への呼びかけとなった。 楽しい日々だった。ミィは着々と音を聞き分けることを学んだ。ことばを学び、ことばを通して世界を把握することに嬉々としていた。ミィの把握しようとす る世界が豊かなものになるようにと、私たちも知恵を絞った。 二年後、四歳になる頃にはいっぱしのおしゃべりお嬢さんに育っていた。その頃生まれた下の娘にかかりっきりになっていると、 「マ〜マ〜、赤ちゃんが寝たら遊んでくれるって言ったでしょ。私もうず〜っと待ってるんだけどなぁ…」 と、ドラマチックな催促をする。すねた声もオマセな声も上手に使い分ける。保育園でも誰にも負けていなかった。 アメリカへ移ろうと考え始めた時、「聴く」訓練の先生は太鼓判を押してくださった。 「大丈夫、聴く力がついているんだから、これからはどんなことばだって耳で聴いて自然に覚えますよ。ニュージャージーならニューヨークにも近いし、同じよ うに聴いて話す聴覚障害の子がおおぜいいるはずよ。」 そのことばのとおり、ニュージャージーの水はミィという魚にとても合っていた。同い年で人工内耳をつけた友だちもできた。 音声言語は「ムリ」と言われて三年。ミィはドイツ語に続いて英語も着々と自分のものにしていった。 目 次へ |
| 3 「やってみましょう!」 |
| 「ダメ」「ムリ」という
国がある一方、「もちろんです。やってみましょう!」という国もある。必ずうまく行くとは限らない。でもダメ元でやってみよう。
やってみなければ何もわからない。 二年間住んだアメリカがその代表かもしれない。個人的には好きではなかったが、いろいろな意味で住みやすい国だった。住んでいたニュージャージー州で は、障害があるとわかるや、 「オールライト、マダム、フツウの生活ができるよう、できることをしましょう」 と町の教育課が引き受けてくれ、あれよあれよという間に歯車が回り出した。こっちがびっくりして、 「ちょっと待って! 特殊教育を受けさせたいということじゃないんです!」 といらないおせっかいを口走ったほどだ。 その時は知らなかったが、なにしろ「障害イコール特別枠」というくくり方を全くしない。「フツウの生活ができるように」と言ったら、字面通り「フツウの 生活ができるように」しようとする。枠で囲った特別の存在にしてしまうのではなくて、障害を乗り越える手助けをしてみんなと同じ土俵にのぼらせてあげよ う、ということらしい。 障害児教育法は、障害を持った子どもたちに対して「高い期待を持ち、可能な限り普通学級での学習を実現し」、「可能な限りすべての子どもと同じ到達目標 を目指し」、「生産的な社会生活を自立しておくることのできる大人になれるよう」指導することを謳っている。「高い期待を持ち」っていうのが特にいいね。 人種や宗教や貧富、あらゆる面でヘテロなのがあたり前のアメリカ風競争社会。だから「(せめて)スタートラインを平等に。」という考え方で、同じように 障害も「差別要因」であってはならない。結果は? 「結果は個人の能力と努力次第」。誰にもわからないし、何でも可能。アメリカンドリームは一攫千金のこ とではなくて、社会の梯子の風通しがいいことだ。「やってみよう!」と言えることだ。 「英語を覚えて地域の学校に通う? 当然です!」 聾なのに外国語を覚えさせるなんてムリだとか、親の勝手だとか、子どもがかわいそうだなんて言う人はいなかった。親が子どもにとって望ましいと考え、心 理や知能の発達から見て問題がないと判断されたら、それはその子にとってふさわしい「スタートライン」なのだ。むしろ、障害を理由に「他の子たちとは別基 準のスタートラインを」などと言い出そうものなら、猛反対するのは当事者の親たちなのだ。 そういう風土に慣れ始めていた上に、一度できたことが二度目にできないはずはないと単純に考えていた。こと自分たちのことについてはかくも近視眼になる ものか! もとより、ムリをごり押ししようってわけじゃない。だって、ムリなことを好んで我が子に強いる親はいない。そうでしょう? 私たちがしようとしているこ とは、私たちの眼から見ればあたり前のこと。アメリカ人だって「ホワイノット?(いいじゃない、やってみれば?)」って言うに決まっていることでしかな い。 ところがフランスではどうも事情が違っている。この国の人には、他の国の尺度で「ふつう」とか「当然」を振り回すことからしてすでに突っかかるらしい。 「でも『ふつう』じゃないでしょ? 聾でしょ? それを否定するというのですか?」 まるで、そのことの意味を私たちがわかっていないとでもいうように、耳鼻科の医師は、彼女の代表するフランスの常識は、私たちの企てをハナから本気には してくれないのだ。取りつく島もありゃしない。 確かに聾に生まれはした、生まれはしたけれど、「聞こえる子」として育っている。当人の意識も、実際の生活のし方も、れっきとした「聞こえる子」だ。母 国語であるドイツ語で同年齢の子どもたちに追いつき、アメリカであっという間に英語を覚えて有名私立の入学試験にも受かった「キャリア」だってある。それ をどうしてくれる? まわりのみんなと同じようにおしゃべりしたり、歌ったり、テレビや映画を観ることができる。みんなと同じだけたくさんの可能性をもっている。そういう、 みんなと同じという安心を、これからも持ち続けてほしいと思う。私たちのこの願いは、思い込みの激しい親の妄想として片付けられてしまうの? あ〜あ、二百年前、アメリカの独立運動を指示し、自由の女神像を贈って同じ建国の精神を祝福したフランスじゃないか。どうしてこうも違ってしまったの? ま、歴史を勉強している暇はない。とにかくできることから始めよう。母は常に理想を追い求める現実主義者であるべし。 ミィの幼稚園が始まったら、さっそくフランス語を習いに行こう。それが当座のゴールだった。 そのためには、春に二歳になったばかりの下の娘マイマイを預かってくれる所を捜さなくてはいけない。幼稚園の年少組には、その年のうちに三歳の誕生日を むかえる子しか入れない。頼むは託児所ということになるが、共働きがふつうのフランスでは自治体経営の託児所は働くママさんたちのもの。外で働かないママ は、週に半日か一日「骨休めに」預かってもらえるだけ。それも、空きがあればの話だ。また、自宅で子どもを預かるプライベートな託児所やベビーシッターさ んもいる。でもその頃はそんなことは知らなかった。 とりあえず近くの託児所に週に二回、半日ずつ預かってもらうことにした。そうやってできた時間で、毎日預かってくれる託児所とフランス語集中講座を捜そ うと思ったのだ。 その頃、私の唯一の「社交場」は幼稚園の門の前。送り迎えの母親が集まる朝夕二回、各数分の間がチャンスだ。幸運なことに娘の幼稚園には英語圏帰りの家 族が少なからずいたので、あれこれ貴重な情報を得ることができた。 ある日、 「ほら、これあなたのためにプリントアウトしてきたのよ」 と言って、インターネットで検索した私立幼稚園のリストをくれるママさんがいた。 「公の幼稚園は融通がきかないけど、私立なら交渉次第っていうこともあるでしょ。ほら、このすぐ近くに一つあるから、さっそく行ってらっしゃいよ。」 なんと、このひと言が糸口となって、我が家の「託児所問題」はその日のうちに解決されたのだ。 ミィの幼稚園の目と鼻の先にあるこの私立幼稚園では、長靴下のピッピがそのまま大人になったような校長先生が迎えてくださった。日本を含めて世界のあち こちに住んだ経験がある(そういえばピッピも七つの海を渡ってきた)という。私たちの事情を聞くと、 「それは一大ファミリープロジェクトだねぇ。おもしろい、おもしろい、やってみましょ。」 といって、二歳半の娘を入園させてくれた。しかも、 「フランス人は何だって、ちょっと標準を外れたら『ダメ』『ムリ』って言う。子どもの可能性に頭から『ダメ』『ムリ』って枷をはめたら、人間みんな仲良く 同じにチマチマしたテトラパックになっちゃうわよ」 と、この国の公教育への批判に息まいている。まるでピッピだ。 幼稚園を見つけられた。これでやっとフランス語の学校に行ける! おまけに、私たちの意図している「ムリなこと」を「一大ファミリープロジェクト」とプラスに評価してくれる人がいた。これには思いがけず勇気づけられ た。 そうなんだ、私たち四人がそれぞれのし方で頑張って、みんなでこの国にとけ込むことなんだ、そのための一歩なんだ。パパの仕事のために家族が犠牲を払う とか、親の都合で幼い娘たちにまた新しいことばを強いるとかいったマイナスの見方もあるかもしれない。でも、家族一団で挑むプロジェクトなんだって考える と、マイナスとマイナスがプラスに変換される。 こうして、十月から始まる私のフランス語講座を含めて、私たちのファミリープロジェクトはスタートした。 目 次へ |
