残りの論点「4.証明力について」に対する再反論

 

 

4.証明力について」についても、確認事項を挙げて議論の叩き台にしたいと思います。前回同様、以下では文体を変えて箇条書きにします。

 

確認事項@立花さんは調書には相対的不可欠性がある、と主張している。

確認事項A相対的不可欠性があるとは「いやしくも何らかの意味で犯罪の証明に必要」ということである。

確認事項B犯罪の証明の議論が構成要件の議論で充分ならば、構成要件の議論の段階で調書は「何らかの意味で犯罪の証明に必要」とされなければなりません。

確認事項C立花さんは構成要件の立証に調書は必要ない、と主張している。

確認事項D構成要件の議論だけで充分ならば、この立花さんの主張は調書の相対的不可欠性すら否定していることになる。

 

私の議論は「調書は絶対的不可欠性を持つから、調書なしで有罪判決が書けるのはおかしい」などと主張しているわけではありません。渡部さんと立花さんの議論は絶対的不可欠性をめぐって議論がなされたのかもしれませんが、私の議論は相対的不可欠性をめぐるものなのです。仮に相対的不可欠性があれば、「必要性は低くとも必要である」はずです。「必要がない」なら相対的必要性すら否定していることになるという議論なのです。絶対的不可欠性はないが相対的不可欠性はあるというなら、「必要性は低くとも必要がある」ので、コーチャン氏らが最重要証人=絶対的不可欠性を持つ証人ではないと主張するのは良いとしても、コーチャン氏らの証言が「必要がない」とは相対的不可欠性すら否定しているので言い過ぎです。

 

普通に考えれば、コーチャン氏らの調書は構成要件の内「金銭の授受」に関わる証明で何らかの意味で必要とされたはずですが、立花さんは構成要件の立証に調書は必要ない、といっているわけです。そこで私は一体どのような意味で調書は犯罪の証明に必要だったのか、と問うているわけです。

 

ところで、Apemanさんは私が「構成要件、違法性、有責性の三つを独立の同じレベルの要件であるかのように扱っているのも牛犬氏の議論のおかしなところである。」と述べられていますが、これらは一体のものではありません。基本的には独立しています。以下に団藤重光さんの「刑法綱要 総論」から二箇所引用します。

 

構成要件は、のちに詳論するように、違法・有責の行為の定型である。ことばをかえれば、それは違法類型であるとともに有責行為類型でもある。違法性・有責性そのものは具体的・個別的なものであって、その有無の判断はどこまでも具体的事情に即して行われなければならないし、また、有無の判断のほかに強弱の程度の判断も -ことに量刑との関係で- 可能かつ必要である。これに対して、構成要件に該当するかどうかは定型的な判断であってこれについては有無の判断のほかに強弱の程度の判断はない(略)。ある行為が犯罪を構成するかどうかを考えるについては、違法性・有責性を個別的・具体的に判断する前に、まず、その行為が、そもそも違法類型・有責行為類型たる構成要件にあたるかどうかを判断することを要するのである。つまり行為に対して、まず定型的・一般的・抽象的な判断を加えて、それが違法類型・有責行為類型にあたることをたしかめた上、さらに、これに個別的・具体的な判断を加えて、それが違法性・有責性を具備するかどうかをたしかめ、かようにして犯罪の成立が肯定されることになる。たとえば、甲が殺意をもって乙にピストルを発射してこれを死亡させたとしよう。およそ殺意をもって人を死亡させる行為は定型的にみて違法でありかつ行為者に非難を帰することのできる行為であるから、法律はこれを殺人罪という法律上の犯罪定型として規定しているのである(一九九条)。右の行為は、あきらかにこの定型にあたるのであり、殺人罪の構成要件を充たすものである。しかし、このことから、すぐに、その行為が具体的にも違法・有責であるという結論をみちびき出すことはできない。もし、その殺害が正当防衛のためであったとすれば、殺人という定型的には違法な行為も、具体的には違法だといえないからである。正当防衛といったような違法性を阻却する特別の事情がないばあいに、はじめて具体的な違法性を具備しているといえる。ところが、さらに有責性の判断が待ち受けている。乙は強盗に押し入ったのではなく、したがってこれに対して正当防衛は許されなかったのであるが、甲がこれを強盗と誤信し自分では正当防衛のつもりでこれを殺したのであったとしよう。もしかように誤信するのが無理もないような情況であったとすれば、その殺害行為について甲に非難を帰することは無理である。このばあいは、構成要件を充足し、かつ違法な行為であるが、有責性の要件を欠くものとして、犯罪を構成しないことになる。このような、非難可能性を排除するような特別の事情もないばあいに、はじめて犯罪の成立が肯定されるわけである。

