『欲ばり過ぎるニッポンの教育』


刈谷剛彦+増田ユリヤ、『欲ばり過ぎるニッポンの教育』、講談社現代新書

教育に対する公的支出において、日本が極めて低いレベルである(他の先進工業国との比較で)ことはこれまでも何度か指摘してきたが、本書で紹介されているデータでもって再確認しておこう。刈谷剛彦が使っているのは1955年から2003年までの国家予算、公立小中学校の子ども1人あたりの教育費、初等中等教育予算総額の伸び率である(2000年の消費者物価水準に調整)。1955年の水準を1.0とした場合、2003年において国家予算は14を越えているのに対し、「公立小学校一人あたり教育費の伸び率」の数値は12強、「公立中学校一人あたり教育費の伸び率」指数は約11、「初等中等教育予算(総額)の伸び率」指数は7未満にとどまっている。興味深いのは、1970年代半ばまでほぼ国家予算の伸び率にあわせて増えていった教育予算が、その後はっきりと伸び率の鈍化傾向を示している点。1985年あたりから「公立中学校一人あたり教育費の伸び率」と「初等中等教育予算(総額)の伸び率」とが再び上昇に転じているのは少子化の影響で(追記:「少子化の影響」、というのは私の推定で本書の分析ではない)、日本が初等・中等教育に振り分けるリソースが増えたからではない。にもかかわらず日本の「学校教育」観は「欲張り過ぎ」である、という趣旨の対談(追記:対談だけでなく書き下ろしコラムも収録されている)。

冒頭で話題になっているのが「小学校での英語教育導入」問題なのだが、「欲ばり過ぎ」の意味がよくわかる適切なイントロであると思われる。総授業数という枠組み(および教える側のリソース)が変わらないなかで英語教育を導入すれば、当然“その代わりにできなくなること”が出てくるはずであるが、そうしたトレード・オフがきちんと論じられることのないまま導入が主張される。刈谷はこうした現象の背景に「ポジティブリスト」で教育を論じる傾向、を指摘している。ポジティブリストとは“こんなこといいな♪ できたらいいな♪”とばかりに「いいと思うものをどんどん挙げて、リストに付け加えていく」思考法。反対に「最低限こんなことにはならないようにして、あとは放っておけ」という発想でリストをつくるのがネガティブリスト、とされている。しかし冒頭でも述べたように教育への公的支出は低レベルのままで、「できたらいいな」のリストを増やしても実際には「やるはずなのにできないこと」が増えるばかりである。子どものキャパシティだって有限なのに「子どもの可能性は無限」という思い込みと「英語くらいできないと…」といった漠然とした不安が「できなくなること」を覆い隠してしまう。昨今の教員バッシング、公立学校バッシングをみていると、そもそも教育への日本の公的支出がOECD諸国で最低レベルだという事実がどれほど知られているのか、極めて疑わしい。

PISA調査で世界一となり注目を集めているフィンランドの教育システムが詳しく紹介されているが、二人が声をそろえて「特別な、日本でみたことのないような授業実践例などない」と指摘しているのは非常に興味深い。では日本とはどこが違うのか?
まず、教員の養成、能力開発にかけるコストがぜんぜん違う。フィンランドでは教師はもっとも人気のある職業の一つであり、社会的威信も高く、教員養成大学は超難関である。教員にはすべて修士号が要求され、小学校の担任資格を得るためには312時間(7週間)の現場実習が必要。教員になっても年最低3日の研修が義務づけられるが平日に有休をとって参加することが可能なほか、校長向けの研修プログラムも多数開発されているという。明示的なデータは紹介されていないが、小中学校での年間総授業時数OECD加盟国中最低レベル、日本よりも少ない一学級あたり生徒数、さらに「学校は基本的に知識を提供する場」という割り切りがあって日本のように何でもかんでも学校が抱え込まないこと、を考えれば日本の教師よりも労働時間がはるかに短いことは容易に想像がつく。要するに、「特別」な、魔法の授業プログラムが存在するのではなく、あたりまえのことを高いレベルで多くの教員が実践できるだけの制度的な裏づけがあるということであり、教育への公的支出が極めて低レベルの日本で同じことを教師に要求できるはずはない。

もちろん、本書は「フィンランド式万歳」的な礼賛本ではない。日本人と結婚したフィンランド人女性の「日本の教育システムの方がよい」という声も紹介されている。フィンランドの高校進学率が60%程度である(したがって高校進学者は同時に大学進学志望者と見なされ、かなりのハードワークが科される)ことをうけた刈谷剛彦の次の指摘は面白い。もし日本の高校進学率が60%程度にとどまっていたら、現在「教育問題」として語られているものは「きっと今の半分以下」だろう、と。その代わり、学校の外側に学校の外側にたくさん問題があったろう、と。日本は18歳までの若者のほとんどを学校で抱え込む道を選んだのであり、「学校が抱える問題」は「社会が抱えずにすんだ問題」と引き換えで起こっている部分が大きいのだ、ということである。とすると、個々の教員に超人的な才能と努力を要求しない、“持続可能な”教育システムをつくるには、学校が果たすべき役割をもっと限定して残りは社会が負担するか、学校が抱え込む役割の大きさにふさわしいリソースを投入すべきだ、ということになろう。刈谷は現在の教育改革論議を“ハンバーガーチェーンの厨房で働いていた人間に、いきなりフレンチのシェフになれと言っているようなもの”と評している。

上述した「英語くらいできなくちゃ」に類する親側の漠然とした不安と関連して語られるのが、ヨーロッパには「学ぶべきもの」の絶対的な基準に対する「歴史に裏打ちされた自信」がある、という点。「ラテン語を学ぶ意味を疑わない社会と、今、漢文なんかやってどうするんだ、と考える社会」との違い、である。もちろんそうした「自信」は階級社会ならではのものだとか、現にラテン語は学ばれなくなりつつあるではないかとか、細かいところでいろいろとツッコムことはできようが、理念形としてそういう対比をしてみることは有効だと思う。これは「日の丸」や新教育基本法の背後にある「理念」が実に空虚だという問題と無縁ではなかろう。

Posted: 土 - 12 月 23, 2006 at 12:28 午後          

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