「娘を返して!」 ミィの入園の日は、なし崩しにやってきた。そして入園させるや否や、私は心の中でこう叫ばずにいられなかった。 ミィはアメリカで一年半プリスクール(幼稚園)に通った。午前中は聴覚障害児に音声言語教育をする特殊学校、午後は、普通に聞こえる子どもたちの中でも やっていけるようにと、教会運営のナーサリースクール。どちらもかけがえのない経験だった。 アメリカのプリスクールでは、ひとつプロジェクトが完成するたびにお披露目があって親が招かれたし、クリスマスパーティーやチャリティーセールなどは事 実上ママさんボランティアが支えていた。「お母さんがみんなにお話を読みに来る日」などもあって、親はスクールライフに積極的に参加することが期待されて いた。教育は、家庭と学校が連携プレーで担うものなのだ。 一転、フランスでは、学校を全面的に信頼して教育の専門家に「委託」するのが常識らしい。何しろ……。 ちょっぴりおしゃれもして夫婦そろって出かけたミィの入園第一日。夏の陽光の眩しいさわやかな朝だった。 園内に入り、各教室の前に張り出された名簿を確かめてミィを担任の先生の所まで連れて行く。名前のついているコート掛けの場所を教え、あの人が〜先生だ よと顔を覚えさせる。ごった返す教室の隅で、ミィ以上に緊張して何かが始まるのを待っていた。 が、親に期待されているのは、いや、許されているのはそれだけだった。教室をゆっくり眺める暇も、担任に挨拶する暇もない。娘の同級生の顔を見る余裕も ない。始業式もない。はい、確かにお預かりしました。では終業時にまた迎えにきてください。さようなら。 「?????」 この長い一日を、フランス語をひと言も解さない娘はどうやって、何をして過ごすのだろう。どの子のとなりに座るのだろう。新入りと遊んでくれる子がいる だろうか。先生は思いやってくれるだろうか…。 新しい土地の新しい学校、期待と不安がない混ざって特別な感慨にひたるのはあたり前。でも、こんなブラックボックスに娘を投げ込むことになろうとは、正 直言って夢にも思っていなかった。 「そんなぁ…。見ず知らずの人にいきなり子どもを丸一日預けろだなんて…。そんなのないよ。自己紹介ぐらいしてよ! ミィを返してよ!」 門前で少なからず唖然としている私たちを尻目に、他の親御さんたちはさっさかと足早に去って行った。九月の新学期は、働く親にとっても夏のバカンスにさ よならを言って職場に戻る季節。朝預け、夕方迎えに行く日常のリズムの始まりなのだ。 この国の子どもたちは、預けられることに慣れている。そしてこの国の親たちは、預けることに慣れている。 余談だが、次に生まれ変わる時、フランス人には生まれたくない。というより、フランスで子ども時代を過ごしたくはない。 フランスで見る子どもたちについて驚いたことがふたつある。ひとつはすこぶるお行儀がいいこと。もうひとつは、指をしゃぶる子が多いということ。独断と 偏見を恐れずに母親の直観で言うならば、このふたつの事実はひとつのコインの裏と表なのだ。 子どもたちは、預けられることに慣れていると書いたが、夫婦共働きが標準的、離婚率が高く片親ファミリーが多い、となれば、子どもは朝預けて夕方引き取 るのがふつう、朝の七時から夜の七時まで預けられっぱなし、という子も稀ではない。 年間で見るともっとスゴい。年五十二週のうち、学校は三十六週、残り十六週間はお休みだ。ところが働く親が休みを取れるのは多くて五週間。残る十一週 間、おじいちゃんおばあちゃんのところに遊びに行けるラッキーな子もいるけれど、たいていはまた預けられることになる。 さて、誰がそんなに長く子どもたちを預かってくれるのだろう。 答えは、こうして子どもたちを長く預けることで成り立っている社会そのもの。つまり、学校と、学校の時間以外は町の市役所による「集団リクリエーション」 だ。 集団生活は規律があって初めて成り立つ。移動の時には二人ずつ手をつないで列を作らなければならないし、みんなが食べる時に食べ、みんなが昼寝をする時 に昼寝をしなければならない。グループの規律を乱すとかなりきつく叱られる。世話役さんたちにとっても、子どもひとりひとりの欲求や気持ちよりも、グルー プの(安全のための)規律の方が先になりがちだ。 多分、こうやって、よそ者の私たちには奇異と感じられるほどに大人しい、行儀の良い子どもたちが育つのだと思う。 そして、甘えさせてくれ、じっくり一対一でつきあってくれる大人の不在が、子どもたちに指をしゃぶらせるのだと思う。(大人になると指が精神安定剤のピ ルにとって代わられるらしい。) もっとも、「教えてくれることはしっかり教えてくれる」と学校を肯定的に見る親が多いし、集団レクリエーションも「博物館へ連れて行ってくれたり公園で ピクニックをしてくれたりと、子どもたちへのサービスは満点」と満足している人が多いと思う。「大人しい指しゃぶりっ子たち」に関する私の持論は、当然の ことながらフランス人にはあまりウケがよくないことをお断りしておく。 目 次へ |
ミィが根気づよく幼稚園の長い毎日を耐えるようになり、マイマイの幼稚園と私のフランス語の授業も「ファミリープロジェクト」に加わった。でも、肝心の 「ミィのサポート体制」はまだぜ〜んぜんできていないのだ! パリの小児科病院に行き、聴覚障害児を多く診ている例の耳鼻科医と面会したのは九月も末だった。治療が必要というわけではなく、これから定期的にお世話 になりますという顔合わせ、カルテづくり、車検みたいなものだ。でも、前述したように、人工内耳に聴覚情報のすべてを頼るミィにとっては、医療・補聴・聴 能教育にわたってミィのことを理解している専門家のチームが欠かせない。そのために急いだ顔合わせだった。 耳鼻科のL女医は、電話の声から想像していたとおりの鼻梁の細い小さな顔で私たちを迎えてくれた。初対面早々また怒鳴りつけられるか、とちょっと身構え ていたのだが、そういうことはなかった。とてもビジネスライクに診察をし、オーディオグラム(聞こえの測定)を取ってくれた。それから、ミィの出産前後の 状況から始まって今日までの健康状態、手術日、訓練歴などについて細かく質問してはメモを取った。 時々ことばをミィに向けて、(英語での)会話能力を試している。人工内耳を外してと装着してのオーディオグラムから聞こえの良さについても再確認してい るようだった。 最後に、 「マッピング(人工内耳の調整)にはこの人とアポイントを取って会いに行くことをお薦めします。それから、これからも聴能訓練を続けるつもりなら、ここに 連絡してみてください。」 と言って、さらさらと住所と電話番号をメモしてくれた。その様子から見るに、L女医は私たちの企みに全面的に賛同してくれるところまではいかなくても、少 なくとも「頭から反対するべきではない」と評価したらしい。やった! これで「医療方面」の糸口からさらにふたつの糸口がついた。信頼できる補聴面での協力者と、フランス語での聴能訓練の相談をできるところだ。 まず、補聴。人工内耳の調整に紹介されたM氏は問題なく「当たり」だった。 人工内耳というのは、1980年代に急速に普及し、1990年頃からはことばを覚える前の幼児にも手術が行われるようになった。マイクロフォンで拾った 音を電子信号に変え、内耳内に挿入してある電極に伝える装置だ。手術で頭皮の下に百円玉ほどの大きさ/厚さの本体を置き、そこから出ている細いコイルを内 耳内に差し込む。コイル上の電極は(ミィの使用するタイプの場合)二十二個あり、送られた信号によってそれぞれ「オン/オフ」状態になり、内耳を取り巻く 聴神経を刺激して音を「創る」。 「創る」と書くのにはワケがある。アイウエオ五十音なのに二十二じゃ足りないじゃないか、と思われるかもしれないが、そんな単純な変換ではないからだ。 私たちが普段聞く音は、純音(周波数が一定の音)ではない。単純な「あ」という母音一つをとっても、言う人によって違うし、「あ!」と「ア〜ア…」では明 暗も速度も違うし、「アたま(頭)」と「みアい(見合い)」のように前後に来る音によっても違う。こうした千差万別の音を分析して、二十二個の鍵盤による 複雑な和音を使ってできるだけ忠実に再現しようというのだから、これはもう「創造」の領域なのだ。 さらに、こうして人工内耳の創る音を「聴く」側にも個性がある。聴覚神経からの信号を受け取る脳の個性といってもいい。「聞こえる」と「聞こえない」の 境目、つまり「やっと聞き取ることのできる」音の強さは、人それぞれだし、ひとりの人をとっても音の高さによって違う。「ちょうどいい」「聞こえやすい」 という音の高さも同様だ。それまで人工内耳を活用してきた装用期間の長さや、人工内耳でどの程度まで音の聞き分けをできるようになっているかという活用の 質にもよる。