『本能はどこまで本能か』


マーク・S・ブランバーグ、『本能はどこまで本能か ヒトと動物の行動の起源』、早川書房

ひさびさにこの手の話題に戻ることができました。原題は Basic Instinct で、これってポール・ヴァーホーヴェンの(というよりはシャロン・ストーンが足を組み替えた映画として記憶されている)『氷の微笑』の原題と同じなんだけど、まあ偶然でしょう。蒼龍さん経由で

著者の立場をひとことで要約すると「行動の複雑性を満足のいくように説明するには発達の観点が欠かせない」(34ページ)、ということになる。この立場から生得説が厳しく批判されているわけだが、著者の辛辣さがもっとも発揮されているのは、「複雑かつ精緻な行動は(遺伝子によって)デザインされているに違いない」という生得説の発想が創造説のそれと通底している、という指摘であろう(第2章)。
本書で繰り返し引用されている文章をここでも引用しておこう。まずは現在「生得説」のスポークスマンとなっている感のあるS・ピンカーの『人間の本性を考える』(邦訳はNHKブックスより)について動物行動学者パトリック・ベイトソンが書いた書評より。

(…)本能という言葉は、科学的には少なくとも九つの意味をもっている。生まれた時点で(あるいは特定の発達段階で)存在するもの、学習されないもの、使われるようになる前から発達しているもの、いったん発達すると変わらないもの、その種に属する全員(少なくとも同じ性別、同じ年齢の個体ならすべて)が共有するもの、独特の行動システム(たとえば狩猟採集など)に体系化されるもの、独特の神経モジュールの支配を受けるもの、進化の過程で適応するもの、そして保持する遺伝子の違いによって個体ごとに差が生じるもの。これらのうちの一つの用法が、かならずしも他の用法を含意するとは限らない。ただ一般には、なんの証拠もないのに、当然のようにそう思われているだけだ。(31ページからの孫引き)

一見すると意味論的な矛盾に思える邦題は、この引用文に照らせばなかなかうまいタイトルだということがわかるだろう。もう一つは、隔離実験によって種に特有の行動の「生得性」を立証したと主張したコンラート・ローレンツを批判したダニー・レーマンの言葉。

重要なのは、“動物が隔離されているか”ではなく、“何から隔離されているか”だ。(100ページからの孫引き。原文では「何から」に傍点。)

この発想は、生得説論者が「○○という行動は経験によらずに発現する」と主張する根拠とする実験が、実際には実験者の気づかない経験によって初めて可能になることを指摘するときに重要になってくる。著者が紹介している様々な実証研究がもたらす知見の面白さについてはぜひ本書を実際に読んで味わっていただきたいが、一つだけ紹介しておこう。ラットの母親には、子どもの肛門や性器をなめる(排尿、排便に必要な刺激を与える)行動や毛づくろいをどの程度熱心に行なうかに関して個体差がある。こうした「母親行動」が「本能」的なもの(しかしどの意味で?)かどうかを調べるには、母親と娘の「母親行動」のあいだに相関関係があるかどうかを調べればよい。実際、熱心に母親行動をする母から生まれたラットの雌はやはり熱心に母親行動を行なう傾向があった。すると、母親行動は「遺伝」するのか? 確かにその通り。「だが、何が遺伝しているのだろうか?」(107ページ)。生まれたばかりの子どもを母親から引き離し、別の母親に育てさせる実験によって「何が」が明らかになった。すなわち、娘の母親行動は生みの親ではなく、育ての親の行動傾向を反映したのである。「これは遺伝子によらずに行動形質が伝達される顕著な一例だ」(108ページ) その他、一卵性双生児に関する「ミネソタ研究」があまりにも無批判に援用されている(ピンカーもその一人)事態への批判なども興味深い。

「生得的」とされている行動の多くは遺伝子のみによってデザインされているわけではなく、「種に特有の環境」、「通常発生する経験」、「動物の世界の通常の配置」といった要因にも左右される。ここでいう「環境」や「経験」には化学物質の勾配であるとか重力のようなものも含まれるので、たとえばジェンダー論をめぐって問題とされるような「環境」「経験」とぴったり重なるわけではないことに注意する必要はあるが、それでもアンチ・ジェンダーフリー論者を困惑させるであろうような事例も紹介されている。多くのワニや一部のカメ、トカゲなどを含む多くの動物は性染色体をまったくもっていないのだそうだ。確かに人間の場合には、性別を決める「初期の決定的な要因」がY染色体(の存在に付随する酵素の生成)ではあるが、それは必ずしも「性別」の本質ではないのである。

Posted: 水 - 12 月 27, 2006 at 11:48 午後          

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