生や死を解説することはできない
先日、同級生が死んだ。彼には妻と子がいた。
妻の友人が重い病気らしい。その友人にも妻と子がいる。
自分の人生にそれを当てはめてみる・・・、ことはできない。
うまく言えないけれど、それはできないのだと思う。
やっちゃいけないような、気がする。
ぼくの同級生は、彼の人生を生き、彼の妻と子がいた。
そして妻の友人にも、彼の人生があり、妻と子がいる。
ぼくにはぼくの人生があり、妻と子がいる。
だがそれだけだ。
表向き、格好、それだけが似ているだけだ。
うまく言えないなあ。
たとえば、ぼくが死ぬところだとする。
そのぼくが妻子を残していなくなることを、
他の、妻子を持つ友人たちが「同じ境遇」だと言うことで
より深く同情したり、理解できるだろうか。
これから死んでいくぼくの、いままで送ってきた時間を、
ぼくの感情を、ぼくの苦しさを、
友人たちは理解できるだろうか。
妻子を残して死ぬ、ということから生じるいろんなこと、
そういうもろもろを、いかに大変かと想像することはできる。
でも、それは自分の人生の中で想像することだ。
自分の人生の中でしか想像できないことだ。
やっぱりうまく言えない。もどかしいなあ。
なんというか、誰かの人生を、その人生の「不幸」を
自分の人生に当てはめてしまうということは、
「解説」になってしまうような気がするのだ。
ぼくの同級生が死んだと知らされたとき、
ぼくはまず驚き、それから苦しかったし悲しかったけれど、
その一方で、その苦しさや悲しさのバックグランドを求めた。
かれがどんなふうな仕事をしていて、妻がいて子がいて、
そういったことを知り、さらに情報を集め、
そして、ぼくの知らなかったかれの人生を、補完した。
それが済んだあと、ぼくはより充実した悲しみを得た、ような気がした。
正直に言えば、そういうことだ。
なにかを解説するために、ぼくは情報が必要だったわけだ。
でも、それはぼく自身を、真実から遠ざけていたような気がする。
解説などすべきではないのだ。
いや、解説などできないのだ。
なにかを解説したとたん、その対象は、解説者からはるか遠ざかる。
解説者は、事象の当事者じゃないし、ましてや影響を被る第二者でもない。
つねに第三者だ。
生きるとか死ぬとかという問題に対して、第三者という態度が存在するだろうか。
生死はいつも人間の中にあるものだ。
それを解説することは、原理的に不可能だ。
もしそれを解説しようとするのなら、その人は「逃げて」いることになる。
目をつぶろうとしていることになる。
じゃあ、同級生が死んだという事実にたいして、どうするのか。
たぶん、
その事実をまるごと呑み込むしかないのだと思う。
あらゆる人生の可能性を呑み込む、という意味で、
かれの死をまるごと呑み込む。
呑み込んだあと、何が起こるのか。
大きな溜め息が、おそらくひとつ。
自分の中にある「生きる」と「死ぬ」に確かに触れて、
大きな溜め息を、深くひとつ。
だめだ、やっぱりうまく言えない。
たぶん、まだよくわかってないんだろう。
Posted: 日 - 7月 24, 2005 at 11:33 午後