そういった個々の「聞こえ」を最良の状態にもっていくために、二十二の電極それぞれへのエネルギー配分を調整する。それが人工内耳による補聴 ということだ。 M氏は補聴技術士。補聴器の販売・調整・修理はもとより、補聴に関わるあらゆるアメニティー製品を扱う店・研究所を経営している。人工内耳そのものは医 療の場で調達されるもので店頭販売ではないが、調整はM氏のような補聴技術士が病院にいてしてくれる場合や、こうして自分の研究所でする場合がある。 M氏の店舗兼研究所は、今をときめくパリ三区・マーレー地区のど真ん中にあった。アーティスト・ファッション関係者・ゲイが多く住み、個性的なブティッ クが集まる一角だ。その中で、M氏の「聴覚補正研究所」は、まるでまわりとは違う時間軸上にあるといった異次元的な趣をもった、失礼な言い方をすればみす ぼらしいくらいの慎ましさでひっそりと看板を上げていた。実際、初めて行った時は、何度もその前を行ったり来たりして捜したのに目に入らなかったくらい だ。 しばらく待たされてから通されたM氏のオフィスは、まるで道具箱をひっくり返したような、というよりも、道具箱の中に入り込んだみたいな乱雑さと狭さが 印象的だった。あちらこちらに、ビニールの袋に入ったりトレーに裸で置かれたりした補聴器やその部品が置いてある。これらの補聴器を託して行った人たちの ために、このカオスの中に私には見えない秩序のあることを祈らずにはいられなかった。 落ち着いた色合いのツイードの上着の上に温和そうな顔をのせたM氏は、仕事柄お年を召した方の多い顧客の中にたまに混じる幼い者を見るのが心から楽し い、といった風に私たちを迎えてくれた。まったく英語を話さないので身振り手振りの会話だったが、L女史から私たちのことは聞いている様子で、さっさと人 工内耳の調節にかかった。ミィのプロセッサー(音の電子信号への変換をする機械)をコンピューターにつなぎ、二十二の電極のひとつひとつを確認していく。 スイスでもアメリカでも何度も見た光景だ。 ただ一つ違うのは、いくつかコンピューターのキーを叩いては、M氏が首を振ったりのけぞるようなそぶりをすることだった。ミィの聞こえの良さに感心して いるらしい。時々フランス語でぶつぶつと独り言ももらしている。見ているうちに何だかお腹のあたりがこそばゆくなってきた。おかしいような、自分が褒めら れているみたいで嬉しいような、そんな感情が私の緊張をほぐしていった。 調整を終えたM氏はプリントアウトしたマップ(人工内耳の個別プログラム)を示しながら、これまでのマップに大きな変更はしなくてよかったこと、すべて 順調に機能していることを身振り手振りで伝えてくれた。その合間にも、自分の孫を見るようにミィを見ては、 「トレビアン、トレ、トレ、ビアン」 を繰り返すのだった。そして、フランスの医療保険登録がまだ正式に受理されていない私たちのために、支払いの面でも好意的に計らってくれた。私は力強い味 方を得た心持ちだった。 やった! これで三本柱のうち二本、医療と補聴の面でのサポート体制への足がかりは掴めた。 さて、いよいよ聴覚訓練だ。 目 次へ |
「聾の子どもに音声だけでフランス語を教えるですって? ムリです。そんな話は聞いたこともありません。」 これは悪夢の続き? それともフランス人がグルになってからかっているのだろうか? それとも…? こんどはこちらの開いた口が塞がらない番だった。だって、私たちに向かって「ムリ」を連発しているのは、こともあろうに「聴覚障害の子どもに音声による コミュニケーション能力ををつける」ことを目標に謳った教育施設の副所長なのだから。 こんどは深呼吸も一回くらいではすまない。私は、「売られた喧嘩だ買ってやろう!」とばかり声を荒げたくなる自分を懸命に押さえた。 今度ばかりは身振り手振りで意思疎通というわけにはいくまいと、知人に頼んで通訳に付いて来てもらっていたのが幸いした。間に人が入るとそれだけで会話 のテンポが間延びするので、危なく喧嘩を避けることができた。 「でも、ご覧のとおり、この子は普通に会話ができます。私に限らず、誰とでもです。ドイツ語でも、英語でも、普通学級でやっていける語学力があります。そ れがどうしてフランス語ではできない、とおっしゃるのでしょう。私にはわかりかねますが…?」 できるだけ冷静にこれだけ言う。知人が、通訳した後で「私もそれが本当だと証言できます」といった風な意味のことをつけ加えてくれた。 C副所長の説明はこうだ。 「なぜキューサインにそんなに抵抗なさるのですか? 手話を教えようというのではないんですよ。あくまで音声言語なんです。でも聞き取りにくい音がある、 あるんです、フランス語には。短くて、常にはっきりと発音されるのでもない語や、語尾変化や、それを聞き逃したら意味が全く通じなくなってしまうようなそ ういう音がたくさんあるんです。それをキューで補う。そうやって教えているんです。」 C副所長さんはなおも私を説得にかかる。聴覚測定技師でこの施設の医学顧問をしているG博士と、英語ができるので同席してもらうと紹介された言語療法士 のVさんも、しきりに頷いている。 聞こえにくい子どもたちに音声言語を教える方法のもっとも一般的なものに、聴覚口話法というのがある。できるだけ聴力を活用する。するにはするが、それ だけでは充分聞こえるようにはならない。だから人の言っていることを理解するためにことばを目で読み取ることを教えよう。そういう考え方だ。口の動きや舌 の位置を見てことばを読み取る読唇や指文字などを使う。キューサインもその中の一つで、例えば「カ」と「ガ」は口を見た限りでは違いがないので、区別する ための記号を手指でつくる方法のことをいう。 私は、克服すべき距離の途方のなさをちらっと予感して、気が遠くなった。いっそのこと「ヤーメタ!」といって家に帰ってしまいたい。砂漠をさまよったあ げくにやっと里を見つけた。走って近づいてよく見たら火星人の里だった、くらいの脱力感。いや、これはさすがに大げさかな。 誠実半分、やけっぱち半分くらいの気持ちで私は反論に立った。 「この子がここまで聞こえるようになったのは、その、何て言いました? キュー? そう、そういう視覚的言語、視覚的補助手段をいっさい使わなかったから なんです。そうやって徹底して聴力を訓練したおかげなんです。眼で見て耳の訓練はできない、そういうことなんです。おわかりでしょうか。一歳で聾の診断を 受けてからずっと、私たちはこの指導方針に従ってこの子にことばをかけ続けてきました。アメリカに移ってからも、同じ教育理念の先生を捜して指導していた だきました。おかげで、二年間でほとんどネイティブの子に負けないくらいの言語力もついたんです。ドイツ語でできて英語でもできたことが、どうしてフラン ス語ではできないのですか?」 話しているうちに、私の後ろにはミィのことばの恩人、スイスで三年間お世話になった、「聴く」訓練のS先生がついていてくださるような気がしてきた。 私はひとりの母親でしかない。ひとりの聴覚障害児しか育てたことがない。でも、先生は何百人ものミィのような子を手がけて、音声言語の世界で自立して やっていけるように指導なさった。私がS先生から学んだことは、その経験に裏付けられた教育理論と実践法なのだ。素人だからといって、引け目を感じるこ たぁないぞ! そう自分を鼓舞した。 さて、ここでC副所長のおっしゃったことは特筆に値する。断っておくが、私は彼女を誹謗するつもりも笑いものにするつもりもない。この日から三年来お世 話になっている現在はもとよりこの当の日についても、それは誓って言える。確かに、とてもびっくりしたし失望もした。けれど、彼女とそのチームのコミット メントについて、誠実さについて、一瞬たりとも疑ったりはしなかった。 彼女の「論理」とはこうだ。 「それはおっしゃるとおりかもしれません。でも、フランス語は特別なんです。特別難しく、特別複雑で、特別繊細なことばなのですから。」 ガーン! こりゃあ論理なんかじゃない。神話だ。 このエピソードを思い出すたびに、必ずペアで思い出すエピソードがある。突飛ではあるが、根っこは同じ気がする。 1980年代頃だろうか、外圧のもとに輸入規制の緩和を余儀なくされた日本は、想像力たくましくあらゆる屁理屈をひねくりだして、事実上の規制網を張り 巡らせた。そういった笑い話のひとつ。どの国かは忘れたが、ヨーロッパのどこかのスキー用具メーカーが日本へ輸出しようと申請したところ、却下もされない が許可もおりない。手を回して聞き出した理由は「日本の雪の特殊性による、外国製品の安全性への危惧」。 この「フランス語特殊信仰」は、私のフランス理解のためのキーワードのひとつとなって今に至っている。イヤミで言っているんじゃない。フランス人は誰も 多かれ少なかれこの信者なのだ。 