                   (「刑法綱要 総論」P.61 2行目)

 

構成要件は前述のように有責行為類型でもあるが、ある行為が構成要件にあたるという判断をするためには、行為を行為としてみれば足りるので、行為者人格との結びつきを考える必要はない。具体的な有責性は具体的な行為者人格との結びつきにおいてのみ考えられるが、有責行為類型については定型的な行為者人格一般が予想されているにすぎず、ここでは具体的な個々の行為者人格との結びつきは問題にならないからである。かようにして、ある行為が犯罪を構成するかどうかを考えるについては、第一に、行為を行為として定型的に考察してその構成要件該当性を考え、第二に、おなじく行為を行為として、しかしこんどは具体的に考察して、その違法性の有無を考え、最後に、これを行為者人格の深みにまで結びつけて、有責性の有無を考えるべきことになる。比喩的にいえば、構成要件該当性は外面的・形式的な問題、違法性は外面的・実質的な問題、責任は内面的・実質的な問題で、この三つの要件はたがいに前者が後者の前提となりながら、もっとも外面的なものからもっとも内面的なものにいたるまで、いわば立体的に重なり合う関係にあるのである。

              (「刑法綱要 総論」P.63 4行目)

 

以上にあるように、三つのプロセスを単一のプロセスとみなすことはできないのです。確かに、構成要件は違法かつ有責な行為を類型化したものですが、違法性、有責性の議論とはまた別のものなのです。そして、裁判官が自由心証主義に基いて判断するのは違法性、有責性の議論においてであって、構成要件の議論だけで全てが済むなら、裁判官が自由に判断する部分がなくなってしまいます。

 

確かに、ロッキード裁判では違法性阻却事由等は認められませんが、それは違法性、有責性の議論を通して確認されるものです。決して、裁判の過程において議論がなされなかったわけではありません。そこで、立花さんの議論では構成要件の立証に調書は必要とされなかったという主張はありますが、違法性、有責性の議論は明示されていません。ですから、私は違法性、有責性の議論において調書は必要とされたのか、を確認する意図をもって違法性、有責性の問題をとりあげたわけです。そして、違法性、有責性の議論は明示されていませんが、立花さんは調書なしでも有罪判決は書けたといっているのですから、犯罪の証明の三つのプロセスすなわち、構成要件、違法性、有責性の議論において必要とされていないことが確認できます。何故なら、有罪の判決は犯罪の証明がなされたのちに出されるものですから。となれば、構成要件、違法性、有責性のいずれの議論においても調書が必要とされた痕跡を発見できなかったことになります。そうであるなら、調書の相対的不可欠性は完全に否定されるので、そもそも三二一条二項の<不可欠>要件を満たしていない、したがって、犯罪の証明において何ら必要とされていないなら証拠能力なしとされなければならないのです。ここまでを確認事項として列挙します。

 

確認事項E「犯罪の証明」は構成要件、違法性、有責性の三点セットで行なわれる。

確認事項F調書に相対的不可欠性がある=「いやしくも何らかの意味で犯罪の証明に必要」ならば、構成要件、違法性、有責性のいずれかの議論において「犯罪の証明に必要」とされなければならない。

確認事項G調書には相対的不可欠性があるのだから、たとえ「必要性は低くとも必要である」のであって、「必要がない」とは相対的不可欠性すら否定している。

確認事項H立花さんは構成要件に必要ないと主張していたので、調書が「いやしくも何らかの意味で犯罪の証明に必要」ならば、残る二つの議論、違法性、有責性の議論のどちらかにおいて、調書は「犯罪の証明に必要」とされなければならない。

確認事項I立花さんは残り二つの違法性、有責性について明示的に議論していない。

確認事項Jしかし、立花さんは調書がなくても有罪判決は書けたと主張している

確認事項K有罪の判決とは犯罪の存在が証明され、その責を被告人に負わせ、刑罰に服することを命じたものである

確認事項L有罪の判決が書けたなら、先の三点セットの議論のプロセスを経て、犯罪の存在は証明されている。

確認事項M調書なしでも有罪判決が書けたなら、立花さんが明示的に議論していなかった違法性、有責性の議論においても「いやしくも何らかの意味で犯罪の証明に必要」とされた調書が必要なかったことになる。

確認事項NMと@とは矛盾する。

 

 

ですから、要約の意味で確認しますと、「調書は何らかの意味で犯罪の証明に必要とされていますが、一体それはどこで必要とされているのか」ということなのです。