自分たちの文化を誇れることはすばらしい。でも、たいていの文化圏では、おとなりもそのおとなりもそれぞれ自分のを誇っているってことがよくわかってい る。どっちが優れているとか劣っているとかいうハナシではないのだ。だから、「イヤ、オラんちのはちっと次元が違う」という論理を持ち出すところはそう多 くはないと思う。 「次元が違う」「特別だ」と言って神棚に祭り上げてしまう。アンタッチャブルにしてしまう。「そんなのズルイぞ」と人間がほざいても、オリンポスでも高 天原でも神々は涼しい顔だ。そういう手に出る個人はイヤミでしかないが、国民全体となるととても面白い。 それはともかく、娘にフランス語の聞き取り訓練をしてくれる言語療法士を確保することが目下の狙い。いくら絶望的な脱力感に襲われても、ここで席を蹴っ て立つわけにはいかない。かといって、まだ習い始めてもいないフランス語について、その「特殊性」を云々する論陣をはることもできない(この点は、あとか ら考えるとラッキーだった。実際、フランス語は聞き取りが難しい。なまじそれを知っていたら、ここでヒルんでいたかもしれないのだ)。ムム、ピンチであ る。 この時、S先生ならこうおっしゃるだろう、と思えることばが私の口をついて出た。 「フランス語は特別難しい、とおっしゃいましたけれど、フランスの聞こえる子どもたちはどうやってフランス語を覚えるのでしょう。やはり、キューを必要と するのでしょうか?」 C副所長一同、 「いいえ、もちろんキューは使いません」 と首を振りながら、この日本人はいったい何を言い出すのだろう、という顔で私を見ている。 「それでしたら、この子にもキューは必要ありません。聞こえる子なのですから」 一種の賭けではあった。ごく冷静に言ったつもりでも、高飛車な物言いであることに変わりはない。敵を作るか味方を得るか。でも、これ以外に私の言いたい ことをわかってもらう方法は見つからなかったのだ。 一瞬の沈黙があった。自分の血圧が跳ね上がるのが感じられ、じわっと音をたてて冷や汗がにじみ出た。 「…どうしても、とおっしゃるのでしたら、キューを使わないで指導してみることも考えられますけれど…」 やった! 心の中でガッツポーズ! 目 次へ |
私はと言えば、週四日午前中は語学学校に通い、夜は宿題に没頭する毎日が始まった。何十年ぶりかで新しいことを学ぶのはとても楽しかった。ノート、ペ ン、辞書を鞄に入れて、学生時代にもどったような若々しい気分。 「クリスマスまでには片言でもしゃべれるようになってみせるわ」 なんて冗談まじりに豪語していた。が、フランス語の文法の難しさはハンパじゃない。しかもこちらの脳みそが錆び付いているときている。学ぶほどに、「クリ スマスまで」には全然目算がないことが明らかになった。まあ気長にやっていこう。 我が家の「ファミリープロジェクト」は、こうして曲がりなりにも軌道に乗り始めた……、といいたいところだが、そうは問屋が卸さなかった。 肝心のミィが、だんだん元気をなくしていくようなのだ。 初めはしかたない、そのうちにフランス語がわかるようになったら、これまでのように幼稚園が大好きなミィに戻るだろう。かわいそうだけれど我慢、我慢。 そう思って、お友達を家に招いたり招かれたりする機会をできるだけもった。十二月二日の誕生日など、クラス全員を招いてパーティーをしたりもした。 ところが、いつまでたっても幼稚園に行くのは辛そうだった。行かなくてはいけない、と幼心にもわかっていて、決してだだをこねたりはしない。何気なく幼 稚園の様子など聞くと、かたくなに口をつぐんでしまう。 ある日とうとう、 「幼稚園嫌い。先生たち、どなってばっかり」 と言って涙ぐんでしまった。あれこれなだめて話を聞くと、「先生たち」というのはクラスの先生だけでなく、給食時の世話をするおばさんたちも含まれるらし い。子どもたちを統率するのに「叱りつける」ことは日常茶飯事のようだった。 担任の先生と会って事情を聞きたい。でも思うように話ができない。フランス語のできないことが悔しかった。 入園間もなく、会って話はした。私立幼稚園のリストをくれたママさんが通訳をしてくれて、ミィの聴覚障害のこと、人工内耳プロセッサーの扱い方などのあ らましはお話しすることができた。先生の声がよく聞こえる席に座らせる、まず名前を呼んでから話しかけるなどの配慮もしてもらうよう頼んだ。 でも、ミィがどんな風にクラスの中での時間を過ごしているのか、寂しそうにしていないか、まわりの様子を真似するだけでわかっていないのではないだろう か…。 「大丈夫、問題はありません」 先生の答えはいかにも自信に満ちていた。でも、あまり軽くそう言われると、よけいに心配になる。私はそういう天の邪鬼なのだ。もっときめ細かな観察、心 のひだをそっと広げるような気配り、そういうものが聞きたい! 結局もやもやとしたものを山ほど抱えたまま会談を終えたところ、通訳をしてくれたママさんに忠告された。 「あまり根掘り葉掘り質問すると、教師を信頼していないんだっていう風にとる人もいるから、気をつけないとだめよ。」 何というこっちゃ! 教師ってそんなに偉いものなの? そこまで盲目になって、国の教育制度を信頼しろっていうの? これじゃまるで、子どもは国家の人質じゃないか? 「どしたの、元気ないネ。」 ある日、マイマイを迎えにいったところを長靴下のピッピ校長に声をかけられた。カタコトの日本語をしゃべりながら眼がいたずらっ子みたいに笑っている。 「カモン、レッツトーク」 と校長室に誘ってくれた。 愚痴るつもりは全然なかったのに、気がついたら洗いざらいぶちまけていた。学ぶことが何よりも好きだったミィが、幼稚園に行くのを嫌がること、帰ってき ても幼稚園のことを話すのを嫌がること、担任の先生に聞いても要領を得ないこと、人質に取られたような心地がすること、他のお母さんたちに話しても「こう いうものだから仕方ない」「私たちが子どもの頃もそうだったから」と言って諦め顔なこと……。 「もう、親として不甲斐なくて、情けなくて……。」 「ふーん、フム、フム、そうネ、よくわかる」 ピッピ校長はしきりと頷きながら私のとりとめのない話を聞いてくれた。この人は私の言いたいことをわかってくれる。そう思うだけで心の荷が半分くらい軽 くなる気がした。 「あれこれ質問しすぎると、批判ととって気を悪くする先生もいるって聞きましたけど、本当ですか?」 「そうそう、それホント。私の娘の時、そうだった」 スイス人である彼女とその家族がフランスに移った時、娘さんは小学生、フランス語は母国語だから問題はない、なのに新しい学校に馴染めなくて泣いて嫌 がったのだそうだ。母親であるピッピ校長(その当時はもちろん校長ではなかった)は、何ごとかとびっくりして学校に話をしに行った。 「べつに怒鳴り込んだわけじゃないヨ。娘は全く違う学習環境しか知らないから、多少適応に時間がかかるかもしれないけど、見守ってくれるように話しただ け。それなのに、その次の日から何かというと娘に『あなたはすぐお母さんに言いつけるようですね』ってイヤミを言うの。シンジラレナイヨ!」 「それで、どうなさったのですか? また談判にいらしたの? それとも転校させたとか?」 「ん〜、私も若かったからね。大した方法も思い浮かばなくて、結局娘に『こんなことで負けるな、平気な顔してなさい』って話して…。そのうち担任が替わっ たりして落ち着いたわね。……でもネ、だから今、こういう学校をやってるわけネ。挑戦しているワケね。あなたも、上の娘さんもうちに連れてきたら? この 学校は小学部もあるよ。」 ピッピ先生が校長を務める(雇われ校長なのだそうだが)この私立校は、マイマイが午前中通う幼稚部と一〜五年生の小学部とから成る。イタリアの教育家モ ンテソーリの考え方に従って、年齢によって分ける学年制クラスはなく、子どもはそれぞれの学びのスタイルとテンポにそって学ぶ。マイマイのクラスも三歳〜 五歳の子どもたちが入り交じり、それぞれの発達段階に応じてさまざまな課題を自主的にこなしていく。先生の仕事は、各人のバランスのとれた成長を助けてあ げることと、クラスの共同作業や相互援助を進めることだ。 個性を尊重し、自分の自由も他人の自由も同じように尊敬できる人間を育てることを目指すモンテソーリ教育。「子どもは本来学ぶことが大好き」なのだか ら、教えるのではなく「学ぶ環境を整えてあげることが大人の役目」と考えるモンテソーリ教育は、この国の公教育とは考えうる限り対照的だ。 「だから今この学校をやっているのよ」というピッピ校長のことばは、娘さんを一時的にせよ学校嫌いにさせた公教育への挑戦ともとれるし、その時娘さんにも う一つ別の選択肢を示してあげることができなかったことへの謝罪でもあるのかもしれない。 「ん〜ん、なるほど、ミィもこの学校へ……?」 私は迷った。しょんぼりと「幼稚園、嫌い」というミィを思うと心が動いた。ピッピ校長のもとで、できることを伸ばし、好きなことを深め、自分らしく学ぶ ことができるなら、ミィもまた元気になれる。それはそうなのだが……。この学校には私たちにとって大きな問題がひとつあるのだ。 つい恨みがましい声になりながら、喉のつっかえを吐き出した。 「先生、どうしてこの学校は英語なんですか!? 私は子どもたちに、この社会の一人前のメンバーになってほしい、だからフランス語にこだわっているんです よ!」 あ〜、ややこしい。これもバベルの塔以来の罰なんだろうか。 目 次へ |
「もう一月なのよ。四ヶ月もたつのに、まだこれくらいのフランス語がわからないの?」 こんなことを面と向かって言う人がいるなんて、信じられますか? しかも現役の幼稚園の先生が、自分の生徒に向かって。私だって、もし自分のこの耳で聞 いたのでなかったら、まさかと思っただろう。そのかわいそうな生徒はもちろん、ミィだった。 クリスマスの休暇が明けた二学期、ミィのクラスは週一度の水泳授業に市のプールへ通うことになった。初めて堂々と幼稚園生活の一部を見ることができる! 私は勇んで付き添いのボランティアを名乗って出た。 水泳は大好きで大得意のミィ。往復のバスの中では特別にママの隣に座ってよいことになっていて、それも嬉しそうだった。着替えやシャワーなどはみんなと 同じにひとりでした。湿気に弱い人工内耳も自分で外して、持たせてやったビニールの袋にきちんと入れた。 あちこちの学校が入れ替わりで来るので、時間には厳しい。水泳の後、子どもたちを追い立てるようにして着替えをさせ、プールの出口付近で集合という時 だ。先生がクッキーの箱を取り出して、それをみんなに配る役目をミィに言いつけた。これも、ママがボランティアに来てくれた子への特別サービスだったのだ ろう。 ところが、 「ひとりにひとつずつ配ってちょうだい」 という先生のことばを、ミィは聞き漏らしたらしかった。「え?」という顔をして先生を見上げている。それもそのはず、プールの建物というのは音の反響がひ どい。人工内耳で聴くミィにとって、騒音は最大の敵なのだ。 この瞬間、「ピシッ!」と音をたてて先生の堪忍袋の緒が切れた。いきなり、ミィに覆いかぶさるように上体を膨らませて、 「もう一月なのよ。四ヶ月もたつのに、まだこれくらいのフランス語がわからないの?」 と頭から怒鳴りつけたのだ。 この時の自分を、私は生涯許さないだろう。あまりびっくりしてしまって事態がよく呑み込めず、でくの坊のように立ち尽くしていたのだから。割って入って ミィを庇うでもなく、反論するでもなく、この横暴に、ことばによる暴力にミィを晒したまま、ぽかんと口を開けていたのだから! この日から、私は悩んだ。かなり真剣に、切実に、悩み、自問自答した。どうしたらいいのだろう。どうやって娘たちを護ってやればいいのだろう。 ミィの先生に談判に行くことはできる。いや、行かきゃならない。あのような横暴を二度と繰り返さないよう、きちんと言っておかなければならない。けれ ど、それは根本的な解決にはならないような気がする。あの先生ひとりの問題ではないのだ。もっとずっと大きなものなんだ。 長靴下のピッピ校長のことばが聞こえた。 「上の子も連れてらっしゃい。学校は苦しむための場所じゃないでしょ?」 新しい土地に来て、半年ほど無我夢中であがいていると、こんぐらがった糸もあらかたほどける。前にそう書いた。いつ、とは知れないままに、かなりいろい ろなことがあたり前にできるようになっている。ゴミの日を忘れなくなったり、地図なしで行ける場所が増えたり、医療費の払い戻し証明書や電気料金の明細に 並ぶ数字が読めるようになっている。どこのフランスパンがおいしい、日本のお米はどこが安い、何曜日のどこのマーケットにいい魚屋さんが来る、といった主 婦必須の豆知識も増える。 けれど、これはコインの表側。 半年くらいたつと、ホームシックも出てくる。これが裏側。 無我夢中を通り抜けて、ほっとする。あ〜、やっとここまで来たねと自分と家族をねぎらう。緊張と不安の薄れた日々は快い。それなのに、いや、多分それだ からこそ、急に疲れを感じる。 いろんなことがうっすらとわかってくる。取っつきにくそうでたいそうなことに見えていた「特殊事情」や「土地の慣習」が、わかってみれば何のことはな い。同じリンゴに酸っぱいのと甘いのがある、それくらいの違いなのだ。ところが、エキゾティックに見えていたリンゴがただの酸っぱいリンゴだった、とわ かったとたん、前の国のリンゴの方が甘かったような気がしてくる。 古いパジャマが肌に馴染んでいたのはあたり前のこと。それを「エィッ」と捨てて新しいのを着た。それだけのことなのに、疲れた心には取り返しのつかない 喪失みたいに感じられるものだ。 ただでさえ古いパジャマが懐かしいこの時期に、自分の支えにしてきたモノが崩れ去ってしまいそうな危なっかしさを覚えていた。 どこへ行っても、その国のフツウの生活がしたいと思っていた。その国の人たちの食べ物を食べ、新聞を読み、マーケットのおじさんとおしゃべりをする。そ の国の税金を払い、医療保障を受け、町の住民投票に一票投じる。それが住まわせてもらう者の礼儀だと思うし、義務だとも思う。 だから四人でそれぞれがんばっているんだ。パパはフランスの会社で、ママはフランス語の学校で、ミィはフランスの幼稚園で、マイマイは年上の子の中に混 じって、それぞれ精一杯やってるんだ。 それなのに、この国はミィを怒鳴り、私を怒鳴る。 「大変なところへ来てしまった!」と思った。 こんなところとは知らずに、無防備な娘たちを連れてきてしまった。私の微力では娘たちを護ってやれないような、野蛮な土地へ来てしまった。歴史と芸術の 都、創造と消費のメッカと崇められ、誰もの羨望のまなざしに送られてやってきたこの土地が、私たちにとっては戦地だった! これが落ち込まずにいられるかぃ! 目 次へ |
| 「まだわからないの?」と怒鳴られても怒鳴り返せない。なぜ怒鳴られているのかさえわからない。 「ストライキのため休み」という立て札の意味がわからなくて、誰もいない幼稚園の門前で子どもの手を引いてうろうろする。 「事故のため運休します」というアナウンスがわからなくて、ひとり地下鉄の車両に取り残される。 幼稚園の遠足に親の許可が必要だからとサインしろと言われる。読めないと言うと、かまわないからサインしろと言う。家に帰ってゆっくり辞書を引いてみた ら、「事故の場合引率者の責任を問う権利を放棄する」のひとこと。 「ごめんなさい、おっしゃっていることがわかりません」と言うと、同じことをさらに早口で繰り返される。さらに「ゆっくり話してください」と頼むと、無 言で電話を切られる。 例をあげればきりがない。 外国で暮らし始めるって、そういうことだ。華やかなことなんてほんのちょっと。「ブー!」と思うことの方がずっと多い。 ひとつひとつは本当に些細なこと。いつかは笑い話にもしてしまえるエピソードばかり。でも、粉雪みたいに少しずつ積もっていく。積もり積もって、ある日 気がつくと爆発寸前にまでエスカレートしている。 耳が不自由っていうのも、多分、似ているところがある。 聞こえるけど聞こえない。 全部は聞こえない。 みんなと同じようには聞こえない。 みんなが「聞こえてる」と思っているほどには聞こえていない。 友だちと遊んでいる時、誰かが「別の遊びしよう!」と言ったのが聞こえなくて、急に走ってどこかへ行っちゃうみんなに取り残される。 みんなが急にひそひそ声になってクスクス笑ってる。近くに来た男の子の噂なのに、自分が笑われている気がする。 ジョークの落ちがわからなくて、笑いに乗れない。 トロいと思われるのがイヤで、わかった振りをする。それを見破られないように、さらにお芝居を重ねる。 「ヨーイ、ドン!」で一斉に走り出す。次の瞬間、先生が「エラー、やり直し!」と言ったのが聞こえなくて、ひとりでゴールまで全力疾走してしまう……。 マージナルな存在っていうのは楽じゃない。「よそ者」ではない。「のけ者」扱いされるというわけでもない。でも「みんなと同じ」の輪の中には入れない。 いっしょにいてもどこか馴染みきれない。 私はいつの間にか、人生の半分以上を外国で暮らしてしまった。愚痴になるので詳細はやめておくが、ことばができないことの不甲斐なさはイヤというほど味 わってきた。でも、外国語ができないだけなら、いつかは解決できるのだ。「そこそこ」でもいい。フツウの生活に支障がないくらいにはなれる。 耳の不自由はそうはいかない。人工内耳で聾でなくなることはできる。が、どんなによく聞こえるようになっても中度難聴くらい、と言われている。それ以 上、努力してもどうにもならない一線はそのままだ。 一生、そのままだ。 もし、耳の不自由なミィがフランスでフランス語の生活ができないとしたら、二重の不自由の中で暮らしていくことになる。家や学校ではいい。でも、ある日 ひとりで電車に乗ってパリに行くようにもなる。その時、何かが起こる。『緊急事態!』というアナウンスがわからなくて独り地下鉄の車両に取り残される。パ ニックの中で、誰もゆっくり説明したりはしてくれない。なるほど、悲観的な見方かもしれない。でも今日、このイメージにはリアリティがありすぎるほどあ る。 アメリカで障害というテーマを語る時、メインストリームということばがごく自然に使われる。メインは「主な」、ストリームは川などの「流れ」のことだか ら、「本流」とでも訳せばいいのだろうか。つまり、いちばん一般的なやり方、「フツウ」なことだ。 「フツウ」を「ノーマル」と言ってしまうと、それ以外は「特別」あるいは「異常」ということになってしまい、価値判断ととられる。その点「メイン」なら ばいわば純粋に「量」の話、単純な多数の論理だということで、善い悪いの水掛け論を避けるのに便利なことばなのではないだろうか。と、これは個人的な想像 だが。 メインストリーム。大きな川の流れ。樹々の根方に湧き、谷間の岩を洗い、寄り添ってくる小さな流れを呑み込んで、川は刻々と姿を変える。平野を形作り、 田畑を潤して、そして遂には海へと押し出して行く。 メインストリームは、可能性の広い海原へ漕ぎ出して行くことだ。強い船を造って、順風をつかまえて、遠くへ遠くへと旅する可能性。未知の土地を踏む可能 性。安全の保障はない。嵐に遭うかもしれないし、岩礁に乗り上げるかもしれない。だから本流などに巻き込まれず、支流をたどって静かな湖に流れ込み、見晴 らしのきく平穏な暮らしをした方がいいと言う人もいるだろう。それは考え方の違いだから、云々しても始まらない。 私たちは、これまでいつでもどこでも、できるだけメインストリームを選んできた。 手話ではなく音声言語でミィを育てようと決心した時。 スイス時代、日本語ではなくドイツ語でミィの聞こえを訓練することにした時。 半永住を覚悟で引っ越したアメリカで、ミィに英語の幼稚園へ行かせた時。 フランスに来ても同じことだ。ここに不確定期間住むことになる。長くなるかもしれない。だからメインストリームを選ぶ。 これを、多数に追従するヤワな態度という人もいるかもしれない。子どもたちを根無し草に育てるひどい親だと憤慨する人もいるかもしれない。どう思おう と、それは皆さんご勝手に。 もちろん、パパの国のことばであるドイツ語を子どもたちの第一言語として培ってゆく。メインストリームを選ぶこととルーツを護ることは矛盾しない。 「誠意をもってあたればきっとわかってもらえる」とか「ことばがなくても気持ちは通じる」、はては「くよくよせずに前向きに」なんていうナイーブなごま かしが、私は嫌いだ。毎日となるとそうはいかないのだ。一生となるとそうはいかないのだ。 娘たちには、その社会の共通語で、その社会のマナーにのっとって、堂々と自己主張ができるように育ってほしい。その社会を内側から理解し、良いところは 認め、悪いところは批判して、さらに良くなるように貢献できる人間になってもらいたい。 だからメインストリームにこだわる。 …… どうもストリームが、いや、風呂敷が、大きくなりすぎた。 目 次へ |
「もっと耳の後ろから声を出しましょう。〈ウー〉じゃなくて〈ュゥ〉。さ、みんな一緒に、“とんがり帽子の小人さん〜”」 幼稚園のお遊戯? 否。クラス全員に両手で頭の上にとんがり帽子を作らせているのは、私のフランス語の先生だ。un chapeau pointu(とんがり帽子)の最後の u が、とんがり帽子の先っぽと同じくらい高く、尖って発音される、というわけだ。フランス語の[u]の発音を教えようと(私たちは覚えようと)、大の大 人がそろって小人さんになっている光景は、かなり涙ぐましかった。 フランス語でまず苦労するのは発音。日本語にはアイウエオと母音が五つしかないけれど、フランス語には十六個もある。ちょっと口の形が間違ったら、言っ ていることの意味が通じなくなっちゃう、別の意味になっちゃうなんてことがざらにある。自慢じゃないが、私は三年たってもまだ「二時」と[十二時」の区別 ができない。どちらも〈ドゥーズゥォァ〉としか聞こえない。 語学学校に通うにつれて、ひゃあ、こりゃ聴覚障害の子どもたちにキューを教えたくなるわけだ、と頷けてしまった。ミィの聞き取り能力にはまったく不安は なかったけれど、生半可な聞こえの子だったら、聞き取れるようにも発音できるようにもならないだろうと思う。あの最初の話し合いの時、フランス語の音素に ついて無知で本当に良かった! ミィは、聴能・言語訓練に週一回施設に通うようになっていた。キューを使わない約束をさせて確保した言語療法士だったが、その訓練の中身には正直言って 頭が痛かった。だって、何しろ全然面白くないのだ! ミィがこれまで受けてきた聴能訓練は、乱暴を承知で簡略して言うと「聴きたいと思うようになれば子どもは聞こえるようになる」という考え方だった。 まず、できるだけ赤ちゃんのうちに補聴器や人工内耳で補聴し、できるだけ音が聴覚神経にまで届くようにしてあげる。その音に意味があることに脳が気づけ ば(「ワンワン」という音と耳の垂れた四つ足の動物とはつながりがある)、音に興味がわく。そういう音は再認知しやすくなり(あ、「ワンワン」って聞こえ たゾ)、その意味から自分のまわりに起こることを理解/想像(犬が来たのかな? それとも犬のおもちゃと遊ぶのかな?)できるようになると、世界のつなが りがわかってくる。弱い聞こえであっても、知への手がかりになる。喜びになる。つまり、聞こえるようになる。 大事なことは、「興味」がわくこと、自分の経験にひきつけて「理解」に結びつくこと。難しいことはない。「子どもは遊びながら学ぶ」という、誰でも知っ ているあたり前のことなのだ。 楽しくなければ遊びではない。遊びでなければ学べない。それは四歳、五歳になっても同じこと。アメリカでの訓練では(私も含めて)笑い声が絶えず、ゲー ムに興じているうちにあっという間に時間が過ぎたものだった。 ところが……。 ミィの受ける訓練はまるで「フランス語ってむずかしいでしょう? ね、むずかしいでしょ?」とだめ押しするみたいな課題ばかりで、やたらとつまらないの だ。ゲームもどきの形にはなっているけれど、絵カードと字ばかりで、ちっとも「生きた」ことばがない。ちっともわくわくすることばがない。 ミィはちっとも元気が出ないばかりか、フランス語に対して拒否反応を示し始めた。近所の大学生のお姉さんに時々遊びにきてもらったり、ドイツに住むミィ の大好きな伯母と「一日一文」のファックスのやり取りをさせてみたり、少しでもフランス語を「楽しいもの」にしてやろうと私なりに工夫もしてみた。でも、 どんな工作も功を奏さない。「そのうち自然に解決するだろう」と楽観視していることはできなかった。 解決の糸口になったのは、偶然が呼び寄せた幸運だったように思う。 自宅で聴覚・言語訓練をしている人がいると聞き、会ってみたところ、「大当たり」だったのだ。 B先生は英語とフランス語のバイリンガル。しかも聴覚障害児教育についても英国とフランス両国の実状を知っているバイカルチュラル。スイスとアメリカで ミィの受けてきた訓練法のことも知っていて、私の求めているサポートについても話は早かった。 「フランスではなぜか、学習っていうのは楽しくちゃいけないと考えられているみたいね。私は子どもと遊ぶの。見て、部屋中おもちゃとゲームだらけでしょ う。遊びながら、子どもが言いたいことを感じてあげて、ことばにしてあげる。それだけ。」 B先生のところへ週一回遊びに行くようになると、ミィは別人のように閉じていた殻を開き始めた。幼稚園や施設に行く時とはがらりと変わって、車を降りる とスキップで先生の家に向かう。そして一週間ごとに、フランス語に対しても子どもらしい伸びやかな反応を示すようになっていった。 「お母さんの心配なさっていたとおり、言いたいことを言えない欲求不満から、フランス語に対してかたくなになっていましたね。でも、いっしょに遊びなが ら、その場その場で彼女の言いたいことをことばで示してあげると、乾いたスポンジが水を吸うように吸い取ります。聞き取りは問題がないし、発音もきれい。 それに、一度そうやって覚えたことは次の週になっても忘れていない。私も毎週楽しみです。」 そうおっしゃる先生は、「授業」風景をビデオに撮って私にくださった。人形を動かしながら、「今度はブランコをする番よ。こっちのお友達もいっしょに。 おっと、転んじゃったわね…」とおしゃべりするミィの姿が映っていた。 ああ、ミィが笑っている! 夢中で遊んでいる! 夢中でおしゃべりしている! 学んでいる! これだ。求めていたのはこれなんだ! フランスに来て半年が過ぎようとしていた。冬が過ぎ、春が息づいていた。 目 次へ |
「お嬢さんは聞こえすぎます。私たちとしてはもうしてあげることがありません」 奇襲攻撃もここまで来るとシュールである。 フランス第二年目も残り少ない頃だろうか。学年の終わりに学校、聴能訓練施設、親、そして教育委員会が集まって話し合う。その日程を調整している時に、 C副所長がこう言い出したのだ。 ミィはぴっかぴかの一年生。たくさんお友達もでき、楽しい毎日を送っていた。一時は親子で落ち込んだこともあった一年目の後、ある日道が開けた。それま での停滞がウソのように、二年目はぐんぐんフランス語を覚え、元気に学校生活をエンジョイするようになっていた。 訓練の方は、施設に週一回通う代わりに、学校の昼休みに言語療法士さんが来てくれ、四十五分間一対一の授業を受けるようになっていた。「フランス語は特 別難しいのです、キューなしで、音声だけで覚えるのはムリです」と言われたのを、頼み込んで「試しにキューなしで」やってみてもらうことにしたあの言語療 法士さんだ。 私の理解不足から珍問答をしばらく繰り返した後、やっとわかったことは、限られた言語療法士の時間とエネルギーを「週たった一度の出張授業しか必要とし ない」子どもに振り分けるのはどうか、という疑問が「上の方で」出たらしい。「週たった一度の必要性」は「ほとんど必要性がない」ということになるらし い。 自分でも意味不明ながら、「あっ、しまった!」と思った。油断していた背中から撃たれた!と感じたのだ。別にフランスを敵に回して戦っているわけではな いから、こう頻繁に「撃たれた」だの「奇襲攻撃」だのと戦闘用語を使うのはどうかとも思うが、でもそう感じたのだからしかたがない。 C副所長自身の本意でないことは明らかだった。彼女を責めても始まらない。しかし、どう反応してよいものやら。いつか「聞こえが不充分です」と言われる かもしれないことは五年前から覚悟の上、ショックは受けるだろうが「できるだけのことはした」と諦める心構えはできているつもり。いや、いざとなったら取 り乱すだろうな……。ところが「聞こえすぎます」と来た! これにはお手上げだ。 「はい、そうですか」と施設のサポートを諦めるわけにはいかない。聴覚訓練と言語療法の成果だけを考えれば、一年前からプライベートに通っているB先生 だけで充分かもしれない。でも、施設から見放されるということは、障害児が特殊教育を受ける権利を奪われるようなものだ。公のサポートの枠から追い出され ることだ。それが何を意味するのかはわからない。わからないからこそ、満員電車から押し出されるように放り出されるのはまっぴらごめんだ。 B先生やミィのパパと相談の上、C副所長と話し合いに行った。フランス共和国を相手に戦いにいくほどの決死の覚悟であった、と言っても過言ではない。 「たしかに、ミィは順調にフランス語を覚え、学校の授業にもついていっているようです。でも、それはこれまでの施設のサポートがあったからこそ可能になっ たことです。 週一回たった四十五分の個人授業で学ぶことの中身自体も大切ですが、それ以上に、定期的に聞こえと発話のチェックをしてもらうこと、読み間違いや構文の 間違いなどの悪い癖がついてしまわないようにすることも、フォローの大切な目的なのだと思います。 それに、まだ一年生ですが、これからが大変です。抽象的に考えること、文字に現れていない裏の意味を読み取ることといった言語力が問題になってきます。 それは聞き取りや発話の訓練という言語療法士の専門領域を超えているかもしれません。でも、音声言語でやっていこうという聴覚障害の子どもにとっては、つ まずきやすい、サポートの必要なステップです。 さらに、これから「年頃」になるにつれて、みんなとは違うという悩みも出てくるでしょう。親に相談しにくいことも、こういうケースを多く見てきている施 設の心理学者なら助けになってくれるかもしれない。 こういう、包括的なケアを望んでいるんです。フランス語で普通学級にインテグレーションできているからといって、ケアがもう要らないということではない んです。」 これって何だか逆〜! 何で私がプロに仕事の講義しなくちゃいけないの? でもそんなことにはかまわず熱弁を奮った。もちろん、一晩かかってフランス語 の草稿を作り、何回も復唱した成果である。 するとC副所長、今度こそ気を悪くすると思いきや、なぜか晴れ晴れとした顔になるではないか! 「そうね、私もそう思います。そういうことをご家族がお望みなら、当施設にも活用できるサービスがまだまだあります。」 勢い込んで話した私が拍子抜けしてしまうくらい、あっさりと問題は解決した。勘ぐるに、子どもたちの日常を見ている副所長としても「上」とのしがらみは 頭の痛いことで、子どもを「予算カット」の犠牲にするのは心もとなかったのだろう。 この年には他にもちょっとした展開があった。 定期検診に伺ったL女医が、美知子を彼女の上司に会わせたいとおっしゃる。少し年配の女性だった。妊娠、出産、一年目の発育の様子、診断とその後のフォ ローなどなど、初診の時とほぼ同じ質問に答えた。ふたりはその後早口のフランス語でごにょごにょと相談し、ひとつの結論に達したようだった。 「お子さんの聞こえは稀に見る良さのようです。フランス語の習得も順調らしいですね。そこで、これから定期的に来ていただいて、発達の様子を撮影していき たいのですが、ご協力いただけますか?」 「へぇ〜」というのが正直な反応だった。一年前、「親として何を考えているのですか?」と呆れていたその人から、「フォローしたい、参考に値する」と言わ れたのだ。変われば変わるものだ。 「なんでぇ、やっと気がつきやがったかぃ」 と言いたいところを、年齢相応におっとりとかわし、 「もちろん、異存はございません。お役に立てるのでしたら喜んで。」 私も一年でこれくらいは言えるようになったんだから、ミィがその三倍も上達していたってあたり前なのだ。 残念ながら、この申し出はその後全くフォローされずじまいのまま。準備ができたとも、半年ごとに来いとも、何とも言ってこないばかりか、更に一年後の定 期検診でもひとこともそのことには触れてこない。忘れられたのか、それとも予算が下りなかったのか、別にこちらから申し出ることでもないので黙っていた が、ちょっと気がかりなエピソードになってしまった。 もうひとつは嬉しいエピソードである。 C副所長とそのチームが、「聴能開発による音声言語教育協会」のイギリス支部のセミナーに参加するという。ミィがスイスとアメリカでお世話になった、あ の教育法だ。 フランスでの聴覚障害児教育にちょっぴり失望していた初めの頃、「聴能開発による音声言語教育協会」の開催する国際フォーラムのお知らせをミィの言語療 法士さんに送ったことがあった。フランス流以外にもいろいろやり方はあるんですよ、勉強していらしてくださいな、という言外のメッセージのつもりだった。 あのお知らせがことの始まりになったのかどうか、それはわからない。聞いてみたいけれど、それも大人気ない気がする。とにかく、「ムリです!」と断定す る前に、どうしたらムリでなくなるかを考えてくれるようになった人たちがミィのまわりにいてくれることで、ここは満足していよう。 目 次へ |
怒鳴られっぱなしだった一年目。風向きが変わりつつある予兆のようなものの感じられるようになった二年目、三年目。 三年住んだくらいでは「住み慣れた」なんてとても言えないが、 まあ気構えができてきたというか、ちょっとやそっとではそう驚かなくなった。 初めの頃はとかく神経がぴりぴりしていて、小さなことで傷ついたりする。何を言われているんだかチンプンカンプンではなおさらで、すべての人が自分をあ ざ笑っているような強迫観念を抱いてしまう。そんな敏感期がようやく過ぎて、だんだん地が出てきたのだろう。この間など、「忙しい」とか「事故があって」 とか言ってなかなか来てくれない(フランスではこれが普通なのだが)暖房修理のおじさんに、 「今日は絶対来ていただきます! この寒い中、子どもたちが肺炎にでもなったらあなたの責任ですからね!」 なんて電話で怒鳴ってしまった。 ああ、とうとう私も二十分の一くらいフランス人になっちまった。これって、喜ぶべきか。悲しむべきか。確かなことはひとつ。こうやって怒鳴ってもちっと もすっきりしない。かえってストレスホルモンが異常分泌されて、胃がしくしくする、家族にあたる、寝付けない、と踏んだり蹴ったり。精神衛生上すこぶるよ ろしくない。 ま、これもメインストリームへの通過儀礼かもしれない。 ところが、四年目に入って、はたまた怒鳴られるはめになった。 「ママ、黙って!」 とは、わが娘ミィの台詞。さて、予期せぬことなり。何ごとゾ? ミィはお年頃なのである。 いや、お年頃予備軍くらいにしておこう。何しろまだ九歳、小学校三年生。同級生の真似をして「サンタなんて本当はいないんだから」と妹をからかっておき ながら、自分でも半信半疑。そんなカワイイお年頃なのだから。 ご周知のとおり、フランスではキスをして挨拶する。友だち同士では両頬にチュッチュ、夫婦や親子はチュッと唇を触れ合わせる。学校に送って行き、門前で 「じゃあね、しっかりね!」チュッ。迎えに行き、やはり門前で「元気だった?」チュッ。幼稚園では、ママを見つけるともう唇を突き出して走ってくる子もい て、とても微笑ましい。 それが三、四年生くらいになると、「人前でかっこわるい」「友だちの前で子ども扱いしないで」となってくる。まあ、子どもによるが、多かれ少なかれニク タラシイ面がでてくるわけだ。ママにチュッてしてもらいたい、でもみんなの前じゃなくて車に乗ってから。そういう、カワイイ反面ニクタラシイお年頃なの だ。 だから、ミィが 「ママ、友だちの前で下手な(!)フランス語しゃべらないで!」と耳元で囁いたって、 「ママ、私が自分で言うから黙って!」 と怒鳴ったってへいちゃらだ。よしよし、そうやって親離れしてゆくのだな、頑張れよ、ってな具合。 でも、 「ママ、私のこと書くの、もう止めてよ!」 となると、ちょっと事情が違う気がする。 ミィは、私が経験談を書いていることを知っている。ミィがまだ赤ちゃんで聴覚障害の診断を受けたばかりの頃から、スイスでの訓練の日々、思い切って引っ 越したアメリカでやはり聾の親友を得た幼稚園期、そしてここフランスでの怒鳴られ奮闘史……。 以前は 「また書いてるの? なぜ? 書くっておもしろいの? いつになったら終わるの?」 と呆れ顔だったのが、この頃様子が違ってきたようなのだ。私が「書く」ことが良い悪いというのではなくて、「ミィの障害のことを」書くことが気に障るらし い。 友だちのお母さん方の中にはミィの障害に気がついていない人も多い。たまたま聞かれて説明しているところへミィが下校してきて、「障害」とか「聞こえな い」といったことばを聞きとがめ、 「ママ、止めて! 私聞こえるんだから!」 と不快そうな顔をしたこともあった。 授業中は先生にFMのマイクを胸にかけてもらい、人工内耳に受信機をつないだミィに先生の声がよく届くようにしてもらっているが、それも「いらない」 「変な音がするから使わない」「クラスのみんなの声が聞こえにくくなるからイヤ」と言って、避けようとする。 私はフツウ。みんなと同じ。誰でも初めはそう思っている。ところがある日、そうじゃないことに気づき、びっくり愕然とする。そこから「自分」ていうもの が芽生える。 「私はフツウ、みんなと同じ」という安心感って、軽く見てはいけないような気がする。この安心感がまずないと、いつか「私は私」って胸をはって言えるよ うにならないんじゃないかな、と思うのだ。 自分の生きている共同体、まず家族があって、次に学校やクラブの仲間がいる。そのみんなと同じことばをしゃべって、同じモノを食べて、同じ宿題をして、 同じ失敗をして……。そういう「同じ」のつながりがあって初めて、「誰々はピアノが得意だけど私はスポーツ」とか、「誰々は何でも食べられるけど私はアレ ルギーでイチゴがダメ」とかの違いを受け入れられるようになる。 それに、家族や友だちと「同じ」な部分は、まだ知らない大きな世界でもたいていの人と同じに違いない、そう思うことができる。それなら、一歩を踏み出す ことはそんなに怖いことじゃない。大丈夫、ママがいなくても私は自分で説明できるし、困ったことがあったら相談できる誰かを見つけれられる。そういう自信 につながっていく。 だから、他と明らかに違う何かを持っている子は、それが特別な才能であれ身体的な障害であれ、しっかり受けとめられるようになる前に、一旦否定せずには いられない。否定して、「私はフツウ、みんなと同じ」土俵を確認したいんだ。 だから、逆説に聞こえるかもしれないが、 「私はフツウ、みんなと同じに聞こえる。FMもいらない。」 とミィが言う時、 「私はみんなと違うことがある」 って気がついたっていうことなんだと思う。 自分のアイデンティティ探しの長い道が、もう次の曲がり角あたりから始まろうとしているんだと思う。 ……というようなことを話しても、ミィは 「アイデンティティって何? 食べられるもの?」 てなもんだろうけど。 目 次へ |
中国の故・周恩来首相がフランスのジャーナリストに 「フランス革命をどう評価なさいますか?」 と聞かれた時、 「まだ早い」 と答えたそうだ。 ついでに、付け焼き刃の歴史知識をもう少し。 フランス革命とちょうど前後して、手話を用いてろうの子どもたちを教育しようという初めての学校がパリにでき、ろう者の間のコミュニケーション手段で あった旧フランス手話にフランス語の文法を持ち込んだ旧フランス語対応手話を教えた。ここでの教育はやがて海を渡り、ろう者の大学として有名なギャロー デット大学の前身と今日のアメリカ手話の基礎を作った。 ちなみに、手話教育よりも少し遅れて点字が発明されたのもフランスだった。いずれも、知へのアクセスを阻むものとしての身体的障害を克服しようという試 みだ。 フランス革命を可能にした啓蒙思想がこの教育熱心さを生んだのだとすれば、今日の聴覚障害児教育はフランス革命の落し子である。 それ以来二回、聴覚障害児に吹く風の向きが変わった。 一回目は十九世紀から二十世紀にかけて。 「聾唖」というが、発声器官に問題がなければしゃべれるはずだ、というわけで、口形の読み取りと発話訓練による「音声言語教育」が始まり、多くの国で聴 覚障害児教育の主流となる。見て話すので視話法とも呼ばれた。今の聴覚口話法のはしりだ。 二回目は二十世紀の中頃から終わりにかけて。 聴覚口話法から眼で見る分を差し引いて、残った聴力を徹底して訓練する聴能開発法が提唱される。その後、補聴の技術が飛躍的に高度になり、全くのろう者 にも音を与える人工内耳なども出現。音声言語による音声言語教育が可能になった。英語圏で広まっているが、全体的には少数派。 今、二十一世紀の初め、もう一度風の向きを大きく変えようという動きが世界中で盛んだ。一口で言ってしまうと「手話見直し運動」。 「ろうは障害ではない。音声言語を強いるのは聴者の論理であり、ろう者の人権侵害である」 というラディカルなものから、 「人それぞれなのだから、手話という選択肢もあるべきだ」 とする穏健派までいろいろだ。 おそらく、およそ人類が「より良い」生を求めて障害というものを「克服」しようとしてきた歴史の中で、当事者側がそうした努力に反対しているのは聴覚障 害の他にはないのではないかと思う。もちろん全員が反対なわけではないが、そうした論争があること自体、かなりユニークな状況ではある。 その背景には、障害の「克服」にはいろんなやり方があるはずなのに、それぞれの理論が「我こそは正論である!」と主張して喧嘩ばかりしてきた、というこ とがある。 口話を主張した人たちは「猿真似はやめなさい」と言って手話を禁止した。それが聞こえる人たちであったため、手話を母語とする人たちは「ろうは私たちの 文化」と宣言して戦った。「ろうは神様の贈り物」とアンタッチャブル化し、人工内耳を神への冒涜と罵る人たちもいる。 「アイデンティティ」って、個人の問題じゃなかったの? ひとりひとりが自分と自分のまわりの世界との関係を創っていくことじゃなかったの? ある人は「聞こえない」のではなくて「聴かない」ことを選ぶ。 ある人は「聴きたい」から「聞こえる」ようになろうとする。 ある人は聞こえる社会、聴かない社会、どちらにも属したいと思う。 それでいいじゃない。 「ムリです!」 と初めから匙を投げるのでもなく、 「こうしなくちゃダメ!」 と押し付けるのでもなく、豊富なメニューの中からひとりひとりが自分に一番合った道を選べれば一番いい。 簡単そうなことなのに、なぜか簡単でないのは、ことばというものが実はとても深く私たちの人間性と関わっているからだと思う。ちょっとやそっとでは妥協 できないくらい突き詰めて考えないと、それぞれの答えを出すことができない、そんな根源的な問いを投げかけてくるからだと思う。 フランスの風見鶏君は、こうした風の変化にどれだけ敏感に反応してきたのだろう。そしてこれから、どれだけ敏感に反応していくのだろう。何しろフランス 革命どころか、ローマ時代からの超長寿。これからも「ココリコ!」と教会の屋根の上から誰彼を怒鳴りつけながら、フランス革命とその落とし子の行く先を見 守りつつ、じたばたして生きる私たちを見下ろしているのだろうか。 <完> 目 次へ |